国府台周辺の遺跡と伝説(その5:総寧寺門前に続いていた道と「法皇坂」)

市川の国府台は、JR市川駅のほうから北へ進み、根本を抜け、真間山下のバス停あたりから松戸街道をのぼっていくと車の往来が激しく、また景色もいささか殺風景である。

この松戸街道は、明治になるまでは今のように真間山下から国府台病院附近まで、直線的になっていなかった。明治初年の頃の松戸街道は、『成田参詣記』の「真間国府台略図」に描かれているように、市川四丁目の坂を北へあがって、弘法寺の裏門へ向かう切り通し道を途中カギ型に北へ折れ、現在の和洋女子大の正門辺りで街道筋と繋がっていたという説がある。

<真間山弘法寺>

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しかし、これでは、クランクがきつすぎるため、また道幅も狭く、坂道の登り具合も急であるため、軍用には不向きであった。軍隊に限らず、重い装備をつけた人間は、できれば曲がりくねった道など通行したくはないだろう。また軍馬とても、クランクを行くよりかはまっすぐな道がよい。

それで、今の松戸街道の坂道は、明治になって、国府台が軍隊の町として整備されようとしていたころ、道がまっすぐでないと不便なため、千葉の刑務所に入っていた囚人たちに過酷な労働をさせて切り開いた道である。

<現在の松戸街道の坂道>

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しかし、急ぎの用もなく、徒歩で散歩などをする分には、バス通りである松戸街道をまっすぐ行くよりも、桜の花の咲いている頃などは、江戸川沿いに歩くか、同じ坂でも「法皇坂」とか「将軍坂」という松戸街道から江戸川よりに分岐する坂をのぼっていくほうが、雰囲気も何となくよい。その「法皇坂」は、「鳳凰坂」の文字を当てる場合もある。

今は学校で行き止まりになるが、昔は道がまっすぐのびて、総寧寺まで続いていたのである。それは江戸時代に描かれた、『成田参詣記』の略図や『江戸名所図会』などの絵図からも明白である。

しかし、なぜ、「法皇坂」というのだろうか。今の東京医科歯科大学の敷地内にある法皇塚古墳が、その名前の由来であろうか。あるいは国府台は、鴻之台とも書くし、日本武尊が軍勢を率いて武蔵国に渡ろうとしていたとき、コウノトリが飛来して浅瀬を教えてくれたため難なく武蔵国へ渡ることができたため、日本武尊は褒美にこの台地をコウノトリに与えたのが、その由来で、国府神社はコウノトリの嘴を御神体としていることから、コウノトリ→鳳凰→法皇となったのであろうか。

<「法皇坂」、上りきったところにある貯水槽は戦前からのもの>

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昔の絵図を見ると、今の国府神社を「鳳王社」と書いているのがある。また、『成田参詣記』の略図では、「鴻王明神」としている。つまり、国府神社、別名:鳳王(鳳凰)社附近を起点とした坂道だから、「鳳凰坂」というのが正しい。法皇(法王)坂というのは、どうも前記の法皇塚古墳との混同・錯誤によるものらしい。実際、法皇塚古墳と、その坂は場所も離れていて、あまり関係はなさそうだ。

森兵男の「千葉県の戦争遺跡」では、この坂を「旅団坂」といっているが、野砲兵旅団司令部が坂の途中にあったことに由来する、その坂道が「法皇坂」と同じ坂道をいうのか、囚人が切り開いた松戸街道の坂の部分を「旅団坂」というのかは、市川の地元住民でも説が分かれるそうだ。どちらかというと松戸街道の切通しの坂を「旅団坂」というようであるが、森兵男と同じようにいう人もいる。

坂の途中から、坂のあがりきった右手の場所にある、旅団司令部跡は、一応里見公園の分園になっているようだが、ここで遊んでいる人をみたことがない。人を寄せ付けない、何かがあるのか。貯水槽があるが、軍隊があったころからのものらしい。余り知られていないが、工兵連隊関係の建物が県の研究所のなかに、現存しており、この辺もないようでいろいろ軍隊関係の遺物があるものである。

そのまま、台地上に出て、旅団司令部跡を横にみてしばらく行くと、左側にも里見公園の分園がある。ここはかつて火薬庫のあった場所で、火気厳禁の札があるが、ホームレスの人たちの生活の場でもある。ホームレスの人たちも、よく火薬庫の上に住んでいて怖くないものだ。どうせなら、旅団司令部跡のほうが、火の気の心配もしなくてすむと思うが、余計な心配か。

ちなみに、この公園の下はやはり江戸川であるが、江戸川沿いを北へ進み、羅漢の井のあるあたりが、里見公園である。

<野砲兵旅団司令部があった場所>

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明治新政府は最初、国府台に大学を誘致する予定であったが、それが諸事情でだめになると、東京にあった軍隊の一部をもってくることを考えた。そのさきがけとして、下士官を育成する教導団を当地に移転させるにあたり、千葉監獄所に服役していた囚人を連れて来て、山を切り開かせ、現在のような道筋を造る工事につかせたという。今のような重機のない時代、人力で切通し道を作るのは重労働であった。陸軍教導団が東京から国府台に移って来たのが、明治18年(1885)。その後、続々と軍の設備が作られ、軍隊が移駐して、国府台は軍隊の町になっていった。

そもそも江戸時代、国府台に広大な寺領をもっていた安国山総寧寺は、南北朝時代の永徳3年(1383)に近江国守護の佐々木六角氏頼によって、近江新庄樫原郷に創建された。その後、戦国時代の天正3年(1575)に、北条氏政によって、下総国関宿に移された。さらに、関宿が水害に何度かみなわれたため、江戸時代に入り、四代将軍徳川家綱によって寛文3年(1663)に当地に移されたものである。その時、曹洞宗の関東僧録司三ヶ寺の一つとされ、寺領128石5斗余が与えられたという。これは、真間山弘法寺の寺領が、50石であったのと比べてもわかるように、寺としては破格であった。墓地には、小笠原政信夫妻の供養のための大きな五輪塔がある。

以下は、江戸名所図会に描かれた総寧寺であるが、現在の里見公園の入り口あたりに山門があったようで、大門はそのだいぶ手前にあった。正確には分からないが、筑波大学附属聾学校のあたりだろうか。

<江戸名所図会に描かれた総寧寺>

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しかし、幕末に大火があって多くの伽藍を焼失し、さらに明治になって江戸幕府という後ろ盾を失って、寺領を失った総寧寺は荒れるにまかせていた。結局、寺地のかなりの部分は明治新政府に召し上げられた。そこへ持ってきて、明治新政府は総寧寺の寺領だった部分も含め国府台一帯に、最初は大学、次には軍隊を誘致することを考えたのである。松戸街道の切通し道が作られたとき、総寧寺には囚人の居留する場所が確保され、寺の北側にも獄舎が建てられて、監獄山と呼ばれた。軽犯罪人には青い着物を、重犯罪人には赤い着物を着せて、足は鎖でつなぎ、麦と米が混じった貧しい食事で、一日中苛酷な労働を強いた。そのため、当時は地元の子供たちが悪さをすると、「赤いべべを着せて監獄山に連れて行く」などと、大人は子供に言ったという。

のちに教導団附属病院(のちに国府台陸軍病院になる)が開設されるが、その場所は少し前まで総寧寺の伽藍が並ぶ境内の中だった。今は、病院の跡もなくなり、バラが咲く西洋式庭園になっている。

そして、総寧寺の本堂は、北側の現在地へ移された。里見氏将兵の供養塔が里見公園の南西にあるが、これは総寧寺の墓地がそこにあった名残であろう。

軍用地が拡大するまえは、教導団附属病院の奥の江戸川よりの一角には、里見八景園という遊園地が作られた。その命名は国府台八景にちなんだもので、今でも人口の滝のあとなどが残っている。

<里見八景園>

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ただし、里見八景園跡は、昼でも薄暗く、なんとなく気味の悪い場所になってしまった。特に夕暮れ時から夜は、あまり近づきたくないような所である。

このすぐ近くであるが、終戦間際に、市川の国府台城跡を利用した地下要塞とでもいうべき陣地を陸軍は築こうとしたらしい。これは市川の郷土史家が書いているほか、以前から国府台に駐屯した元軍関係者が今の里見公園に軍が掘ったトンネルがあったと言っているので、間違いないだろう。

明戸古墳の下が少し低くなっているのは掘った跡だといい、たしかに、その部分は一段低くなっている。ここを角型に掘って鉄板で固め、出入口は江戸川側に設けようとしたそうだ。他にも、総寧寺の境内には、陸軍境界標石あり、里見公園を出て、北へしばらく要ったあたりには高射砲の砲座跡があったり、近辺は明確に軍隊が駐屯していたという場所以外にも軍関係の跡地はいろいろあるようだ。

参考文献: 市川の道をたずねて (市川博物館友の会)

       江戸川ライン歴史散歩 千野原靖方著 崙書房 (1991)

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船橋印内にある成瀬地蔵

「犬山まつり」は桜と山車で有名であるが、その犬山城の城主成瀬氏は、船橋と所縁がある。
犬山城主となった成瀬氏と船橋との関わりは、犬山城主初代の正成の代から始まる。成瀬正成は徳川家康の側近であったが、天正18年(1590)に家康が豊臣秀吉によって関東に移封された際、栗原郷といわれていた現在の船橋市西部の四千石の所領を与えられた。成瀬正成は、能力のあった人物であったらしく、関ヶ原の合戦で軍功をあげ、堺の行政官としても業績をあげた。その功績に対して、甲斐で2万石、三河で1万石を与えられ、大名に列する。しかも、後の老中に相当する年寄り衆に慶長12年(1607)から元和2年(1616)の9年間任ぜられた。

<木曽川沿いの道から見た犬山城>
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ところが成瀬正成は、元和3年(1617)、徳川家康の九男義直が尾張徳川家を興したときに、家康に懇願されて付家老となった。これによって、将軍側近の譜代大名であった立場から、将軍家からみると陪臣となる。家康存命の頃や秀忠、家光が将軍であった頃には、成瀬氏と徳川家康の近しさ、正成の業績を知る人も多く、正成やその子の正虎は、大名でなくともそれなりに処遇されていた。しかし、後世になると、陪臣扱いが顕著になっていく。つまり3万石以上の所領をもちながら、大名ではなくなったことが、後の成瀬家に影を落すのである。
成瀬正成は、家康の有能な部下であったがゆえに、普通の大名で生涯を終えることができなかった。そのアイロニーは、正成の次男之成が将軍秀忠の小姓として千石を与えられていたのに、正成が犬山城主となったときに、正成の所領の一部である栗原郷四千石と三河の一万石を譲って、之成が大名となったことにも現れている。つまり成瀬本家は尾張徳川家の付家老、之成の栗原成瀬家は大名となったのである。
その後、正成は寛永2年(1625)に江戸で没し、船橋の宝成寺で荼毘にふされた。さらに、日光の家康の廟近くに埋葬された。その犬山の家督は長男正虎が継ぎ、以降連綿として明治維新を迎える。

<船橋の宝成寺>
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<宝成寺の成瀬家墓地~大きな石塔が犬山城主七代正寿の墓>
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一方、栗原の成瀬之成は寛永11年(1634)に39歳で亡くなり、家督はわずか1歳の之虎が継いだ。その之成の亡くなった際に、平野宇平次、青木右源太、藤村仁右衛門の3名が殉死している。幼くして家督を継いだ之虎も、4年後に病死し、他に男子がなかったため、栗原成瀬家は断絶した。ただ、船橋の宝成寺は、成瀬氏の江戸における菩提寺のひとつとして存続し、現に7代城主の墓もある。
現在も船橋の宝成寺には之成、之虎、之成夫人と殉死した3名の墓がある。そして犬山成瀬家の7代正寿(まさなが)の墓もあるが、これは3m以上ある大きなもので墓としては県内最大級のものという。殉死した家臣の墓が主君と同じ場所に建立されるのは極めてめずらしく、また之成の墓の裏面には三人の殉死者の名前が刻されるなど異例のことである。よほど、成瀬家はオープンマインドであったのか。それにしても、殉死とは現代に生きる我々には想像しにくいことである。忠誠心だけでなく、家名をあげるとか、いろいろな思惑があったのかもしれないが。なお、之成の墓や殉死者の墓のところに全国成瀬会と書いた卒塔婆があったが、全国成瀬会とは何だろう?
全国の成瀬さんの親睦団体か、それとも犬山成瀬家ゆかりの人々?

<之成の墓~駒形のもの>
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<之成の墓の裏~殉死三人の文字あり>
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宝成寺の近く、京成西船駅の北側道路沿いに成瀬地蔵という地蔵がまつられている。いわれとしては、成瀬之成が宇都宮の釣り天井事件に連座して切腹し、その菩提を弔うためとか、近郷の早世した子供の冥福を祈るためとか、伝承にも諸説あるらしく、はっきりしない。釣り天井事件に関しては、尾張徳川家の為に尽力した成瀬正成の所領、栗原郷四千石を引き継いだ、次男の成瀬之成が三代将軍家光に仕えた際、宇都宮、釣天井事件が起こり、その事件に連座して之成は当地まで逃れ、切腹したと伝えられ、この之成の供養のために造立したと言う説がある。近郷の早世した子供の冥福を祈るという説では、印内村が、木戸内村と呼ばれていた頃、地元の名主、田中徳左衛門・忠左衛門両人を本願主とし、木戸内の女性だけの念仏講連衆が5才で亡くなった、之成の子、之虎への供養とあわせて夭折した地元の子供の為に寄進、造立し、供養をしていたとの説がある。

宇都宮釣天井というのは、その話自体後世の作り話で、成瀬地蔵に関してもとってつけたような話であるが、ただ、成瀬地蔵というからには、成瀬家の遺風を懐かしむ何かがあったのであろう。

<成瀬地蔵>
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国府台周辺の遺跡と伝説(その4:亀井院と弘法寺の涙石)

真間山弘法寺のすぐ下、手児奈霊堂の向かいに亀井院という寺院がある。これは、弘法寺の子院で、元は瓶井坊といった。寛永15年(1638)頃、弘法寺の第十一世住職日立上人によって、貫主の隠居寺として建てられた。当初瓶井坊といっていたが、のちに弘法寺の大檀那鈴木長常を葬って鈴木院と改称、長常の子鈴木長頼が宝永2年(1705)になくなって没落すると、近傍にあった霊亀出現の井戸、亀井(真間の井のこと)にちなんで亀井院と再度改称した。その亀井、真間の井は、亀井院の中庭に伝わっている。

<亀井院>

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亀井院の名は、霊亀出現という伝説に基づいているにせよ、その前の瓶井坊とは、いかなるいわれであろうか。読んで字のごとく、瓶のような井戸、水瓶を土中に埋めたような形の清水が湧いていたことにちなんだものである。そして、その井戸は真間の井ともいい、真間の手児奈がその清水の湧き出す井戸から水を汲んだという伝説が伝えられている。その伝説は、万葉集で高橋虫麻呂が歌に詠んでいる。

   勝鹿の 真間の井見れば 立ち平し
           水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ          (万葉集 巻第九 1808)

亀井院にある、「真間の井」と称する井戸は、もちろん元々の真間の井の姿とは異なり、元は田舎の畦の脇にあるような単純な湧水であったのであろう。

<真間の手児奈を祀る手児奈霊堂>    

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<亀井院にある井戸>

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ところで、この万葉集の歌にまでなった、亀井院の由緒に惹かれて、大正5年(1916)5月から6月にかけて、亀井院の庫裏に北原白秋が住んでいた。北原白秋は、6月には市川の隣の小岩に引越し、紫烟草舎を興した。その紫烟草舎の建物は、現在里見公園の一角に移築されている。

北原白秋も、この真間の井、真間の手児奈について歌を詠んでいる。

   葛飾の 真間の手児奈が 跡どころ
                     その水の辺の うきぐさの花

この亀井院の東側、坂道の途中の道沿いに、弘法寺、亀井院と所縁が深く、亀井院を修築したという、鈴木長頼の家の墓所がある。この鈴木長頼とは、現代でいえば建築家であり、幕府の作事奉行であった。この人は江戸時代も前期の元禄年間頃に活躍したようである。

この鈴木長頼に関する伝説が、弘法寺にある。

真間山弘法寺の63段ある長い石段の、下から27段目の石が、苔むした状態になっている。いくらか濡れているようであるが、これを涙石という。これは鈴木長頼が、日光東照宮造営のために運んでいた伊豆の石を弘法寺の石段を作るために流用してしまい、発覚して幕府より責任を追求され、涙を呑んで切腹して果てたのが、弘法寺の石段の27段目で、それでその石が長頼の涙で濡れているのだという。もちろん、これは伝説であるが。

<伝説をはらんだ弘法寺の涙石>

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千葉氏の家臣でも日蓮宗の信者である鈴木氏がいるが、一族であろうか。昭和35年(1960)に鈴木家の墓地から長頼の墓が発見され、そこに刻まれた「宝永二年玽」の文字により、長頼の没年が宝永2年(1705)であることが分かっている。長頼の父、長常の代から弘法寺の大檀那であったというからには、財力もあったのであろう。長頼の死後、亀井院が荒れたということであるから、その時点で鈴木家が退転したか何かあった可能性が高い。

鈴木長頼が建てた真間万葉顕彰碑が、今も継橋のほとりに建っている。それは石造の角柱であり、前面に「住待上人日貞議 鈴長頼立碑勒銘」の文字と、背面に建立時を示す「元禄九丙子仲春」の文字が刻まれている。

<真間万葉顕彰碑>

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国府台周辺の遺跡と伝説(その3:国府台合戦の謎)

1.室町幕府と対立した鎌倉公方

話は、鎌倉公方足利基氏の時代に遡る。建武新政で鎌倉に置かれた鎌倉府は、足利尊氏が弟直義を滅ぼし、足利幕府の権力を確立しようとしていたことから、足利幕府の東国支配の機関として位置づけられた。鎌倉府の代表が鎌倉公方であり、千葉氏はその鎌倉公方基氏を支える立場にあった。一面、鎌倉府は東国武士の自立の拠り所であり、鎌倉公方も中央政界とは独自の立場を志向するようになる。室町時代、伊達氏、新田氏の乱など、東国に争乱が相次ぐ。

その当時の鎌倉公方は足利満兼から幸王丸のちの持氏となり、その足利持氏に対して、応永23年(1416)10月、鎌倉公方を支えるはずの関東管領上杉禅秀が反乱を起こす。足利持氏は御所を脱出して反撃し、翌応永24年(1417)1月上杉禅秀は自決した。千葉氏は上杉禅秀の親戚であったために、当初上杉禅秀の側につくが、すぐに降参した。一方、鎌倉公方足利持氏は、中央の幕府と対立し、室町幕府に連なる東国の佐竹、宇都宮、小栗などの領主層を討伐するなど、反幕府的な行動をとっていた。持氏の反幕府的な行動をおさえていた関東管領上杉憲実は、持氏から疎んぜられ、やがて両者は対立するようになった。永享10年(1438)8月上野に下国した上杉憲実に、室町幕府は今川氏、篠川公方、白河結城氏らに命じて合力させ、持氏は自ら出陣した。千葉胤直は、持氏に随って出陣し、持氏を諫めたが容れられず、退陣。翌永享11年(1439)2月、足利持氏とその嫡子義久は自害。しかし、その翌年、持氏遺児の安王丸、春王丸を擁した持氏残党は結城氏朝とともに結城城に籠り、結城合戦が戦われる。嘉吉元年(1441)4月結城城は落城、結城氏朝も敗死し、捕まった安王丸、春王丸は美濃で斬られた。他の兄弟とは別にいて生き残った足利万寿王丸は、文安6年(1449)6月鎌倉公方となる。後の古河公方、足利成氏である。享徳3年(1454)12月、足利成氏の近習結城・武田・里見らは、関東管領上杉憲忠を謀殺、翌年にかけて成氏方と上杉氏が各地で戦う享徳の大乱となる。享徳4年(1455)6月、幕命を受けた今川氏に鎌倉を追われた足利成氏は、古河に本拠を構え、古河公方となった。

<鎌倉公方と関係の深い鎌倉の報国寺>

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2.下総、上総の争乱と小弓公方

享徳の大乱は千葉氏内部にも、大きな影響を与えた。康正元年(1455) 8月、千葉宗家の胤直、胤信親子に対して、馬加康胤は原胤房とともにに反旗を翻した。原胤房に千葉城を攻められ、胤直、胤信親子は千葉城を追われて、千田庄に拠るが追い詰められて自害。東常縁らに馬加康胤は討たれるものの、康胤の庶子といわれる岩橋輔胤が勢力を盛り返し、千葉宗家を継いだ。以降馬加系千葉氏が歴代の千葉氏宗主となり、原氏は千葉氏の宿老としてその勢力は強大となった。

そして、一方上総でも、常陸から来た武田氏(甲斐の武田と同族)が近隣の小土豪を屈服させていた。その上総武田氏の初代は、古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した武田信長である。康正元年(1455)、武田信長は里見義実らとともに、山内上杉房顕の拠る武蔵国騎西城を攻め、翌康正2年(1456)年、成氏が千葉実胤、自胤を市川城に攻めた際にも、続いて子の信高らとともに上総地方へ侵攻した。上総に入った信長は庁南・真理谷の二城を築いて根拠とし、庁南城は上総東部を制し、真理谷城は上総西部を鎮する役割を担った。さらに久留里や椎津・造南・峰上・笹子などに城を築いて一族を配置し、支配体制を確立していった。そして、真理谷城には嫡男の信高を入れ、自らは庁南城に拠った。

戦国前期になると、真里谷に拠った真里谷武田氏(真里谷氏)が、上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となり、北上して下総国境の生実をうかがうことになる。小弓城を守る原氏は、その上総真里谷城主であった武田信保と度々所領争いを行っている。本土寺過去帳によると、文明3年(1471)に「小弓館」を攻められて討死した原越前入道道喜という人物がいるが、この時に小弓城は落ちたものと思われる。しかし、永正6年(1509)には原胤隆が連歌師の宗長を招いて連歌を行っているから、その間のどこかで奪還したものと思われる。原胤清の子胤貞の代には、臼井城に入り、臼井の実質的な領主を兼ね、「小弓、臼井両城主」と呼ばれた。

武田信保は、恕鑑の号で知られ、智勇に優れた人物で、上総における真里谷家の勢力を拡大するため、兄の古河公方であった足利高基と対立して僧体となり、空然と名乗って奥州を放浪していた足利義明を永正年間の初め頃に連れてきて、小弓公方として擁立するなど策略をめぐらした人物であった。
その頃、小弓城では、永正6年(1509) 11月に小弓城主原胤隆に連歌師宗祇の高弟である柴屋軒宗長が招かれて浜野の本行寺を旅宿として滞在し、原胤隆と連歌に興じている。
永正14年(1517)下総進出を願う真里谷武田信保ら上総武田氏は、古河公方足利高基の弟、足利義明を主将として、安房里見氏とも結んで小弓城を攻め、ついにこれを攻め落とした。この戦いで、「原ニ郎(胤隆、あるいは一族の友幸か)」や「高城越前守父子」は「滅亡」(実際は原胤隆は八幡庄の真間山弘法寺の寺領を安堵していることから、少なくとも天文2年(1533)まで生存していたのが分かっており、八幡庄辺りに逃れたものと思われる。城代として城を守っていたとされる原友幸〔小西原氏、原肥前守胤継の子〕も根木内城に逃れた。討死した高城越前守は胤広とされる)、「高城下野守」(高城胤正)は逐電した。また甲斐に原友胤父子は逃れ、友胤の子は有名な原虎胤に成長する。翌永正15年(1518)足利義明は入城して小弓公方、小弓御所と称して、やがて古河公方と同様、関東に覇をとなえるべく、後北条氏と激突することになる。足利義明を還俗させ、小弓城にいれたのは武田信保であったが、足利義明は小弓公方となって独自に動くようになり、武田信保が足利義明の勘気を受けたまま病死すると、その子信隆は後北条氏綱のもとに身を寄せた。さらに事態は、里見氏の内紛で複雑になる。

<小弓城址>

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永正15年(1518)、里見氏の当主里見義通がなくなると、その子義豊は既に元服していて家督を継承し、稲村城に入った。しかし、北条氏綱の策動により、義豊追い落しを図った叔父実堯、正木通綱らの動きを察知し、実堯を誅殺したところ、実堯の子義堯が仇討と称し、後北条氏を後ろ楯として反逆して、義豊を殺害した。そして義堯が里見氏の当主となったが、真里谷武田信保が足利義明の勘気を蒙ると、後北条氏と袂を分かち、武田信隆の追放に加担した。こうして、里見氏は後北条氏と再び対立することになる。
武田氏の内訌については、武田信隆の異母弟信応が信隆と反目し、足利義明と結んだ。武田信隆は子の信政とともに、椎津城に籠り、後北条氏の援軍を待ったが、小弓公方軍に攻められ、脱出する。その天文6年(1537)の内訌の際、武田信隆は後北条氏の後援で峰上城に立て籠り、一時後北条氏に走っていた里見義堯の囲みを受けている。
こうした小弓公方の一連の動きは、里見氏、武田氏の内訌とあいまって、後北条氏対小弓公方・里見氏の対立を鮮明とさせ、ついに 天文7年(1538) 国府台合戦(第一次)が戦われる。

3.松戸の相模台でも戦われた第一次国府台合戦

天文7年(1538)10月、武蔵・相模の後北条氏と雌雄を決するため、小弓公方義明、武田、里見軍は国府台に出陣したが、配下の西上総の諸士、椎津、村上、らは、相模台に在陣して後北条軍の太日川渡河を見張った。小弓公方方は約三千、後北条軍は約七千の軍勢であったという。江戸城から出陣した北条氏綱の約三千の後北条軍は、10月7日に松戸へ渡河、椎津、村上らの小弓軍を破って南下、これを知った足利義明は千の手勢を率いて北上して交戦、義明本人とその子義純、弟基頼ら約140名が討たれた。こうして、小弓軍は惨敗、国府台に陣を張った里見義尭率いる里見軍は、早々に戦を見限って安房に帰陣したという。つまり、第一次国府台合戦は小弓公方軍対後北条軍という色彩が強く、安房の里見はアリバイ的に参加したという可能性が高い。小弓公方足利義明は嫡子義純、弟基頼のほか、安房の里見義尭、土気の酒井定治、真里谷武田信応、庁南武田宗治に出陣を要請し、国府台に陣取って防御工事を行っていた。そして義明は力を過信して、後北条軍の渡河を許したうえ、自ら手勢を率いて戦い、討死している。後北条軍には、千葉宗家は直接加わっていないが、高城氏が後北条軍に味方して参戦しており、その戦功で現在の神奈川県海老名市などの領地を与えられている。

さて、小弓公方なき後、小弓城はどうなったかが問題であるが、天文8年(1539)に後北条氏が奪還、城の東側に有吉城を築いて里見軍に備えた。その後、永禄4年(1561)に里見の重臣正木時茂、時忠の兄弟が下総に侵攻、浜野の本行寺には正木時忠の制札が交付された。また、永禄5年(1562)には後北条氏の攻勢で古河に居られなくなった足利藤氏らは古河城を退去、里見氏のもとに身を寄せる。一方、後北条氏が擁立する足利義氏は、小金から佐貫城へ移座した。

第一次国府台合戦の舞台となった相模台には、戦死者の塚と伝える「経世塚」があり、現在は聖徳学園構内にある。これは2基の円墳で、古代の古墳であり、その上に中世の板碑がのっている。なお、学園関係者によれば、この「経世塚」は、前は別の場所にあったが、事情により現在地にうつされたとのことで、時々近所のお年寄りが写真を撮りにくることがあるという。「経世塚」は、もともとは古墳であり、第一次国府台合戦とは関係ないのであるが、何時の頃か結び付けられて今日にいたっている。

<相模台の経世塚>

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3.第二次国府台合戦とその舞台

永禄7年(1563)の第二次国府台合戦は、北条氏康の率いる後北条軍約二万と里見義弘および里見を支援する太田康資・資正の約一万二千の軍勢の戦いとなった。その際里見軍が、後北条方の籠る葛西城を攻撃したのが戦いの端緒となったが、これも結局後北条方が勝利し、里見氏は里見弘次や正木大膳らの部将が討死して敗走、太田氏も本拠地の岩槻などに落ちていった。この両度の国府台合戦は、国府台城および周辺で戦われ、第一次合戦時は松戸台での激戦が前哨戦になっている。後北条氏は第一次合戦時に、扇谷上杉氏を河越城に破った勢いで、太日川の対岸にある国府台からは4km位西に位置する葛西城を攻略し、上杉家臣大石氏を破って、岩槻の太田氏も攻めた。その際、小弓公方・里見氏側は国府台に陣取っている。第二次合戦の際には、上述のように後北条氏は葛西城を根城として、里見方の守る国府台に対している。

葛西城は、国府台城の太日川(現江戸川)を挟んだ対岸の地である、現在の東京都葛飾区青戸7丁目の環状7号線が通る葛西川(現中川)西岸の平坦な場所にあって、国府台合戦時に後北条軍の基地となった。葛西城は葛西川(現中川)を天然の水堀とし、近くに船着場を備えた平城であった。国府台からは西北西約4Kmの地点にあり、かつては国府台の台地上から見通せたであろう。現在、葛西城址は、環状7号線がその中央部分を南北に通り、道路の西が御殿山公園、東が葛西城址公園という公園になっていて、地表面を見る限り特に遺構は残っていない。城址の東側約200mの地点には青戸神社があるが、扁額に「青砥神社」とあるように、江戸時代から当地は有名な青砥藤綱と結び付けて考えられており、御殿山公園にも「青砥藤綱城跡」の碑が建てられている。

過去の発掘調査では、上杉氏当時の幅7、8m程の堀が確認され、一町四方規模の方形城館であったことが分かっている。その後、天文7年(1538)、第一次国府台合戦の際、北条氏綱が奪取した後、遠山直景を城代にして、城域を拡張し、町場の整備などが行われた。後北条氏の時代には、葛西城は大幅に手を加えられ、主郭を区画する堀は幅18mと大規模なものとなり、土塁も築かれた痕跡があるが、その外側にも郭が展開して東西約300m、南北約400mの城域をもっていた。後北条氏が城を改修した後、永禄3年(1560)には上杉謙信の関東出兵により、小田原城が攻められた際に、葛西城も反後北条氏勢力の手に落ち岩槻太田氏が支配するところとなる。その後、永禄5年(1562)に後北条氏が本田氏を使って葛西城乗っ取りを計り、太田康資の指揮で後北条氏が奪還した。そして、永禄7年(1564)の第二次国府台合戦の折には、北条氏康がここに本陣をしいたわけだ。

合戦は永禄7年(1564)1月8日、後北条方の遠山直景、富永直勝ら第一陣が矢切のからめきの瀬を渡ったところで、里見軍の正木大膳の軍勢がこれを襲って始まり、里見軍が緒戦の勝利をおさめたといわれる。ところが、その日の夜、後北条軍は里見軍が休息しているところに夜襲をかけ、里見軍は完膚なきまでに叩きのめされたという。しかし、この遠山直景、富永直勝らを里見軍が襲って勝利をおさめたのは、永禄7年ではなく永禄6年であったという説もある。いずれにせよ、里見軍は破れ、太田資正らも落ちていった。

その際の里見軍の敗走経路を述べると、市川から海神へ入り、夏見台を経て、船橋城のあった城の腰を通って、峰台にいたり、そこで殿軍が戦闘を行ったと言われている。すなわち、峰台の慈雲寺では里見軍の殿軍が追撃する後北条軍を迎撃し、敗走するという合戦が戦われたという。慈雲寺は里見氏所縁の寺で、この寺の鐘を国府台城で使用し、鐘をつるした松から鐘が川に落ちて、そこが鐘ヶ渕といわれるという伝承がある。

一方、戦いに勝った後北条氏とそれに連なる原氏、高城氏らは勢いづいた。この合戦での高城胤辰の活躍は知られているが、高城氏を派遣して自らは動かなかったとされる千葉宗家の千葉胤富も出陣したと「千葉大系図」には見える。

なお、この第二次国府台合戦後、後北条軍は上総の奥まで侵攻し、その際に小弓城を奪還し、原氏を小弓に戻したらしい。その時原氏は小弓城を城割(破却)して北生実の生実城に移ったとされている。しかし、実際には、発掘調査で後代の遺物も発見されているため、南生実の小弓城は継続して使用されたと思われる。

<国府台城~現里見公園>

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<里見軍敗走路~船橋>

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4..国府台城と合戦にまつわる謎と伝説

国府台城のある台地は、江戸川に沿った標高20~25m位の舌状台地である。その台地上、現在の里見公園および関宿から江戸初期に移された総寧寺の敷地内に、江戸川に沿った細長い郭を囲むような、大きな二重土塁、その二重土塁の間の空堀や、物見の松と呼ばれる櫓台などがある。その北の住宅地にも、江戸川に面した台地端に土塁が見られ、数郭配されている。また、里見公園北側にある土塁は、明戸古墳という前方後円墳を利用したもので、太田道灌が発見したという石室が剥き出しになっている。大規模な土塁や堀はあるが、断片的な遺構しか残っておらず、江戸期の廃城、総寧寺の関宿からの移転、明治からの陸軍砲兵隊の駐留と戦時中の高射砲陣地敷設等による改変があり、当時の真の姿が分からなくなっている。当時の様子は、江戸名所図会に川に面する西側を除いた、東、南、北の三方にコの字形に土塁があって郭を取り巻く状態が、わずかに示されているのみである。この国府台城と市川合戦の市川城を同一視する向きがあるが、本当だろうか。

市川城が千葉氏によって築城され、市川合戦前の康正元年(1455)には存在し、国府台城が境根原の合戦に際して、文明10年(1478)に太田道灌の作った仮の陣城を元に、その後の戦国期の2回の国府台合戦で補強され、城砦として完成されたのは事実であろう。市川合戦後の康正2年(1456)から文明10年(1478)の22年間のどこかで市川城が廃城とならなかったとすれば、文明10年以降、市川城と国府台城はある期間併存したことになる。また国府台城は、西に太日川(現在の江戸川)を望む高台にあり、里見公園、総寧寺辺りに土塁や櫓台、堀などのあとが見られる。市川城は、恐らくその性格から国府の近くにあったと考えられ、真間山弘法寺のある真間を見下ろす台地端から現在の千葉商科大、あるいは国府台病院にかけてのどこかにあったと推定される。現実に真間山弘法寺の境内には土塁が存在し、真間山弘法寺のある台地端、現在国府神社のある辺りが、市川城があった場所という説がある。一方、国府台の台地でも、国府台城は太日川沿いに偏った地域に南北に長く郭が配置されていたと思われるが、これは国府台合戦で後北条氏の軍勢が拠った江戸川の対岸にある葛西城に対する、「向い城」の意味あいがあったと考えられる。
以上から、市川城と国府台城は近い場所にあったが、築城の目的も存立時期も異なる別の城と思わざるを得ない。では国府台城が太田道灌によって初めて築かれた後、戦国期二度の合戦での攻防を経験していた頃、市川城はどうなっていたのであろうか。千葉実胤、自胤が足利成氏の攻撃を受けて武蔵へ逃れてから、主を失った市川城は廃城となったかもしれない。しかし、付近の曽谷城や国分館は鎌倉期初頭前後に築城された後、曽谷氏が康正2年(1456)の市川合戦で武蔵に逃れ、国分氏も下総における拠点を大戸辺りに移してからも、曽谷城址など戦国期の土塁や堀が存在し、戦国期にも城郭として存続していた。したがって、市川城も戦国期に再構築され国府台合戦などで利用されたことも考えられる。

ともあれ、市川城はかつての千葉宗家と馬加系千葉氏との最後の決戦の場となり、国府台城は二度の国府台合戦の舞台となった。それぞれ、下総地方をめぐる勢力の戦いの場となったわけである。
国府台合戦が行われた里見公園内には、里見方の将士の供養碑や里見弘次の姫の伝説の「夜泣き石」があり、敗れた里見氏への世人の同情や憐憫を偲ばせる。

<里見将士の供養碑>

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<夜泣き石>

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国府台周辺の遺跡と伝説(その2:真間山弘法寺と市川城)

前回、国府台周辺の伝説として、真間の手児奈について紹介した。

その手児奈を祀る手児奈霊堂の北側の台地上にある真間山弘法寺は、鎌倉時代の建治元年(1275)に真言宗から日蓮宗に改宗した古刹であるが、実はこの弘法寺自体(あるいはその寺域)が康正2年(1456)正月の市川(市河)合戦の際、千葉実胤、自胤が拠った市川城であったという説(千野原靖方氏の説)がある。

◆市川城とは

言うまでもなく、市川の国府台は、下総の国府が置かれた場所である。また、その国府台は治承四年(1180)源頼朝挙兵時の千葉介常胤参会の舞台であった。千葉氏の本拠としての城は、千葉常胤の父常重の代から千葉城であったが、平安時代末から鎌倉時代の初め頃は国府、国衙のあった国府台が下総における政治の拠点であったと思われる。市川城は、下総権介としての千葉氏の居城であるとともに、何か有事の際に千葉氏が兵を率いて立て籠もれるような城であったのであろう。市川城は、下総国府の近くに、当時の様式通り単郭方形の館として築かれたかもしれない。あるいは真間山弘法寺の境内の西側、台地端にある弘法寺古墳など台地上にあった古墳を土塁代りに使うようなこともあったかもしれない。真間山弘法寺の境内には、鐘楼がある本堂南東側の一角に本当に土塁らしき土盛がある。

千野原靖方氏の『千葉氏 室町・戦国編』によれば、「市川城については、『武家事記所収文書』(康正二年)四月四日付足利成氏書状写に『餘黨等尚以同国市川ニ構城槨候間、今年正月十九日不残令討罰、然間両総州討平候了』とみえる。この市川城は、『真間山市河』=弘法寺敷地内、すなわちその寺院の施設を利用して構築された城であったと推定され、(小略) 市河合戦は日蓮宗の門徒と密接に関わっており、当地域における日蓮宗の拠点を念頭に置かなければならない。千田庄・八幡庄の日蓮宗寺院の中には本妙寺=中山館、法華寺=若宮館の例の如く、城館としての性格の色濃い、その構えを持った寺院も多かったのである」とある。確かに周辺には現在の中山法華経寺の前身、法華寺に若宮館(富木常忍の館)、本妙寺に中山館(大田乗明の館)と日蓮宗寺院と鎌倉武士の館の組み合わせが特徴的で、曽谷についても日蓮宗信者の曽谷教信と曽谷館(戦国期の曽谷城ではなく、曽谷教信存命中に使用した館)は同様の組み合わせであろう。

しかし、真間山弘法寺境内の古墳や鐘楼がある場所は、台地端の東西300mほどの直線の延長上にあって、この両方を含む単郭方形居館であったなら、かなり大きなものとなり、現実には城の土塁として用いられたかどうか、土塁として用いられたにしてもどちらか一方か、複郭構造であったものか。

<真間山弘法寺>

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市川城があった場所は、真間山弘法寺の境内を含めて、現在の国府台のどこかにあったと思われる。国府台は現在、公園や病院、住宅地などになっていて、その痕跡を殆ど留めていない。ここは戦前・戦中は砲兵連隊が配置され、兵舎や錬兵場の設置、首都防衛のための高射砲陣地設置など軍事目的のために台地の至る所が掘り返された。戦前・戦中の軍事利用さらに戦後の市街地化とともに、市川城址は破壊されている模様で、千野原靖方氏の説は別として、現状では市川城の正確な場所も分からない状態である。

<弘法寺周辺の航空地図>

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◆千葉宗家の最後の拠点

康正元年(1455)、当時関東における覇者であった古河公方足利成氏への立場によって、千葉氏は分裂する。すなわち、足利成氏に組みする有力な千葉氏庶子、馬加康胤と同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らによって、足利成氏と対立していた千葉氏宗家の胤直は、千葉城を急襲され、子の胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、千田庄の志摩城や多古城に拠った。千田庄は九州千葉氏の本拠地で、ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待った。しかし、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさ(武射か)の阿弥陀堂」で自刃し、志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃され、胤直、胤賢兄弟はそこを脱出し土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で胤賢も脱出先の匝瑳郡小堤辺りで何れも自刃し、常胤以来の千葉宗家は一旦滅んだ。その千葉宗家のあとを継いだのは馬加康胤であったが、その康胤、胤持父子も将軍足利義政の御教書を戴いた東常縁らによって滅ぼされ、その後の千葉宗家は康胤の子岩橋輔胤が継いだ。輔胤は原胤房と下総国内で分散し、東常縁軍に抵抗を続けた。一方、胤賢の子実胤、自胤は、土橋の如来堂を逃れ、一時東常縁や両上杉氏に後援されて市川城に拠っていた。足利成氏は康正2年(1456)正月、胤賢の子実胤、自胤の拠る市川城を攻撃し、実胤は武蔵の石浜城(現在の浅草近辺)へ、自胤も武蔵赤塚城へ落ちていった。これが、武蔵千葉氏の始まりであった。

<市川城があったといわれる真間山弘法寺境内の土壇と鐘楼>

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◆市川城と国府台合戦の国府台城は、同一の城か

この市川城と国府台合戦の国府台城は、同一の城という説がある。本当にそうであろうか。その件は真間山弘法寺の施設をつかって市川城がなりたっていたとすれば、別であることは自明である。では、国府台城とはどのような性格の城であるのか。それについては、次回。

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国府台周辺の遺跡と伝説(その1)

市川市の国府台は、読んで字の如く、かつて下総国の国府があった場所である。その国府台は、戦時中までは野砲兵隊や高射砲部隊が置かれるなどして、軍隊の町であったが、中世以前の様々な遺跡が残っている。長い軍隊の駐留や戦後の開発によって、かつての国府、国衙の遺跡や大小の古墳、中世城郭などの遺跡が、かなりの部分破壊されてしまったことは残念であるが、周辺を含めて、残存する遺跡もあり、またそれらにまつわる伝説もある。今回、その一端を紹介する。

JR市川駅から北へ向って、国府台にむかって歩いていくと、まず市川真間の弘法寺の参道が目に付く。その辺りから、真間川の向う、弘法寺のある台地を望むとき、かつてその低地は殆ど真間の入江で、海であったのに気付かされる。中世まで、国府台の台地の下は西から大きく入江が入り込み、その南側の一部に砂嘴があるという地形であったのだ。その真間は、今は京成市川真間駅の周辺と弘法寺参道沿いに商店が建ち並ぶ、古い商店街である。

<真間の入江の名残り、真間川沿いの低地から弘法寺方面を望む>

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つまり、真間川の下流域が、かつての真間の入江であり、弘法寺参道は、その入江があった場所をこえて真間の台地下を一直線に、弘法寺の石段の下まで続いているというわけである。その途中に後述する、真間の継橋や手児奈霊堂などがある。

<弘法寺参道>

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手児奈伝説

市川国府台の台地下の真間といえば、真間の手児奈の伝説が、有名である。真間の手児奈とは、古代真間にいた娘であり、村長あるいは国造の娘とも、巫女ともいわれる。そして、伝説では手児奈は美人であり、複数の男性から求婚されたことがもとで懊悩し、真間の入江に入水自殺をとげたとされる。

真間の手児奈の伝説は、いろいろと万葉集の題材になっている。

にほ鳥の 葛飾早稲をにへすとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも (東歌) <巻一四の三三八六>

このにほ鳥とは、水辺にいるカイツブリの古名であるが、ここでは葛飾の枕詞である。葛飾は勝鹿とも書いたが、葛飾の早稲を神にささげる新嘗の夜は、恋人が訪ねてきても家の中にいれる訳にはいかない。なぜなら、自分は今、神に仕える身なのだから。しかし、そうはいっても、あの愛しい人を、夜通し家の外に立たせたままにしておけるだろうか。

というような意味であり、情熱的な歌である。

また、同じ万葉集で、やはり真間の手児名について山部赤人の詠んだ歌があるが、

吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処   <巻三の四三二>

葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ <巻三の四三三>

というものである。

上記の最初の一首を現代語にすれば(するほどのこともないが)、以下のようになるだろう。

私も見た 人にも告げよう 葛飾の真間の手児名が眠る墓の様子を

また、高橋虫麻呂も、万葉集に

勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平(な)らし 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ  <巻九の一八〇八>

という歌を詠んでいる。

手児奈は、国造の娘や巫女であったという説以外に、一庶民であったとか、遊女であったという説もある。
山部赤人の歌は、「玉藻刈りけむ」、つまり入江できれいな藻を刈っていた、健康的な庶民女性を前提に詠まれたようである。それは複数の男性から求愛されて、入水自殺した女性という、はかないイメージと違い、山部赤人の歌は、前出の歌の前に
「いにしへに 有りけむ人の 倭文幡(しづはた)の 帯解き替えて 伏屋たて 妻問いしけむ」とあり、どうも手児奈は誰かに求婚されて、結婚したように詠まれている。また、高橋虫麻呂の歌でも、「勝鹿の 真間の手児奈が 麻衣に 青衿づけ ひたさおを 裳には織り着て 髪だにも かきは梳らず 靴をだに 履かず行けども 錦綾の 中に包める いはひ児も 妹にしかめや」とあり、身なりは粗末で髪の毛を梳ってもいないし、靴もはいていないが、どんな令嬢にも負けない美しさであったと、手児奈が庶民女性であると明言している。それが、いかなる経緯でなくなったのか。

山部赤人や高橋虫麻呂のころに、すでに手児奈は、伝説の人になっていた。
そして、万葉集でも、いろいろなイメージを詠む人によって持っていたから、ニュアンスの違う歌が生まれたのであろう。最近の研究では、手児奈は名前ではなく、一般名詞で、特別な若い女性を指す、すなわち抱かれる女性(東国方言で「てご」は女子を指し、奈という幼児を示す接尾語がついた「お姉ちゃん」に近い意味)のことをいっているのだという。またその当時の遊女(あそびめ)は、近世の遊女とは異なるが、遊行僧が旅から旅へ渡り歩いたように、「男から男へと『遊行』する女婦」を意味するのだという。もし、本当にそうなら、従来われわれが抱いていた、真間の手児奈のイメージとは、かなりのギャップがあるのだが、如何に。

<真間の継橋>

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真間の継橋は、砂洲が南にあり、入江が入り込んでいた当地をいくつかの橋を継ぐことで、国府まで通ることができるようにしていた、その橋のことであるが、当然ながら、当時の橋は入江の杭に板などを渡して作った粗末な橋であったろう。現在、赤い欄干の短いコンクリート製の橋があるが、高知のはりまや橋を思い出す。しかし、けなしてばかりではいかがなものか。ちゃんとこの橋にも、万葉集の歌がある。

足(あ)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 止まず通はむ (東歌) <巻七の一三三九>

真間の継橋を足音がしないように、馬で手児奈のもとに通えるなら、通いつめるのに、というような意味である。板橋を馬で行って音がしないのは無理であるが、それくらい手児奈のもとに通いたいという男たちがいたということか。

<手児奈霊堂~手児奈の墓があった場所に建てられたという>

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手児奈霊堂は、真間の台地のすぐ下にある。近くには、真間の井で有名な亀井院がある。この手児奈霊堂は、文亀元年(1510)、日蓮宗の寺となっていた真間山弘法寺の日与上人が手児奈の奥津城跡に手児奈を祀ったと伝えられている。もともと、弘法寺と手児奈は、奈良時代の天平9年(737)に行基が当地を訪れ、求法寺という寺堂を建てて、手児奈を供養したのに始まるとされるが、弘法寺の七代日与上人が読経しているときに、少女の霊が現れ、この寺を守護するというお告げをしたため、日与上人はこれを手児奈の霊とし、現在の場所に霊堂を建てたと伝えられている。

<亀井院>

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なお、現在の手児奈霊堂は、安産、子育て、縁結びの信仰を集め、近所の人が遊びに来たり、古代の赤米を利用した食物などのフリーマーケットが開かれるような場所になっている。

手児奈霊堂の道を挟んで向い側には、亀井院がある。これは寛永15年(1638)頃、弘法寺の第十一世住職日立上人によって、貫主の隠居寺として建てられた。はじめ瓶井坊と称し、のちに弘法寺の大檀那鈴木長常を葬って鈴木院と改称、長常の子鈴木長頼が宝永2年(1705)になくなって没落すると、近傍にあった霊亀出現の井戸、亀井(真間の井のこと)にちなんで亀井院と再度改称した。その亀井、真間の井は、亀井院の中庭に伝わっている。

手児奈霊堂や亀井院の北側、台地上にあるのが、真間山弘法寺である。読んで字のごとく、元は真言宗の寺であったが、天台宗となり、さらに鎌倉時代に日蓮宗である法華寺(現中山法華経寺)の開基富木常忍らと法論となり、日蓮宗の僧が勝ったために、日蓮宗に改宗した。その経緯を真間山弘法寺のHPでは、以下のように書いている。

「鎌倉時代に入り、建治元年(1275)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。
 その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。」

この真間山弘法寺、いろいろ謎を秘めた寺である。それについては、また次回。

<真間山弘法寺の石段>

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船橋周辺の変わった石造物

船橋周辺を歩いていると、変わった石造物に出くわすことがある。以下、そのうちの数例を紹介する。

たとえば、下の烏のレリーフであるが、高根の熊野神社の狛犬ならぬ、熊野烏である。その熊野神社は慶応年間に建てられた小さな神社で、道の奥の住宅のあいだになるために分かりにくい。高根は小金高城氏の一族という高城山城守が城主であったという高根城があったところ(高城右京亮という族臣の館址という場所もある)で、高城氏所縁の熊野神社を勧請したものであろう。烏は熊野権現の使いというから、それで烏の彫刻があるわけだ。高城氏は、八木原文書「小金城主高城氏之由来」によれば、九州千葉氏の祖である大隈守胤貞の弟新介高胤のニ男胤雅の代に九州千葉氏から分岐し、肥前高城村から高城姓を名乗って、南朝方として戦った歴史を持ち、最後に拠ったのが紀伊熊野新宮であったと伝えられ、実際高城氏には熊野信仰がある。高根にある熊野神社は、熊野権現と大六天を祀っており、珍しい神使の烏の石像が狛犬のように建てられているが、高城氏の熊野信仰によるものであろう。

<高根熊野神社の烏>

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また、高根の北東の古和釜の東光寺には、侠客であった人物の出家姿の石像がある。東光寺の焼失した薬師寺跡に、百葉箱のような木製の箱があり、その中にその石像は安置されている。市指定文化財の像高27cm、袈裟をかけた僧形の坐像で、蓮華座の上に載せられており、像の背面に「自休大徳」という文字が刻まれている。この「自休大徳」とは江戸時代初期の侠客、深見十左衛門が出家して号したもの。

東光寺は瑠璃光山清蓮院といい、天台宗延暦寺派の寺である。なぜか、真言宗の吉橋の愛宕山貞福寺と関係が深く、吉橋とは講の関係がある。石造自休大徳坐像は、深見十左衛門出家後の姿。深見十左衛門は、剃髪後、この石像を石工に刻ませたという。深見十左衛門没後、長年仕えていた子分が、この像を持って全国を行脚し、最後にこの地にたどりついたので、この像が東光寺に安置されていると伝えられている。

侠客とは思えない、小さな可愛らしい石像で、どんな心境で出家したのかなど、気になる仏である。

<「自休大徳」坐像>

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もうひとつ、船橋の街中、正確には寺町にあるのが、不動院の大仏である。大仏といっても、それほど大きくない、不動院の釈迦如来坐像。像そのものは、珍しくはないが、この大仏に毎年2月28日になると、顔の口の部分に飯を盛るという習俗がある。これは、船橋市の無形民俗文化財となっている「飯盛り大仏」の習俗である。この「飯盛り大仏」の由来は悲しい話である。

江戸時代、船橋浦の漁場をめぐって、船橋の漁師と近隣の浦安、葛西辺りの漁師はたびたび紛争となった。船橋浦は三番瀬など、江戸前の恰好の漁場で、密漁も多く、漁業権を主張する船橋の漁師と周辺地域の漁師がよく争い、海上で争うことも多かった。特に文政7年(1824)には、一橋家御用の幟を押し立てて来た葛西の漁師と、船橋浦を守ろうとした船橋の漁師が衝突し、葛西の船に乗っていた一橋家の侍を船橋の漁師が殴ったことから大事となり、船橋の漁師惣代3名が入牢させられ、そのうち仁右衛門、団次郎の2名が獄死もしくは出牢後に病死した。その80年ほど前の延享3年(1748)津波の被害で落命した漁師たちの供養とあいまって、その牢の中で飯も満足に食べられなかった漁師惣代の苦労を偲んで、文政8年より大仏の顔に正月28日に飯を盛ることが年々続けられ、今日に至っている(明治以降は2月28日に飯盛りをする)。

その大仏は、石造の釈迦如来像であり、不動院の門前にまつられ、いつも近隣の人の手によってか、花が供えられている。

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そのほか、路傍の石仏にも面白いものがある。中世に佐津間城があった鎌ヶ谷市中佐津間の大宮神社の鳥居の近くに、元禄期の古い青面金剛像があるが、これはいかにも武骨で洗練されていない。同じ作者のものと思われる像は、松戸などにもあるようだ。一説には、行者の作という。稚拙ななかに、ユーモラスでもあり、洗練された後世の石仏より、味がある。

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旧沼南町大井をめぐる伝承

現在は柏市になっているが、旧沼南町に大井という場所がある。ここは旧沼南町でも比較的早くから開けた地区であるが、いろいろな歴史伝承を持っている。

大井といえば、「大井の晩鐘」の福満寺を思い出す人もいるかもしれない。福満寺は山門からして、古色蒼然としている。しかし、山門を過ぎると、なぜ本堂まで下がっていくのであろうか、逆に上って行く寺はよくあるのであるが。それはともかく、相馬御厨がかつてあった場所は、鎌倉時代に相馬氏が支配下においたために、相馬氏が千葉氏、さらには平良文ら阪東平氏の流れを汲み、また平将門が本拠にした岩井も近いとあって、この辺りにも将門伝説がある。

<大井の福満寺山門>

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それは、伝承によると、平将門が藤原秀郷に敗れてなくなった後、その妾であった車ノ前が遺児とともに大井の地に隠れ棲み、将門が信仰していた妙見菩薩を祀る堂をたてて、菩提を弔ったというものである。実際、車ノ前の墓と伝えられる五輪塔が、福満寺の裏にある。すなわち、福満寺南側の境外地にある約100m四方の森となっている、「妙見さま」と地元の人から呼ばれる妙見堂の跡地に、その五輪塔はある。車ノ前が生前将門の菩提を弔うために妙見菩薩を祀る堂をたてたものが、現在の妙見堂跡といわれ、地元の人々は例年2月21日には将門の命日と称して妙見講を行っている。

さて、手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の父常重が、その叔父常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝が領有した。当時、源義朝に千葉氏はしたがっており、千葉氏も未納分を返して権利を主張したが、義朝の方に分があったらしい。さらに常陸の源義宗が相馬郡を領有、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も、下総相馬氏は南朝についたため罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国期まで当地に残っていたと思われる。実際、大井の大津川対岸の戸張にいた戸張氏は、相馬氏系である(後に、戸張氏も高城氏、後北条氏の圧迫をうけ、簗田氏配下に走り、戸張からいなくなるが)。

<戸張城の堀址>

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しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。なお手賀城主は原氏であり、手賀周辺を原氏が治めたといわれるが、戦国期には、小金の高城氏が当地も支配下に置いている。その大井には、かつて大井追花城があった。もともと、この城は大井追花の相馬氏系の在地領主の城館であったとともに、大津川河口付近の水運を監視する、役割を担っていたのであろう。

<この道の両側の藪の中に大井追花城址がある>

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なお、この城には面白い伝説があり、大津川対岸の戸張城主、戸張弾正と、当城の城主とは仲が悪く、合戦を度々行っていた。その最後の決戦の時に、両将が自ら戦い、組打ちとなったまま、水田に落ちて、どちらかが相手の鼻を食いちぎったため、その田があった場所を「鼻喰田(はなつけげ)」というのだという。戦国時代には戸張も大井も、高城氏の支配下になっていたため、そうした合戦はありえないが、それ以前の時代には在地領主同士の小競り合いのようなことはあったかもしれない。 大井追花城主は、高城伊勢守とも坂巻若狭守とも伝えられるが、あくまで伝承であり、確たることは分かっていない。高城伊勢守といえば、八千代市吉橋にあった吉橋城主として伝承されている人物と同姓で同じ受領名である。しかし、高城伊勢守という名前が信じるに足る古文書類に出てきた例がなく、戦国時代には高城氏の支配下にあったというのは確かとしても、そういう人物が城主であったという証拠はない。伊勢守という受領名は、何かもっともらしく、昔は名前が分からない場合、伊勢守とかいっておけば本当らしいと、勝手につけてしまったのか。

坂巻若狭守というのも同様で、大井の福満寺観音堂縁起に大旦那とあり、相馬氏の一族である坂巻氏が当地の領主であったと想定できるが、客観的な史料には出てこない。しかし、城址の近くにある妙照寺の慶長11年(1606) 9月13日の『護代帳』(中山法華経寺)には、酒巻勘解由、坂巻八郎右衛門など坂巻姓の者が見られ、やはり相馬氏族坂巻氏が在地領主であった可能性がある。たしかに、坂巻という名字は、大井には多い。

大井追花城は、高城氏が勢力を当地にまで拡大したときは、その代官として派遣されていたであろう座間氏が預かっていたと思われる。実際、現在も子孫が残っていて、その座間さんが、城址のある場所の地主である。ちなみに座間氏の名字は、今の神奈川県の座間から来ているという。 前述したように、大井は手賀沼、大津川の水運の拠点であったようで、古くから商業活動も営まれていた可能性がある。商業、流通は、物と同時に、人の行き来も伴うものである。そのため、大井は旧沼南町では、比較的開放的なところがあるのかもしれない。

<大井追花城址の土塁>

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白井の小森城は商人的武士の城か

◆小森城と「手賀合戦」に絡む伝承

千葉県白井市の手賀沼に面した平塚地区のはずれ、白井工業団地の近くに小森城址がある。当地区はかつては印西庄の一部であり、中世を通じて千葉氏の支配をうけた地域であるが、鎌倉時代の一時期には金沢氏などの支配をうけ、鎌倉の常陸方面へのおさえとされた。近世では平塚から揚がる鮮魚を松戸まで陸送し、さらに現在の江戸川を使って江戸まで水運で運ぶという鮮魚道(松戸道)に近く、手賀沼の水運とあいまって、水陸交通の要衝であった。小森城は、伝承では千葉氏系の武士の城といわれ、江戸時代の軍記物に影響されたものか、手賀合戦の話と絡んで、以下のような伝説がある。

「むかし、平塚の小森に城があった。小森の殿様は千葉氏の家来で、あるとき、沼の向こう岸にある手賀城の攻略をまかされた。しかし、小森の殿様は、あれこれ理由をつけては攻めこまずにいた。
というのも、敵の手賀の殿様は、実はたいそうかしこく美しいお姫様で、小森の殿様はこの姫に恋をしていたからだった。人知れず夜の手賀沼へ船を浮かべ来る女城主の姿を小森の岸辺からいつも見守っていた。主の命令とは言え、攻めるに攻められず、毎日思案していたが、たびかさなる命令も断りきれず、援軍がくるという話しになって、板ばさみとなった小森城主は、手賀沼に身を投げて自殺してしまった。
現地の大将を失った千葉軍は、結局手賀城を攻め落すことができなかったという。」(「板ばさみの小森城主」『白井の伝説と文化財』白井市郷土資料館 2002年発行 より抜粋)

<手賀沼の夕日>

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ニャンコの部屋素材館より

手賀合戦とは、手賀城をめぐって、手賀で合戦が行われたというもので、江戸時代の軍記物語として書かれた「東国戦記実録」には、手賀原氏とそれを滅ぼそうとした千葉宗家と臼井原氏(原氏本家)が、手賀城周辺で合戦を展開するという記述がある。小森に隣接する同じ平塚郷とされた名内にある名内城についても、「東国戦記実録」の中で名内ノ台に手賀原氏の家臣栗林左衛門ら三百余名が拠ったというくだりがある。勿論、「東国戦記実録」のような軍記物は信憑性に問題があるが、手賀沼南岸に位置する平塚辺りは、対岸の手賀原氏の影響をうけるとともに、戦国後期には小金高城氏の最前線基地とされていたと思われる。

◆古く、特異な構造の小森城

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小森城は、構造的には方形居館を思わせる方形の主郭をL字形の外郭がとりまくという特異な形であり、城域は120m四方程度と比較的小規模ではあるが、手賀沼を運航する船などの監視所という単目的の城としては大きいため、やはり伝承にあるように地域支配の城という性格もあったようである。

城域は外郭部も含めて約120m四方に渡るが、主郭部分は台地端で一段高くなっており、約70m四方で郭の周囲に土塁がめぐり、さらにその外側に空堀がめぐっている。虎口は、主郭北東部の櫓台と思われる土塁端の東側と主郭西側に1箇所ある現在も使用されている出入口のほかに、南側にも1箇所あったと思われるが、南側は工業団地造成時に破壊されたらしく、土塁に大きな間隙があるのと、その間隙に対応して空堀も埋められ、本来の虎口や土橋の状況が分かりにくくなっている。この虎口は平虎口であり、堀に土橋が架かっているし、防衛上の工夫がみえない古いタイプのものである。

<郭の南側虎口>
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東側の主郭と外郭の境界には、低い土塁がめぐり、その向こう側には空堀があった痕跡がみられるが、やはり土砂が入ってかなり埋っている。主郭の北側は急崖でその斜面中段には腰郭があり、その下の低地は現状水田であるが、かつては手賀沼が台地下の間近まで迫っていたのであろう。腰郭は、その手賀沼の湖面からの攻撃を防ぐために作られたと考えられる。

主郭の北東部には土塁の端が4m四方の隅櫓状に広がった平場があり、現在城山稲荷が祀られている。城山稲荷の祀られている土塁端の櫓台を赤い鳥居のある下の平面から見ると3m以上の高さがあって、稲荷に参るときに土塁を上り下りするための階段も付けられている。その櫓台東側には主郭と外郭部の境界の空堀があり、それが北側斜面に下りて犬走りになって、台地中段の腰郭に続いている。外郭部は城山稲荷の祀られている土塁の下が北西端で、北側は主郭の延長線上に現在は城山稲荷の赤い鳥居の立つ参道として空堀が続く。

<櫓台らしき土塁の終端部と、手前の鳥居>
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外郭部東側は1m強と低いながらも堅固な土塁が南北に走り、その外側は空堀で堀底は通路として使用されている。その空堀は北側斜面を下りて竪堀となり、水田へ下りる通路として使用されている。外郭部東側の空掘には、一箇所折れのある場所があり、この城址には珍しく横矢掛けができるようになっている。すなわち、その近くに外郭部の虎口があり、空堀には木橋を架けていたらしい。主郭の虎口が平虎口と前述したが、この部分のみ唯一戦国期らしい工夫がみられる箇所となっている。

城址東側には北側の水田のある低地から小支谷が南西へまわりこんでおり、それはなだらかな傾斜をもって手賀沼の湖面から城址付近まで上るに適している。この小支谷に船を手賀沼から引き揚げ、船着場とした模様であり、逆に手賀沼沿岸にある半島形の地形のなかで、そういう自然地形となっていたがゆえに、当地に築城したといえるであろう。

◆小森城にそっくりな印旛沼北岸の高田山城

じつは、この小森城をまるでコピーして作ったような城が印旛村にある。それは、印旛沼北岸の岩戸を川沿いに奥へ入った高田山城である。しかし、高田山城は小森城よりは、横矢掛けの工夫が随所にみられるように、戦国後期の城という印象がつよい。小森城は、伝承のように千葉氏系の武士の城としても、その城主は流通業者的な性格をもっており、城自体物流の拠点となっていたのではないだろうか。そのような武士が商人的な性格をおびるという例は、関宿河岸の町人頭となった簗田家家臣の会田内蔵助や、千葉氏直臣で、後に酒々井の商人となった篠田大隈守などの事例がある。

小森城の構造からも、船着場の件以外にも、郭内に少し低くなった副郭があり、そこに貯蔵のための設備があったとも考えられ、流通、商行為に関わる者が築いた可能性があると思われる。もっとも、その辺は発掘でもしないと確証は得られないが。あるいは、戦国時代のあまり後にならない時点で、何らかの事情で小森を引き払った商人的な武士が、印旛村高田山に同じような城を築き、移転していったとも考えられる。

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臼井城退転後の臼井氏

鎌倉時代から戦国時代にかけて、臼井城の城主として、宝治合戦後の一時的な没落期以外は、連綿として名門臼井氏が存続し、その治世を継いで来た。しかし、戦国期も半ばに入り、ついたり離れたりした古河公方との関係や千葉宗家の衰退、千葉氏重臣であった原氏の台頭など、歴史の波に翻弄され、臼井氏の勢力にも翳りが見えるようになってきた
弘治3年(1557)14才で臼井景胤の跡を継いだ当主久胤であったが、景胤の「小弓の原胤貞に城を護ってもらうように」という遺言により臼井に来た原胤貞に、事実上城主の座を追われ、現在「御屋敷」という地名の残る臼井城の主郭部の南に位置する谷に屋敷を構えて幽居させられた。

<臼井城主郭より臼井氏の菩提寺円応寺を望む>

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小弓の原胤貞は、月の三分の二は臼井城の本丸(第1郭)に居住して、「小弓、臼井両城主」と称された。原胤貞は、家臣、領民に対し、俸給を上げ、税を軽くするなどの施策をしたために、城主として尊崇され、かたや本来の城主であった臼井久胤はないがしろにされた。そこで、臼井久胤は、ひそかに城を出ることを考えていた。

永禄4年(1561)里見氏重臣の正木大膳が臼井、小弓城に攻めてきたのを機に、臼井久胤は臼井城を脱出して結城に走り、臼井城は落城した。臼井久胤は結城晴朝に仕え、十二人円判衆の一人という重臣に列せられた。臼井久胤は水谷(みずのや)正村(蟠龍斎)の旗下として、その厚遇を受けた。永禄9年(1566)3月、後北条氏打倒を目指し、関東に出陣した上杉謙信と里見義堯・義弘父子らの軍勢が原氏の臼井城を攻めたが、この臼井城攻めの軍勢のなかに、臼井久胤の姿があった。臼井久胤は結城晴朝に従って、上杉勢に加わったのである。この合戦では第1郭を残し「実城堀一重」というところまで、上杉勢は攻めたてたが、臼井方はよく守った。臼井久胤がよく知っていた堅城ぶりが発揮されたのである。上杉勢は臼井城主原胤貞の好守備により敗退し、臼井久胤は結局臼井に復帰出来ず、下館で生涯を終えた。

久胤は結城で上野氏の娘を妻に迎え、忠胤、良胤、村胤という子を成した。長じて忠胤と村胤は水谷(みずのや)氏に仕えたが、父久胤の待遇と比べ、禄も減らされ冷遇された。忠胤は水谷家を辞し帰農したが、その子常数は苗字帯刀を許され、子孫は牛久の山口家などに仕えた。良胤は立身を目指して大坂へ行き、浪々の日々を送り、音信不通となった。
村胤は寛永17年(1640)、水谷勝隆の国替に伴い、備中高松に赴き、その地で亡くなった。
その子益胤、孫秀胤は水谷家に仕えるも、秀胤は水谷家を出て浪人後、間部家に300石で迎えられ、子孫は代々間部家に仕えて越前鯖江に居住した。こうして、臼井城主として権勢を振るった臼井氏の嫡流は、臼井から離れ、別の場所で家名を残したのである。

一時里見勢の手にあった臼井城であるが、落城の報せを聞いた千葉胤富が原胤貞を先鋒として臼井城を攻めさせ、これを奪回、原氏は臼井城に返り咲いた。原氏は以降、臼井氏に代わって臼井領の支配を確立していく。今も臼井氏菩提寺円応寺には臼井氏中興の祖、興胤の十三代後胤で、久胤からは孫にあたる益胤の娘貞笑尼を含め、臼井氏の子孫の墓がある。また久胤の曾孫秀胤(信斎)は、有名な「臼井八景」*の撰者である。

*臼井八景とは、以下の和歌にあらわされた臼井周辺の情景

「舟戸夜雨」 漁する舟戸の浪のよるの雨 ぬれてや網の縄手くるしき
「遠部落雁」 手を折りてひとつふたつとかぞふれば みちてとをべに落つる雁がね
「飯野暮雪」 ふり積もる雪の夕べを見ぬ人に かくといひののことの葉もなし
「師戸帰帆」  もろ人の諸戸の渡り行く舟の ほのかに見えてかへる夕くれ
「瀬戸秋月」 もろこしの西の湖もかくやらん には照る浪の瀬戸の月かげ
「城嶺夕照」 いく夕べ入日を峰に送るらん むかしの遠くなれる古跡
「光勝晩鐘」 けふも暮れぬあはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん
「州崎晴嵐」 ふき払ひ雲も嵐もなかりけり 州崎によする波も静かに

<師戸城址から臼井方面を望む>
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