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正覚院のおしどり伝説

◆正覚院の敷地にある中世城館址

正覚院館址は、新川に村上橋が架かっている所を川沿いに少し遡り、村上の台地を登りかけた場所にあり、おしどり伝説で有名な正覚院の寺院境内にある。正覚院は池證山鴨鴛寺正覚院といい、新義真言宗豊山派の寺院である。その境内に、釈迦堂という美しい三間堂があり、屋根は一重の寄棟造りで鉄葺(元は茅葺)、一間の向拝が付いている。

<正覚院釈迦堂>

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◆正覚院のおしどり伝説とは

新川一帯、北は今の城橋あたりから、南は正覚院の入口付近にある弁天社(通称片葉の弁天)のある所は、以前は阿蘇沼という沼になっており、その阿蘇沼でおしどりの雄を捕った武士が霊夢でおしどりの雌が夫を殺された悲しみを歌に詠じたのを見て、翌朝目が覚めると前日捕ったおしどりの雄にくちばしを重ねて、おしどりの雌が死んでいたことから、無用な殺生をしてしまったと後悔し、発心出家して館に持仏堂をたてたという。武士は平氏の一族で、出家後は平入道真円といった。延宝2年(1674)に書かれた「村上正覚院釈迦如来縁起」(川嶋一晃家所蔵)には、智證大師の霊夢にまつわる本尊の釈迦如来の由来とあわせて、以下のようにその話を伝えている。
「下総国葛餝郡千葉庄 -破損- 鴨鴛寺の本尊ハ人王五拾六代清和天王の御時如来の御首印旛のうらにくだる、其ころ智證大師れいむをかふむり給ふ事度々なり、金色の如来智證にむかひてのたまハく我ハ是毘首羯磨天のつくる所の釈迦なり、しかるにあめかしたの内に仏法はんじやうのところをみるに日本にすきたるハなし故に本朝にとびきたり末世の衆生をみちひがんとおもふなり、汝ハ顕密の学超内外ともに達者にしてしかも仏像をつくるにもつともたくみなり、吾身形をつくりたすへしといふ、智證これよりあつま地にくたり此ところにつきたまひ、霊夢のみくしをたつねたまへは里人有てふりくたりたまふ所の尊面を智證に授く、夢中に御対面の如来と少もたかひなし、是によつて是を修理せんとおもひ威儀を調へ道場に入三宝をうやまひ諸天にいのりすてに小刀とらんとしたまふ時に、童子一人こつぜんとして道場に入来る、智證童子を見ていわくなんぢハ何国よりかきたる、いわく我ハこれ仏工なり師の志しふかきを感し力を我も加へんとおもひいま此所にきたるなりと云、智證よろこびをなし相ともにこれをきざむ、仏像ほとなく出来しくおわすときに童子のいわく、我ハこれ毘首羯磨天なりいまつくる所の仏像ハむかし天ぢくにおいて優?王われに命じて世尊の妙相をうつさしむときにまづ心みに此御首をきさむ、日来の宿意をおきぬハんためにいま師とともにこれを満足と云おハつて化しさりぬ。竊にかんかへみるに其はしめにつくるとはこのみくしその終りに作る所の仏像ハ嵯峨野釈迦なり。そのかみ此本尊ハ保科むらにありしを保元年中の頃平の入道真円といふ人当寺を建立してうつして本尊とす。いまに至て五百弐拾有七年なり、又鴨鴛寺といふことはかの入道つねづね殺生をすきこのむ。或時あそ沼にてひとつの鴛鳥を射殺し餌袋に入て帰る、その夜丹顔美麗なる女子一人うれへるいろをつげていわく、けふ吾夫をころしたまふと云。入道こたへて云我かつておほへす、女云まことに偽りたまふましと。なほ入道あらそひたまへりけれハ
  日くるれは誘ひしものをあそぬまの
           まこもかくれのひとり寝そうき
ゑいじてかへる、此を見れは鴦の雌なり。入道あはれにおもひ夜あけてみれはきのふの鴦と嘴をあわせて死にけりかな、鳥類まてあひしふれんぼのみちふかくいかなれハ人界に生をうけ物のあはれをおもハざらんと。生死無常のさだめなきことをおもひ発心出家して遁世の門に入池のほとりに草庵をむすひ池證山鴨鴛寺と号す、夫よりとしゆき月かわり三百年の星霜を経て天文十五年に源太郎平の胤廣と云人鎌倉の仏師大内卿長盛をやとひさひかうしおわる」とあり、
保元年間(1156~1158)に正覚院が創立されたことになる。その前に館があった筈であるから、源平の争乱に先立つ平家が世を支配した時代に館が作られていたことになる。

◆実際の正覚院の成立時期

しかしながら、本尊の清涼寺式釈迦如来像は、像の高さ166cmでカヤの木の寄木造り、玉眼、肉髻珠、白亳に水晶を嵌めこんだ釈迦如来の立像で、鎌倉時代後期の作であり、時代があわない。館の創立時期も、やや時代を下った鎌倉期と思われる。
文中「そのかみ此本尊ハ保科むらにありしを」とある保科村とは、近世保品村と呼ばれていた現在の八千代市保品であるが、印旛の浦に仏像の御首が流れ漂着したというのは、当時の印旛沼が、現在よりもかなり大きく、保品の背景に広大な印旛浦があったことをうかがわせる。
当時の館を偲ばせるものとしては、正覚院の門近くの駐車場左側に4~5mほどの高い土居(自然の土手に切岸を施した)が聳えているほか、一部破壊されているが、方形であったと思われる土塁が境内をまわっている。方形であったと思われる土塁は、あまり高くなく、1m数十cm程度の高さである。また本堂の裏山にある竹薮の中にも、土塁と堀がめぐっている。本堂裏の墓場の裏手にある堀は、深さが2m以上ある。
裏山を背に、方形の土塁がめぐった館があったと思われ、典型的な鎌倉武士の館址である。鎌倉にある様々の武士の館址、例えば比企氏の館址である妙本寺の付近も、比企ヶ谷(やつ)というように、山を背景にした谷戸と呼ばれる谷あいに立地している。足利公方館も、滑川に沿った浄妙寺のある谷、浄明寺ヶ谷にあった。足利氏の執事に発し、鎌倉に館を構えた四つの上杉氏(扇ヶ谷、宅間、山内、犬懸)の居館も、同様の場所にあった。正覚院も同じような立地条件で建っている。館は台地をくりぬいたような状態の平場にあって、北と東は、裏山となっており、南の低地に向かって開け、西は自然の高い土手が聳えるが、その向うは阿蘇沼のあった低湿地で現在は新川が流れている。なお館は、東西、南北約150m四方であったと推定される。南側の低くなっている寺の入口付近にある厳島神社、通称片葉の弁天のある辺りにも、地形からみて水堀か池か何かあったのであろう。そのあとに後世になって、厳島神社を建てたと思われる。

◆戦国期の正覚院

持仏堂は、現在釈迦堂と呼ばれているが、その堂内に安置された清涼寺式釈迦如来像の中から出た木札に「天文十五年 平胤広」とあり、戦国期には千葉氏の一族が館の支配者になっていたことが分かっている。したがって、正覚院は鎌倉時代の武士の館として建てられ、その子孫かどうか不明であるが、戦国期には千葉氏一族が支配し、館の周囲も補強したものと思われる。

◆鎌倉武士の信仰心

現在の釈迦堂は江戸時代前期の延宝2年に再建されたものであり、上述の縁起も同時期に書かれたものである。その実証性はともかくとして、往時の武士の信仰心を伝える資料には違いない。鴛鴦の話かどうかは別として、武士が殺生を後悔して仏門に入るという説話は、全国的に残されている。鎌倉時代は、現代のわれわれが想像する以上に戦乱の絶えない、一種殺伐とした時代であった。鎌倉の有力御家人でも、比企能員の一族の誅殺、和田義盛の謀反劇、三浦氏の乱と、幕府・執権北条氏に脅威となりうる存在は、次々と滅ぼされていった。そうした戦乱のなかで、素朴な武士の心象には、静かな信仰心をもって生きるという生活に対する憧憬が芽生えていったに違いない。下総の地においても、中山法華経寺の基になった法華寺を建てた富木常忍や曽谷城主で後に出家した曽谷教信のように、日蓮の唱えた法華の教えに、有力な在地武士たちが帰依していったのである。
他に、正覚院の裏の墓地に「(光明真言)六月廿七日 応永十八年 為妙吽禅尼(光明真言)」「三十三廻忌 孝子等敬白」という銘文のある宝篋印塔があるが、これは妙吽という法名をもつ母の三十三回忌の法要を応永18年(1411)に子等が営んだ際に建てたものである。妙吽という女性は、この館の主の母親か近い縁者であったのだろう。板碑も境内から発見されているが、これも館関連の者たちの供養に作られたものであろうか。
 
<正覚院館址の切岸と土塁(左手)>

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