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国府台周辺の遺跡と伝説(その3:国府台合戦の謎)

1.室町幕府と対立した鎌倉公方

話は、鎌倉公方足利基氏の時代に遡る。建武新政で鎌倉に置かれた鎌倉府は、足利尊氏が弟直義を滅ぼし、足利幕府の権力を確立しようとしていたことから、足利幕府の東国支配の機関として位置づけられた。鎌倉府の代表が鎌倉公方であり、千葉氏はその鎌倉公方基氏を支える立場にあった。一面、鎌倉府は東国武士の自立の拠り所であり、鎌倉公方も中央政界とは独自の立場を志向するようになる。室町時代、伊達氏、新田氏の乱など、東国に争乱が相次ぐ。

その当時の鎌倉公方は足利満兼から幸王丸のちの持氏となり、その足利持氏に対して、応永23年(1416)10月、鎌倉公方を支えるはずの関東管領上杉禅秀が反乱を起こす。足利持氏は御所を脱出して反撃し、翌応永24年(1417)1月上杉禅秀は自決した。千葉氏は上杉禅秀の親戚であったために、当初上杉禅秀の側につくが、すぐに降参した。一方、鎌倉公方足利持氏は、中央の幕府と対立し、室町幕府に連なる東国の佐竹、宇都宮、小栗などの領主層を討伐するなど、反幕府的な行動をとっていた。持氏の反幕府的な行動をおさえていた関東管領上杉憲実は、持氏から疎んぜられ、やがて両者は対立するようになった。永享10年(1438)8月上野に下国した上杉憲実に、室町幕府は今川氏、篠川公方、白河結城氏らに命じて合力させ、持氏は自ら出陣した。千葉胤直は、持氏に随って出陣し、持氏を諫めたが容れられず、退陣。翌永享11年(1439)2月、足利持氏とその嫡子義久は自害。しかし、その翌年、持氏遺児の安王丸、春王丸を擁した持氏残党は結城氏朝とともに結城城に籠り、結城合戦が戦われる。嘉吉元年(1441)4月結城城は落城、結城氏朝も敗死し、捕まった安王丸、春王丸は美濃で斬られた。他の兄弟とは別にいて生き残った足利万寿王丸は、文安6年(1449)6月鎌倉公方となる。後の古河公方、足利成氏である。享徳3年(1454)12月、足利成氏の近習結城・武田・里見らは、関東管領上杉憲忠を謀殺、翌年にかけて成氏方と上杉氏が各地で戦う享徳の大乱となる。享徳4年(1455)6月、幕命を受けた今川氏に鎌倉を追われた足利成氏は、古河に本拠を構え、古河公方となった。

<鎌倉公方と関係の深い鎌倉の報国寺>

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2.下総、上総の争乱と小弓公方

享徳の大乱は千葉氏内部にも、大きな影響を与えた。康正元年(1455) 8月、千葉宗家の胤直、胤信親子に対して、馬加康胤は原胤房とともにに反旗を翻した。原胤房に千葉城を攻められ、胤直、胤信親子は千葉城を追われて、千田庄に拠るが追い詰められて自害。東常縁らに馬加康胤は討たれるものの、康胤の庶子といわれる岩橋輔胤が勢力を盛り返し、千葉宗家を継いだ。以降馬加系千葉氏が歴代の千葉氏宗主となり、原氏は千葉氏の宿老としてその勢力は強大となった。

そして、一方上総でも、常陸から来た武田氏(甲斐の武田と同族)が近隣の小土豪を屈服させていた。その上総武田氏の初代は、古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した武田信長である。康正元年(1455)、武田信長は里見義実らとともに、山内上杉房顕の拠る武蔵国騎西城を攻め、翌康正2年(1456)年、成氏が千葉実胤、自胤を市川城に攻めた際にも、続いて子の信高らとともに上総地方へ侵攻した。上総に入った信長は庁南・真理谷の二城を築いて根拠とし、庁南城は上総東部を制し、真理谷城は上総西部を鎮する役割を担った。さらに久留里や椎津・造南・峰上・笹子などに城を築いて一族を配置し、支配体制を確立していった。そして、真理谷城には嫡男の信高を入れ、自らは庁南城に拠った。

戦国前期になると、真里谷に拠った真里谷武田氏(真里谷氏)が、上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となり、北上して下総国境の生実をうかがうことになる。小弓城を守る原氏は、その上総真里谷城主であった武田信保と度々所領争いを行っている。本土寺過去帳によると、文明3年(1471)に「小弓館」を攻められて討死した原越前入道道喜という人物がいるが、この時に小弓城は落ちたものと思われる。しかし、永正6年(1509)には原胤隆が連歌師の宗長を招いて連歌を行っているから、その間のどこかで奪還したものと思われる。原胤清の子胤貞の代には、臼井城に入り、臼井の実質的な領主を兼ね、「小弓、臼井両城主」と呼ばれた。

武田信保は、恕鑑の号で知られ、智勇に優れた人物で、上総における真里谷家の勢力を拡大するため、兄の古河公方であった足利高基と対立して僧体となり、空然と名乗って奥州を放浪していた足利義明を永正年間の初め頃に連れてきて、小弓公方として擁立するなど策略をめぐらした人物であった。
その頃、小弓城では、永正6年(1509) 11月に小弓城主原胤隆に連歌師宗祇の高弟である柴屋軒宗長が招かれて浜野の本行寺を旅宿として滞在し、原胤隆と連歌に興じている。
永正14年(1517)下総進出を願う真里谷武田信保ら上総武田氏は、古河公方足利高基の弟、足利義明を主将として、安房里見氏とも結んで小弓城を攻め、ついにこれを攻め落とした。この戦いで、「原ニ郎(胤隆、あるいは一族の友幸か)」や「高城越前守父子」は「滅亡」(実際は原胤隆は八幡庄の真間山弘法寺の寺領を安堵していることから、少なくとも天文2年(1533)まで生存していたのが分かっており、八幡庄辺りに逃れたものと思われる。城代として城を守っていたとされる原友幸〔小西原氏、原肥前守胤継の子〕も根木内城に逃れた。討死した高城越前守は胤広とされる)、「高城下野守」(高城胤正)は逐電した。また甲斐に原友胤父子は逃れ、友胤の子は有名な原虎胤に成長する。翌永正15年(1518)足利義明は入城して小弓公方、小弓御所と称して、やがて古河公方と同様、関東に覇をとなえるべく、後北条氏と激突することになる。足利義明を還俗させ、小弓城にいれたのは武田信保であったが、足利義明は小弓公方となって独自に動くようになり、武田信保が足利義明の勘気を受けたまま病死すると、その子信隆は後北条氏綱のもとに身を寄せた。さらに事態は、里見氏の内紛で複雑になる。

<小弓城址>

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永正15年(1518)、里見氏の当主里見義通がなくなると、その子義豊は既に元服していて家督を継承し、稲村城に入った。しかし、北条氏綱の策動により、義豊追い落しを図った叔父実堯、正木通綱らの動きを察知し、実堯を誅殺したところ、実堯の子義堯が仇討と称し、後北条氏を後ろ楯として反逆して、義豊を殺害した。そして義堯が里見氏の当主となったが、真里谷武田信保が足利義明の勘気を蒙ると、後北条氏と袂を分かち、武田信隆の追放に加担した。こうして、里見氏は後北条氏と再び対立することになる。
武田氏の内訌については、武田信隆の異母弟信応が信隆と反目し、足利義明と結んだ。武田信隆は子の信政とともに、椎津城に籠り、後北条氏の援軍を待ったが、小弓公方軍に攻められ、脱出する。その天文6年(1537)の内訌の際、武田信隆は後北条氏の後援で峰上城に立て籠り、一時後北条氏に走っていた里見義堯の囲みを受けている。
こうした小弓公方の一連の動きは、里見氏、武田氏の内訌とあいまって、後北条氏対小弓公方・里見氏の対立を鮮明とさせ、ついに 天文7年(1538) 国府台合戦(第一次)が戦われる。

3.松戸の相模台でも戦われた第一次国府台合戦

天文7年(1538)10月、武蔵・相模の後北条氏と雌雄を決するため、小弓公方義明、武田、里見軍は国府台に出陣したが、配下の西上総の諸士、椎津、村上、らは、相模台に在陣して後北条軍の太日川渡河を見張った。小弓公方方は約三千、後北条軍は約七千の軍勢であったという。江戸城から出陣した北条氏綱の約三千の後北条軍は、10月7日に松戸へ渡河、椎津、村上らの小弓軍を破って南下、これを知った足利義明は千の手勢を率いて北上して交戦、義明本人とその子義純、弟基頼ら約140名が討たれた。こうして、小弓軍は惨敗、国府台に陣を張った里見義尭率いる里見軍は、早々に戦を見限って安房に帰陣したという。つまり、第一次国府台合戦は小弓公方軍対後北条軍という色彩が強く、安房の里見はアリバイ的に参加したという可能性が高い。小弓公方足利義明は嫡子義純、弟基頼のほか、安房の里見義尭、土気の酒井定治、真里谷武田信応、庁南武田宗治に出陣を要請し、国府台に陣取って防御工事を行っていた。そして義明は力を過信して、後北条軍の渡河を許したうえ、自ら手勢を率いて戦い、討死している。後北条軍には、千葉宗家は直接加わっていないが、高城氏が後北条軍に味方して参戦しており、その戦功で現在の神奈川県海老名市などの領地を与えられている。

さて、小弓公方なき後、小弓城はどうなったかが問題であるが、天文8年(1539)に後北条氏が奪還、城の東側に有吉城を築いて里見軍に備えた。その後、永禄4年(1561)に里見の重臣正木時茂、時忠の兄弟が下総に侵攻、浜野の本行寺には正木時忠の制札が交付された。また、永禄5年(1562)には後北条氏の攻勢で古河に居られなくなった足利藤氏らは古河城を退去、里見氏のもとに身を寄せる。一方、後北条氏が擁立する足利義氏は、小金から佐貫城へ移座した。

第一次国府台合戦の舞台となった相模台には、戦死者の塚と伝える「経世塚」があり、現在は聖徳学園構内にある。これは2基の円墳で、古代の古墳であり、その上に中世の板碑がのっている。なお、学園関係者によれば、この「経世塚」は、前は別の場所にあったが、事情により現在地にうつされたとのことで、時々近所のお年寄りが写真を撮りにくることがあるという。「経世塚」は、もともとは古墳であり、第一次国府台合戦とは関係ないのであるが、何時の頃か結び付けられて今日にいたっている。

<相模台の経世塚>

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3.第二次国府台合戦とその舞台

永禄7年(1563)の第二次国府台合戦は、北条氏康の率いる後北条軍約二万と里見義弘および里見を支援する太田康資・資正の約一万二千の軍勢の戦いとなった。その際里見軍が、後北条方の籠る葛西城を攻撃したのが戦いの端緒となったが、これも結局後北条方が勝利し、里見氏は里見弘次や正木大膳らの部将が討死して敗走、太田氏も本拠地の岩槻などに落ちていった。この両度の国府台合戦は、国府台城および周辺で戦われ、第一次合戦時は松戸台での激戦が前哨戦になっている。後北条氏は第一次合戦時に、扇谷上杉氏を河越城に破った勢いで、太日川の対岸にある国府台からは4km位西に位置する葛西城を攻略し、上杉家臣大石氏を破って、岩槻の太田氏も攻めた。その際、小弓公方・里見氏側は国府台に陣取っている。第二次合戦の際には、上述のように後北条氏は葛西城を根城として、里見方の守る国府台に対している。

葛西城は、国府台城の太日川(現江戸川)を挟んだ対岸の地である、現在の東京都葛飾区青戸7丁目の環状7号線が通る葛西川(現中川)西岸の平坦な場所にあって、国府台合戦時に後北条軍の基地となった。葛西城は葛西川(現中川)を天然の水堀とし、近くに船着場を備えた平城であった。国府台からは西北西約4Kmの地点にあり、かつては国府台の台地上から見通せたであろう。現在、葛西城址は、環状7号線がその中央部分を南北に通り、道路の西が御殿山公園、東が葛西城址公園という公園になっていて、地表面を見る限り特に遺構は残っていない。城址の東側約200mの地点には青戸神社があるが、扁額に「青砥神社」とあるように、江戸時代から当地は有名な青砥藤綱と結び付けて考えられており、御殿山公園にも「青砥藤綱城跡」の碑が建てられている。

過去の発掘調査では、上杉氏当時の幅7、8m程の堀が確認され、一町四方規模の方形城館であったことが分かっている。その後、天文7年(1538)、第一次国府台合戦の際、北条氏綱が奪取した後、遠山直景を城代にして、城域を拡張し、町場の整備などが行われた。後北条氏の時代には、葛西城は大幅に手を加えられ、主郭を区画する堀は幅18mと大規模なものとなり、土塁も築かれた痕跡があるが、その外側にも郭が展開して東西約300m、南北約400mの城域をもっていた。後北条氏が城を改修した後、永禄3年(1560)には上杉謙信の関東出兵により、小田原城が攻められた際に、葛西城も反後北条氏勢力の手に落ち岩槻太田氏が支配するところとなる。その後、永禄5年(1562)に後北条氏が本田氏を使って葛西城乗っ取りを計り、太田康資の指揮で後北条氏が奪還した。そして、永禄7年(1564)の第二次国府台合戦の折には、北条氏康がここに本陣をしいたわけだ。

合戦は永禄7年(1564)1月8日、後北条方の遠山直景、富永直勝ら第一陣が矢切のからめきの瀬を渡ったところで、里見軍の正木大膳の軍勢がこれを襲って始まり、里見軍が緒戦の勝利をおさめたといわれる。ところが、その日の夜、後北条軍は里見軍が休息しているところに夜襲をかけ、里見軍は完膚なきまでに叩きのめされたという。しかし、この遠山直景、富永直勝らを里見軍が襲って勝利をおさめたのは、永禄7年ではなく永禄6年であったという説もある。いずれにせよ、里見軍は破れ、太田資正らも落ちていった。

その際の里見軍の敗走経路を述べると、市川から海神へ入り、夏見台を経て、船橋城のあった城の腰を通って、峰台にいたり、そこで殿軍が戦闘を行ったと言われている。すなわち、峰台の慈雲寺では里見軍の殿軍が追撃する後北条軍を迎撃し、敗走するという合戦が戦われたという。慈雲寺は里見氏所縁の寺で、この寺の鐘を国府台城で使用し、鐘をつるした松から鐘が川に落ちて、そこが鐘ヶ渕といわれるという伝承がある。

一方、戦いに勝った後北条氏とそれに連なる原氏、高城氏らは勢いづいた。この合戦での高城胤辰の活躍は知られているが、高城氏を派遣して自らは動かなかったとされる千葉宗家の千葉胤富も出陣したと「千葉大系図」には見える。

なお、この第二次国府台合戦後、後北条軍は上総の奥まで侵攻し、その際に小弓城を奪還し、原氏を小弓に戻したらしい。その時原氏は小弓城を城割(破却)して北生実の生実城に移ったとされている。しかし、実際には、発掘調査で後代の遺物も発見されているため、南生実の小弓城は継続して使用されたと思われる。

<国府台城~現里見公園>

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<里見軍敗走路~船橋>

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4..国府台城と合戦にまつわる謎と伝説

国府台城のある台地は、江戸川に沿った標高20~25m位の舌状台地である。その台地上、現在の里見公園および関宿から江戸初期に移された総寧寺の敷地内に、江戸川に沿った細長い郭を囲むような、大きな二重土塁、その二重土塁の間の空堀や、物見の松と呼ばれる櫓台などがある。その北の住宅地にも、江戸川に面した台地端に土塁が見られ、数郭配されている。また、里見公園北側にある土塁は、明戸古墳という前方後円墳を利用したもので、太田道灌が発見したという石室が剥き出しになっている。大規模な土塁や堀はあるが、断片的な遺構しか残っておらず、江戸期の廃城、総寧寺の関宿からの移転、明治からの陸軍砲兵隊の駐留と戦時中の高射砲陣地敷設等による改変があり、当時の真の姿が分からなくなっている。当時の様子は、江戸名所図会に川に面する西側を除いた、東、南、北の三方にコの字形に土塁があって郭を取り巻く状態が、わずかに示されているのみである。この国府台城と市川合戦の市川城を同一視する向きがあるが、本当だろうか。

市川城が千葉氏によって築城され、市川合戦前の康正元年(1455)には存在し、国府台城が境根原の合戦に際して、文明10年(1478)に太田道灌の作った仮の陣城を元に、その後の戦国期の2回の国府台合戦で補強され、城砦として完成されたのは事実であろう。市川合戦後の康正2年(1456)から文明10年(1478)の22年間のどこかで市川城が廃城とならなかったとすれば、文明10年以降、市川城と国府台城はある期間併存したことになる。また国府台城は、西に太日川(現在の江戸川)を望む高台にあり、里見公園、総寧寺辺りに土塁や櫓台、堀などのあとが見られる。市川城は、恐らくその性格から国府の近くにあったと考えられ、真間山弘法寺のある真間を見下ろす台地端から現在の千葉商科大、あるいは国府台病院にかけてのどこかにあったと推定される。現実に真間山弘法寺の境内には土塁が存在し、真間山弘法寺のある台地端、現在国府神社のある辺りが、市川城があった場所という説がある。一方、国府台の台地でも、国府台城は太日川沿いに偏った地域に南北に長く郭が配置されていたと思われるが、これは国府台合戦で後北条氏の軍勢が拠った江戸川の対岸にある葛西城に対する、「向い城」の意味あいがあったと考えられる。
以上から、市川城と国府台城は近い場所にあったが、築城の目的も存立時期も異なる別の城と思わざるを得ない。では国府台城が太田道灌によって初めて築かれた後、戦国期二度の合戦での攻防を経験していた頃、市川城はどうなっていたのであろうか。千葉実胤、自胤が足利成氏の攻撃を受けて武蔵へ逃れてから、主を失った市川城は廃城となったかもしれない。しかし、付近の曽谷城や国分館は鎌倉期初頭前後に築城された後、曽谷氏が康正2年(1456)の市川合戦で武蔵に逃れ、国分氏も下総における拠点を大戸辺りに移してからも、曽谷城址など戦国期の土塁や堀が存在し、戦国期にも城郭として存続していた。したがって、市川城も戦国期に再構築され国府台合戦などで利用されたことも考えられる。

ともあれ、市川城はかつての千葉宗家と馬加系千葉氏との最後の決戦の場となり、国府台城は二度の国府台合戦の舞台となった。それぞれ、下総地方をめぐる勢力の戦いの場となったわけである。
国府台合戦が行われた里見公園内には、里見方の将士の供養碑や里見弘次の姫の伝説の「夜泣き石」があり、敗れた里見氏への世人の同情や憐憫を偲ばせる。

<里見将士の供養碑>

Satomi

<夜泣き石>

Yonakiishi

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