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馬加康胤の「首塚」

世の中には、周囲とそぐわない空間が、ポッカリあいていることがある。例えば、将門の首塚は、大手町のオフィス街のまさにビルの谷間にある。そこだけ時間が止まっているというのか、空気が違うというのか、エアポケットのようである。

<大手町の将門首塚>

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同じような場所が、幕張にもある。それは幕張本郷と幕張の中間くらいの地点で、かつての海岸線に近い国道14号線を一つ奥に入った旧道が浜田川と交わる地点、つまり浜田川にかかる下八坂橋の東詰にコンビニエンスストアがある。そして、その東側を50mほど行ったところに、墓地がある。その墓地には旧道のある低地からは階段を何段か上がっていかねばならない。その階段を上がりきると、江戸時代の力士である荒馬紋蔵の墓があり、正面に「首塚」と書かれた看板が見える。

「首塚はこの先 左折」といわれても、この看板を目掛けて首塚へ行く人などいるのであろうか。「奥さん、どちらへ」「ちょっと首塚まで」という会話が、ご近所で聞かれていたら、ちょっと怖い話である。

<荒馬紋蔵の墓と首塚の看板>

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実は、この墓地は以前、宝幢寺境外の大日堂が建っていた。老朽化して、現在は取り壊されていてないが、この台地が大日堂の山、転じて堂ノ山といわれる名前の起こりとなった。その堂があった場所の近くには、地蔵があるが、「風邪ひき地蔵」という一風変わった名前がついている。堂ノ山は大須加山とも呼ばれ、馬加城の砦である大須加山砦があった。この馬加城のあった場所には、現在マンションや住宅がたっているが、三代王神社もその一角と見られ、最近神社参道の近くから堀と見られる溝が検出されている。今回の「首塚」の主である馬加康胤は、馬加城主であった。この人は、千葉宗家の庶子といわれ、一時常陸の豪族大掾氏に養子にだされたが、なぜか出戻り、宗家から馬加の地を与えられた。一時、屋敷を馬加城の東、屋敷地区に構えていた可能性がある。そして、屋敷という地名もそこからおこるといわれる。少なくとも家臣団の屋敷はあったらしい。その他、三山の七年祭の伝承など、馬加氏にかかわる話もあるが、ここでは割愛する。

室町時代の千葉宗家は、足利持氏の永享の乱以降勢力が衰退し、重臣である原氏や円城寺氏らが実権をめぐって相争う状況となっていた。足利義政将軍の治世中、当時の関東の覇者を目指す古河公方足利成氏に対する立場によって、千葉家中は真っ二つに分かれて対立していた。この背景には、鎌倉公方、後の古河公方の足利氏と管領上杉氏の根深い対立がある。馬加康胤は、結城合戦など、千葉宗家に従って各地を転戦し、千葉宗家に忠実に従ってきたが、足利成氏を支持した。一方、千葉宗家は最初成氏方であったが、上杉氏に傾斜した。重臣の円城寺氏も同様である。康正元年(1455)、ついに馬加康胤は旗幟を鮮明とし、千葉介胤直、円城寺氏の勢力に対し、同じく足利成氏を支持する原胤房と呼応して千葉宗家打倒の兵を挙げた。すなわち、康正元年(1455)3月、馬加康胤は千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らと共に、1千余騎の兵をもって、胤直を討つべく千葉城を急襲した。からくも千葉介胤直は、胤直の胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、九州千葉氏の本拠地である千田庄の志摩城や多古城に拠った。ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待ったが、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさの阿弥陀堂」で自刃、また志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃された。からくも、胤直、胤賢兄弟は志摩城を脱出し、土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で自刃した。弟胤賢も匝瑳郡小堤辺りで自刃し、千葉宗家は一旦滅んだ。

<馬加城のあった一角にたつ三代王神社>

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<屋敷地区にある天津神社の由緒書き>

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この千葉宗家を滅ぼした千葉家の内紛について、心を痛めていたのは千葉一族の東氏の後胤で、歌人として有名な東常縁である。東氏は元々下総東庄の領主で、後に美濃国郡上を領有するようになり、本拠地を美濃郡上に移していた。
千葉宗家の滅んだあと、馬加康胤が千葉氏の事実上の棟梁になるや否や、将軍足利義政の御教書を戴き、副将として浜民部少輔春利を伴って下総東庄に下向した東常縁が攻め込んできた。
東常縁は、馬加康胤討伐にあたり東庄総鎮守の東大社で、次の歌を詠じたという。
静かなる世にまた立ちやかへらなん 神と君とのめぐみつきせず
康正元年(1455)11月、東常縁は国分、大須賀、相馬をはじめとする千葉氏一族を率いて、馬加城を攻めた。康正2年(1456)4月には、千葉城を攻撃した。馬加康胤、胤持父子は、東軍に追い詰められ、千葉城を脱出、上総国八幡に退き軍勢の立て直しを図った。しかし、東軍の攻撃は激しく、6月康胤は村田川のほとりで自刃し、胤持も戦死したといわれる。馬加康胤、胤持の墓と伝えられる五輪塔が、現在の市原市八幡の無量寺にある。また馬加康胤の胴埋塚といわれる塚も、八幡観音町北方の海岸近くにある。つまり、この「首塚」と遠く離れて、市原に胴塚があるわけだ。

<大日堂のあった場所>

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その墓地を左側に進むと、台地上へ上る道があり、その道をいくと、台地上に出る。そこには、昼でも暗い木々が鬱蒼と茂った場所が広がる。昔から「首塚」があるせいか、木が伐採されて何か建物がたつということもなかったようだ。おかげで、付近にはタブの木など海岸線に特有の木が茂り、自然がよく残っている。

<木々が茂る「首塚」周辺>

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台地は低地からの比高20m位で、東南台地端に土塁が見られる。先ほどの東側の台地中段にある墓地から西へ台地を上る道は、坂虎口と思われる。東南に突き出た台地先端部分は約70m四方で、中央に「首塚」と呼ばれる方形の「塚」がある。これが、馬加康胤の「首塚」である。「塚」には石段がついて登れるようになっているが、登り口は東に面し、虎口に続く。この部分に一郭があったと思われるが、北側には住宅が建ち並んでいる。

<馬加康胤の「首塚」>

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砦の遺構は「塚」の周りの平坦な部分だけではない。墓地の上段、虎口まで登りきらない地点にも、小さな武者溜りのような削平地がある。これは、やはり腰郭であろう。この腰郭の下にも、幅2~3m程の小さな腰郭がある。また、この墓地から登ってくる虎口の南側に比較的高い土塁痕があり、土塁上から進入する敵に横矢が掛けられるようになっている。また「首塚」の北側、住宅地の間を抜け、台地上から低地に下りる小道沿いにある道祖神社は、まさに腰郭の上に建っていて、その上段台地端に土塁がある。その腰郭は台地から2~3m下がった場所にあり、南北5~15m、東西50mほどの三日月状となっており、その外側を通る小道は、台地下の低地に続いている。

<道祖神社のある腰郭>

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「首塚」という「塚」は高さ、4mほどあって台地上に屹立している。この「塚」は、上部の一辺が8m~9mの方形であり、基底部の一辺も20mほどある。「塚」の上には寛永14年(1637)在銘の安山岩製の五輪塔が、供養塔として建てられているが、その地輪には大日如来を示す一尊種子の梵字とともに「寛永十四年丁丑天二月十一日建立朝雅宥光宥得二親」と刻まれている。刻された銘は、朝雅という法号をもつ者が、為書きはないが、宥光と宥得という二親の為に建てたと読める。あるいは、二親が朝雅、宥光を指しているなら、宥得という人が供養のために建てたとなるだろう。

いずれにせよ、康正元年(1455)から2年にかけての、馬加康胤、胤持父子とその家臣が戦った合戦の犠牲者の供養を目的として建立というのも事実と違うのではないか。この五輪塔がなぜ、「首塚」の上にあるのであろうか。おそらく、ここがかつて大日山と呼ばれ、大日堂があったということから、宝幢寺もしくは明治維新前にあった廃寺から移されたものか。そして、この「首塚」が馬加氏ら供養の塚であれば、後世の村人が相当の労力をかけて、築いたことになるが、少し考えにくい。

<馬加康胤の供養とは関係がなさそうな五輪塔>

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やはり大須加山砦の役割として、海岸線からの敵の侵入を発見し、本城に伝達することが考えられ、この「塚」といわれている大きな方形の土壇も、物見台と思われる。同様の物見台は、例えば上州勢多郡の山上城にも見られる。大須加山砦では、元々あった物見台に、後世供養塔を建てたことから、付会した話として馬加康胤の「首塚」云々という伝承が伝えられたのではないかと考える。
また、北側にある宮ノ台城と約300m離れているだけで、近接しており、さらに、馬加城そして下総に残留した武石氏が拠った長胤寺館などとあわせて、馬加城を中心とした幕張付近の防備を担う城砦群が作られていたといえるであろう。
なお、この馬加康胤の「首塚」といわれる「塚」は、後藤明生著「首塚の上のアドバルーン」という小説のモチーフになっている。

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コメント

大日山ではありません。大日堂があったことから、「どうのやま」堂の山 とよんでいます。地元の人なら誰でも知っています。

投稿: | 2009年9月29日 (火) 10時46分

コメントありがとうございます。

「大日堂の山」から、「堂ノ山」という字名になったようですね。「大須加山」のほうは「大須加」または「大須賀」という地名からでしょう。ちなみに当地には素加天王神社の神官をしていた中須加氏=中台氏の一族がおり、その子孫と思われる中須賀さんという子守神社の神官の方がおられます。

投稿: mori_chan | 2009年10月31日 (土) 17時40分

私が住んでいるところにあったんあんてはじめてしった!

投稿: ミク | 2012年9月25日 (火) 18時12分

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