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吉橋城に関する伝説

◆吉橋郷の成立と背景

 

吉橋の地は、古くは神保郷とともに、臼井氏の勢力下にあったと思われる。しかしながら、臼井氏が宝治元年(1247)の宝治の合戦で没落した後、吉橋郷は千葉介の直接支配を受けるようになった。鎌倉から室町時代にかけて、千葉介の直轄地であったことは、香取神宮の保管文書などで明らかになっており、例えば宝治元年(1247)11月11日の「香取社造営所役注文写」に「■於岐栖社一宇 吉橋/郷役 千葉介」、康永4年(1345)3月の「香取社造替社役并雑掌人注文写」に「一宇 若宮社 吉橋役所 地頭千葉介」とあり、千葉介が吉橋郷を直轄していたことが客観的な資料から裏付けられている。千葉常胤の嫡子胤正は、千葉庄や千田庄など下総の所領、北九州の小城、上総広常の所領を伝領し、千葉介、上総介を名乗った。その下総の所領に吉橋郷も含まれ、千葉氏の本宗である千葉胤正から、その嫡子成胤に下総の所領である千葉庄、千田庄、萱田郷、吉橋郷が継承され、吉橋は代々の千葉介の直轄地であった。吉橋と千葉氏の結び付きの深さは、山号から妙見を祀っていたことが明らかな妙見山来福院があったこと、城域にも妙見菩薩の小祠が現存することからも分かる。

 

◆戦国期の吉橋

 

戦国期の吉橋城主であったという高木(高城)伊勢守は、吉橋城を根城に勢力を振るったが、天文5、6年に突然後北条氏に攻められ、吉橋城は落城したという。「当主が正月の若水汲みに行った折の松明の明かりを目印に攻められた」、「後北条氏に攻められた際主要な武士達は出払っており、残った老人達を含む者供だけで戦ったため呆気なく落城してしまった」、「落城後に家臣の一部が楠ヶ山に移り住んで帰農し、それらの者は故郷を懐かしんで吉橋姓を名乗った」、などの落城にまつわる伝承が、当地や周辺地区に残されている。吉橋には、吉橋姓の家も多いが、「千葉郡誌」によれば、後宇多天皇の建治年間に吉橋を中心とした地域は吉橋丹後守胤俊という千葉氏一族の吉橋城主が治め、桑橋(そうのはし)、桑納(かんのう)、楠ヶ山に熊野三社を建立したという。吉橋丹後守は、吉橋のほか桑納川流域の桑納、桑橋、麦丸、船橋市鈴身町、金堀、西向にかけての地域を支配していたというのである。また、吉橋氏はその後某氏と戦って敗れ、一族は四散し、その一部は楠ヶ山に隠れ住み、楠ヶ山や金堀に住んでいる吉橋姓の人々はその子孫とのことである。その後、戦国期になって、高木(高城)伊勢守胤貞が吉橋城主となって吉橋と周辺を治め、後北条氏との戦いに敗れたことになる。鎌倉時代には、吉橋郷は千葉氏直轄地であったことは前述の通りであり、吉橋氏が当地を支配した云々という話は、あくまで伝承である。

 

<吉橋城の東櫓があったという尾崎吉祥院址>

 

 

 

 


 

 

 

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◆吉橋城の落城話

伝承によれば、後北条氏による吉橋城攻略は、江戸方面から攻めるのを不利とみた後北条軍が木下方面から迂回して進入する策をとり、桑納の「帰久保」に達したものの長雨にあい、窪地の湿地帯に足を取られて行き詰った大軍は結局引き返した。「帰久保」の地名は、その話に由来するという。また、軍が待機した所が「待坂」、敵を破った場所が「勝坂」という地名になったと伝えられる。敵の大軍は、年末から正月まで桑橋周辺に滞在し、付近の集落は大変難儀した、その際の難儀を偲び桑橋地区では正月に来客があっても正月7日までは祝い酒を出さない習わしという。前述した「水汲みのために行った折の松明の明かりを目印に攻められた」というのは、正月の若水を吉橋城主が家臣をつれて早朝に汲みに行った際に、斥候に発見され攻められたということである。その時の井戸址は、北側台地下の桑納川沿いの水田に面した低地にあり、現状は近くに作業場があるだけで跡形もないが、かつては池があったということである。
また幼い城主の子は、家臣が守って千葉氏を頼って落ち延び、その後出家したという。その際、千葉氏を頼って幕張方面に逃げた家臣達は、途中の大和田の笹塚辺りで多くの討死者を出したといわれる。高木(高城)氏遺臣は、吉橋城址周辺に居住して、「血流地蔵尊」をご本尊とする貞福寺を建立して、高木(高城)伊勢守の出家した子息を初代住職に招き、亡き城主や家臣らの菩提を弔ったという。楠ヶ山の吉橋姓の人々は、この高木(高城)伊勢守の遺臣であるともいい、実際楠ヶ山館址に残る元祖山神宮の碑には、明治十九戌年の年季と共に「高木伊勢守家来 七十六代 吉橋五良左衛門」と書かれている。

◆吉橋の貞福寺縁起

その辺りの歴史伝承は、吉橋の貞福寺の縁起として元文2年(1736)に貞福寺住職長慶によって記述された「貞福寺縁起」にも記載されている。「貞福寺縁起」は、明治16年(1883)7月31日の打上げ花火による火災で貞福寺が焼失した際に、本尊とともに持ち出されたが、戦後原本、写本共になくなり、最近になって船橋市立図書館に写しがあることが分ったという文書である。江戸期に書かれたもので、寺の規模や由緒を誇張して表現し、信憑性に疑わしい面もあるように思えるが、現存する資料で戦国期から江戸期にかけての吉橋を記録した唯一といっていいものである。伝承での後北条氏に攻められたという部分が、「貞福寺縁起」では高木(高城)伊勢守胤貞が北条氏康に与して鎌倉山之内を攻めた報復で、天文5年(1536)に上杉朝定の軍勢に攻められたことになっている。上杉朝定は扇谷上杉氏の代表人物で、天文15年(1546)に北条氏康の河越夜戦で討死しているが、天文6年に父朝興の病死により13才で家督を継ぎ、すぐに居城である河越城を北条氏綱によって落され松山城に逃れている。したがって、「貞福寺縁起」の記述のような天文5年時点での扇谷上杉氏の下総侵攻は考え難い。また「貞福寺縁起」には合戦に敗れた当主胤貞は討死ではなく、武射の鏑木教胤の館に蟄居し、胤貞の命で残された家臣が氏寺の地蔵院を城址に移し、北条氏に従って吉橋郷を回復、愛宕宮、地蔵堂、輪蔵、宝蔵、鐘楼、客殿、山門などを普請して寺を貞福寺と改号、寺台にあった諸寺を楠ヶ山、麦丸など処々に移した、後に里見軍の狼藉によって寺は荒され、元和年間に復興したが以前の規模には戻らなかった云々とある。

◆吉橋を中心とした信仰の輪

吉橋の北側、貞福寺のある場所の県道を挟んだ西側台地に「寺台」の地名が残るが、現在は寺台地区の集落には墓地や厨子の入った堂、大杉神社などはあるものの、寺はない。かつては「寺台」に貞福寺の末寺である諸寺院があって、近隣に移築されたこともあったかもしれない。船橋市楠ヶ山にある青蓮院は、その寺の一つであるが、楠ヶ山にも吉橋から移されたという伝承が残っている。但し、麦丸の醫眼山東福院は、慶長2年(1593)9月に慶純和尚によって開基されたということであり、「貞福寺縁起」で寺台にあったという十二寺を各所に移し、楠ヶ山青蓮院や麦丸東福院などになったという天文15年(1546)頃と時代があわない。
ちなみに国道296号線、成田街道の新木戸の交差点に「血流地蔵道」の道標があり、江戸期にも吉橋は講など地域の信仰の地として重要な場所であったことが分かる。貞福寺の末寺は、①来福院(吉橋字花輪)、②吉祥院(尾崎)、③長福寺(萱田)、④神宮寺(船橋市三山、二宮明神の別当寺)、⑤東福院(麦丸)、⑥威光院(桑納:かんのう)、⑦安養院(桑橋:そうのはし)、⑧蓮蔵院(船橋市行々林:おどろばやし)、⑨龍蔵院(船橋市金堀)、⑩青蓮院(船橋市楠ヶ山)、⑪西光院(船橋市大穴)、⑫西光寺(船橋市坪井)、⑬東光寺(船橋市古和釜、天台宗でもとは印旛郡永治村小倉の泉倉寺末寺)で、その範囲は高木(高城)氏の支配圏であったという桑納川水系の諸地域、すなわち吉橋、麦丸、桑納、桑橋、金堀、楠ヶ山、坪井だけでなく、隣接する地域や遠く三山に及んでいる。
また、興味深いことに、上記⑦安養院(桑橋)、⑫西光寺(船橋市坪井)の山号は熊野山であり、⑤東福院(麦丸)、⑥威光院(桑納)および⑦安養院(桑橋)、⑩青蓮院(船橋市楠ヶ山)の近くには熊野神社がある。楠ヶ山の熊野神社は、永禄3年(1560)の記録があり、坪井の西光寺も中世の板碑が出土するなど、古い寺であることは間違いない。麦丸には、吉橋・尾崎に近い、農業道路の西側の麦丸新田という地域に、鳥居に祠という簡素な神社であるが、「熊野宮」という木彫の神社額が掲げられ、近年再建されたと見られる熊野神社があるだけでなく、麦丸本郷の日枝神社に熊野神社が明治期に合祀されており、二つの熊野神社が存在したことになる。これらは、高城氏の熊野信仰の名残と考えられる。

<吉橋血流地蔵尊の石碑>

 

 

 


 

 


 

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◆吉橋城の家臣の子孫たち

また高木(高城)氏の家臣は、「貞福寺縁起」では高橋伊豫佐康隆、安原左京進、湯浅右近忠らとあるが、高木(高城)氏の四天王とは、高橋縫之助(尾崎)、吉橋五郎右衛門(花輪)、安原蔵人(寺台)、湯浅四郎右衛門(高本)であることが、古老の口碑により伝承されている(高橋姓は尾崎地区、吉橋姓は花輪地区、安原、湯浅姓は寺台、高本地区に多い苗字である)。なお、「高橋縫之助家」は東櫓があったという吉祥院址近くにあり、前述の通り「吉橋五郎右衛門家」は妙見山来福院址を南に臨む貞福寺下の腰郭址にある。
これらはあくまで伝承であるが、全て信用できないわけではなく、室町期の前半くらいまで千葉氏一族の誰かが、千葉氏直轄領であった当地を治め、その後戦国期になって高木(高城)氏の支配するところとなった、第一次か第二次国府台合戦の前哨戦における小弓公方または里見氏と後北条氏との戦闘で吉橋城主であった高木(高城)氏は滅んだが、その遺臣は当地周辺に帰農して住み、連綿として子孫も残っているというのが真相であろう。

◆吉橋城の周辺

尾崎の台地の縁辺下にある道を東に約1.5Km進むと、前出の東福院があり、これも古い集落である麦丸地区にでる。前出の日枝神社の東側台地下、麦丸本郷のバス停のある付近が、麦丸地区の中心地である。さらに台地下の道を南東に約700m行き、新川に突き当たって城橋を渡ると米本城址のある米本地区に行き着く。米本からは、保品を経て、印旛沼北方の師戸城址などの近くを通り、臼井に出る。あたかも、城郭ネットワークがあったかのようである。吉橋の西北西約1.7Km、桑納川の北側にある金堀城や西南西約2.6Kmにある坪井城も、吉橋城主高木(高城)伊勢守の勢力下にあったと伝えられるが、金堀や坪井からも東側谷津を越え、吉橋地区の高本、寺台を経て、吉橋城址にいたる道がある。

           
<吉橋城址の土塁と竪堀(左側竹薮の中に続く)>

 

 

 


 

 


 

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米本城は二度落ちた

◆太田道灌と対峙したか米本城

米本には、米本城を太田道灌が攻略するために萱田の権現山に陣を置き、そこに砦あるいは陣城を作って「龍ヶ城」といっていた当時の米本城と対峙、これを落とした。城主であった村上綱清は将兵七百余人とともに村上の神社で切腹して果て、それでその神社を七百余所神社という、などといった落城にまつわる伝承もある。萱田の権現山は、現在飯綱神社と文化伝承館が建っているが、米本を一望することができ、確かに陣を張るのに適当な場所に思える。
権現山に本当に砦があったか、文化伝承館の方に聞いてみたが、遺構がないこと、また太田道灌と村上綱清では在世の年代が合わないことから、多分伝説の上の話でしょうということであった。
元々、米本には長福寺がある場所に、中世の武士の居館があったらしく、村上の正覚院館と同様に低地に面し、裏山を背負ったような場所にあり、裏山である台地がくりぬかれ、平地にされた部分に館があったのであろう。この館の主が誰であったのか不明であるが、米本の複数の場所から室町期の板碑が出土し、特に長福寺から多くの板碑が発見されていることや、付近に妙見を祀る米本神社があることから 室町期に千葉氏系の氏族がいたことは確実であり、それが太田道灌の軍勢と戦ったのではないか。また、現在の米本城址からは土塁の下から、焼き米が発見されている。これは一度焼けた建物の上に、新しく城を築き、より堅固にしたのであろう。
もちろん、太田道灌自身は下総まで来て指揮をとっていないが、太田道灌の弟図書をして臼井城を攻めさせたのが文明11年(1479)である。室町期に武士の居館で、長福寺の板碑がそれからやや新しい年代のものが多いことは、太田道灌が権現山に陣をおいたという伝承にあるように、太田軍が臼井城攻略の前後に「米本の龍ヶ城」すなわち元の米本城も落とし、その際の戦死者の供養の板碑が多いのではないか。そう考えると、既に室町期に現在の長福寺の場所に館を構えていた在地領主が、文明11年頃に太田軍と戦って敗れ、その後戦国期の天文年間頃に村上氏が本格的に築城し、永禄期におそらく里見軍と戦ってふたたび城が落ちたのであろう。その合戦にまつわる地名というのが、逃げ道になったという「禰宜知」(逃げ地)、敵兵を萱田まで追いかけ回したという「おんまわし」などである。

<中世の武士の館址という米本の長福寺>

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◆咳の神様としろぬし様

現在、米本城址の第3郭の土塁上に祀られている小さな板碑は、康永3年(1344)銘の武蔵式板碑であるが、なぜか咳止めのご利益を持った咳の神様として、信仰されている。その手前には「ポーポー」という竹筒が供えられているが、咳が直った時に新しい筒が供えられるという。これは逃げ遅れて隠れていた老兵が咳をしたために敵に見つかり、殺されたという伝説に基づいている。この老兵や落ち武者などが咳をしたために見つかったという話は全国各地にあり、臼井では臼井城主竹若丸を逃した忠臣阿多津の伝説で、葦原に隠れていた阿多津が咳をしたために追っ手に捕まったという話がある。
しかし、分からないのは、その板碑を咳の神様というだけでなく、しろぬし様というのがなぜかということである。しろぬし様とは、一説に城主様のことだという。ただ、板碑の銘は康永3年(1344)で南北朝時代である。これは太田道灌の時代よりも古い。もし、しろぬし様が城主様なら、南北朝の頃すでに当地は確固とした勢力(おそらく臼井氏または千葉氏本宗の流れを汲む在地領主であろうが)によって統治され、長福寺か米本城址の場所に城館もあったことになる。そして、その城主様と哀れな老兵を重ね合わせて信仰するのはなぜであろうか。

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正覚院のおしどり伝説

◆正覚院の敷地にある中世城館址

正覚院館址は、新川に村上橋が架かっている所を川沿いに少し遡り、村上の台地を登りかけた場所にあり、おしどり伝説で有名な正覚院の寺院境内にある。正覚院は池證山鴨鴛寺正覚院といい、新義真言宗豊山派の寺院である。その境内に、釈迦堂という美しい三間堂があり、屋根は一重の寄棟造りで鉄葺(元は茅葺)、一間の向拝が付いている。

<正覚院釈迦堂>

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◆正覚院のおしどり伝説とは

新川一帯、北は今の城橋あたりから、南は正覚院の入口付近にある弁天社(通称片葉の弁天)のある所は、以前は阿蘇沼という沼になっており、その阿蘇沼でおしどりの雄を捕った武士が霊夢でおしどりの雌が夫を殺された悲しみを歌に詠じたのを見て、翌朝目が覚めると前日捕ったおしどりの雄にくちばしを重ねて、おしどりの雌が死んでいたことから、無用な殺生をしてしまったと後悔し、発心出家して館に持仏堂をたてたという。武士は平氏の一族で、出家後は平入道真円といった。延宝2年(1674)に書かれた「村上正覚院釈迦如来縁起」(川嶋一晃家所蔵)には、智證大師の霊夢にまつわる本尊の釈迦如来の由来とあわせて、以下のようにその話を伝えている。
「下総国葛餝郡千葉庄 -破損- 鴨鴛寺の本尊ハ人王五拾六代清和天王の御時如来の御首印旛のうらにくだる、其ころ智證大師れいむをかふむり給ふ事度々なり、金色の如来智證にむかひてのたまハく我ハ是毘首羯磨天のつくる所の釈迦なり、しかるにあめかしたの内に仏法はんじやうのところをみるに日本にすきたるハなし故に本朝にとびきたり末世の衆生をみちひがんとおもふなり、汝ハ顕密の学超内外ともに達者にしてしかも仏像をつくるにもつともたくみなり、吾身形をつくりたすへしといふ、智證これよりあつま地にくたり此ところにつきたまひ、霊夢のみくしをたつねたまへは里人有てふりくたりたまふ所の尊面を智證に授く、夢中に御対面の如来と少もたかひなし、是によつて是を修理せんとおもひ威儀を調へ道場に入三宝をうやまひ諸天にいのりすてに小刀とらんとしたまふ時に、童子一人こつぜんとして道場に入来る、智證童子を見ていわくなんぢハ何国よりかきたる、いわく我ハこれ仏工なり師の志しふかきを感し力を我も加へんとおもひいま此所にきたるなりと云、智證よろこびをなし相ともにこれをきざむ、仏像ほとなく出来しくおわすときに童子のいわく、我ハこれ毘首羯磨天なりいまつくる所の仏像ハむかし天ぢくにおいて優?王われに命じて世尊の妙相をうつさしむときにまづ心みに此御首をきさむ、日来の宿意をおきぬハんためにいま師とともにこれを満足と云おハつて化しさりぬ。竊にかんかへみるに其はしめにつくるとはこのみくしその終りに作る所の仏像ハ嵯峨野釈迦なり。そのかみ此本尊ハ保科むらにありしを保元年中の頃平の入道真円といふ人当寺を建立してうつして本尊とす。いまに至て五百弐拾有七年なり、又鴨鴛寺といふことはかの入道つねづね殺生をすきこのむ。或時あそ沼にてひとつの鴛鳥を射殺し餌袋に入て帰る、その夜丹顔美麗なる女子一人うれへるいろをつげていわく、けふ吾夫をころしたまふと云。入道こたへて云我かつておほへす、女云まことに偽りたまふましと。なほ入道あらそひたまへりけれハ
  日くるれは誘ひしものをあそぬまの
           まこもかくれのひとり寝そうき
ゑいじてかへる、此を見れは鴦の雌なり。入道あはれにおもひ夜あけてみれはきのふの鴦と嘴をあわせて死にけりかな、鳥類まてあひしふれんぼのみちふかくいかなれハ人界に生をうけ物のあはれをおもハざらんと。生死無常のさだめなきことをおもひ発心出家して遁世の門に入池のほとりに草庵をむすひ池證山鴨鴛寺と号す、夫よりとしゆき月かわり三百年の星霜を経て天文十五年に源太郎平の胤廣と云人鎌倉の仏師大内卿長盛をやとひさひかうしおわる」とあり、
保元年間(1156~1158)に正覚院が創立されたことになる。その前に館があった筈であるから、源平の争乱に先立つ平家が世を支配した時代に館が作られていたことになる。

◆実際の正覚院の成立時期

しかしながら、本尊の清涼寺式釈迦如来像は、像の高さ166cmでカヤの木の寄木造り、玉眼、肉髻珠、白亳に水晶を嵌めこんだ釈迦如来の立像で、鎌倉時代後期の作であり、時代があわない。館の創立時期も、やや時代を下った鎌倉期と思われる。
文中「そのかみ此本尊ハ保科むらにありしを」とある保科村とは、近世保品村と呼ばれていた現在の八千代市保品であるが、印旛の浦に仏像の御首が流れ漂着したというのは、当時の印旛沼が、現在よりもかなり大きく、保品の背景に広大な印旛浦があったことをうかがわせる。
当時の館を偲ばせるものとしては、正覚院の門近くの駐車場左側に4~5mほどの高い土居(自然の土手に切岸を施した)が聳えているほか、一部破壊されているが、方形であったと思われる土塁が境内をまわっている。方形であったと思われる土塁は、あまり高くなく、1m数十cm程度の高さである。また本堂の裏山にある竹薮の中にも、土塁と堀がめぐっている。本堂裏の墓場の裏手にある堀は、深さが2m以上ある。
裏山を背に、方形の土塁がめぐった館があったと思われ、典型的な鎌倉武士の館址である。鎌倉にある様々の武士の館址、例えば比企氏の館址である妙本寺の付近も、比企ヶ谷(やつ)というように、山を背景にした谷戸と呼ばれる谷あいに立地している。足利公方館も、滑川に沿った浄妙寺のある谷、浄明寺ヶ谷にあった。足利氏の執事に発し、鎌倉に館を構えた四つの上杉氏(扇ヶ谷、宅間、山内、犬懸)の居館も、同様の場所にあった。正覚院も同じような立地条件で建っている。館は台地をくりぬいたような状態の平場にあって、北と東は、裏山となっており、南の低地に向かって開け、西は自然の高い土手が聳えるが、その向うは阿蘇沼のあった低湿地で現在は新川が流れている。なお館は、東西、南北約150m四方であったと推定される。南側の低くなっている寺の入口付近にある厳島神社、通称片葉の弁天のある辺りにも、地形からみて水堀か池か何かあったのであろう。そのあとに後世になって、厳島神社を建てたと思われる。

◆戦国期の正覚院

持仏堂は、現在釈迦堂と呼ばれているが、その堂内に安置された清涼寺式釈迦如来像の中から出た木札に「天文十五年 平胤広」とあり、戦国期には千葉氏の一族が館の支配者になっていたことが分かっている。したがって、正覚院は鎌倉時代の武士の館として建てられ、その子孫かどうか不明であるが、戦国期には千葉氏一族が支配し、館の周囲も補強したものと思われる。

◆鎌倉武士の信仰心

現在の釈迦堂は江戸時代前期の延宝2年に再建されたものであり、上述の縁起も同時期に書かれたものである。その実証性はともかくとして、往時の武士の信仰心を伝える資料には違いない。鴛鴦の話かどうかは別として、武士が殺生を後悔して仏門に入るという説話は、全国的に残されている。鎌倉時代は、現代のわれわれが想像する以上に戦乱の絶えない、一種殺伐とした時代であった。鎌倉の有力御家人でも、比企能員の一族の誅殺、和田義盛の謀反劇、三浦氏の乱と、幕府・執権北条氏に脅威となりうる存在は、次々と滅ぼされていった。そうした戦乱のなかで、素朴な武士の心象には、静かな信仰心をもって生きるという生活に対する憧憬が芽生えていったに違いない。下総の地においても、中山法華経寺の基になった法華寺を建てた富木常忍や曽谷城主で後に出家した曽谷教信のように、日蓮の唱えた法華の教えに、有力な在地武士たちが帰依していったのである。
他に、正覚院の裏の墓地に「(光明真言)六月廿七日 応永十八年 為妙吽禅尼(光明真言)」「三十三廻忌 孝子等敬白」という銘文のある宝篋印塔があるが、これは妙吽という法名をもつ母の三十三回忌の法要を応永18年(1411)に子等が営んだ際に建てたものである。妙吽という女性は、この館の主の母親か近い縁者であったのだろう。板碑も境内から発見されているが、これも館関連の者たちの供養に作られたものであろうか。
 
<正覚院館址の切岸と土塁(左手)>

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夏見城にまつわる謎と伝承

◆夏見城主の伝承と実像

現在のJR船橋駅の北、夏見の台地の東南端には、長福寺という寺があり、そのあたりが、夏見城址である。夏見城の城主は、「長福寺縁起」に登場する夏見氏といわれている。「長福寺縁起」や「薬王寺過去帳」では、永禄7年(1564)に戦死したという夏見加賀守政芳が夏見城主であり、長福寺の「当山往古開基」とされている。この人物は里見義明旗下とされるなど、疑問な点もあるが、夏見氏を名乗る在地領主がいたという伝承があったこと自体は不自然ではない。その実在性は長福寺木造聖観世音菩薩の天文5年(1536)12月24日付「夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定」という胎内銘によって証明され、船橋市にある城館址で唯一城主またはその近縁者の名前が物証をもって判明していることになる。
奇しくも、長福寺木造聖観世音菩薩の胎内銘にある「豊嶋勘解由左衛門尉」という名乗りは、石神井城城主であった武蔵豊嶋氏の代々引き継がれてきたものと同じである。

◆豊嶋氏とは

そもそも坂東平氏は、桓武天皇の曾孫高望王が下向した後、その子国香、良兼、良将、良文、良茂そして孫の貞盛、将門たちの頃には、一門は東国に地盤を築き大きな勢力を張った。豊嶋氏・葛西氏は、この良文の流れをくむものである。平良文の孫、将常が秩父郡中村郷に土着して秩父氏となり、武蔵国一円に勢力を伸ばし、その秩父氏の武常は秩父を出て、早くから利根川や荒川河口の周辺を開発し、豊島・葛西地方にまたがる荘園を領した。したがって、その子孫は在名により、それぞれ豊嶋氏や葛西氏を名乗ったのである。豊嶋とは、武蔵国豊嶋郷を指す。豊嶋氏は三郎康家を祖とし、その子に三郎清元、平塚入道、四郎俊経がいるが、長男の清元は「豊嶋権守」を名乗って平治元年(1159)の平治滝野川合戦から文治5年(1156)の保元の乱まで確認できる。平塚入道は実名不詳であるが、現在の東京都北区中里にあたる平塚を既に本拠としていたものか。豊嶋氏の居城は、JR上中里駅から南西へ徒歩5分、滝野川公園の南側にある平塚神社にあったという。築城は、平安時代末期に豊嶋氏によって行われたと伝わるが、現況は遺構が見られない。

◆名門豊嶋氏の活躍と没落

治承4年(1180)に挙兵、石橋山の敗戦の後も安房に逃れて再起し、平家に対抗して下総から武蔵へ入った源頼朝の軍勢を、豊嶋清元とその子葛西三郎清重は迎えた。豊嶋氏は豊嶋清元の子有経を本宗とし、平塚に居城を構え、後に石神井川沿いに石神井へも進出していく。室町時代後期、関東の覇者を目指す、関東公方(後の古河公方)足利成氏は関東の諸将を巻き込み、覇権を管領上杉氏と争うことになる。諸将のうち豊嶋氏も例外でなく、享徳4年(1455)1月14日付けの豊嶋勘解由左衛門尉宛ての長尾景仲・上杉持朝方との合戦に備えた足利成氏軍勢催促状が残っている(国立公文書館蔵の「豊嶋宮城文書」)。
寛政4年(1463)8月、管領上杉房顕の家宰である長尾景仲が没し、その子景信が継いだ。文正2年(1467)2月には上杉房顕が戦死し、越後守護上杉房定の子、顕定が山内上杉家の名跡を継いだ。文明5年(1473)6月、長尾景信が死去し、景信の嫡子景春と景信の弟忠景とで跡目争いとなった。管領上杉顕定は、忠景を立てたので、景春はこの顕定の処置を不満とし、主家上杉氏を恨み、上杉氏と対立する古河公方足利成氏に通じるようになった。その頃、駿河の今川氏に内紛が起り、解決のため上杉家重臣の太田道灌が江戸を離れた隙に、長尾景春は文明8年(1476)8月、鉢形城(埼玉県寄居町)に拠り兵を挙げた。豊嶋氏もこれに応じて立っている。
 景春は、まず五十子に陣する主家の上杉顕定ら山内・扇谷両上杉氏の軍勢を急襲した。不意をつかれ上杉方は、翌文明9年(1477)正月18日、利根川を越えて上州那波へ敗走した。長尾景春に与する豊嶋氏は直ちに石神井・練馬・平塚の三城を固めて、上杉方の河越城と道灌の江戸城を結ぶ連絡路を分断し、景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)・小磯城(神奈川県大磯町)・小沢城(神奈川県愛甲郡愛川町)の諸城と結んで、江戸城包囲の布陣を整えた。
 駿河から急ぎ江戸城に帰った道灌は、江戸城と河越城を結ぶ要路を奪回するため、まず豊島氏の拠る石神井・練馬の両城を攻めることをはかり、加勢に相模の上杉勢をあてようとするが、折り悪く前日来の大雨で増水して多摩川が渡れなかった(「太田道灌状」)。そのため、道灌は戦術を転換し、3月にはこの兵力で景春に味方する溝呂木城・小磯城を攻め、両城とも落ちた。つづいて小沢城を武蔵の援軍を得て攻め落とし、さらに4月10日には、武蔵国勝原で河越城攻略に布陣した景春軍と戦い、これを打ち破った。長尾景春、豊嶋氏らの太田道灌の江戸城封じ込め態勢はくずれて形勢は一変し、逆に豊嶋氏が孤立する状態となった。
 道灌は文明9年(1477)4月13日、豊嶋平衛門尉泰明の拠る平塚城を攻撃した。平塚城勢の抵抗が激しく容易に落ちないので、太田道灌軍は城下に火を放ち、いったん兵を引きあげて江戸城へ帰りかけた。その途中、豊嶋泰明の要請で平塚城救援に馳けつける兄の石神井城主豊嶋勘解由左衛門尉泰経が石神井・練馬両城の兵を率いて出発したのを太田道灌は察知した。太田道灌軍は、これを三浦義同・上杉朝昌・千葉自胤らとともに江古田原沼袋に迎え撃った。その結果、豊嶋軍は惨敗を喫し、豊嶋泰経は石神井城に逃げ帰った。この合戦で、豊嶋方は弟の泰明をはじめ一族の板橋氏・赤塚氏以下郎党150人が討死したという。 太田道灌は、翌14日には石神井城を包囲した。数日の攻防の後、豊嶋泰経はついに降参を申し出、和議となった。しかし、それが計略であることに気付いた道灌は再度攻撃し、ついに石神井城を攻め落した。
 このとき、城主豊嶋泰経は闇にまぎれて城外に落ちのび、平塚城で再起をはかったという。しかし、翌文明10年(1478)正月25日にはこの平塚城も道灌によって攻め落され、豊嶋泰経は小机城(横浜市神奈川区小机町)にのがれるが、4月2日には道灌に包囲され小机城も落ちた。これによって、平安末以来、南武蔵に勢力を誇った豊嶋氏も、没落してしまった。石神井城が落城した後、落ち延びた武蔵豊嶋氏が船橋の夏見の小領主となったものか。突飛ではあるが、その可能性も否定できない。

◆夏見城主の豊嶋氏と武蔵豊嶋氏

天文5年(1536)12月24日付の「長福寺聖観音菩薩像胎内銘」とは、以下の通りである。
 
旦那 夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定

  彦三郎弟源五郎戒名道頓 子息彦三郎胤重             
                    天文五年丙申 十二月廿四日
  夏見山長福寺本尊 聖行海小聖知順                     筆者慶仲正善■ 正順  主                     
       仏師成就坊秀印  

この銘のなかで出てくる、彦三郎弟源五郎戒名道頓とは、千葉勝胤のいわゆる佐倉歌壇の一人で「雲玉和歌集」にも歌が載せられている円城寺道頓と思われるが、円城寺道頓は、康生元年(1455)千葉胤直ら宗家とともに馬加康胤らの勢力によって討たれた円城寺下野守尚任(妙城)はじめ、円城寺壱岐守(妙壱)、円城寺日向守(妙向)や翌康生2年(1456)千葉実胤、自胤とともに>、市川城に立て籠もって戦死した円城寺若狭守(妙若)と同族であり、彼らと行動を共にし、千葉実胤、自胤の何れかに従って武蔵国に赴き、そこで30余年過ごして下総に帰ってきた人物である。円城寺道頓と夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定の接点は、武蔵にあるのではないだろうか。道頓は武蔵千葉氏に従って30年以上武蔵にいて、下総に帰って来た人物であり、豊嶋勘解由左衛門尉胤定とは武蔵にルーツをもつ豊嶋氏の出身であろう。
道頓の詠んだ歌に、以下のようなものがある。

円城寺道頓と申人、三十余年のち下総に白地かへりきてよまれしとなり

  故郷にかへる我身はおきなさひ人もとかめぬ世こそ安けれ
 
豊嶋勘解由左衛門尉という名前と円城寺道頓の事績からみると、やはり武蔵国から夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定、あるいはその先祖が夏見に来て、この夏見城主となったのではないか。石神井城主であった豊嶋勘解由左衛門尉泰経の直系ではないにせよ、武蔵豊嶋氏が太田道灌との戦いに敗れ、かつて伊勢神宮領の夏見御厨の地であり、領主として入り込みやすかった夏見の小領主となったものか。
何れにせよ、天文5年頃の夏見城主が、夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定という人物かその近縁者であったことは間違いない。近世初頭である慶長11年(1606)の中山法華経寺諸塔中の檀那のうち、この夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定の子孫と思われる夏見勘解由左衛門尉なる鬼越(現市川市鬼越)在住の檀那の名が、中山法華経寺所蔵の「護代帳」に見られ、今も子孫が市川市に在住している。

◆夏見城の落城伝説

一方、永禄7年(1564)に戦死したという夏見加賀守政芳は、法名が「瑞光院殿長福道榮大居士」、永禄7年1月10日が命日とされるが、その日は第2次国府台合戦で太日川対岸の葛西城を攻撃するなど里見軍が優位に戦いを展開していた頃にあたる。里見義明旗下というが、そもそも里見義明とは里見義弘か足利義明を合成したような名前であり、夏見加賀守の没年が正しければ里見義弘のことであろう。しかし、原氏、高城氏の影響が強い船橋にあって、原氏に従っていたと思われる夏見豊嶋氏の子孫であれば、里見方についていたとは考え難い。一説では夏見加賀守とは、戦国後期に船橋を支配していた高城氏の家臣である伊藤(伊東)加賀守政芳が夏見に居住していたため、夏見氏を名乗ったものという。里見氏に従っていたといえば、船橋では峰台にあった慈雲寺が里見氏の祈願寺で、第2次国府台合戦で敗れた里見軍の殿軍がそこを拠点に最後の合戦をしたといわれているほか、船橋近くの武将では鷺沼の鷺沼源吾が里見軍に従軍している。

<船橋での里見軍の敗走路>

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最近の研究によれば、第2次国府台合戦で敗北した里見軍は、市川から海神を通り、夏見の薬王寺付近から南に城ノ腰を通って現在、峰台小学校のある峰台の慈雲寺方面へ敗走していき、しんがりは慈雲寺を拠点に追撃する後北条軍を迎え撃ったという。
夏見加賀守政芳の伝承は、高城氏に従って第2次国府台合戦で戦死した当時の夏見城主の話が、夏見の南へ敗走し、慈雲寺を舞台に里見軍が最後の抵抗を試みた伝承が付加されるなどして、敵味方が逆になって里見旗下云々と信じ難いものになってしまったのかもしれない。
伝説では、夏見城は戦国時代に不意に敵に襲われ落城したというが、それに関連して長福寺には「抜け穴」の伝承があるほか、雪解塚(ゆきげづか)も夏見城に関連した伝説に由来する名前で、雪解塚のある場所には昔井戸があり、戦いに敗れた夏見城の将兵の遺骸を埋めたとも、城の女中らが身を投げたともいわれ、そのために雪解塚には雪が積もらなかったという。
雪解塚は実際には土塁であるが、今も長福寺境内の北東隅にあり、その塚の上には天明5年(1785)11月吉日建立の妙見菩薩(亀の上にまたがった剣と宝珠を持った姿)のレリーフを刻んだ小祠が祀られている。

<夏見城址のある夏見の長福寺> 113natsumi-chofukuji

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下総地方の城と将門伝説

下総の城には、平将門に関わる伝承がいろいろ残っている。将門は神田明神に祀られるくらい、江戸庶民に人気があっただけに、何かと将門に結びつけた話が多く伝わったのだろうが、将門の本拠地猿島郡・豊田郡を含む下総という地方の特殊性もあろう。将門の伝承には、将門に同情的、あるいは親近感をもつものから、逆に将門を討伐、調伏する側のものもある。以下、いくつかの伝承を紹介しよう。

<大手町のビルの谷間にある将門首塚>

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<本佐倉城近くにある桔梗塚>

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◆市川の大野城と将門伝説(市川市大野)

大野城址は、市川市の市街地の北東方、大柏の台地にあって、大柏川の支流が作る支谷を東に望む台地端にある。大野城は、別名を御門城という。JR市川大野駅の東に大柏のT字路に向かって歩き、T字路を右折して浄光寺を過ぎた、「御門」という地名が残る辺りが城域である。JR市川大野駅の東南東約600m、かつて「城山」と呼ばれていた比高15mほどの台地東端の市立第五中学校の周辺に腰郭などの遺構が残り、JR武蔵野線の線路を越えた、第五中学校の南西約500mの地点にある台地南端に近い大柏小学校周辺と大柏小学校の北に隣接する本将寺跡地にも土塁の残欠が残る。
大柏小学校の南の台地端や本将寺跡にも、土塁が残ることから、大野城の城域は少なくとも南北約600m、東西約500mはあり、比較的規模の大きな城であったことがわかる。平将門の城という伝承があるが、第五中学校周辺の複雑な遺構からみて、戦国期の城であったことは間違いない。
当地には平将門の伝説が残り、城山の向いにある台地には天満天神があるが、これは将門が勧請したという。すなわち、平将門が天慶元年(938)に京都の北野天神を当地に勧請して建てたとの伝承があり、「柳天満宮者 人王六十一代 朱雀天皇御宇 天慶元年 平親王将門 皇都天満宮 下総大野ニ移ス 別当光胤山本光寺」と書かれた菅原道真画像の掛軸が残っている。また、大野城址のある第五中学校敷地の北端にある石の祠を将門様といって土地の古老は供養している。本光寺の北西、三社宮の西側にあたる場所の字名を「螻道(けらみち)」といい、家来が通った道という。「城山」の東にある高台は「テキヤマ」あるいは「デキヤマ」といい、将門の敵の山とか一晩で出来た山という伝承がある。将門の大野城自体、平将門の下総西部における出城という伝承があるが、前述のように時代があわない。
大野には、曽谷山法蓮寺、曽谷山礼林寺という曽谷氏関係の寺が残っている。したがって、大野にも曽谷一族が住んでいたと思われ、また大田乗明も大野に勢力をもち、館を構えていたといわれる。例えば、大柏のT字路近くにある本光寺も、大田乗明の子日高上人の俗甥である日胤上人が、正平16年(1361)に当地を閑居の地として堂宇を建立、中山法華経寺から寺号を許されたという由来をもち、大田氏が大野に館を構えていたことをうかがわせる。
地名でも、前述の「御門」のほか、「殿内」、「殿台」、「殿台下」、「迎米」、「馬寄場」、「一ノ谷」、「二ノ谷」、「楯台」、「根古谷」という中世城郭の名残を留める字名が残されている。「御門」は大手門、「殿内」、「殿台」は領主の館、「迎米」は米倉、「馬寄場」は馬場、「一ノ谷」、「二ノ谷」は外堀、「楯台」は守備陣地、「根古谷」は家臣の住む集落を示すといい、今でも「御門」などは地名として使用され、「殿内」、「殿台」、「迎米」は、バス停の名前にもなっている。上記のうち、「一ノ谷」、「二ノ谷」は、平将門が射た矢が落ちた場所という伝承を持っている。
平将門の伝説は、大野に限らず、下総の各所に残っており、南の本八幡や菅野には、八幡の藪知ず、御代の院という将門を調伏した伝説をもつ古跡が残っている。将門伝説に関わらず、大野に古くから集落があり、在地領主もいたであろうことは、本光寺に残る武蔵型板碑からも明らかである。
また、その本光寺は山号を光胤山というが、これは原豊前入道光胤の名に由来し、光胤は豊前坊という坊を営んでいて、その坊が本光寺の前身であったという説がある。原光胤は原胤親の子で、寛正7年(1466)に吉川の戦いで討死したという(吉川は現在の埼玉県北葛飾郡吉川で、市川大野と同じJR武蔵野線沿線に吉川駅がある)。実際、本土寺過去帳には、寛正7年(1466)2月6日の項に「原豊前入道光胤 吉川ニテ 大ノ」とある。その少し前の市川合戦後の享徳5年(1456)6月に、原胤房は真間山弘法寺に対して安堵状を出し、弘法寺が密接に関係していた市川津や宿、市場を支配下に置いた。すなわち15世紀半ばには原氏の勢力は市川から当地に及んでおり、当時の大野城は原豊前守(光胤か)がいたという。この豊前守の受領名を名乗る原氏の系統は、その後本佐倉に移住した模様で、千葉氏重臣として千葉勝胤らの歴代当主に近侍した。とはいえ、原氏は一定期間、大野の領主であったらしく、本土寺過去帳によると、文明2年(1470)4月16日の項に「原左衛門治部蓮教 大ノ」、長享2年(1488)8月3日の項に「原若狭 大ノ」とあり、原氏一族が大野に居住したことを証明している。さらに、戦国期には市川周辺は、原氏の重臣であった高城氏の支配へ移っていった。
市川合戦の前は大田氏や曽谷氏が支配し、その後15世紀半ばには原氏が支配した大野の地が、なぜ将門伝説と結びつけられたのか。領主が変遷していったことで、地元の人の伝承に混乱が生じたのであろうか。康生2年(1456)正月の市川合戦の舞台となった市川城は、実は大野城であったという説まである。

◆本佐倉城と将門伝説(佐倉市将門町)

本佐倉城は、本佐倉城の項で述べているように文明年間に岩橋輔胤かその子である千葉介孝胤が築いた城であるが、なぜか別名を将門山城という。かつて、土地の人からは本佐倉城は平将門の城であると思われていたようで、2004年新春外郭部の堀の辺りで土地の人に話を聞いたときも本佐倉城を「将門城」と呼んでいた。千葉氏は平将門の父良将の弟、将門からは叔父にあたる村岡五郎良文の子孫であり、同じ坂東平氏で同族ではある。また、実際に、本佐倉城の西の台地には平将門の父良将の館があったといわれ、その付近を将門山と呼んでいた。現在の地名でも、佐倉市将門町になっている。さらに、将門山にある八幡神社は、平良将の創建と伝えられる。
本佐倉城址の西、八幡神社の赤い鳥居のさらに北西側にある口ノ宮神社は、「将門神社」と呼ばれ、「将門口ノ宮神社」の扁額が、佐倉城主であった堀田正信が寄進したという石鳥居に掲げられている。石鳥居には、向って右の柱に「奉寄進将門山大明神 承応三年甲午天十一月吉日」、左の柱に「佐倉之城主従五位下 堀田上野介紀朝臣正信」と朱も鮮やかに書かれている。承応三年(1654)は、佐倉惣五郎が刑死した年の翌年であり、堀田正信は千葉氏旧臣の出である佐倉惣五郎の霊を鎮めるために石鳥居を千葉氏と所縁の深い平将門を祀る将門神社に奉納したのではないか。佐倉惣五郎は本名を木内惣五郎といい、木内氏は千葉氏の隠居城である公津城(鷺山城)の家老を代々務めていた家系であり、千葉氏の重臣であった。元々あった将門大明神に、堀田氏によって佐倉惣五郎が合祀されて口ノ宮明神となり、明治三年に藩により佐倉惣五郎の合祀が外され、神体書類を上納させて、将門神社とされ、廃屋となったという。今の将門口ノ宮神社は、復興されたものである。
口ノ宮神社の前のT字路を西へ100mほどいくと、畑の中に桔梗塚があり、伝承桔梗塚の石碑が建っていて、
「花もなく しげれる草の桔梗こそ いつの時世に花の咲む」
と刻まれている。桔梗は将門の愛妾の一人であったが、敵将藤原秀郷の間者でもあったという。その桔梗に影武者と将門の見分け方を教えられた秀郷が将門を討ち、桔梗の墓には花が咲かなかったという伝説がある。
そもそも将門山に平良将の館があったかといえば、伝承のみであり、やはり後に同族である千葉氏が本拠にしたため、敷衍されて将門の伝説が定着したのであろう。

◆船橋城と将門腰掛松(船橋市市場)

船橋市にも、将門の伝説がある。現在、船橋中央卸売市場のある船橋市市場の一角は、かつて「城ノ腰」という地名で、海老川沿いの微高地であり、船橋城があったといわれている場所である。そこに将門が当地を訪れ、腰を下ろして休んだという将門腰掛松がある。船橋城の成立時期は不明であるが、中世の船橋は、海老川下流部にかつてあった、夏見入江を背景に「船橋津」として繁栄した。また、「左衛門太郎 フナハシ海賊ニテ被打」という本土寺過去帳の記述から、船橋を根拠にした海の武士団がいたことがわかる。
徳川家康、秀忠父子の鷹狩用に建てられた船橋御殿は、貞享年間(1684-1688)船橋大神宮の宮司、富氏に下げ渡され、富氏屋敷となったというが、その土地の近隣には、中世に入江があったときに、安養寺という律宗の大寺があった。その律宗の僧は、「船橋津」の商業活動を担っていたと思われ、中世の船橋は、商業交易を背景に栄え、その「船橋津」を防衛する拠点が船橋城だったのではないか。夏見と船橋大神宮のちょうど中間ほどで、水陸交通の交わる地点、すなわち湊と付随する荷揚場があったと推定される地点を防備する役割を船橋城は担っており、その象徴が城ノ腰松であったのではないだろうか。
城ノ腰松は現在の船橋市宮本の花輪城にあったものを持っていったという説もあり、「城ノ腰」という地名自体、花輪城関連のものであったという。花輪城は、船橋の市街地の東、東金街道沿いの学校や住宅地に囲まれた、茂呂神社(別名:砂山浅間)とその周辺部分にあった。茂呂神社は、祭神は木花開耶姫命、船橋大神宮の摂社で、正月に大神宮を飾る若松は、この境内から切り出されていた。小さな神社ではあるが、昔は「江戸名所図絵」にのるほど富士、房総、筑波を望む眺望の良い場所で名所であった。安養寺が中心となった商業活動の拠点を守っていたであろう船橋城と安養寺を別当寺としていたらしい船橋大神宮とは何かと関係があって、船橋大神宮の松が船橋城に植えられ、いつしか「城ノ腰」という地名に付会して、「将の腰の松」→「将門(しょうもん)の腰掛け松」という具合に、将門が腰をかけたとの伝承になって、今日に伝わったのではないか。

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下総地方の城と伝説(プロローグ)

下総地方の城と伝説

下総地方の城館址にまつわる伝説を紹介します

<写真は三山の七年祭>

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プロローグ:三山の七年祭(「夜霧の古城」より)

船橋市三山にある二宮神社は、諸説あるが10世紀延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといい、二宮神社を中心とする三山地区は古代から寒川神社の名が示すように湧水地を持つ豊かな土地であったようである。古く三山地区は、「千葉郡山家郷」と呼ばれ、有力な荘園に囲まれていた。その二宮神社の創建は、弘仁年間(810-824)、嵯峨天皇の勅創であると言われる。三山は「御山」や「宮山」を地名の起源とするといわれ、水源を背景に豊かであった、この地域は、後に三山庄(荘)といわれることになる。二宮神社は、近傍神社の惣社的な地位にあった。
湧水地には、古来弁天や不動が祀られることが多いが、三山周辺には倶利伽羅不動や田喜野井のおはんが池の弁天など、そうした水源に関する神様のたぐいが多く、二宮神社自体、かつては境内に池もあり水神を祀っていた。これはすなわち、水の恵みから豊穣な農産物がもたらされるという、古代から続いた信仰であろう。
二宮神社と関係の深い習志野市津田沼(旧地名:久々田)にある菊田神社の由緒によれば、治承5年(1181)に藤原師経、師長卿の一族郎党下総に左遷のみぎり、相模国より乗船し相模灘を経て袖ヶ浦に来たところ、海が荒れていたため、波が静かな所を探して久々田の浜に上陸した。そこに久々田明神が住民たちに祀られていたのを、藤原師経たちは航海の無事をこの祭神のためと深く感銘し、久々田明神をあがめ奉り、この地を安住の地と定め、久々田明神に祖先の藤原時平を合祀して暮らした。後に、師経の一族は三山の郷に移住し、子孫は神官になったという。勿論、あくまでこれは伝承であるが、藤原師経や藤原時平の縁者ではなしに、藤原氏に連なる誰か下級官僚のような者が流されたということはあったかもしれない。また、室町中期、千葉介の庶子である馬加康胤が、現在の幕張の馬加城主となると、当地は馬加氏の勢力下に置かれたようである。

その二宮神社を中心に、文安2年(1445)に行われたという馬加康胤の妻の安産祈願をきっかけに、丑と未の年に近隣の神社も参加して行われる大規模な祭礼が、三山七年祭である。そこに参加する神社とは、二宮神社を中心に、幕張の子安神社、子守神社、三代王神社、前述の菊田神社、実籾の大原神社、高津の高津比咩神社、萱田の時平神社(八千代市)、八王子神社(船橋市)で、各神社各々役割が決まっており、以下のようになっている。

 ・二宮神社(船橋市三山)   :主人・父君
 ・子安神社(千葉市畑町)   :妻・母
 ・子守神社(千葉市幕張)   :子守
 ・三代王神社(千葉市武石)  :産婆
 ・菊田神社(習志野市津田沼) :叔父
 ・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
 ・高津比咩神社(八千代市高津) :娘
 ・時平神社(八千代市萱田)  :息子
 ・八王子神社(船橋市古和釜) :息子

<2003年の三山七年祭(本祭)>
                

~三山の役員さん達が昔の旦那衆の格好をしているのに注目 

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馬加康胤の妻の安産祈願とは、文安2年(1445)馬加康胤の妻が臨産の際に馬加康胤の霊夢に三代王の神があらわれ、その後康胤の妻が平産したので、馬加康胤が馬加城に程近い三代王神社に礼願、本殿を造営し、家臣の小川采女を社人としたという。なお、二宮神社記では馬加康胤が祈願したのは、三代王神社と二宮神社で、そのお礼として盛大な祭事を催したという。
三山七年祭は、子安神社など八つの神社の神輿が二宮神社に集まる神揃の祭と磯出祭、すなわち磯辺に葉付の竹垣を結び、神輿を安置して、盥、手桶、柄杓を奉り、神酒、赤飯を備え、薦ゴザを敷いて安産の産屋の儀式を行うという神事からなっている。また、三山七年祭では、火の口台の儀式という、久々田浜に上陸した藤原師経一行が、海上ではぐれ、姉ヶ崎に上陸した姉たちに無事を伝えるために火を焚いたという故事に基づいた儀式が、鷺沼の「神の台(かんのだい)」で、藤原師経に縁の深い菊田神社と二宮神社とで営まれる。このように、三山七年祭は、三山でもともとあった地域の豊作豊漁を祈願する祭に、久々田の藤原師経にまつわる神事が加わり、室町期の馬加康胤の妻の安産祈願が主題として混ざり合って、江戸時代以前に原形ができ、江戸時代に現在のような祭として完成、継続して来たと思われる。

祭りに参加している神社は、前述の通りであるが、三山庄という地域にあった地縁的結合がある。このうち、菊田神社は藤原師経の、高津比咩神社、時平神社は藤原時平の妻娘の流離譚を由緒とし、二宮神社のある三山地区には藤原師経が住んだという言い伝えがある。三山の七年祭に参加する神社のうち、子守神社はもと素加天王神社という馬加の鎮守で、馬加城に隣接する場所にあったといわれる。三代王神社も同様で、最近の発見ではその敷地近くに馬加城の堀と思われる堀が検出されたほど、馬加城に近く、武石氏、馬加氏に信仰された。大原大宮神社は、元は実籾本郷にあったらしく、この地は千葉氏と所縁が深い。二宮神社も神紋は七曜であり、千葉氏との関連もあったかと想像される。
すなわち、藤原師経および一族の流離譚に関連した神社が、菊田神社、高津比咩神社、時平神社で、馬加康胤あるいは千葉氏に所縁の深い神社が、三代王神社、子守神社、子安神社、大原大宮神社で、二宮神社は両方に関連があるらしい。八王子神社については、筆者にはよく分らないが、八王子神社のある坪井も含め三山庄にある地縁、千葉氏(馬加氏)所縁の血縁をベースとした宗教的、習俗的な地域結合が、この三山七年祭を室町の昔から継続させてきたのである。

⇒ 三山七年祭に関わる藤原師経の伝承

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<2003年の三山七年祭(前祭)の一コマ> 

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ショートカット・メニュー

下総地方の城と将門伝説 市川大野、大佐倉、船橋に残る伝承
夏見城と伝説 夏見城の城主豊嶋氏と落城伝説
正覚院のおしどり伝説 正覚院に残るオシドリ伝説
米本城は二度落ちた 米本城の落城にまつわる伝承など
吉橋城にまつわる伝説 吉橋城にまつわる落城&落人伝説
馬加康胤の「首塚」 幕張にある馬加康胤の「首塚」
臼井興胤に関する伝説と実像 臼井氏中興の祖、臼井興胤の実像
臼井城退転後の臼井氏 原氏のため臼井城を去った臼井氏
白井にある小森城は商人的武士の城か 小森城の位置と構造から探る
旧沼南町大井をめぐる伝承 大井の将門伝説と大井追花城の伝承
船橋周辺の変わった石造物 高根熊野神社の神使ほか

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