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夏見城にまつわる謎と伝承

◆夏見城主の伝承と実像

現在のJR船橋駅の北、夏見の台地の東南端には、長福寺という寺があり、そのあたりが、夏見城址である。夏見城の城主は、「長福寺縁起」に登場する夏見氏といわれている。「長福寺縁起」や「薬王寺過去帳」では、永禄7年(1564)に戦死したという夏見加賀守政芳が夏見城主であり、長福寺の「当山往古開基」とされている。この人物は里見義明旗下とされるなど、疑問な点もあるが、夏見氏を名乗る在地領主がいたという伝承があったこと自体は不自然ではない。その実在性は長福寺木造聖観世音菩薩の天文5年(1536)12月24日付「夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定」という胎内銘によって証明され、船橋市にある城館址で唯一城主またはその近縁者の名前が物証をもって判明していることになる。
奇しくも、長福寺木造聖観世音菩薩の胎内銘にある「豊嶋勘解由左衛門尉」という名乗りは、石神井城城主であった武蔵豊嶋氏の代々引き継がれてきたものと同じである。

◆豊嶋氏とは

そもそも坂東平氏は、桓武天皇の曾孫高望王が下向した後、その子国香、良兼、良将、良文、良茂そして孫の貞盛、将門たちの頃には、一門は東国に地盤を築き大きな勢力を張った。豊嶋氏・葛西氏は、この良文の流れをくむものである。平良文の孫、将常が秩父郡中村郷に土着して秩父氏となり、武蔵国一円に勢力を伸ばし、その秩父氏の武常は秩父を出て、早くから利根川や荒川河口の周辺を開発し、豊島・葛西地方にまたがる荘園を領した。したがって、その子孫は在名により、それぞれ豊嶋氏や葛西氏を名乗ったのである。豊嶋とは、武蔵国豊嶋郷を指す。豊嶋氏は三郎康家を祖とし、その子に三郎清元、平塚入道、四郎俊経がいるが、長男の清元は「豊嶋権守」を名乗って平治元年(1159)の平治滝野川合戦から文治5年(1156)の保元の乱まで確認できる。平塚入道は実名不詳であるが、現在の東京都北区中里にあたる平塚を既に本拠としていたものか。豊嶋氏の居城は、JR上中里駅から南西へ徒歩5分、滝野川公園の南側にある平塚神社にあったという。築城は、平安時代末期に豊嶋氏によって行われたと伝わるが、現況は遺構が見られない。

◆名門豊嶋氏の活躍と没落

治承4年(1180)に挙兵、石橋山の敗戦の後も安房に逃れて再起し、平家に対抗して下総から武蔵へ入った源頼朝の軍勢を、豊嶋清元とその子葛西三郎清重は迎えた。豊嶋氏は豊嶋清元の子有経を本宗とし、平塚に居城を構え、後に石神井川沿いに石神井へも進出していく。室町時代後期、関東の覇者を目指す、関東公方(後の古河公方)足利成氏は関東の諸将を巻き込み、覇権を管領上杉氏と争うことになる。諸将のうち豊嶋氏も例外でなく、享徳4年(1455)1月14日付けの豊嶋勘解由左衛門尉宛ての長尾景仲・上杉持朝方との合戦に備えた足利成氏軍勢催促状が残っている(国立公文書館蔵の「豊嶋宮城文書」)。
寛政4年(1463)8月、管領上杉房顕の家宰である長尾景仲が没し、その子景信が継いだ。文正2年(1467)2月には上杉房顕が戦死し、越後守護上杉房定の子、顕定が山内上杉家の名跡を継いだ。文明5年(1473)6月、長尾景信が死去し、景信の嫡子景春と景信の弟忠景とで跡目争いとなった。管領上杉顕定は、忠景を立てたので、景春はこの顕定の処置を不満とし、主家上杉氏を恨み、上杉氏と対立する古河公方足利成氏に通じるようになった。その頃、駿河の今川氏に内紛が起り、解決のため上杉家重臣の太田道灌が江戸を離れた隙に、長尾景春は文明8年(1476)8月、鉢形城(埼玉県寄居町)に拠り兵を挙げた。豊嶋氏もこれに応じて立っている。
 景春は、まず五十子に陣する主家の上杉顕定ら山内・扇谷両上杉氏の軍勢を急襲した。不意をつかれ上杉方は、翌文明9年(1477)正月18日、利根川を越えて上州那波へ敗走した。長尾景春に与する豊嶋氏は直ちに石神井・練馬・平塚の三城を固めて、上杉方の河越城と道灌の江戸城を結ぶ連絡路を分断し、景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)・小磯城(神奈川県大磯町)・小沢城(神奈川県愛甲郡愛川町)の諸城と結んで、江戸城包囲の布陣を整えた。
 駿河から急ぎ江戸城に帰った道灌は、江戸城と河越城を結ぶ要路を奪回するため、まず豊島氏の拠る石神井・練馬の両城を攻めることをはかり、加勢に相模の上杉勢をあてようとするが、折り悪く前日来の大雨で増水して多摩川が渡れなかった(「太田道灌状」)。そのため、道灌は戦術を転換し、3月にはこの兵力で景春に味方する溝呂木城・小磯城を攻め、両城とも落ちた。つづいて小沢城を武蔵の援軍を得て攻め落とし、さらに4月10日には、武蔵国勝原で河越城攻略に布陣した景春軍と戦い、これを打ち破った。長尾景春、豊嶋氏らの太田道灌の江戸城封じ込め態勢はくずれて形勢は一変し、逆に豊嶋氏が孤立する状態となった。
 道灌は文明9年(1477)4月13日、豊嶋平衛門尉泰明の拠る平塚城を攻撃した。平塚城勢の抵抗が激しく容易に落ちないので、太田道灌軍は城下に火を放ち、いったん兵を引きあげて江戸城へ帰りかけた。その途中、豊嶋泰明の要請で平塚城救援に馳けつける兄の石神井城主豊嶋勘解由左衛門尉泰経が石神井・練馬両城の兵を率いて出発したのを太田道灌は察知した。太田道灌軍は、これを三浦義同・上杉朝昌・千葉自胤らとともに江古田原沼袋に迎え撃った。その結果、豊嶋軍は惨敗を喫し、豊嶋泰経は石神井城に逃げ帰った。この合戦で、豊嶋方は弟の泰明をはじめ一族の板橋氏・赤塚氏以下郎党150人が討死したという。 太田道灌は、翌14日には石神井城を包囲した。数日の攻防の後、豊嶋泰経はついに降参を申し出、和議となった。しかし、それが計略であることに気付いた道灌は再度攻撃し、ついに石神井城を攻め落した。
 このとき、城主豊嶋泰経は闇にまぎれて城外に落ちのび、平塚城で再起をはかったという。しかし、翌文明10年(1478)正月25日にはこの平塚城も道灌によって攻め落され、豊嶋泰経は小机城(横浜市神奈川区小机町)にのがれるが、4月2日には道灌に包囲され小机城も落ちた。これによって、平安末以来、南武蔵に勢力を誇った豊嶋氏も、没落してしまった。石神井城が落城した後、落ち延びた武蔵豊嶋氏が船橋の夏見の小領主となったものか。突飛ではあるが、その可能性も否定できない。

◆夏見城主の豊嶋氏と武蔵豊嶋氏

天文5年(1536)12月24日付の「長福寺聖観音菩薩像胎内銘」とは、以下の通りである。
 
旦那 夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定

  彦三郎弟源五郎戒名道頓 子息彦三郎胤重             
                    天文五年丙申 十二月廿四日
  夏見山長福寺本尊 聖行海小聖知順                     筆者慶仲正善■ 正順  主                     
       仏師成就坊秀印  

この銘のなかで出てくる、彦三郎弟源五郎戒名道頓とは、千葉勝胤のいわゆる佐倉歌壇の一人で「雲玉和歌集」にも歌が載せられている円城寺道頓と思われるが、円城寺道頓は、康生元年(1455)千葉胤直ら宗家とともに馬加康胤らの勢力によって討たれた円城寺下野守尚任(妙城)はじめ、円城寺壱岐守(妙壱)、円城寺日向守(妙向)や翌康生2年(1456)千葉実胤、自胤とともに>、市川城に立て籠もって戦死した円城寺若狭守(妙若)と同族であり、彼らと行動を共にし、千葉実胤、自胤の何れかに従って武蔵国に赴き、そこで30余年過ごして下総に帰ってきた人物である。円城寺道頓と夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定の接点は、武蔵にあるのではないだろうか。道頓は武蔵千葉氏に従って30年以上武蔵にいて、下総に帰って来た人物であり、豊嶋勘解由左衛門尉胤定とは武蔵にルーツをもつ豊嶋氏の出身であろう。
道頓の詠んだ歌に、以下のようなものがある。

円城寺道頓と申人、三十余年のち下総に白地かへりきてよまれしとなり

  故郷にかへる我身はおきなさひ人もとかめぬ世こそ安けれ
 
豊嶋勘解由左衛門尉という名前と円城寺道頓の事績からみると、やはり武蔵国から夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定、あるいはその先祖が夏見に来て、この夏見城主となったのではないか。石神井城主であった豊嶋勘解由左衛門尉泰経の直系ではないにせよ、武蔵豊嶋氏が太田道灌との戦いに敗れ、かつて伊勢神宮領の夏見御厨の地であり、領主として入り込みやすかった夏見の小領主となったものか。
何れにせよ、天文5年頃の夏見城主が、夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定という人物かその近縁者であったことは間違いない。近世初頭である慶長11年(1606)の中山法華経寺諸塔中の檀那のうち、この夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定の子孫と思われる夏見勘解由左衛門尉なる鬼越(現市川市鬼越)在住の檀那の名が、中山法華経寺所蔵の「護代帳」に見られ、今も子孫が市川市に在住している。

◆夏見城の落城伝説

一方、永禄7年(1564)に戦死したという夏見加賀守政芳は、法名が「瑞光院殿長福道榮大居士」、永禄7年1月10日が命日とされるが、その日は第2次国府台合戦で太日川対岸の葛西城を攻撃するなど里見軍が優位に戦いを展開していた頃にあたる。里見義明旗下というが、そもそも里見義明とは里見義弘か足利義明を合成したような名前であり、夏見加賀守の没年が正しければ里見義弘のことであろう。しかし、原氏、高城氏の影響が強い船橋にあって、原氏に従っていたと思われる夏見豊嶋氏の子孫であれば、里見方についていたとは考え難い。一説では夏見加賀守とは、戦国後期に船橋を支配していた高城氏の家臣である伊藤(伊東)加賀守政芳が夏見に居住していたため、夏見氏を名乗ったものという。里見氏に従っていたといえば、船橋では峰台にあった慈雲寺が里見氏の祈願寺で、第2次国府台合戦で敗れた里見軍の殿軍がそこを拠点に最後の合戦をしたといわれているほか、船橋近くの武将では鷺沼の鷺沼源吾が里見軍に従軍している。

<船橋での里見軍の敗走路>

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最近の研究によれば、第2次国府台合戦で敗北した里見軍は、市川から海神を通り、夏見の薬王寺付近から南に城ノ腰を通って現在、峰台小学校のある峰台の慈雲寺方面へ敗走していき、しんがりは慈雲寺を拠点に追撃する後北条軍を迎え撃ったという。
夏見加賀守政芳の伝承は、高城氏に従って第2次国府台合戦で戦死した当時の夏見城主の話が、夏見の南へ敗走し、慈雲寺を舞台に里見軍が最後の抵抗を試みた伝承が付加されるなどして、敵味方が逆になって里見旗下云々と信じ難いものになってしまったのかもしれない。
伝説では、夏見城は戦国時代に不意に敵に襲われ落城したというが、それに関連して長福寺には「抜け穴」の伝承があるほか、雪解塚(ゆきげづか)も夏見城に関連した伝説に由来する名前で、雪解塚のある場所には昔井戸があり、戦いに敗れた夏見城の将兵の遺骸を埋めたとも、城の女中らが身を投げたともいわれ、そのために雪解塚には雪が積もらなかったという。
雪解塚は実際には土塁であるが、今も長福寺境内の北東隅にあり、その塚の上には天明5年(1785)11月吉日建立の妙見菩薩(亀の上にまたがった剣と宝珠を持った姿)のレリーフを刻んだ小祠が祀られている。

<夏見城址のある夏見の長福寺> 113natsumi-chofukuji

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