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吉橋城に関する伝説

◆吉橋郷の成立と背景

吉橋の地は、古くは神保郷とともに、臼井氏の勢力下にあったと思われる。しかしながら、臼井氏が宝治元年(1247)の宝治の合戦で没落した後、吉橋郷は千葉介の直接支配を受けるようになった。鎌倉から室町時代にかけて、千葉介の直轄地であったことは、香取神宮の保管文書などで明らかになっており、例えば宝治元年(1247)11月11日の「香取社造営所役注文写」に「■於岐栖社一宇 吉橋/郷役 千葉介」、康永4年(1345)3月の「香取社造替社役并雑掌人注文写」に「一宇 若宮社 吉橋役所 地頭千葉介」とあり、千葉介が吉橋郷を直轄していたことが客観的な資料から裏付けられている。千葉常胤の嫡子胤正は、千葉庄や千田庄など下総の所領、北九州の小城、上総広常の所領を伝領し、千葉介、上総介を名乗った。その下総の所領に吉橋郷も含まれ、千葉氏の本宗である千葉胤正から、その嫡子成胤に下総の所領である千葉庄、千田庄、萱田郷、吉橋郷が継承され、吉橋は代々の千葉介の直轄地であった。吉橋と千葉氏の結び付きの深さは、山号から妙見を祀っていたことが明らかな妙見山来福院があったこと、城域にも妙見菩薩の小祠が現存することからも分かる。

◆戦国期の吉橋

戦国期の吉橋城主であったという高木(高城)伊勢守は、吉橋城を根城に勢力を振るったが、天文5、6年に突然後北条氏に攻められ、吉橋城は落城したという。「当主が正月の若水汲みに行った折の松明の明かりを目印に攻められた」、「後北条氏に攻められた際主要な武士達は出払っており、残った老人達を含む者供だけで戦ったため呆気なく落城してしまった」、「落城後に家臣の一部が楠ヶ山に移り住んで帰農し、それらの者は故郷を懐かしんで吉橋姓を名乗った」、などの落城にまつわる伝承が、当地や周辺地区に残されている。吉橋には、吉橋姓の家も多いが、「千葉郡誌」によれば、後宇多天皇の建治年間に吉橋を中心とした地域は吉橋丹後守胤俊という千葉氏一族の吉橋城主が治め、桑橋(そうのはし)、桑納(かんのう)、楠ヶ山に熊野三社を建立したという。吉橋丹後守は、吉橋のほか桑納川流域の桑納、桑橋、麦丸、船橋市鈴身町、金堀、西向にかけての地域を支配していたというのである。また、吉橋氏はその後某氏と戦って敗れ、一族は四散し、その一部は楠ヶ山に隠れ住み、楠ヶ山や金堀に住んでいる吉橋姓の人々はその子孫とのことである。その後、戦国期になって、高木(高城)伊勢守胤貞が吉橋城主となって吉橋と周辺を治め、後北条氏との戦いに敗れたことになる。鎌倉時代には、吉橋郷は千葉氏直轄地であったことは前述の通りであり、吉橋氏が当地を支配した云々という話は、あくまで伝承である。

<吉橋城の東櫓があったという尾崎吉祥院址>

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◆吉橋城の落城話

伝承によれば、後北条氏による吉橋城攻略は、江戸方面から攻めるのを不利とみた後北条軍が木下方面から迂回して進入する策をとり、桑納の「帰久保」に達したものの長雨にあい、窪地の湿地帯に足を取られて行き詰った大軍は結局引き返した。「帰久保」の地名は、その話に由来するという。また、軍が待機した所が「待坂」、敵を破った場所が「勝坂」という地名になったと伝えられる。敵の大軍は、年末から正月まで桑橋周辺に滞在し、付近の集落は大変難儀した、その際の難儀を偲び桑橋地区では正月に来客があっても正月7日までは祝い酒を出さない習わしという。前述した「水汲みのために行った折の松明の明かりを目印に攻められた」というのは、正月の若水を吉橋城主が家臣をつれて早朝に汲みに行った際に、斥候に発見され攻められたということである。その時の井戸址は、北側台地下の桑納川沿いの水田に面した低地にあり、現状は近くに作業場があるだけで跡形もないが、かつては池があったということである。
また幼い城主の子は、家臣が守って千葉氏を頼って落ち延び、その後出家したという。その際、千葉氏を頼って幕張方面に逃げた家臣達は、途中の大和田の笹塚辺りで多くの討死者を出したといわれる。高木(高城)氏遺臣は、吉橋城址周辺に居住して、「血流地蔵尊」をご本尊とする貞福寺を建立して、高木(高城)伊勢守の出家した子息を初代住職に招き、亡き城主や家臣らの菩提を弔ったという。楠ヶ山の吉橋姓の人々は、この高木(高城)伊勢守の遺臣であるともいい、実際楠ヶ山館址に残る元祖山神宮の碑には、明治十九戌年の年季と共に「高木伊勢守家来 七十六代 吉橋五良左衛門」と書かれている。

◆吉橋の貞福寺縁起

その辺りの歴史伝承は、吉橋の貞福寺の縁起として元文2年(1736)に貞福寺住職長慶によって記述された「貞福寺縁起」にも記載されている。「貞福寺縁起」は、明治16年(1883)7月31日の打上げ花火による火災で貞福寺が焼失した際に、本尊とともに持ち出されたが、戦後原本、写本共になくなり、最近になって船橋市立図書館に写しがあることが分ったという文書である。江戸期に書かれたもので、寺の規模や由緒を誇張して表現し、信憑性に疑わしい面もあるように思えるが、現存する資料で戦国期から江戸期にかけての吉橋を記録した唯一といっていいものである。伝承での後北条氏に攻められたという部分が、「貞福寺縁起」では高木(高城)伊勢守胤貞が北条氏康に与して鎌倉山之内を攻めた報復で、天文5年(1536)に上杉朝定の軍勢に攻められたことになっている。上杉朝定は扇谷上杉氏の代表人物で、天正15年(1587)に北条氏康の河越夜戦で討死しているが、天文6年に父朝興の病死により13才で家督を継ぎ、すぐに居城である河越城を北条氏綱によって落され松山城に逃れている。したがって、「貞福寺縁起」の記述のような天文5年時点での扇谷上杉氏の下総侵攻は考え難い。また「貞福寺縁起」には合戦に敗れた当主胤貞は討死ではなく、武射の鏑木教胤の館に蟄居し、胤貞の命で残された家臣が氏寺の地蔵院を城址に移し、北条氏に従って吉橋郷を回復、愛宕宮、地蔵堂、輪蔵、宝蔵、鐘楼、客殿、山門などを普請して寺を貞福寺と改号、寺台にあった諸寺を楠ヶ山、麦丸など処々に移した、後に里見軍の狼藉によって寺は荒され、元和年間に復興したが以前の規模には戻らなかった云々とある。

◆吉橋を中心とした信仰の輪

吉橋の北側、貞福寺のある場所の県道を挟んだ西側台地に「寺台」の地名が残るが、現在は寺台地区の集落には墓地や厨子の入った堂、大杉神社などはあるものの、寺はない。かつては「寺台」に貞福寺の末寺である諸寺院があって、近隣に移築されたこともあったかもしれない。船橋市楠ヶ山にある青蓮院は、その寺の一つであるが、楠ヶ山にも吉橋から移されたという伝承が残っている。但し、麦丸の醫眼山東福院は、慶長2年(1593)9月に慶純和尚によって開基されたということであり、「貞福寺縁起」で寺台にあったという十二寺を各所に移し、楠ヶ山青蓮院や麦丸東福院などになったという天文15年(1546)頃と時代があわない。
ちなみに国道296号線、成田街道の新木戸の交差点に「血流地蔵道」の道標があり、江戸期にも吉橋は講など地域の信仰の地として重要な場所であったことが分かる。貞福寺の末寺は、①来福院(吉橋字花輪)、②吉祥院(尾崎)、③長福寺(萱田)、④神宮寺(船橋市三山、二宮明神の別当寺)、⑤東福院(麦丸)、⑥威光院(桑納:かんのう)、⑦安養院(桑橋:そうのはし)、⑧蓮蔵院(船橋市行々林:おどろばやし)、⑨龍蔵院(船橋市金堀)、⑩青蓮院(船橋市楠ヶ山)、⑪西光院(船橋市大穴)、⑫西光寺(船橋市坪井)、⑬東光寺(船橋市古和釜、天台宗でもとは印旛郡永治村小倉の泉倉寺末寺)で、その範囲は高木(高城)氏の支配圏であったという桑納川水系の諸地域、すなわち吉橋、麦丸、桑納、桑橋、金堀、楠ヶ山、坪井だけでなく、隣接する地域や遠く三山に及んでいる。
また、興味深いことに、上記⑦安養院(桑橋)、⑫西光寺(船橋市坪井)の山号は熊野山であり、⑤東福院(麦丸)、⑥威光院(桑納)および⑦安養院(桑橋)、⑩青蓮院(船橋市楠ヶ山)の近くには熊野神社がある。楠ヶ山の熊野神社は、永禄3年(1560)の記録があり、坪井の西光寺も中世の板碑が出土するなど、古い寺であることは間違いない。麦丸には、吉橋・尾崎に近い、農業道路の西側の麦丸新田という地域に、鳥居に祠という簡素な神社であるが、「熊野宮」という木彫の神社額が掲げられ、近年再建されたと見られる熊野神社があるだけでなく、麦丸本郷の日枝神社に熊野神社が明治期に合祀されており、二つの熊野神社が存在したことになる。これらは、高城氏の熊野信仰の名残と考えられる。

<吉橋血流地蔵尊の石碑>
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◆吉橋城の家臣の子孫たち

また高木(高城)氏の家臣は、「貞福寺縁起」では高橋伊豫佐康隆、安原左京進、湯浅右近忠らとあるが、高木(高城)氏の四天王とは、高橋縫之助(尾崎)、吉橋五郎右衛門(花輪)、安原蔵人(寺台)、湯浅四郎右衛門(高本)であることが、古老の口碑により伝承されている(高橋姓は尾崎地区、吉橋姓は花輪地区、安原、湯浅姓は寺台、高本地区に多い苗字である)。なお、「高橋縫之助家」は東櫓があったという吉祥院址近くにあり、前述の通り「吉橋五郎右衛門家」は妙見山来福院址を南に臨む貞福寺下の腰郭址にある。
これらはあくまで伝承であるが、全て信用できないわけではなく、室町期の前半くらいまで千葉氏一族の誰かが、千葉氏直轄領であった当地を治め、その後戦国期になって高木(高城)氏の支配するところとなった、第一次か第二次国府台合戦の前哨戦における小弓公方または里見氏と後北条氏との戦闘で吉橋城主であった高木(高城)氏は滅んだが、その遺臣は当地周辺に帰農して住み、連綿として子孫も残っているというのが真相であろう。

◆吉橋城の周辺

尾崎の台地の縁辺下にある道を東に約1.5Km進むと、前出の東福院があり、これも古い集落である麦丸地区にでる。前出の日枝神社の東側台地下、麦丸本郷のバス停のある付近が、麦丸地区の中心地である。さらに台地下の道を南東に約700m行き、新川に突き当たって城橋を渡ると米本城址のある米本地区に行き着く。米本からは、保品を経て、印旛沼北方の師戸城址などの近くを通り、臼井に出る。あたかも、城郭ネットワークがあったかのようである。吉橋の西北西約1.7Km、桑納川の北側にある金堀城や西南西約2.6Kmにある坪井城も、吉橋城主高木(高城)伊勢守の勢力下にあったと伝えられるが、金堀や坪井からも東側谷津を越え、吉橋地区の高本、寺台を経て、吉橋城址にいたる道がある。

           
<吉橋城址の土塁と竪堀(左側竹薮の中に続く)>
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コメント

船橋市坪井に住んでもう40年以上になります。吉橋城・坪井城の存在とその詳細を知り大変参考になりました。ところで吉橋城が後北条氏に攻められたとあり、また「貞福寺縁起」の高木(高城)氏が天文5年(1536)に上杉朝定の軍勢に攻められたことも紹介されています。第一次国府台合戦が天文7年であることを考えると、この頃高木(高城)氏は古河公方・後北条氏方と考えられ、高木(高城)氏を攻めるとしたら対抗している子弓公方・扇谷上杉方ではないでしょうか。上杉朝定は確かに年少ですが、父朝興はまだ生存しており、朝興の指揮であったとは考えられないでしょうか?

投稿: 横山 | 2008年11月 5日 (水) 11時14分

船橋市坪井に住んでもう40年以上になります。吉橋城・坪井城の存在を知り興味深く読ませて戴きました。ところで吉橋城が後北条氏に攻められたとあり、また「貞福寺縁起」の高木(高城)氏が天文5年(1536)に上杉朝定の軍勢に攻められたことも紹介されています。第一次国府台合戦が天文7年であることを考えると、この頃高木(高城)氏は古河公方・後北条氏方と考えられ、高木(高城)氏を攻めるとしたら対抗している子弓公方・扇谷上杉方ではないでしょうか。上杉朝定は確かに年少ですが、父朝興はまだ生存しており、朝興の指揮であったとは考えられないでしょうか?

投稿: 横山 | 2008年11月 9日 (日) 11時28分

moriです。

吉橋城については、分からないことが多く、高木氏=高城氏なのかも不明ですし、またその話も伝承の域をでません。仰るとおり、高城氏ならば、後北条方でしかるべきです。
吉橋城落城に関する伝承は船橋市楠ヶ山にも残っていますので、まったくの伝説で根拠がないわけではなく、確からしいのは戦国時代に吉橋城が何者かに攻められ落城したこと、その城の重臣が吉橋姓であったことくらいです。

縁起も含め、良質な史料がまだ出ていませんので、何か裏付けになる記録や文書が見つかれば良いのですが。なんともいえないところです。

投稿: mori_chan | 2008年12月31日 (水) 19時01分

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