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金杉城の城主はどんな人物か

船橋のなかほどに金杉という地区があり、ここには中世の豪族(在地領主)の館として生まれ、戦国期に改修されたと思われる金杉城址がある。城の構造や南方にある高根城の由来(高城山城守とか高城右京亮が城主という伝承がある)からみて、やはりこの城も戦国期には高城氏系の城となっていたと思われるが、城主や築城時期など来歴が分っていない。元々は村の侍・殿原衆といわれる在地領主の館であったらしいことは、主郭が単郭方形居館に横矢掛けなどの作事を加えただけの姿であることから、推定できる*。*2006.1.22追記

この金杉は、金曾木(かなそぎ)として応長元年(1311)の船橋大神宮文書に出てくる。

その船橋大神宮文書とは、「船橋御厨六ケ郷田数之事」であり、以下の内容のものである。

一 下総国船橋御厨六ケ郷 田数之事
一 六郷本ハニ百町也
一 東船橋百六町六田大
一 西船橋九十三町三田小
  此内わける事
一 廿七町七田はん 湊郷
一 四十二町田田はん 夏見郷
一 廿三町一田小 金曾木郷
一 六郷六十町の時ハ
一 三十一町 東方
一 廿九町 西方 此内わける事
  八町三田三十分 湊郷
一 十三町一反はん十四分 夏見郷
一 七町一反はん四十八分 金曾木
一 十六町 宮本郷
一 十五町 たかね郷[米□崎/七□□]
 應長元年[辛/亥]十二月廿日

注)現存するのは弘化4年(1847)に穂積重年が模写したもの(船橋大神宮文書は幕末の船橋戦争で焼失したものが多い)

上記資料では、船橋御厨六ケ郷といっているのに、湊郷、夏見郷、金曾木郷、宮本郷、たかね郷と五郷しかないし、応長元年(1311)当時、東船橋、西船橋という呼び方をしただろうか。ちょっと疑問である。船橋大神宮の文書は偽文書が多量に混入しており、必ずしも信用できないが、金杉が中世に起源をもつ集落であることは、古老の言い伝えで金杉の創成期は鎌倉期といわれ、実際、時代は下るが文明7年(1475)銘の板碑が金杉の域内から出土していることでわかる。板碑は、鎌倉時代以降、下総地方にも数多く見られる墓標であるが、在地の武士などの有力者が建てたものが多い。

その板碑の銘より9年前の寛正7年(1466)4月18日の日付で、守谷にて金杉二郎五郎が討死という記載が「本土寺過去帳」にある。「本土寺過去帳」は松戸の平賀にある日蓮宗の古刹本土寺に残された過去帳で、中世の人々の動静を知るための貴重な史料になっている。この金杉二郎五郎とは、船橋の金杉の住人、おそらく在地領主で、その地名を冠した名前ではないだろうか。そして、守谷は現在の茨城県の守谷市であるが、下総相馬氏の拠点としていた場所である。すなわち、下総相馬氏と何かの勢力が戦闘し、その戦闘で金杉二郎五郎が討死したということになる。

同じ「本土寺過去帳」の寛正6年(1465)の記事に「山倉高城雅楽助 法名妙助 中野城之落葉ニ路次ニテ死スル処、諸人成仏得道、寛正六乙酉四月 船橋陣ニテ打死」とあり、小弓近くの山倉(市原市山倉)にいた高城雅楽助が中野城(千葉市若葉区中野)の落城で落ち延びたが、船橋の陣で討死したとある。中野城は、酒井定隆の居城だったといわれ、15世紀後半の築城とのことである。酒井氏は、高城氏と同様、原氏の重臣であった。当時、高城氏の主筋にあたる原氏は上総武田氏との抗争を繰り返し、中野城などで上総武田氏と武力衝突し、船橋あたりまで戦闘が行われていたことが分かる。

寛正6年(1465)の船橋の陣と、翌年寛正7年(1466)の守谷での金杉二郎五郎の討死と関連があるかどうか分からない。 しかし、上総から下総にかけて、二年にわたり戦闘が繰り広げられていたことは確かである。どういう戦いであったか、他に記録などがないので、よく分からないが、寛正7年(1466)の守谷における戦いは、守谷城に拠った下総相馬氏が、古河公方の奉行であったことから、古河公方とその反対勢力である上杉氏との間などで、何らかの抗争があったと思われる。それは古河公方と上杉氏の対立を背景とした、康正元年(1455)から2年(1456)の千葉氏宗家(上杉方)と馬加康胤、原胤房(古河公方方)との戦い、馬加系千葉氏の千葉宗家乗っ取りの10年後で、それには、原氏も古河公方の勢力に加担していたかのもしれない。

金杉二郎五郎とは、小金城の近くに中金杉という地名があり、名字としてこの地名を冠する者である可能性もある。小金城は享禄3年(1530)に高城胤吉が家臣阿彦丹後入道浄意に縄張りさせて、天文6年(1537)に完成したというから、寛正7年(1466)では高城氏も栗ヶ沢城に居た時期である。その頃の中金杉には高城氏系の部将が住むような場所ではなかったかもしれない。中金杉城もあるが、戦国期の築城で、高城氏一族か家臣の居城であった。しかし、寛正3年(1462)開創という中金杉の広徳寺の開基は高城氏で、当時その勢力が小金周辺にまで及んでいた可能性も否定できないが、栗ヶ沢周辺の別の場所に広徳寺が開創され、小金に高城氏が移った時に、寺も移したと考える方が自然であろう。

しかし、15世紀には小金、大谷口には「本土寺過去帳」に「妙入 応永廿七庚子七月 大谷口六崎」、つまり1420年になくなった大谷口の六崎氏とあるように、六崎氏が大谷口を領有しており、文明十九年(1487)まで8人の六崎氏(他に年未詳が4人)が記載されている。また、その頃原氏も小金大谷口に影響力を持っていたことが、最近の研究で分かってきている。したがって、前出の金杉二郎五郎が、小金近くの金杉の地名を冠する者である可能性もある*。*2006.1.22追記

しかし、寛正7年(1466)に守谷で討死した金杉二郎五郎は、小金の中金杉の者というよりは、前述のように明らかに15世紀頃には殿原衆の居館が存在した船橋の金杉の住人であった可能性も高いと思われる。いずれにせよ、原氏の勢力圏内であり、金杉二郎五郎は原氏の勢力として参戦したのではないか。

前述のように、金杉城は、元は在地領主の館であったものが、戦国期に本格的な防備をもった城に改修されたものと思われる。その元々の城主については、金杉二郎五郎という本土寺過去帳にある人物が該当する可能性もある。それは草分けのうち、最も城主であった可能性の高いと思われる、城址の南側道路を挟んだ土塁に囲まれた窪地に屋敷を構えていた旧家石井家の先祖だろうか。石井家は日蓮宗であり、本土寺の過去帳に先祖がのっていてもおかしくはないだろう。その先祖は、守谷辺りまで遠征する原氏の勢力下の殿原衆であった、そして戦国期に入り、小金領が高城氏の支配下になると、高城氏配下となっていったのではないだろうか*。但し、石井家の本家である石井外記家は、明治時代末か大正初期に転出、絶家している。従って、何か史料が昔は残っていたかもしれないのだが、今となっては散逸してしまっている可能性が高い。*2006.1.22追記

なお、遺構は主郭部を中心に残っており、今後ともその保護が望まれる。その遺構は私有地、しかも屋敷内にあり、今回城址のある屋敷地への立ち入りや以下の写真のうち屋敷地での写真撮影も、勿論城址の土地所有者に断っておこなった(もし、無断で他人の屋敷地に入ることは、当然ながら家宅侵入罪を構成することになる)。

主郭は方形の郭となっており、その大きさは南北約43m、東西約47mで、北側、西側に土塁が現存する。明治中頃まではきれいに方形に土塁がめぐっていたということであるが、火災にあって屋敷を移動したときに、東側の土塁が失われた。この主郭部分が、本来の中世の方形居館であり、それを戦国期に改修したと思われる。南西には基底部が約15m四方、上部が約10m四方の櫓台のような土壇がある。

そして、かつては北側、およびなくなった東側の土塁の外側にも土塁があり、二重土塁になっていた。北側土塁と外側の土塁の二重土塁の間には空堀があったが、外側土塁を除いて畑にした際に大分埋められたにしても、一段低くなっており、今も痕跡を留めている。

不思議なのは、主郭以外に、さらに北へ100mほどいった畑地にも土塁があり、台地の広範な部分に土塁が見られることである。城址のある台地の南側のバス道を隔てた屋敷地を囲むように高い土塁があるが、これは馬牧の土塁で、勢子土手などである。つまり城址と牧が近接しており、戦国期の城内牧の特徴をよく示している。 
         

<西側低地からみた金杉城のあった台地>

kanasugi-01

           <主郭南西櫓台から西側の土塁>

kanasugi-04

             <主郭南~西側部分(左に土壇)>

kanasugi-02

                                       <北側土塁外側の土塁痕(木の根のある辺り)>

kanasugi-05

                         <金杉城主郭部分(西~北側)>

kanasugi-06

              <南西土壇上から西側土塁を見る>

kanasugi-08

                  <主郭北側土塁>

kanasugi-03

<北側土塁外側の空堀址>

kanasugi-09

<城内馬場の土塁か~現在は宅地造成で消滅>

kanasugi-13

上述のように、金杉城は遺構が比較的よく残りながら、城主が誰かといった来歴に関しては不明な部分が多い。何らかの古文書などで明らかにされればよいのだが、そうした文書なり金石文が出てこないか、わずかな期待をつなぐしかないかもしれない。

(本稿は、正確な城址の場所について記載していませんが、その理由として所有者が興味本位で私有地に入ってこられるのを不快に思い、他の家もふくめた防犯などで警戒していることもあります)

(参考文献)

・「城郭と中世の東国」    千葉城郭研究会     (高志書院)  2005

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コメント

初めまして。たまたま本土寺を調べていましたら、石井家と書いてありましたので拝見させて頂きました。

私の祖母の生家が本家で同じ名字で、300年以上続いていると聞いた事があります。

本家は本土寺の近くでお墓も本土寺にあり日蓮宗です。
本家は今、現在農家を営んでおります。


お墓は本土寺の中にありますが1つではなくバラバラにあちこちお墓があります。


数は何個あるのか数えた事が無いので分かりませんが…

投稿: 永友恵子 | 2013年10月15日 (火) 15時27分

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