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馬加城と三山七年祭

今では、ハイテクの街として知られる幕張。かつて、ここが千葉氏の本家を倒し、それにとってかわった馬加氏の本拠地であったことを知る人は少ないだろう。

<武石の真蔵院>

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今の海浜幕張のビル街をまっすぐ北へ行くと、いまだに農村風景の名残をとどめる武石という場所にでる。そこにも千葉氏の一族である武石氏が鎌倉時代から住んでいた。武石には真蔵院という古寺があり、武石氏の祖である千葉常胤の子武石三郎胤盛の母のものと伝わる板碑が伝わっている。その板碑というのは、大字須賀原俗称愛宕山の古墳上に建っていた七基の板碑の一つで、のちに真蔵院に移されたもの。光明真言の梵字とともに「右為先妣聖霊出離生死証大菩薩也、永仁第二暦季秋卅之天」と陰刻されている。なお、裏面に施主常胤と彫られているが、それは後世の偽刻である。

<真蔵院の板碑>

Itabi

実は、武石三郎の弟である大須賀四郎胤信は、兄よりも早く当地におり、隣接する場所を領有したようである。大須賀氏が香取郡下総町に移り、武石氏の惣領家が東北へ転じた後、そこには千葉氏の本家筋ではあるが、庶子といわれる馬加康胤が城を構えて、一族眷属が住んだ。

馬加は、「まくわり」と読み、幕張の旧名である。その地名の起源は、当時この土地は軍馬の産地で、野馬を軍馬に仕立てて軍馬に加える土地という意味で馬加といったのだそうだ。幕張と名前を変えたのはそれほど昔のことではなく、現在の千葉市西側の花見川区幕張辺りを近世までは馬加と呼んでいた。

ある時代まで、その馬加康胤の城も、遺構が残っていたかもしれない。あるいは、千葉氏嫡流を倒し、足利将軍家から東常縁らの軍勢を差し向けられ、戦死した一族であり、その居城は跡かたもなく、合戦の後すぐに破却されたのかもしれない。
現在は、その馬加康胤の城跡の位置などについては、確かな遺構が残っていないために、古文書や伝承から推定するしかない。

◆馬加城の推定位置と概要

馬加城は、武石館のある台地に連なる花見川と浜田川に挟まれた舌状台地の西端にあったが、現在は遺構が残っていない。馬加城があったとされる場所には、現在はマンションや一戸建の住宅が建ち、その他は畑や駐車場などが広がっており、台地北端は京葉道路が通っていて掘削され、地形の原形を留めていない。この台地は、発掘調査も行われ、弥生時代の遺物など出土したが、馬加城の存在の証になるような中世期の遺構、遺物は発見されていない。また、馬加城の場所や規模、構造などを記した同時代の古文書も残っていない。当地に残る伝承や、後世に書かれた素加天王神社に関する神主中須加氏(中台氏)の記録から、アウトラインがわかるのみである。

なお、三代王神社周辺から、空堀跡とみられる遺構が検出されたという情報もあるが、詳しいことは分かっていない。

<馬加城があった幕張の台地>

Makuhari

◆築城時期と城郭の成立

馬加城は、元々千葉常胤の四男の大須賀四郎胤信が、治承4年(1180)に大須賀庄本郷といっていた当地を所領として与えられ、居館を構えたのに、端を発している。大須賀四郎は、兄三郎胤盛のために武石の地を譲り、武石館が築かれたという伝承がある。実際は、胤盛、胤信それぞれ隣接する所領が与えられたのであろう。大須賀胤信の居館がどのようなものであったかは、遺構もないので分からないが、同時期のものと同じく単郭方形のものであったろう。場所は、馬加城の場所として比定されている当地であったか。

馬加城があったとされる台地上の場所には、「道場台」(俗称:ヤカタ)という地名が残っており、その台地の南側低地、すなわち城の大手の位置には「道場根」という地名が残っている。「道場台」には城の内郭があったとされるが、その東側、自然の谷を隔てた「椎崎」には、外郭部があり、家臣の屋敷や海隣寺、素加天王神社(後の子守神社)があったとされている。

大須賀四郎胤信が、現在の香取郡下総町に移ると、その後は千葉宗家の領有となり、代々家臣を城代として、番兵を置き城の守りに当たらせていた。
馬加城と領民の運命が大きく変わったのは、千葉介満胤の庶長子で、常陸の大椽氏に養子に行っていたが離縁して戻ってきた康胤が、千葉宗家が守ってきた幕張の屋形を修復し、居住するようになってからである。康胤は馬加氏を名乗ったが、これは幕張=「馬加」の地名に由来している。この「馬加」は、素加天王神社の記録によれば、享徳元年(1452)の幕張大明神の祭礼に祭馬を多く集めたことから、神号を馬加大明神と改号し、里名も馬加に改めたことに由来するというが、これはあくまで話である。「馬加」は野馬を捕えて、軍馬に仕立てたことに由来するという説があり、筆者はこちらの方が本当らしいと思う。ともあれ、15世紀半ばに千葉宗家筋の康胤が馬加康胤と名乗って、当地に城館を整備し、新領主として支配することになった。

◆馬加康胤の霊夢と三山七年祭の伝承

馬加城の東に隣接する三代王神社も、馬加氏所縁の神社であるが、伝承によれば文安2年(1445)馬加康胤の妻が臨産の際、康胤の霊夢に三代王神があらわれ、その後康胤の妻が無事に出産したという。この逸話により、二宮神社を中心とした三山の七年祭という行事が始まった。三山の七年祭とは、三山(船橋市)にある二宮神社を中心に、幕張の子安神社、子守神社、三代王神社、久々田(習志野市)の菊田神社、実籾の大原神社、高津(八千代市)の高津比z盗_社、時平神社(八千代市)、八王子神社(船橋市)が参加して丑と未の年に行われる祭である。各神社各々役割が決まっており、以下のようになっている。

<三代王神社>

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 ・二宮神社(船橋市三山)   :主人・父君
 ・子安神社(千葉市畑町)   :妻・母
 ・子守神社(千葉市幕張)   :子守
 ・三代王神社(千葉市武石)  :産婆
 ・菊田神社(習志野市津田沼) :叔父
 ・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
 ・高津比咩神社(八千代市高津) :娘
 ・時平神社(八千代市萱田)  :息子
 ・八王子神社(船橋市古和釜) :息子

この祭のメインは、八つの神社の神輿が二宮神社に集まる神揃の祭と、磯辺に竹垣を結び、神輿を安置し安産の産屋の祭式を行う磯出祭からなっている。磯出祭は、明らかに馬加康胤の妻の安産祈願成就を起源としている。

その馬加康胤は、千葉氏のなかにあって当主ではないが、一族の重鎮であり、結城合戦など、千葉宗家に従って各地を転戦し、千葉宗家に忠実に従ってきた。馬加康胤は、関東公方、のちに古河に移って古河公方と呼ばれた足利成氏を支持する立場であった。しかし、千葉宗家は足利成氏支持ではなく、対立する関東管領の上杉氏支持に傾いていた。康正元年(1455)、ついに馬加康胤は旗幟を鮮明とし、千葉介胤直が家老である円城寺氏の勢力に依拠して、足利成氏に対立する関東管領上杉氏を支持すると見るや、足利成氏を支持する原胤房と呼応して千葉宗家打倒の兵を挙げた。

すなわち、康正元年(1455)3月、足利成氏に組みする馬加康胤は、同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らと共に、1千余騎の兵をもって、足利成氏と対立する千葉介胤直を討つべく、千葉城を急襲した。からくも千葉介胤直は、胤直の子胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、九州千葉氏の本拠地である千田庄の志摩城や多古城に拠った。ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待ったが、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさ(武射か)の阿弥陀堂」で自刃、また志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃された。からくも、胤直、胤賢兄弟は志摩城を脱出し、土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で自刃した。弟胤賢も匝瑳郡小堤辺りで自刃し、鎌倉の有力御家人から大名として成長していた千葉宗家は一旦滅んだ。

この事態は将軍足利義政の逆鱗に触れることになり、幕府が追討の軍として派遣したのは、千葉一族である東常縁である。東常縁は、将軍足利義政の御教書を戴き、副将として浜民部少輔春利を伴って下総東庄に下向した。そして東常縁らは馬加康胤、胤持父子を攻め、馬加康胤は自刃、その子胤持も戦死した。

しかし、馬加康胤の子で、現在の酒々井町岩橋辺りに勢力をふるっていた岩橋輔胤は、原胤房ととも分散して戦いを続け、その子孫が本佐倉城を根拠に新しい千葉宗家となって代々下総をおさめた。

<三山の七年祭>

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「ハイテクの街幕張」、それは最近になって埋め立てで生まれた街であり、もともとの幕張、つまり馬加は中世の豪族にまつわる祭祀や合戦譚で彩られた古い土地なのである。

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