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国府台周辺の遺跡と伝説(その1)

市川市の国府台は、読んで字の如く、かつて下総国の国府があった場所である。その国府台は、戦時中までは野砲兵隊や高射砲部隊が置かれるなどして、軍隊の町であったが、中世以前の様々な遺跡が残っている。長い軍隊の駐留や戦後の開発によって、かつての国府、国衙の遺跡や大小の古墳、中世城郭などの遺跡が、かなりの部分破壊されてしまったことは残念であるが、周辺を含めて、残存する遺跡もあり、またそれらにまつわる伝説もある。今回、その一端を紹介する。

JR市川駅から北へ向って、国府台にむかって歩いていくと、まず市川真間の弘法寺の参道が目に付く。その辺りから、真間川の向う、弘法寺のある台地を望むとき、かつてその低地は殆ど真間の入江で、海であったのに気付かされる。中世まで、国府台の台地の下は西から大きく入江が入り込み、その南側の一部に砂嘴があるという地形であったのだ。その真間は、今は京成市川真間駅の周辺と弘法寺参道沿いに商店が建ち並ぶ、古い商店街である。

<真間の入江の名残り、真間川沿いの低地から弘法寺方面を望む>

Mamasita

つまり、真間川の下流域が、かつての真間の入江であり、弘法寺参道は、その入江があった場所をこえて真間の台地下を一直線に、弘法寺の石段の下まで続いているというわけである。その途中に後述する、真間の継橋や手児奈霊堂などがある。

<弘法寺参道>

Guhoujisandou

手児奈伝説

市川国府台の台地下の真間といえば、真間の手児奈の伝説が、有名である。真間の手児奈とは、古代真間にいた娘であり、村長あるいは国造の娘とも、巫女ともいわれる。そして、伝説では手児奈は美人であり、複数の男性から求婚されたことがもとで懊悩し、真間の入江に入水自殺をとげたとされる。

真間の手児奈の伝説は、いろいろと万葉集の題材になっている。

にほ鳥の 葛飾早稲をにへすとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも (東歌) <巻一四の三三八六>

このにほ鳥とは、水辺にいるカイツブリの古名であるが、ここでは葛飾の枕詞である。葛飾は勝鹿とも書いたが、葛飾の早稲を神にささげる新嘗の夜は、恋人が訪ねてきても家の中にいれる訳にはいかない。なぜなら、自分は今、神に仕える身なのだから。しかし、そうはいっても、あの愛しい人を、夜通し家の外に立たせたままにしておけるだろうか。

というような意味であり、情熱的な歌である。

また、同じ万葉集で、やはり真間の手児名について山部赤人の詠んだ歌があるが、

吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処   <巻三の四三二>

葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ <巻三の四三三>

というものである。

上記の最初の一首を現代語にすれば(するほどのこともないが)、以下のようになるだろう。

私も見た 人にも告げよう 葛飾の真間の手児名が眠る墓の様子を

また、高橋虫麻呂も、万葉集に

勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平(な)らし 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ  <巻九の一八〇八>

という歌を詠んでいる。

手児奈は、国造の娘や巫女であったという説以外に、一庶民であったとか、遊女であったという説もある。
山部赤人の歌は、「玉藻刈りけむ」、つまり入江できれいな藻を刈っていた、健康的な庶民女性を前提に詠まれたようである。それは複数の男性から求愛されて、入水自殺した女性という、はかないイメージと違い、山部赤人の歌は、前出の歌の前に
「いにしへに 有りけむ人の 倭文幡(しづはた)の 帯解き替えて 伏屋たて 妻問いしけむ」とあり、どうも手児奈は誰かに求婚されて、結婚したように詠まれている。また、高橋虫麻呂の歌でも、「勝鹿の 真間の手児奈が 麻衣に 青衿づけ ひたさおを 裳には織り着て 髪だにも かきは梳らず 靴をだに 履かず行けども 錦綾の 中に包める いはひ児も 妹にしかめや」とあり、身なりは粗末で髪の毛を梳ってもいないし、靴もはいていないが、どんな令嬢にも負けない美しさであったと、手児奈が庶民女性であると明言している。それが、いかなる経緯でなくなったのか。

山部赤人や高橋虫麻呂のころに、すでに手児奈は、伝説の人になっていた。
そして、万葉集でも、いろいろなイメージを詠む人によって持っていたから、ニュアンスの違う歌が生まれたのであろう。最近の研究では、手児奈は名前ではなく、一般名詞で、特別な若い女性を指す、すなわち抱かれる女性(東国方言で「てご」は女子を指し、奈という幼児を示す接尾語がついた「お姉ちゃん」に近い意味)のことをいっているのだという。またその当時の遊女(あそびめ)は、近世の遊女とは異なるが、遊行僧が旅から旅へ渡り歩いたように、「男から男へと『遊行』する女婦」を意味するのだという。もし、本当にそうなら、従来われわれが抱いていた、真間の手児奈のイメージとは、かなりのギャップがあるのだが、如何に。

<真間の継橋>

Tsugihashi

真間の継橋は、砂洲が南にあり、入江が入り込んでいた当地をいくつかの橋を継ぐことで、国府まで通ることができるようにしていた、その橋のことであるが、当然ながら、当時の橋は入江の杭に板などを渡して作った粗末な橋であったろう。現在、赤い欄干の短いコンクリート製の橋があるが、高知のはりまや橋を思い出す。しかし、けなしてばかりではいかがなものか。ちゃんとこの橋にも、万葉集の歌がある。

足(あ)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 止まず通はむ (東歌) <巻七の一三三九>

真間の継橋を足音がしないように、馬で手児奈のもとに通えるなら、通いつめるのに、というような意味である。板橋を馬で行って音がしないのは無理であるが、それくらい手児奈のもとに通いたいという男たちがいたということか。

<手児奈霊堂~手児奈の墓があった場所に建てられたという>

Tekonado

手児奈霊堂は、真間の台地のすぐ下にある。近くには、真間の井で有名な亀井院がある。この手児奈霊堂は、文亀元年(1510)、日蓮宗の寺となっていた真間山弘法寺の日与上人が手児奈の奥津城跡に手児奈を祀ったと伝えられている。もともと、弘法寺と手児奈は、奈良時代の天平9年(737)に行基が当地を訪れ、求法寺という寺堂を建てて、手児奈を供養したのに始まるとされるが、弘法寺の七代日与上人が読経しているときに、少女の霊が現れ、この寺を守護するというお告げをしたため、日与上人はこれを手児奈の霊とし、現在の場所に霊堂を建てたと伝えられている。

<亀井院>

Kameiin

なお、現在の手児奈霊堂は、安産、子育て、縁結びの信仰を集め、近所の人が遊びに来たり、古代の赤米を利用した食物などのフリーマーケットが開かれるような場所になっている。

手児奈霊堂の道を挟んで向い側には、亀井院がある。これは寛永15年(1638)頃、弘法寺の第十一世住職日立上人によって、貫主の隠居寺として建てられた。はじめ瓶井坊と称し、のちに弘法寺の大檀那鈴木長常を葬って鈴木院と改称、長常の子鈴木長頼が宝永2年(1705)になくなって没落すると、近傍にあった霊亀出現の井戸、亀井(真間の井のこと)にちなんで亀井院と再度改称した。その亀井、真間の井は、亀井院の中庭に伝わっている。

手児奈霊堂や亀井院の北側、台地上にあるのが、真間山弘法寺である。読んで字のごとく、元は真言宗の寺であったが、天台宗となり、さらに鎌倉時代に日蓮宗である法華寺(現中山法華経寺)の開基富木常忍らと法論となり、日蓮宗の僧が勝ったために、日蓮宗に改宗した。その経緯を真間山弘法寺のHPでは、以下のように書いている。

「鎌倉時代に入り、建治元年(1275)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。
 その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。」

この真間山弘法寺、いろいろ謎を秘めた寺である。それについては、また次回。

<真間山弘法寺の石段>

Mamasan

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