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国府台周辺の遺跡と伝説(その5:総寧寺門前に続いていた道と「法皇坂」)

市川の国府台は、JR市川駅のほうから北へ進み、根本を抜け、真間山下のバス停あたりから松戸街道をのぼっていくと車の往来が激しく、また景色もいささか殺風景である。

この松戸街道は、明治になるまでは今のように真間山下から国府台病院附近まで、直線的になっていなかった。明治初年の頃の松戸街道は、『成田参詣記』の「真間国府台略図」に描かれているように、市川四丁目の坂を北へあがって、弘法寺の裏門へ向かう切り通し道を途中カギ型に北へ折れ、現在の和洋女子大の正門辺りで街道筋と繋がっていたという説がある。

<真間山弘法寺>

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しかし、これでは、クランクがきつすぎるため、また道幅も狭く、坂道の登り具合も急であるため、軍用には不向きであった。軍隊に限らず、重い装備をつけた人間は、できれば曲がりくねった道など通行したくはないだろう。また軍馬とても、クランクを行くよりかはまっすぐな道がよい。

それで、今の松戸街道の坂道は、明治になって、国府台が軍隊の町として整備されようとしていたころ、道がまっすぐでないと不便なため、千葉の刑務所に入っていた囚人たちに過酷な労働をさせて切り開いた道である。

<現在の松戸街道の坂道>

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しかし、急ぎの用もなく、徒歩で散歩などをする分には、バス通りである松戸街道をまっすぐ行くよりも、桜の花の咲いている頃などは、江戸川沿いに歩くか、同じ坂でも「法皇坂」とか「将軍坂」という松戸街道から江戸川よりに分岐する坂をのぼっていくほうが、雰囲気も何となくよい。その「法皇坂」は、「鳳凰坂」の文字を当てる場合もある。

今は学校で行き止まりになるが、昔は道がまっすぐのびて、総寧寺まで続いていたのである。それは江戸時代に描かれた、『成田参詣記』の略図や『江戸名所図会』などの絵図からも明白である。

しかし、なぜ、「法皇坂」というのだろうか。今の東京医科歯科大学の敷地内にある法皇塚古墳が、その名前の由来であろうか。あるいは国府台は、鴻之台とも書くし、日本武尊が軍勢を率いて武蔵国に渡ろうとしていたとき、コウノトリが飛来して浅瀬を教えてくれたため難なく武蔵国へ渡ることができたため、日本武尊は褒美にこの台地をコウノトリに与えたのが、その由来で、国府神社はコウノトリの嘴を御神体としていることから、コウノトリ→鳳凰→法皇となったのであろうか。

<「法皇坂」、上りきったところにある貯水槽は戦前からのもの>

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昔の絵図を見ると、今の国府神社を「鳳王社」と書いているのがある。また、『成田参詣記』の略図では、「鴻王明神」としている。つまり、国府神社、別名:鳳王(鳳凰)社附近を起点とした坂道だから、「鳳凰坂」というのが正しい。法皇(法王)坂というのは、どうも前記の法皇塚古墳との混同・錯誤によるものらしい。実際、法皇塚古墳と、その坂は場所も離れていて、あまり関係はなさそうだ。

森兵男の「千葉県の戦争遺跡」では、この坂を「旅団坂」といっているが、野砲兵旅団司令部が坂の途中にあったことに由来する、その坂道が「法皇坂」と同じ坂道をいうのか、囚人が切り開いた松戸街道の坂の部分を「旅団坂」というのかは、市川の地元住民でも説が分かれるそうだ。どちらかというと松戸街道の切通しの坂を「旅団坂」というようであるが、森兵男と同じようにいう人もいる。

坂の途中から、坂のあがりきった右手の場所にある、旅団司令部跡は、一応里見公園の分園になっているようだが、ここで遊んでいる人をみたことがない。人を寄せ付けない、何かがあるのか。貯水槽があるが、軍隊があったころからのものらしい。余り知られていないが、工兵連隊関係の建物が県の研究所のなかに、現存しており、この辺もないようでいろいろ軍隊関係の遺物があるものである。

そのまま、台地上に出て、旅団司令部跡を横にみてしばらく行くと、左側にも里見公園の分園がある。ここはかつて火薬庫のあった場所で、火気厳禁の札があるが、ホームレスの人たちの生活の場でもある。ホームレスの人たちも、よく火薬庫の上に住んでいて怖くないものだ。どうせなら、旅団司令部跡のほうが、火の気の心配もしなくてすむと思うが、余計な心配か。

ちなみに、この公園の下はやはり江戸川であるが、江戸川沿いを北へ進み、羅漢の井のあるあたりが、里見公園である。

<野砲兵旅団司令部があった場所>

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明治新政府は最初、国府台に大学を誘致する予定であったが、それが諸事情でだめになると、東京にあった軍隊の一部をもってくることを考えた。そのさきがけとして、下士官を育成する教導団を当地に移転させるにあたり、千葉監獄所に服役していた囚人を連れて来て、山を切り開かせ、現在のような道筋を造る工事につかせたという。今のような重機のない時代、人力で切通し道を作るのは重労働であった。陸軍教導団が東京から国府台に移って来たのが、明治18年(1885)。その後、続々と軍の設備が作られ、軍隊が移駐して、国府台は軍隊の町になっていった。

そもそも江戸時代、国府台に広大な寺領をもっていた安国山総寧寺は、南北朝時代の永徳3年(1383)に近江国守護の佐々木六角氏頼によって、近江新庄樫原郷に創建された。その後、戦国時代の天正3年(1575)に、北条氏政によって、下総国関宿に移された。さらに、関宿が水害に何度かみなわれたため、江戸時代に入り、四代将軍徳川家綱によって寛文3年(1663)に当地に移されたものである。その時、曹洞宗の関東僧録司三ヶ寺の一つとされ、寺領128石5斗余が与えられたという。これは、真間山弘法寺の寺領が、50石であったのと比べてもわかるように、寺としては破格であった。墓地には、小笠原政信夫妻の供養のための大きな五輪塔がある。

以下は、江戸名所図会に描かれた総寧寺であるが、現在の里見公園の入り口あたりに山門があったようで、大門はそのだいぶ手前にあった。正確には分からないが、筑波大学附属聾学校のあたりだろうか。

<江戸名所図会に描かれた総寧寺>

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しかし、幕末に大火があって多くの伽藍を焼失し、さらに明治になって江戸幕府という後ろ盾を失って、寺領を失った総寧寺は荒れるにまかせていた。結局、寺地のかなりの部分は明治新政府に召し上げられた。そこへ持ってきて、明治新政府は総寧寺の寺領だった部分も含め国府台一帯に、最初は大学、次には軍隊を誘致することを考えたのである。松戸街道の切通し道が作られたとき、総寧寺には囚人の居留する場所が確保され、寺の北側にも獄舎が建てられて、監獄山と呼ばれた。軽犯罪人には青い着物を、重犯罪人には赤い着物を着せて、足は鎖でつなぎ、麦と米が混じった貧しい食事で、一日中苛酷な労働を強いた。そのため、当時は地元の子供たちが悪さをすると、「赤いべべを着せて監獄山に連れて行く」などと、大人は子供に言ったという。

のちに教導団附属病院(のちに国府台陸軍病院になる)が開設されるが、その場所は少し前まで総寧寺の伽藍が並ぶ境内の中だった。今は、病院の跡もなくなり、バラが咲く西洋式庭園になっている。

そして、総寧寺の本堂は、北側の現在地へ移された。里見氏将兵の供養塔が里見公園の南西にあるが、これは総寧寺の墓地がそこにあった名残であろう。

軍用地が拡大するまえは、教導団附属病院の奥の江戸川よりの一角には、里見八景園という遊園地が作られた。その命名は国府台八景にちなんだもので、今でも人口の滝のあとなどが残っている。

<里見八景園>

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ただし、里見八景園跡は、昼でも薄暗く、なんとなく気味の悪い場所になってしまった。特に夕暮れ時から夜は、あまり近づきたくないような所である。

このすぐ近くであるが、終戦間際に、市川の国府台城跡を利用した地下要塞とでもいうべき陣地を陸軍は築こうとしたらしい。これは市川の郷土史家が書いているほか、以前から国府台に駐屯した元軍関係者が今の里見公園に軍が掘ったトンネルがあったと言っているので、間違いないだろう。

明戸古墳の下が少し低くなっているのは掘った跡だといい、たしかに、その部分は一段低くなっている。ここを角型に掘って鉄板で固め、出入口は江戸川側に設けようとしたそうだ。他にも、総寧寺の境内には、陸軍境界標石あり、里見公園を出て、北へしばらく要ったあたりには高射砲の砲座跡があったり、近辺は明確に軍隊が駐屯していたという場所以外にも軍関係の跡地はいろいろあるようだ。

参考文献: 市川の道をたずねて (市川博物館友の会)

       江戸川ライン歴史散歩 千野原靖方著 崙書房 (1991)

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