« 2006年1月 | トップページ | 2006年5月 »

白井の小森城は商人的武士の城か

◆小森城と「手賀合戦」に絡む伝承

千葉県白井市の手賀沼に面した平塚地区のはずれ、白井工業団地の近くに小森城址がある。当地区はかつては印西庄の一部であり、中世を通じて千葉氏の支配をうけた地域であるが、鎌倉時代の一時期には金沢氏などの支配をうけ、鎌倉の常陸方面へのおさえとされた。近世では平塚から揚がる鮮魚を松戸まで陸送し、さらに現在の江戸川を使って江戸まで水運で運ぶという鮮魚道(松戸道)に近く、手賀沼の水運とあいまって、水陸交通の要衝であった。小森城は、伝承では千葉氏系の武士の城といわれ、江戸時代の軍記物に影響されたものか、手賀合戦の話と絡んで、以下のような伝説がある。

「むかし、平塚の小森に城があった。小森の殿様は千葉氏の家来で、あるとき、沼の向こう岸にある手賀城の攻略をまかされた。しかし、小森の殿様は、あれこれ理由をつけては攻めこまずにいた。
というのも、敵の手賀の殿様は、実はたいそうかしこく美しいお姫様で、小森の殿様はこの姫に恋をしていたからだった。人知れず夜の手賀沼へ船を浮かべ来る女城主の姿を小森の岸辺からいつも見守っていた。主の命令とは言え、攻めるに攻められず、毎日思案していたが、たびかさなる命令も断りきれず、援軍がくるという話しになって、板ばさみとなった小森城主は、手賀沼に身を投げて自殺してしまった。
現地の大将を失った千葉軍は、結局手賀城を攻め落すことができなかったという。」(「板ばさみの小森城主」『白井の伝説と文化財』白井市郷土資料館 2002年発行 より抜粋)

<手賀沼の夕日>

Paso003
ニャンコの部屋素材館より

手賀合戦とは、手賀城をめぐって、手賀で合戦が行われたというもので、江戸時代の軍記物語として書かれた「東国戦記実録」には、手賀原氏とそれを滅ぼそうとした千葉宗家と臼井原氏(原氏本家)が、手賀城周辺で合戦を展開するという記述がある。小森に隣接する同じ平塚郷とされた名内にある名内城についても、「東国戦記実録」の中で名内ノ台に手賀原氏の家臣栗林左衛門ら三百余名が拠ったというくだりがある。勿論、「東国戦記実録」のような軍記物は信憑性に問題があるが、手賀沼南岸に位置する平塚辺りは、対岸の手賀原氏の影響をうけるとともに、戦国後期には小金高城氏の最前線基地とされていたと思われる。

◆古く、特異な構造の小森城

Komori2

小森城は、構造的には方形居館を思わせる方形の主郭をL字形の外郭がとりまくという特異な形であり、城域は120m四方程度と比較的小規模ではあるが、手賀沼を運航する船などの監視所という単目的の城としては大きいため、やはり伝承にあるように地域支配の城という性格もあったようである。

城域は外郭部も含めて約120m四方に渡るが、主郭部分は台地端で一段高くなっており、約70m四方で郭の周囲に土塁がめぐり、さらにその外側に空堀がめぐっている。虎口は、主郭北東部の櫓台と思われる土塁端の東側と主郭西側に1箇所ある現在も使用されている出入口のほかに、南側にも1箇所あったと思われるが、南側は工業団地造成時に破壊されたらしく、土塁に大きな間隙があるのと、その間隙に対応して空堀も埋められ、本来の虎口や土橋の状況が分かりにくくなっている。この虎口は平虎口であり、堀に土橋が架かっているし、防衛上の工夫がみえない古いタイプのものである。

<郭の南側虎口>
Komoriminamikoguchi

東側の主郭と外郭の境界には、低い土塁がめぐり、その向こう側には空堀があった痕跡がみられるが、やはり土砂が入ってかなり埋っている。主郭の北側は急崖でその斜面中段には腰郭があり、その下の低地は現状水田であるが、かつては手賀沼が台地下の間近まで迫っていたのであろう。腰郭は、その手賀沼の湖面からの攻撃を防ぐために作られたと考えられる。

主郭の北東部には土塁の端が4m四方の隅櫓状に広がった平場があり、現在城山稲荷が祀られている。城山稲荷の祀られている土塁端の櫓台を赤い鳥居のある下の平面から見ると3m以上の高さがあって、稲荷に参るときに土塁を上り下りするための階段も付けられている。その櫓台東側には主郭と外郭部の境界の空堀があり、それが北側斜面に下りて犬走りになって、台地中段の腰郭に続いている。外郭部は城山稲荷の祀られている土塁の下が北西端で、北側は主郭の延長線上に現在は城山稲荷の赤い鳥居の立つ参道として空堀が続く。

<櫓台らしき土塁の終端部と、手前の鳥居>
Komorihokutou

外郭部東側は1m強と低いながらも堅固な土塁が南北に走り、その外側は空堀で堀底は通路として使用されている。その空堀は北側斜面を下りて竪堀となり、水田へ下りる通路として使用されている。外郭部東側の空掘には、一箇所折れのある場所があり、この城址には珍しく横矢掛けができるようになっている。すなわち、その近くに外郭部の虎口があり、空堀には木橋を架けていたらしい。主郭の虎口が平虎口と前述したが、この部分のみ唯一戦国期らしい工夫がみられる箇所となっている。

城址東側には北側の水田のある低地から小支谷が南西へまわりこんでおり、それはなだらかな傾斜をもって手賀沼の湖面から城址付近まで上るに適している。この小支谷に船を手賀沼から引き揚げ、船着場とした模様であり、逆に手賀沼沿岸にある半島形の地形のなかで、そういう自然地形となっていたがゆえに、当地に築城したといえるであろう。

◆小森城にそっくりな印旛沼北岸の高田山城

じつは、この小森城をまるでコピーして作ったような城が印旛村にある。それは、印旛沼北岸の岩戸を川沿いに奥へ入った高田山城である。しかし、高田山城は小森城よりは、横矢掛けの工夫が随所にみられるように、戦国後期の城という印象がつよい。小森城は、伝承のように千葉氏系の武士の城としても、その城主は流通業者的な性格をもっており、城自体物流の拠点となっていたのではないだろうか。そのような武士が商人的な性格をおびるという例は、関宿河岸の町人頭となった簗田家家臣の会田内蔵助や、千葉氏直臣で、後に酒々井の商人となった篠田大隈守などの事例がある。

小森城の構造からも、船着場の件以外にも、郭内に少し低くなった副郭があり、そこに貯蔵のための設備があったとも考えられ、流通、商行為に関わる者が築いた可能性があると思われる。もっとも、その辺は発掘でもしないと確証は得られないが。あるいは、戦国時代のあまり後にならない時点で、何らかの事情で小森を引き払った商人的な武士が、印旛村高田山に同じような城を築き、移転していったとも考えられる。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2006年1月 | トップページ | 2006年5月 »