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米本城は二度落ちた

◆太田道灌と対峙したか米本城

米本には、米本城を太田道灌が攻略するために萱田の権現山に陣を置き、そこに砦あるいは陣城を作って「龍ヶ城」といっていた当時の米本城と対峙、これを落とした。城主であった村上綱清は将兵七百余人とともに村上の神社で切腹して果て、それでその神社を七百余所神社という、などといった落城にまつわる伝承もある。萱田の権現山は、現在飯綱神社と文化伝承館が建っているが、米本を一望することができ、確かに陣を張るのに適当な場所に思える。
権現山に本当に砦があったか、文化伝承館の方に聞いてみたが、遺構がないこと、また太田道灌と村上綱清では在世の年代が合わないことから、多分伝説の上の話でしょうということであった。
元々、米本には長福寺がある場所に、中世の武士の居館があったらしく、村上の正覚院館と同様に低地に面し、裏山を背負ったような場所にあり、裏山である台地がくりぬかれ、平地にされた部分に館があったのであろう。この館の主が誰であったのか不明であるが、米本の複数の場所から室町期の板碑が出土し、特に長福寺から多くの板碑が発見されていることや、付近に妙見を祀る米本神社があることから 室町期に千葉氏系の氏族がいたことは確実であり、それが太田道灌の軍勢と戦ったのではないか。また、現在の米本城址からは土塁の下から、焼き米が発見されている。これは一度焼けた建物の上に、新しく城を築き、より堅固にしたのであろう。
もちろん、太田道灌自身は下総まで来て指揮をとっていないが、太田道灌の弟図書をして臼井城を攻めさせたのが文明11年(1479)である。室町期に武士の居館で、長福寺の板碑がそれからやや新しい年代のものが多いことは、太田道灌が権現山に陣をおいたという伝承にあるように、太田軍が臼井城攻略の前後に「米本の龍ヶ城」すなわち元の米本城も落とし、その際の戦死者の供養の板碑が多いのではないか。そう考えると、既に室町期に現在の長福寺の場所に館を構えていた在地領主が、文明11年頃に太田軍と戦って敗れ、その後戦国期の天文年間頃に村上氏が本格的に築城し、永禄期におそらく里見軍と戦ってふたたび城が落ちたのであろう。その合戦にまつわる地名というのが、逃げ道になったという「禰宜知」(逃げ地)、敵兵を萱田まで追いかけ回したという「おんまわし」などである。

<中世の武士の館址という米本の長福寺>

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◆咳の神様としろぬし様

現在、米本城址の第3郭の土塁上に祀られている小さな板碑は、康永3年(1344)銘の武蔵式板碑であるが、なぜか咳止めのご利益を持った咳の神様として、信仰されている。その手前には「ポーポー」という竹筒が供えられているが、咳が直った時に新しい筒が供えられるという。これは逃げ遅れて隠れていた老兵が咳をしたために敵に見つかり、殺されたという伝説に基づいている。この老兵や落ち武者などが咳をしたために見つかったという話は全国各地にあり、臼井では臼井城主竹若丸を逃した忠臣阿多津の伝説で、葦原に隠れていた阿多津が咳をしたために追っ手に捕まったという話がある。
しかし、分からないのは、その板碑を咳の神様というだけでなく、しろぬし様というのがなぜかということである。しろぬし様とは、一説に城主様のことだという。ただ、板碑の銘は康永3年(1344)で南北朝時代である。これは太田道灌の時代よりも古い。もし、しろぬし様が城主様なら、南北朝の頃すでに当地は確固とした勢力(おそらく臼井氏または千葉氏本宗の流れを汲む在地領主であろうが)によって統治され、長福寺か米本城址の場所に城館もあったことになる。そして、その城主様と哀れな老兵を重ね合わせて信仰するのはなぜであろうか。

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