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臼井興胤に関する伝説と実像

千葉県佐倉市臼井田の地には、下総の雄城の一つである臼井城がある。この城の主であった臼井氏の中興の祖といわれ、臼井城を事実上築城した人物が臼井興胤である。この人にまつわる伝説と実像について述べたい。

<臼井城近くの天満宮~臼井興胤創建といわれる>

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臼井氏は千葉氏の一族で、千葉常胤の祖父である下総権介平(大椎)常兼の三男で、常胤からは叔父にあたる臼井六郎常康が永久2年(1114)に臼井を領したのが始まりという。常康の子常忠は源頼朝に仕え、伊東祐親の娘を妻としたともいわれる。常忠の跡は、その子成常が継ぎ、盛常、山無常清、山無胤常と続く。宝治元年(1247)の宝治の合戦で、三浦泰村についた臼井氏は、臼井(山無)太郎胤常、二郎親常兄弟と思われる臼井太郎、次郎が戦死して敗れ、臼井の所領を失いその勢力は一時衰退する。

山無胤常の子は景胤である。山無景胤以後、山無氏の嫡流から常忠の子、成常の弟である久常の系統の臼井康胤、昌胤が跡を継ぎ、その代を経てようやく、臼井氏は臼井の領地を回復した。その頃の当主であった臼井太郎祐胤は、正和3年(1314)に25才で亡くなったが、その時祐胤には3才の竹若丸という子があり、幼少ということで祐胤の弟、志津次郎胤氏が竹若丸成人まで後見することになった。

しかし、志津胤氏はやがて竹若丸を殺し、臼井城主になる野心を抱いたが、竹若丸の保母阿多津の機転で、忠臣であった岩戸胤安に竹若丸は託される。岩戸胤安は、修験者に身をやつし、背中の笈のなかに竹若丸を隠して臼井城を脱出した。そして、胤安は竹松丸を居城岩戸城に一旦かくまった後、鎌倉へ赴き建長寺の仏国禅師に竹若丸を託した。竹若丸はこうして、鎌倉建長寺に逃げのび、後事を託された仏国禅師に養育されることになる。そのことを知った志津次郎胤氏は阿多津を捕えて殺害、さらに岩戸胤安、胤親父子の籠る岩戸城を攻めた。岩戸氏父子はよく防いだが、多勢に無勢で敵わず、自刃して果てた。

<円応寺にある岩戸胤安の碑>

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その際、城から逃れ葦原に隠れた阿多津が咳をしたために捕まったという伝承があり、後にそれを哀れんだ民衆によって建てられた供養塔は、今も臼井城の北側の印旛沼のほとりにある。現在その供養塔は、昭和4年(1929)建立の「阿多津之祠碑」という大きな石碑(後に倒れて横に二つに割れたため、斜めに寝かせて石積で支えてある)と共に建っている。

<阿多津の墓>

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こうして志津胤氏は、一旦は臼井領を押領した。一方、鎌倉に逃れた竹若丸は、建長寺で仏国禅師とその死後後事を託された仏真禅師に師事して成長、元服し、臼井行胤と名乗った。時代は鎌倉時代から南北朝の戦乱期に移っており、臼井行胤は足利尊氏に従って戦功をたて、その戦功により、暦応元年(1338)に臼井領を安堵された。さらに行胤は、尊氏の推挙で官位も得て、臼井興胤と改名したという。同時に千葉介貞胤(千葉氏12代当主)は、志津胤氏を志津に退けた。それを不満に思った志津胤氏は、なお興胤に本心から臣従しなかった。それどころか、その後も主従の礼に従わずに、興胤を侮った態度を改めなかった。そこで、臼井興胤は、主君の意に従わない志津胤氏を滅ぼすための謀略を考え、暦応3年(1340)8月14日、臼井城の堀の浚渫工事の使役と称し、胤氏に命じて志津城の兵を臼井に呼び寄せた。そうして、志津城を手薄にし、その隙を狙って志津城を奇襲し、攻め落したのである。その際、志津胤氏は城を臼井勢に囲まれ、配下の兵も少なく絶望した。胤氏は妻から「潔く自刃してください、私も後を追います」と言われて自刃し、その妻は胤氏の遺骸の後始末をし、自ら長刀を振るって勇戦したが、最後は屋敷に火をかけ、胤氏の柩とともに自決したと伝えられている。その志津氏の子孫がどうなったか不明であるが、志津では志津城址の近隣にある志津家が子孫とされているようである。志津氏は下志津の報恩寺を創建したと伝えられ、臼井氏の有力な分家であったが、当時なんらかの争いが臼井宗家とあり、それがこのような伝承になっているのかもしれない。

<円応寺本堂>

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上述のような、臼井行胤、後の興胤が足利尊氏の後援で、本領を安堵され、志津胤氏に報復するという話は後世に作られた伝説といってよく、臼井行胤とは足利尊氏の近習として活躍した白井行胤と混同され、かつモチーフとなって作り出された人物である。白井行胤は臼井にも近い白井庄を治めていた白井氏の一族で、文和4年(1355)2月25日の「足利尊氏近習馬廻一揆契状」という古文書に、「白井弾正左衛門尉行胤」の署名と花押が見られる。すなわち、臼井行胤とそれにまつわる逸話は、実在の白井行胤に仮託して作り出されたものであろう。

それが、同時代の臼井氏当主である臼井興胤の事績として、足利尊氏という当時の最高権威である将軍家と結びつき、重み付けされた形で伝承されたと思われる。

<鎌倉鶴岡八幡宮>

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ともかく臼井城主として実権を確保した臼井興胤は「臼井家中興の祖」と称され、その後の臼井氏は昔の勢いを取り戻した。 現在の臼井城も興胤の代に整備され、現在の城の原形が出来たといわれる。ちなみに、現在臼井城の北側の低地にある臨済宗瑞湖山円応寺を、鎌倉から仏真禅師を招いて創建したのも、この臼井興胤であり、その十三代後胤である益胤の娘貞笑尼を含め、臼井氏の子孫の墓がある。

<臼井興胤創建の円応寺>

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コメント

 市川に二十年住んでいました。敗戦を挟んでの時代です。小学生の頃、毎日のように弘法寺の石段を登って奥の友達の家に遊びに行っていました。濡れていた石段、手古奈霊堂のお祭り、里見公園の遺跡など思い出は尽きません。
 万葉集、日本霊異記など地域の史実や伝説など多く伝わる土地に暮らせた年月を宝のように思います。
 あそこから、各地に広がる史実を勉強させていただきました。ありがとうございました。

投稿: 川村 和枝 | 2008年5月 7日 (水) 17時58分

川村さん、コメントありがとうございます。

市川の国府台辺りは、史跡も多く、環境もよい場所だと思います。手児奈霊堂は、よく縁日のようなものがありますし、何となく昔の情趣あるところですね。
小生はお隣の船橋市のものですが、市川とはいろいろ縁があり、こうしてブログにも書かせてもらっています。
良い思い出を大切になさっていただきたく。ありがとうございました。

投稿: mori_chan | 2008年5月15日 (木) 07時11分

臼井興胤さんってまだ生きてたんですね。何歳なんだろ・・・。株式会社セガの代表取締役社長が臼井興胤ですが、同姓同名? 偶然なのか狙ってるのか・・・。

投稿: 通りすがり | 2008年8月19日 (火) 12時45分

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「粟飯原常基 生没年不詳」  平安時代後期の下総国の豪族。初めは、常益、孫平と名乗る。父は、千葉常永の三男で伊北郡領主であった常房。常基はのちに岩部五郎を称し、さらに粟飯原氏を名乗るようになる。粟飯原氏は代々千葉氏の臣下として活動する。常基の子、、有胤は源頼朝に使えている。 『鎌倉・室町人名事典』 (新人物往来社)より・・・・ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  昔から辞書は好きなので開�... [続きを読む]

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