« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

船橋周辺の変わった石造物

船橋周辺を歩いていると、変わった石造物に出くわすことがある。以下、そのうちの数例を紹介する。

たとえば、下の烏のレリーフであるが、高根の熊野神社の狛犬ならぬ、熊野烏である。その熊野神社は慶応年間に建てられた小さな神社で、道の奥の住宅のあいだになるために分かりにくい。高根は小金高城氏の一族という高城山城守が城主であったという高根城があったところ(高城右京亮という族臣の館址という場所もある)で、高城氏所縁の熊野神社を勧請したものであろう。烏は熊野権現の使いというから、それで烏の彫刻があるわけだ。高城氏は、八木原文書「小金城主高城氏之由来」によれば、九州千葉氏の祖である大隈守胤貞の弟新介高胤のニ男胤雅の代に九州千葉氏から分岐し、肥前高城村から高城姓を名乗って、南朝方として戦った歴史を持ち、最後に拠ったのが紀伊熊野新宮であったと伝えられ、実際高城氏には熊野信仰がある。高根にある熊野神社は、熊野権現と大六天を祀っており、珍しい神使の烏の石像が狛犬のように建てられているが、高城氏の熊野信仰によるものであろう。

<高根熊野神社の烏>

Takanekumano

また、高根の北東の古和釜の東光寺には、侠客であった人物の出家姿の石像がある。東光寺の焼失した薬師寺跡に、百葉箱のような木製の箱があり、その中にその石像は安置されている。市指定文化財の像高27cm、袈裟をかけた僧形の坐像で、蓮華座の上に載せられており、像の背面に「自休大徳」という文字が刻まれている。この「自休大徳」とは江戸時代初期の侠客、深見十左衛門が出家して号したもの。

東光寺は瑠璃光山清蓮院といい、天台宗延暦寺派の寺である。なぜか、真言宗の吉橋の愛宕山貞福寺と関係が深く、吉橋とは講の関係がある。石造自休大徳坐像は、深見十左衛門出家後の姿。深見十左衛門は、剃髪後、この石像を石工に刻ませたという。深見十左衛門没後、長年仕えていた子分が、この像を持って全国を行脚し、最後にこの地にたどりついたので、この像が東光寺に安置されていると伝えられている。

侠客とは思えない、小さな可愛らしい石像で、どんな心境で出家したのかなど、気になる仏である。

<「自休大徳」坐像>

Toukoji_2

もうひとつ、船橋の街中、正確には寺町にあるのが、不動院の大仏である。大仏といっても、それほど大きくない、不動院の釈迦如来坐像。像そのものは、珍しくはないが、この大仏に毎年2月28日になると、顔の口の部分に飯を盛るという習俗がある。これは、船橋市の無形民俗文化財となっている「飯盛り大仏」の習俗である。この「飯盛り大仏」の由来は悲しい話である。

江戸時代、船橋浦の漁場をめぐって、船橋の漁師と近隣の浦安、葛西辺りの漁師はたびたび紛争となった。船橋浦は三番瀬など、江戸前の恰好の漁場で、密漁も多く、漁業権を主張する船橋の漁師と周辺地域の漁師がよく争い、海上で争うことも多かった。特に文政7年(1824)には、一橋家御用の幟を押し立てて来た葛西の漁師と、船橋浦を守ろうとした船橋の漁師が衝突し、葛西の船に乗っていた一橋家の侍を船橋の漁師が殴ったことから大事となり、船橋の漁師惣代3名が入牢させられ、そのうち仁右衛門、団次郎の2名が獄死もしくは出牢後に病死した。その80年ほど前の延享3年(1748)津波の被害で落命した漁師たちの供養とあいまって、その牢の中で飯も満足に食べられなかった漁師惣代の苦労を偲んで、文政8年より大仏の顔に正月28日に飯を盛ることが年々続けられ、今日に至っている(明治以降は2月28日に飯盛りをする)。

その大仏は、石造の釈迦如来像であり、不動院の門前にまつられ、いつも近隣の人の手によってか、花が供えられている。

Hudouin0

そのほか、路傍の石仏にも面白いものがある。中世に佐津間城があった鎌ヶ谷市中佐津間の大宮神社の鳥居の近くに、元禄期の古い青面金剛像があるが、これはいかにも武骨で洗練されていない。同じ作者のものと思われる像は、松戸などにもあるようだ。一説には、行者の作という。稚拙ななかに、ユーモラスでもあり、洗練された後世の石仏より、味がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

旧沼南町大井をめぐる伝承

現在は柏市になっているが、旧沼南町に大井という場所がある。ここは旧沼南町でも比較的早くから開けた地区であるが、いろいろな歴史伝承を持っている。

大井といえば、「大井の晩鐘」の福満寺を思い出す人もいるかもしれない。福満寺は山門からして、古色蒼然としている。しかし、山門を過ぎると、なぜ本堂まで下がっていくのであろうか、逆に上って行く寺はよくあるのであるが。それはともかく、相馬御厨がかつてあった場所は、鎌倉時代に相馬氏が支配下においたために、相馬氏が千葉氏、さらには平良文ら阪東平氏の流れを汲み、また平将門が本拠にした岩井も近いとあって、この辺りにも将門伝説がある。

<大井の福満寺山門>

Fukumansanmon1_1

それは、伝承によると、平将門が藤原秀郷に敗れてなくなった後、その妾であった車ノ前が遺児とともに大井の地に隠れ棲み、将門が信仰していた妙見菩薩を祀る堂をたてて、菩提を弔ったというものである。実際、車ノ前の墓と伝えられる五輪塔が、福満寺の裏にある。すなわち、福満寺南側の境外地にある約100m四方の森となっている、「妙見さま」と地元の人から呼ばれる妙見堂の跡地に、その五輪塔はある。車ノ前が生前将門の菩提を弔うために妙見菩薩を祀る堂をたてたものが、現在の妙見堂跡といわれ、地元の人々は例年2月21日には将門の命日と称して妙見講を行っている。

さて、手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の父常重が、その叔父常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝が領有した。当時、源義朝に千葉氏はしたがっており、千葉氏も未納分を返して権利を主張したが、義朝の方に分があったらしい。さらに常陸の源義宗が相馬郡を領有、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も、下総相馬氏は南朝についたため罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国期まで当地に残っていたと思われる。実際、大井の大津川対岸の戸張にいた戸張氏は、相馬氏系である(後に、戸張氏も高城氏、後北条氏の圧迫をうけ、簗田氏配下に走り、戸張からいなくなるが)。

<戸張城の堀址>

Tobarihori1

しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。なお手賀城主は原氏であり、手賀周辺を原氏が治めたといわれるが、戦国期には、小金の高城氏が当地も支配下に置いている。その大井には、かつて大井追花城があった。もともと、この城は大井追花の相馬氏系の在地領主の城館であったとともに、大津川河口付近の水運を監視する、役割を担っていたのであろう。

<この道の両側の藪の中に大井追花城址がある>

Ooi1

なお、この城には面白い伝説があり、大津川対岸の戸張城主、戸張弾正と、当城の城主とは仲が悪く、合戦を度々行っていた。その最後の決戦の時に、両将が自ら戦い、組打ちとなったまま、水田に落ちて、どちらかが相手の鼻を食いちぎったため、その田があった場所を「鼻喰田(はなつけげ)」というのだという。戦国時代には戸張も大井も、高城氏の支配下になっていたため、そうした合戦はありえないが、それ以前の時代には在地領主同士の小競り合いのようなことはあったかもしれない。 大井追花城主は、高城伊勢守とも坂巻若狭守とも伝えられるが、あくまで伝承であり、確たることは分かっていない。高城伊勢守といえば、八千代市吉橋にあった吉橋城主として伝承されている人物と同姓で同じ受領名である。しかし、高城伊勢守という名前が信じるに足る古文書類に出てきた例がなく、戦国時代には高城氏の支配下にあったというのは確かとしても、そういう人物が城主であったという証拠はない。伊勢守という受領名は、何かもっともらしく、昔は名前が分からない場合、伊勢守とかいっておけば本当らしいと、勝手につけてしまったのか。

坂巻若狭守というのも同様で、大井の福満寺観音堂縁起に大旦那とあり、相馬氏の一族である坂巻氏が当地の領主であったと想定できるが、客観的な史料には出てこない。しかし、城址の近くにある妙照寺の慶長11年(1606) 9月13日の『護代帳』(中山法華経寺)には、酒巻勘解由、坂巻八郎右衛門など坂巻姓の者が見られ、やはり相馬氏族坂巻氏が在地領主であった可能性がある。たしかに、坂巻という名字は、大井には多い。

大井追花城は、高城氏が勢力を当地にまで拡大したときは、その代官として派遣されていたであろう座間氏が預かっていたと思われる。実際、現在も子孫が残っていて、その座間さんが、城址のある場所の地主である。ちなみに座間氏の名字は、今の神奈川県の座間から来ているという。 前述したように、大井は手賀沼、大津川の水運の拠点であったようで、古くから商業活動も営まれていた可能性がある。商業、流通は、物と同時に、人の行き来も伴うものである。そのため、大井は旧沼南町では、比較的開放的なところがあるのかもしれない。

<大井追花城址の土塁>

181ohi01

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »