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臼井城退転後の臼井氏

鎌倉時代から戦国時代にかけて、臼井城の城主として、宝治合戦後の一時的な没落期以外は、連綿として名門臼井氏が存続し、その治世を継いで来た。しかし、戦国期も半ばに入り、ついたり離れたりした古河公方との関係や千葉宗家の衰退、千葉氏重臣であった原氏の台頭など、歴史の波に翻弄され、臼井氏の勢力にも翳りが見えるようになってきた
弘治3年(1557)14才で臼井景胤の跡を継いだ当主久胤であったが、景胤の「小弓の原胤貞に城を護ってもらうように」という遺言により臼井に来た原胤貞に、事実上城主の座を追われ、現在「御屋敷」という地名の残る臼井城の主郭部の南に位置する谷に屋敷を構えて幽居させられた。

<臼井城主郭より臼井氏の菩提寺円応寺を望む>

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小弓の原胤貞は、月の三分の二は臼井城の本丸(第1郭)に居住して、「小弓、臼井両城主」と称された。原胤貞は、家臣、領民に対し、俸給を上げ、税を軽くするなどの施策をしたために、城主として尊崇され、かたや本来の城主であった臼井久胤はないがしろにされた。そこで、臼井久胤は、ひそかに城を出ることを考えていた。

永禄4年(1561)里見氏重臣の正木大膳が臼井、小弓城に攻めてきたのを機に、臼井久胤は臼井城を脱出して結城に走り、臼井城は落城した。臼井久胤は結城晴朝に仕え、十二人円判衆の一人という重臣に列せられた。臼井久胤は水谷(みずのや)正村(蟠龍斎)の旗下として、その厚遇を受けた。永禄9年(1566)3月、後北条氏打倒を目指し、関東に出陣した上杉謙信と里見義堯・義弘父子らの軍勢が原氏の臼井城を攻めたが、この臼井城攻めの軍勢のなかに、臼井久胤の姿があった。臼井久胤は結城晴朝に従って、上杉勢に加わったのである。この合戦では第1郭を残し「実城堀一重」というところまで、上杉勢は攻めたてたが、臼井方はよく守った。臼井久胤がよく知っていた堅城ぶりが発揮されたのである。上杉勢は臼井城主原胤貞の好守備により敗退し、臼井久胤は結局臼井に復帰出来ず、下館で生涯を終えた。

久胤は結城で上野氏の娘を妻に迎え、忠胤、良胤、村胤という子を成した。長じて忠胤と村胤は水谷(みずのや)氏に仕えたが、父久胤の待遇と比べ、禄も減らされ冷遇された。忠胤は水谷家を辞し帰農したが、その子常数は苗字帯刀を許され、子孫は牛久の山口家などに仕えた。良胤は立身を目指して大坂へ行き、浪々の日々を送り、音信不通となった。
村胤は寛永17年(1640)、水谷勝隆の国替に伴い、備中高松に赴き、その地で亡くなった。
その子益胤、孫秀胤は水谷家に仕えるも、秀胤は水谷家を出て浪人後、間部家に300石で迎えられ、子孫は代々間部家に仕えて越前鯖江に居住した。こうして、臼井城主として権勢を振るった臼井氏の嫡流は、臼井から離れ、別の場所で家名を残したのである。

一時里見勢の手にあった臼井城であるが、落城の報せを聞いた千葉胤富が原胤貞を先鋒として臼井城を攻めさせ、これを奪回、原氏は臼井城に返り咲いた。原氏は以降、臼井氏に代わって臼井領の支配を確立していく。今も臼井氏菩提寺円応寺には臼井氏中興の祖、興胤の十三代後胤で、久胤からは孫にあたる益胤の娘貞笑尼を含め、臼井氏の子孫の墓がある。また久胤の曾孫秀胤(信斎)は、有名な「臼井八景」*の撰者である。

*臼井八景とは、以下の和歌にあらわされた臼井周辺の情景

「舟戸夜雨」 漁する舟戸の浪のよるの雨 ぬれてや網の縄手くるしき
「遠部落雁」 手を折りてひとつふたつとかぞふれば みちてとをべに落つる雁がね
「飯野暮雪」 ふり積もる雪の夕べを見ぬ人に かくといひののことの葉もなし
「師戸帰帆」  もろ人の諸戸の渡り行く舟の ほのかに見えてかへる夕くれ
「瀬戸秋月」 もろこしの西の湖もかくやらん には照る浪の瀬戸の月かげ
「城嶺夕照」 いく夕べ入日を峰に送るらん むかしの遠くなれる古跡
「光勝晩鐘」 けふも暮れぬあはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん
「州崎晴嵐」 ふき払ひ雲も嵐もなかりけり 州崎によする波も静かに

<師戸城址から臼井方面を望む>
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臼井興胤に関する伝説と実像

千葉県佐倉市臼井田の地には、下総の雄城の一つである臼井城がある。この城の主であった臼井氏の中興の祖といわれ、臼井城を事実上築城した人物が臼井興胤である。この人にまつわる伝説と実像について述べたい。

<臼井城近くの天満宮~臼井興胤創建といわれる>

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臼井氏は千葉氏の一族で、千葉常胤の祖父である下総権介平(大椎)常兼の三男で、常胤からは叔父にあたる臼井六郎常康が永久2年(1114)に臼井を領したのが始まりという。常康の子常忠は源頼朝に仕え、伊東祐親の娘を妻としたともいわれる。常忠の跡は、その子成常が継ぎ、盛常、山無常清、山無胤常と続く。宝治元年(1247)の宝治の合戦で、三浦泰村についた臼井氏は、臼井(山無)太郎胤常、二郎親常兄弟と思われる臼井太郎、次郎が戦死して敗れ、臼井の所領を失いその勢力は一時衰退する。

山無胤常の子は景胤である。山無景胤以後、山無氏の嫡流から常忠の子、成常の弟である久常の系統の臼井康胤、昌胤が跡を継ぎ、その代を経てようやく、臼井氏は臼井の領地を回復した。その頃の当主であった臼井太郎祐胤は、正和3年(1314)に25才で亡くなったが、その時祐胤には3才の竹若丸という子があり、幼少ということで祐胤の弟、志津次郎胤氏が竹若丸成人まで後見することになった。

しかし、志津胤氏はやがて竹若丸を殺し、臼井城主になる野心を抱いたが、竹若丸の保母阿多津の機転で、忠臣であった岩戸胤安に竹若丸は託される。岩戸胤安は、修験者に身をやつし、背中の笈のなかに竹若丸を隠して臼井城を脱出した。そして、胤安は竹松丸を居城岩戸城に一旦かくまった後、鎌倉へ赴き建長寺の仏国禅師に竹若丸を託した。竹若丸はこうして、鎌倉建長寺に逃げのび、後事を託された仏国禅師に養育されることになる。そのことを知った志津次郎胤氏は阿多津を捕えて殺害、さらに岩戸胤安、胤親父子の籠る岩戸城を攻めた。岩戸氏父子はよく防いだが、多勢に無勢で敵わず、自刃して果てた。

<円応寺にある岩戸胤安の碑>

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その際、城から逃れ葦原に隠れた阿多津が咳をしたために捕まったという伝承があり、後にそれを哀れんだ民衆によって建てられた供養塔は、今も臼井城の北側の印旛沼のほとりにある。現在その供養塔は、昭和4年(1929)建立の「阿多津之祠碑」という大きな石碑(後に倒れて横に二つに割れたため、斜めに寝かせて石積で支えてある)と共に建っている。

<阿多津の墓>

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こうして志津胤氏は、一旦は臼井領を押領した。一方、鎌倉に逃れた竹若丸は、建長寺で仏国禅師とその死後後事を託された仏真禅師に師事して成長、元服し、臼井行胤と名乗った。時代は鎌倉時代から南北朝の戦乱期に移っており、臼井行胤は足利尊氏に従って戦功をたて、その戦功により、暦応元年(1338)に臼井領を安堵された。さらに行胤は、尊氏の推挙で官位も得て、臼井興胤と改名したという。同時に千葉介貞胤(千葉氏12代当主)は、志津胤氏を志津に退けた。それを不満に思った志津胤氏は、なお興胤に本心から臣従しなかった。それどころか、その後も主従の礼に従わずに、興胤を侮った態度を改めなかった。そこで、臼井興胤は、主君の意に従わない志津胤氏を滅ぼすための謀略を考え、暦応3年(1340)8月14日、臼井城の堀の浚渫工事の使役と称し、胤氏に命じて志津城の兵を臼井に呼び寄せた。そうして、志津城を手薄にし、その隙を狙って志津城を奇襲し、攻め落したのである。その際、志津胤氏は城を臼井勢に囲まれ、配下の兵も少なく絶望した。胤氏は妻から「潔く自刃してください、私も後を追います」と言われて自刃し、その妻は胤氏の遺骸の後始末をし、自ら長刀を振るって勇戦したが、最後は屋敷に火をかけ、胤氏の柩とともに自決したと伝えられている。その志津氏の子孫がどうなったか不明であるが、志津では志津城址の近隣にある志津家が子孫とされているようである。志津氏は下志津の報恩寺を創建したと伝えられ、臼井氏の有力な分家であったが、当時なんらかの争いが臼井宗家とあり、それがこのような伝承になっているのかもしれない。

<円応寺本堂>

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上述のような、臼井行胤、後の興胤が足利尊氏の後援で、本領を安堵され、志津胤氏に報復するという話は後世に作られた伝説といってよく、臼井行胤とは足利尊氏の近習として活躍した白井行胤と混同され、かつモチーフとなって作り出された人物である。白井行胤は臼井にも近い白井庄を治めていた白井氏の一族で、文和4年(1355)2月25日の「足利尊氏近習馬廻一揆契状」という古文書に、「白井弾正左衛門尉行胤」の署名と花押が見られる。すなわち、臼井行胤とそれにまつわる逸話は、実在の白井行胤に仮託して作り出されたものであろう。

それが、同時代の臼井氏当主である臼井興胤の事績として、足利尊氏という当時の最高権威である将軍家と結びつき、重み付けされた形で伝承されたと思われる。

<鎌倉鶴岡八幡宮>

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ともかく臼井城主として実権を確保した臼井興胤は「臼井家中興の祖」と称され、その後の臼井氏は昔の勢いを取り戻した。 現在の臼井城も興胤の代に整備され、現在の城の原形が出来たといわれる。ちなみに、現在臼井城の北側の低地にある臨済宗瑞湖山円応寺を、鎌倉から仏真禅師を招いて創建したのも、この臼井興胤であり、その十三代後胤である益胤の娘貞笑尼を含め、臼井氏の子孫の墓がある。

<臼井興胤創建の円応寺>

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金杉城の城主はどんな人物か

船橋のなかほどに金杉という地区があり、ここには中世の豪族(在地領主)の館として生まれ、戦国期に改修されたと思われる金杉城址がある。城の構造や南方にある高根城の由来(高城山城守とか高城右京亮が城主という伝承がある)からみて、やはりこの城も戦国期には高城氏系の城となっていたと思われるが、城主や築城時期など来歴が分っていない。元々は村の侍・殿原衆といわれる在地領主の館であったらしいことは、主郭が単郭方形居館に横矢掛けなどの作事を加えただけの姿であることから、推定できる*。*2006.1.22追記

この金杉は、金曾木(かなそぎ)として応長元年(1311)の船橋大神宮文書に出てくる。

その船橋大神宮文書とは、「船橋御厨六ケ郷田数之事」であり、以下の内容のものである。

一 下総国船橋御厨六ケ郷 田数之事
一 六郷本ハニ百町也
一 東船橋百六町六田大
一 西船橋九十三町三田小
  此内わける事
一 廿七町七田はん 湊郷
一 四十二町田田はん 夏見郷
一 廿三町一田小 金曾木郷
一 六郷六十町の時ハ
一 三十一町 東方
一 廿九町 西方 此内わける事
  八町三田三十分 湊郷
一 十三町一反はん十四分 夏見郷
一 七町一反はん四十八分 金曾木
一 十六町 宮本郷
一 十五町 たかね郷[米□崎/七□□]
 應長元年[辛/亥]十二月廿日

注)現存するのは弘化4年(1847)に穂積重年が模写したもの(船橋大神宮文書は幕末の船橋戦争で焼失したものが多い)

上記資料では、船橋御厨六ケ郷といっているのに、湊郷、夏見郷、金曾木郷、宮本郷、たかね郷と五郷しかないし、応長元年(1311)当時、東船橋、西船橋という呼び方をしただろうか。ちょっと疑問である。船橋大神宮の文書は偽文書が多量に混入しており、必ずしも信用できないが、金杉が中世に起源をもつ集落であることは、古老の言い伝えで金杉の創成期は鎌倉期といわれ、実際、時代は下るが文明7年(1475)銘の板碑が金杉の域内から出土していることでわかる。板碑は、鎌倉時代以降、下総地方にも数多く見られる墓標であるが、在地の武士などの有力者が建てたものが多い。

その板碑の銘より9年前の寛正7年(1466)4月18日の日付で、守谷にて金杉二郎五郎が討死という記載が「本土寺過去帳」にある。「本土寺過去帳」は松戸の平賀にある日蓮宗の古刹本土寺に残された過去帳で、中世の人々の動静を知るための貴重な史料になっている。この金杉二郎五郎とは、船橋の金杉の住人、おそらく在地領主で、その地名を冠した名前ではないだろうか。そして、守谷は現在の茨城県の守谷市であるが、下総相馬氏の拠点としていた場所である。すなわち、下総相馬氏と何かの勢力が戦闘し、その戦闘で金杉二郎五郎が討死したということになる。

同じ「本土寺過去帳」の寛正6年(1465)の記事に「山倉高城雅楽助 法名妙助 中野城之落葉ニ路次ニテ死スル処、諸人成仏得道、寛正六乙酉四月 船橋陣ニテ打死」とあり、小弓近くの山倉(市原市山倉)にいた高城雅楽助が中野城(千葉市若葉区中野)の落城で落ち延びたが、船橋の陣で討死したとある。中野城は、酒井定隆の居城だったといわれ、15世紀後半の築城とのことである。酒井氏は、高城氏と同様、原氏の重臣であった。当時、高城氏の主筋にあたる原氏は上総武田氏との抗争を繰り返し、中野城などで上総武田氏と武力衝突し、船橋あたりまで戦闘が行われていたことが分かる。

寛正6年(1465)の船橋の陣と、翌年寛正7年(1466)の守谷での金杉二郎五郎の討死と関連があるかどうか分からない。 しかし、上総から下総にかけて、二年にわたり戦闘が繰り広げられていたことは確かである。どういう戦いであったか、他に記録などがないので、よく分からないが、寛正7年(1466)の守谷における戦いは、守谷城に拠った下総相馬氏が、古河公方の奉行であったことから、古河公方とその反対勢力である上杉氏との間などで、何らかの抗争があったと思われる。それは古河公方と上杉氏の対立を背景とした、康正元年(1455)から2年(1456)の千葉氏宗家(上杉方)と馬加康胤、原胤房(古河公方方)との戦い、馬加系千葉氏の千葉宗家乗っ取りの10年後で、それには、原氏も古河公方の勢力に加担していたかのもしれない。

金杉二郎五郎とは、小金城の近くに中金杉という地名があり、名字としてこの地名を冠する者である可能性もある。小金城は享禄3年(1530)に高城胤吉が家臣阿彦丹後入道浄意に縄張りさせて、天文6年(1537)に完成したというから、寛正7年(1466)では高城氏も栗ヶ沢城に居た時期である。その頃の中金杉には高城氏系の部将が住むような場所ではなかったかもしれない。中金杉城もあるが、戦国期の築城で、高城氏一族か家臣の居城であった。しかし、寛正3年(1462)開創という中金杉の広徳寺の開基は高城氏で、当時その勢力が小金周辺にまで及んでいた可能性も否定できないが、栗ヶ沢周辺の別の場所に広徳寺が開創され、小金に高城氏が移った時に、寺も移したと考える方が自然であろう。

しかし、15世紀には小金、大谷口には「本土寺過去帳」に「妙入 応永廿七庚子七月 大谷口六崎」、つまり1420年になくなった大谷口の六崎氏とあるように、六崎氏が大谷口を領有しており、文明十九年(1487)まで8人の六崎氏(他に年未詳が4人)が記載されている。また、その頃原氏も小金大谷口に影響力を持っていたことが、最近の研究で分かってきている。したがって、前出の金杉二郎五郎が、小金近くの金杉の地名を冠する者である可能性もある*。*2006.1.22追記

しかし、寛正7年(1466)に守谷で討死した金杉二郎五郎は、小金の中金杉の者というよりは、前述のように明らかに15世紀頃には殿原衆の居館が存在した船橋の金杉の住人であった可能性も高いと思われる。いずれにせよ、原氏の勢力圏内であり、金杉二郎五郎は原氏の勢力として参戦したのではないか。

前述のように、金杉城は、元は在地領主の館であったものが、戦国期に本格的な防備をもった城に改修されたものと思われる。その元々の城主については、金杉二郎五郎という本土寺過去帳にある人物が該当する可能性もある。それは草分けのうち、最も城主であった可能性の高いと思われる、城址の南側道路を挟んだ土塁に囲まれた窪地に屋敷を構えていた旧家石井家の先祖だろうか。石井家は日蓮宗であり、本土寺の過去帳に先祖がのっていてもおかしくはないだろう。その先祖は、守谷辺りまで遠征する原氏の勢力下の殿原衆であった、そして戦国期に入り、小金領が高城氏の支配下になると、高城氏配下となっていったのではないだろうか*。但し、石井家の本家である石井外記家は、明治時代末か大正初期に転出、絶家している。従って、何か史料が昔は残っていたかもしれないのだが、今となっては散逸してしまっている可能性が高い。*2006.1.22追記

なお、遺構は主郭部を中心に残っており、今後ともその保護が望まれる。その遺構は私有地、しかも屋敷内にあり、今回城址のある屋敷地への立ち入りや以下の写真のうち屋敷地での写真撮影も、勿論城址の土地所有者に断っておこなった(もし、無断で他人の屋敷地に入ることは、当然ながら家宅侵入罪を構成することになる)。

主郭は方形の郭となっており、その大きさは南北約43m、東西約47mで、北側、西側に土塁が現存する。明治中頃まではきれいに方形に土塁がめぐっていたということであるが、火災にあって屋敷を移動したときに、東側の土塁が失われた。この主郭部分が、本来の中世の方形居館であり、それを戦国期に改修したと思われる。南西には基底部が約15m四方、上部が約10m四方の櫓台のような土壇がある。

そして、かつては北側、およびなくなった東側の土塁の外側にも土塁があり、二重土塁になっていた。北側土塁と外側の土塁の二重土塁の間には空堀があったが、外側土塁を除いて畑にした際に大分埋められたにしても、一段低くなっており、今も痕跡を留めている。

不思議なのは、主郭以外に、さらに北へ100mほどいった畑地にも土塁があり、台地の広範な部分に土塁が見られることである。城址のある台地の南側のバス道を隔てた屋敷地を囲むように高い土塁があるが、これは馬牧の土塁で、勢子土手などである。つまり城址と牧が近接しており、戦国期の城内牧の特徴をよく示している。 
         

<西側低地からみた金杉城のあった台地>

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           <主郭南西櫓台から西側の土塁>

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             <主郭南~西側部分(左に土壇)>

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                                       <北側土塁外側の土塁痕(木の根のある辺り)>

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                         <金杉城主郭部分(西~北側)>

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              <南西土壇上から西側土塁を見る>

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                  <主郭北側土塁>

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<北側土塁外側の空堀址>

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<城内馬場の土塁か~現在は宅地造成で消滅>

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上述のように、金杉城は遺構が比較的よく残りながら、城主が誰かといった来歴に関しては不明な部分が多い。何らかの古文書などで明らかにされればよいのだが、そうした文書なり金石文が出てこないか、わずかな期待をつなぐしかないかもしれない。

(本稿は、正確な城址の場所について記載していませんが、その理由として所有者が興味本位で私有地に入ってこられるのを不快に思い、他の家もふくめた防犯などで警戒していることもあります)

(参考文献)

・「城郭と中世の東国」    千葉城郭研究会     (高志書院)  2005

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馬加康胤の「首塚」

世の中には、周囲とそぐわない空間が、ポッカリあいていることがある。例えば、将門の首塚は、大手町のオフィス街のまさにビルの谷間にある。そこだけ時間が止まっているというのか、空気が違うというのか、エアポケットのようである。

<大手町の将門首塚>

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同じような場所が、幕張にもある。それは幕張本郷と幕張の中間くらいの地点で、かつての海岸線に近い国道14号線を一つ奥に入った旧道が浜田川と交わる地点、つまり浜田川にかかる下八坂橋の東詰にコンビニエンスストアがある。そして、その東側を50mほど行ったところに、墓地がある。その墓地には旧道のある低地からは階段を何段か上がっていかねばならない。その階段を上がりきると、江戸時代の力士である荒馬紋蔵の墓があり、正面に「首塚」と書かれた看板が見える。

「首塚はこの先 左折」といわれても、この看板を目掛けて首塚へ行く人などいるのであろうか。「奥さん、どちらへ」「ちょっと首塚まで」という会話が、ご近所で聞かれていたら、ちょっと怖い話である。

<荒馬紋蔵の墓と首塚の看板>

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実は、この墓地は以前、宝幢寺境外の大日堂が建っていた。老朽化して、現在は取り壊されていてないが、この台地が大日堂の山、転じて堂ノ山といわれる名前の起こりとなった。その堂があった場所の近くには、地蔵があるが、「風邪ひき地蔵」という一風変わった名前がついている。堂ノ山は大須加山とも呼ばれ、馬加城の砦である大須加山砦があった。この馬加城のあった場所には、現在マンションや住宅がたっているが、三代王神社もその一角と見られ、最近神社参道の近くから堀と見られる溝が検出されている。今回の「首塚」の主である馬加康胤は、馬加城主であった。この人は、千葉宗家の庶子といわれ、一時常陸の豪族大掾氏に養子にだされたが、なぜか出戻り、宗家から馬加の地を与えられた。一時、屋敷を馬加城の東、屋敷地区に構えていた可能性がある。そして、屋敷という地名もそこからおこるといわれる。少なくとも家臣団の屋敷はあったらしい。その他、三山の七年祭の伝承など、馬加氏にかかわる話もあるが、ここでは割愛する。

室町時代の千葉宗家は、足利持氏の永享の乱以降勢力が衰退し、重臣である原氏や円城寺氏らが実権をめぐって相争う状況となっていた。足利義政将軍の治世中、当時の関東の覇者を目指す古河公方足利成氏に対する立場によって、千葉家中は真っ二つに分かれて対立していた。この背景には、鎌倉公方、後の古河公方の足利氏と管領上杉氏の根深い対立がある。馬加康胤は、結城合戦など、千葉宗家に従って各地を転戦し、千葉宗家に忠実に従ってきたが、足利成氏を支持した。一方、千葉宗家は最初成氏方であったが、上杉氏に傾斜した。重臣の円城寺氏も同様である。康正元年(1455)、ついに馬加康胤は旗幟を鮮明とし、千葉介胤直、円城寺氏の勢力に対し、同じく足利成氏を支持する原胤房と呼応して千葉宗家打倒の兵を挙げた。すなわち、康正元年(1455)3月、馬加康胤は千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らと共に、1千余騎の兵をもって、胤直を討つべく千葉城を急襲した。からくも千葉介胤直は、胤直の胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、九州千葉氏の本拠地である千田庄の志摩城や多古城に拠った。ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待ったが、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさの阿弥陀堂」で自刃、また志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃された。からくも、胤直、胤賢兄弟は志摩城を脱出し、土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で自刃した。弟胤賢も匝瑳郡小堤辺りで自刃し、千葉宗家は一旦滅んだ。

<馬加城のあった一角にたつ三代王神社>

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<屋敷地区にある天津神社の由緒書き>

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この千葉宗家を滅ぼした千葉家の内紛について、心を痛めていたのは千葉一族の東氏の後胤で、歌人として有名な東常縁である。東氏は元々下総東庄の領主で、後に美濃国郡上を領有するようになり、本拠地を美濃郡上に移していた。
千葉宗家の滅んだあと、馬加康胤が千葉氏の事実上の棟梁になるや否や、将軍足利義政の御教書を戴き、副将として浜民部少輔春利を伴って下総東庄に下向した東常縁が攻め込んできた。
東常縁は、馬加康胤討伐にあたり東庄総鎮守の東大社で、次の歌を詠じたという。
静かなる世にまた立ちやかへらなん 神と君とのめぐみつきせず
康正元年(1455)11月、東常縁は国分、大須賀、相馬をはじめとする千葉氏一族を率いて、馬加城を攻めた。康正2年(1456)4月には、千葉城を攻撃した。馬加康胤、胤持父子は、東軍に追い詰められ、千葉城を脱出、上総国八幡に退き軍勢の立て直しを図った。しかし、東軍の攻撃は激しく、6月康胤は村田川のほとりで自刃し、胤持も戦死したといわれる。馬加康胤、胤持の墓と伝えられる五輪塔が、現在の市原市八幡の無量寺にある。また馬加康胤の胴埋塚といわれる塚も、八幡観音町北方の海岸近くにある。つまり、この「首塚」と遠く離れて、市原に胴塚があるわけだ。

<大日堂のあった場所>

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その墓地を左側に進むと、台地上へ上る道があり、その道をいくと、台地上に出る。そこには、昼でも暗い木々が鬱蒼と茂った場所が広がる。昔から「首塚」があるせいか、木が伐採されて何か建物がたつということもなかったようだ。おかげで、付近にはタブの木など海岸線に特有の木が茂り、自然がよく残っている。

<木々が茂る「首塚」周辺>

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台地は低地からの比高20m位で、東南台地端に土塁が見られる。先ほどの東側の台地中段にある墓地から西へ台地を上る道は、坂虎口と思われる。東南に突き出た台地先端部分は約70m四方で、中央に「首塚」と呼ばれる方形の「塚」がある。これが、馬加康胤の「首塚」である。「塚」には石段がついて登れるようになっているが、登り口は東に面し、虎口に続く。この部分に一郭があったと思われるが、北側には住宅が建ち並んでいる。

<馬加康胤の「首塚」>

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砦の遺構は「塚」の周りの平坦な部分だけではない。墓地の上段、虎口まで登りきらない地点にも、小さな武者溜りのような削平地がある。これは、やはり腰郭であろう。この腰郭の下にも、幅2~3m程の小さな腰郭がある。また、この墓地から登ってくる虎口の南側に比較的高い土塁痕があり、土塁上から進入する敵に横矢が掛けられるようになっている。また「首塚」の北側、住宅地の間を抜け、台地上から低地に下りる小道沿いにある道祖神社は、まさに腰郭の上に建っていて、その上段台地端に土塁がある。その腰郭は台地から2~3m下がった場所にあり、南北5~15m、東西50mほどの三日月状となっており、その外側を通る小道は、台地下の低地に続いている。

<道祖神社のある腰郭>

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「首塚」という「塚」は高さ、4mほどあって台地上に屹立している。この「塚」は、上部の一辺が8m~9mの方形であり、基底部の一辺も20mほどある。「塚」の上には寛永14年(1637)在銘の安山岩製の五輪塔が、供養塔として建てられているが、その地輪には大日如来を示す一尊種子の梵字とともに「寛永十四年丁丑天二月十一日建立朝雅宥光宥得二親」と刻まれている。刻された銘は、朝雅という法号をもつ者が、為書きはないが、宥光と宥得という二親の為に建てたと読める。あるいは、二親が朝雅、宥光を指しているなら、宥得という人が供養のために建てたとなるだろう。

いずれにせよ、康正元年(1455)から2年にかけての、馬加康胤、胤持父子とその家臣が戦った合戦の犠牲者の供養を目的として建立というのも事実と違うのではないか。この五輪塔がなぜ、「首塚」の上にあるのであろうか。おそらく、ここがかつて大日山と呼ばれ、大日堂があったということから、宝幢寺もしくは明治維新前にあった廃寺から移されたものか。そして、この「首塚」が馬加氏ら供養の塚であれば、後世の村人が相当の労力をかけて、築いたことになるが、少し考えにくい。

<馬加康胤の供養とは関係がなさそうな五輪塔>

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やはり大須加山砦の役割として、海岸線からの敵の侵入を発見し、本城に伝達することが考えられ、この「塚」といわれている大きな方形の土壇も、物見台と思われる。同様の物見台は、例えば上州勢多郡の山上城にも見られる。大須加山砦では、元々あった物見台に、後世供養塔を建てたことから、付会した話として馬加康胤の「首塚」云々という伝承が伝えられたのではないかと考える。
また、北側にある宮ノ台城と約300m離れているだけで、近接しており、さらに、馬加城そして下総に残留した武石氏が拠った長胤寺館などとあわせて、馬加城を中心とした幕張付近の防備を担う城砦群が作られていたといえるであろう。
なお、この馬加康胤の「首塚」といわれる「塚」は、後藤明生著「首塚の上のアドバルーン」という小説のモチーフになっている。

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