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国府台周辺の遺跡と伝説(その2:真間山弘法寺と市川城)

前回、国府台周辺の伝説として、真間の手児奈について紹介した。

その手児奈を祀る手児奈霊堂の北側の台地上にある真間山弘法寺は、鎌倉時代の建治元年(1275)に真言宗から日蓮宗に改宗した古刹であるが、実はこの弘法寺自体(あるいはその寺域)が康正2年(1456)正月の市川(市河)合戦の際、千葉実胤、自胤が拠った市川城であったという説(千野原靖方氏の説)がある。

◆市川城とは

言うまでもなく、市川の国府台は、下総の国府が置かれた場所である。また、その国府台は治承四年(1180)源頼朝挙兵時の千葉介常胤参会の舞台であった。千葉氏の本拠としての城は、千葉常胤の父常重の代から千葉城であったが、平安時代末から鎌倉時代の初め頃は国府、国衙のあった国府台が下総における政治の拠点であったと思われる。市川城は、下総権介としての千葉氏の居城であるとともに、何か有事の際に千葉氏が兵を率いて立て籠もれるような城であったのであろう。市川城は、下総国府の近くに、当時の様式通り単郭方形の館として築かれたかもしれない。あるいは真間山弘法寺の境内の西側、台地端にある弘法寺古墳など台地上にあった古墳を土塁代りに使うようなこともあったかもしれない。真間山弘法寺の境内には、鐘楼がある本堂南東側の一角に本当に土塁らしき土盛がある。

千野原靖方氏の『千葉氏 室町・戦国編』によれば、「市川城については、『武家事記所収文書』(康正二年)四月四日付足利成氏書状写に『餘黨等尚以同国市川ニ構城槨候間、今年正月十九日不残令討罰、然間両総州討平候了』とみえる。この市川城は、『真間山市河』=弘法寺敷地内、すなわちその寺院の施設を利用して構築された城であったと推定され、(小略) 市河合戦は日蓮宗の門徒と密接に関わっており、当地域における日蓮宗の拠点を念頭に置かなければならない。千田庄・八幡庄の日蓮宗寺院の中には本妙寺=中山館、法華寺=若宮館の例の如く、城館としての性格の色濃い、その構えを持った寺院も多かったのである」とある。確かに周辺には現在の中山法華経寺の前身、法華寺に若宮館(富木常忍の館)、本妙寺に中山館(大田乗明の館)と日蓮宗寺院と鎌倉武士の館の組み合わせが特徴的で、曽谷についても日蓮宗信者の曽谷教信と曽谷館(戦国期の曽谷城ではなく、曽谷教信存命中に使用した館)は同様の組み合わせであろう。

しかし、真間山弘法寺境内の古墳や鐘楼がある場所は、台地端の東西300mほどの直線の延長上にあって、この両方を含む単郭方形居館であったなら、かなり大きなものとなり、現実には城の土塁として用いられたかどうか、土塁として用いられたにしてもどちらか一方か、複郭構造であったものか。

<真間山弘法寺>

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市川城があった場所は、真間山弘法寺の境内を含めて、現在の国府台のどこかにあったと思われる。国府台は現在、公園や病院、住宅地などになっていて、その痕跡を殆ど留めていない。ここは戦前・戦中は砲兵連隊が配置され、兵舎や錬兵場の設置、首都防衛のための高射砲陣地設置など軍事目的のために台地の至る所が掘り返された。戦前・戦中の軍事利用さらに戦後の市街地化とともに、市川城址は破壊されている模様で、千野原靖方氏の説は別として、現状では市川城の正確な場所も分からない状態である。

<弘法寺周辺の航空地図>

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◆千葉宗家の最後の拠点

康正元年(1455)、当時関東における覇者であった古河公方足利成氏への立場によって、千葉氏は分裂する。すなわち、足利成氏に組みする有力な千葉氏庶子、馬加康胤と同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らによって、足利成氏と対立していた千葉氏宗家の胤直は、千葉城を急襲され、子の胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、千田庄の志摩城や多古城に拠った。千田庄は九州千葉氏の本拠地で、ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待った。しかし、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさ(武射か)の阿弥陀堂」で自刃し、志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃され、胤直、胤賢兄弟はそこを脱出し土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で胤賢も脱出先の匝瑳郡小堤辺りで何れも自刃し、常胤以来の千葉宗家は一旦滅んだ。その千葉宗家のあとを継いだのは馬加康胤であったが、その康胤、胤持父子も将軍足利義政の御教書を戴いた東常縁らによって滅ぼされ、その後の千葉宗家は康胤の子岩橋輔胤が継いだ。輔胤は原胤房と下総国内で分散し、東常縁軍に抵抗を続けた。一方、胤賢の子実胤、自胤は、土橋の如来堂を逃れ、一時東常縁や両上杉氏に後援されて市川城に拠っていた。足利成氏は康正2年(1456)正月、胤賢の子実胤、自胤の拠る市川城を攻撃し、実胤は武蔵の石浜城(現在の浅草近辺)へ、自胤も武蔵赤塚城へ落ちていった。これが、武蔵千葉氏の始まりであった。

<市川城があったといわれる真間山弘法寺境内の土壇と鐘楼>

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◆市川城と国府台合戦の国府台城は、同一の城か

この市川城と国府台合戦の国府台城は、同一の城という説がある。本当にそうであろうか。その件は真間山弘法寺の施設をつかって市川城がなりたっていたとすれば、別であることは自明である。では、国府台城とはどのような性格の城であるのか。それについては、次回。

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