船橋印内にある成瀬地蔵

「犬山まつり」は桜と山車で有名であるが、その犬山城の城主成瀬氏は、船橋と所縁がある。
犬山城主となった成瀬氏と船橋との関わりは、犬山城主初代の正成の代から始まる。成瀬正成は徳川家康の側近であったが、天正18年(1590)に家康が豊臣秀吉によって関東に移封された際、栗原郷といわれていた現在の船橋市西部の四千石の所領を与えられた。成瀬正成は、能力のあった人物であったらしく、関ヶ原の合戦で軍功をあげ、堺の行政官としても業績をあげた。その功績に対して、甲斐で2万石、三河で1万石を与えられ、大名に列する。しかも、後の老中に相当する年寄り衆に慶長12年(1607)から元和2年(1616)の9年間任ぜられた。

<木曽川沿いの道から見た犬山城>
inuyamajyo

ところが成瀬正成は、元和3年(1617)、徳川家康の九男義直が尾張徳川家を興したときに、家康に懇願されて付家老となった。これによって、将軍側近の譜代大名であった立場から、将軍家からみると陪臣となる。家康存命の頃や秀忠、家光が将軍であった頃には、成瀬氏と徳川家康の近しさ、正成の業績を知る人も多く、正成やその子の正虎は、大名でなくともそれなりに処遇されていた。しかし、後世になると、陪臣扱いが顕著になっていく。つまり3万石以上の所領をもちながら、大名ではなくなったことが、後の成瀬家に影を落すのである。
成瀬正成は、家康の有能な部下であったがゆえに、普通の大名で生涯を終えることができなかった。そのアイロニーは、正成の次男之成が将軍秀忠の小姓として千石を与えられていたのに、正成が犬山城主となったときに、正成の所領の一部である栗原郷四千石と三河の一万石を譲って、之成が大名となったことにも現れている。つまり成瀬本家は尾張徳川家の付家老、之成の栗原成瀬家は大名となったのである。
その後、正成は寛永2年(1625)に江戸で没し、船橋の宝成寺で荼毘にふされた。さらに、日光の家康の廟近くに埋葬された。その犬山の家督は長男正虎が継ぎ、以降連綿として明治維新を迎える。

<船橋の宝成寺>
houseiji

<宝成寺の成瀬家墓地~大きな石塔が犬山城主七代正寿の墓>
masatoshi

一方、栗原の成瀬之成は寛永11年(1634)に39歳で亡くなり、家督はわずか1歳の之虎が継いだ。その之成の亡くなった際に、平野宇平次、青木右源太、藤村仁右衛門の3名が殉死している。幼くして家督を継いだ之虎も、4年後に病死し、他に男子がなかったため、栗原成瀬家は断絶した。ただ、船橋の宝成寺は、成瀬氏の江戸における菩提寺のひとつとして存続し、現に7代城主の墓もある。
現在も船橋の宝成寺には之成、之虎、之成夫人と殉死した3名の墓がある。そして犬山成瀬家の7代正寿(まさなが)の墓もあるが、これは3m以上ある大きなもので墓としては県内最大級のものという。殉死した家臣の墓が主君と同じ場所に建立されるのは極めてめずらしく、また之成の墓の裏面には三人の殉死者の名前が刻されるなど異例のことである。よほど、成瀬家はオープンマインドであったのか。それにしても、殉死とは現代に生きる我々には想像しにくいことである。忠誠心だけでなく、家名をあげるとか、いろいろな思惑があったのかもしれないが。なお、之成の墓や殉死者の墓のところに全国成瀬会と書いた卒塔婆があったが、全国成瀬会とは何だろう?
全国の成瀬さんの親睦団体か、それとも犬山成瀬家ゆかりの人々?

<之成の墓~駒形のもの>
yukinari1

<之成の墓の裏~殉死三人の文字あり>
yukinari-ura

宝成寺の近く、京成西船駅の北側道路沿いに成瀬地蔵という地蔵がまつられている。いわれとしては、成瀬之成が宇都宮の釣り天井事件に連座して切腹し、その菩提を弔うためとか、近郷の早世した子供の冥福を祈るためとか、伝承にも諸説あるらしく、はっきりしない。釣り天井事件に関しては、尾張徳川家の為に尽力した成瀬正成の所領、栗原郷四千石を引き継いだ、次男の成瀬之成が三代将軍家光に仕えた際、宇都宮、釣天井事件が起こり、その事件に連座して之成は当地まで逃れ、切腹したと伝えられ、この之成の供養のために造立したと言う説がある。近郷の早世した子供の冥福を祈るという説では、印内村が、木戸内村と呼ばれていた頃、地元の名主、田中徳左衛門・忠左衛門両人を本願主とし、木戸内の女性だけの念仏講連衆が5才で亡くなった、之成の子、之虎への供養とあわせて夭折した地元の子供の為に寄進、造立し、供養をしていたとの説がある。

宇都宮釣天井というのは、その話自体後世の作り話で、成瀬地蔵に関してもとってつけたような話であるが、ただ、成瀬地蔵というからには、成瀬家の遺風を懐かしむ何かがあったのであろう。

<成瀬地蔵>
naruse-jizou

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国府台周辺の遺跡と伝説(その4:亀井院と弘法寺の涙石)

真間山弘法寺のすぐ下、手児奈霊堂の向かいに亀井院という寺院がある。これは、弘法寺の子院で、元は瓶井坊といった。寛永15年(1638)頃、弘法寺の第十一世住職日立上人によって、貫主の隠居寺として建てられた。当初瓶井坊といっていたが、のちに弘法寺の大檀那鈴木長常を葬って鈴木院と改称、長常の子鈴木長頼が宝永2年(1705)になくなって没落すると、近傍にあった霊亀出現の井戸、亀井(真間の井のこと)にちなんで亀井院と再度改称した。その亀井、真間の井は、亀井院の中庭に伝わっている。

<亀井院>

Kameiin_1

亀井院の名は、霊亀出現という伝説に基づいているにせよ、その前の瓶井坊とは、いかなるいわれであろうか。読んで字のごとく、瓶のような井戸、水瓶を土中に埋めたような形の清水が湧いていたことにちなんだものである。そして、その井戸は真間の井ともいい、真間の手児奈がその清水の湧き出す井戸から水を汲んだという伝説が伝えられている。その伝説は、万葉集で高橋虫麻呂が歌に詠んでいる。

   勝鹿の 真間の井見れば 立ち平し
           水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ          (万葉集 巻第九 1808)

亀井院にある、「真間の井」と称する井戸は、もちろん元々の真間の井の姿とは異なり、元は田舎の畦の脇にあるような単純な湧水であったのであろう。

<真間の手児奈を祀る手児奈霊堂>    

Tekonareido

<亀井院にある井戸>

Kameiin

ところで、この万葉集の歌にまでなった、亀井院の由緒に惹かれて、大正5年(1916)5月から6月にかけて、亀井院の庫裏に北原白秋が住んでいた。北原白秋は、6月には市川の隣の小岩に引越し、紫烟草舎を興した。その紫烟草舎の建物は、現在里見公園の一角に移築されている。

北原白秋も、この真間の井、真間の手児奈について歌を詠んでいる。

   葛飾の 真間の手児奈が 跡どころ
                     その水の辺の うきぐさの花

この亀井院の東側、坂道の途中の道沿いに、弘法寺、亀井院と所縁が深く、亀井院を修築したという、鈴木長頼の家の墓所がある。この鈴木長頼とは、現代でいえば建築家であり、幕府の作事奉行であった。この人は江戸時代も前期の元禄年間頃に活躍したようである。

この鈴木長頼に関する伝説が、弘法寺にある。

真間山弘法寺の63段ある長い石段の、下から27段目の石が、苔むした状態になっている。いくらか濡れているようであるが、これを涙石という。これは鈴木長頼が、日光東照宮造営のために運んでいた伊豆の石を弘法寺の石段を作るために流用してしまい、発覚して幕府より責任を追求され、涙を呑んで切腹して果てたのが、弘法寺の石段の27段目で、それでその石が長頼の涙で濡れているのだという。もちろん、これは伝説であるが。

<伝説をはらんだ弘法寺の涙石>

Namidaishi

千葉氏の家臣でも日蓮宗の信者である鈴木氏がいるが、一族であろうか。昭和35年(1960)に鈴木家の墓地から長頼の墓が発見され、そこに刻まれた「宝永二年玽」の文字により、長頼の没年が宝永2年(1705)であることが分かっている。長頼の父、長常の代から弘法寺の大檀那であったというからには、財力もあったのであろう。長頼の死後、亀井院が荒れたということであるから、その時点で鈴木家が退転したか何かあった可能性が高い。

鈴木長頼が建てた真間万葉顕彰碑が、今も継橋のほとりに建っている。それは石造の角柱であり、前面に「住待上人日貞議 鈴長頼立碑勒銘」の文字と、背面に建立時を示す「元禄九丙子仲春」の文字が刻まれている。

<真間万葉顕彰碑>

Mamakenshouhi

| | コメント (1) | トラックバック (2)

国府台周辺の遺跡と伝説(その2:真間山弘法寺と市川城)

前回、国府台周辺の伝説として、真間の手児奈について紹介した。

その手児奈を祀る手児奈霊堂の北側の台地上にある真間山弘法寺は、鎌倉時代の建治元年(1275)に真言宗から日蓮宗に改宗した古刹であるが、実はこの弘法寺自体(あるいはその寺域)が康正2年(1456)正月の市川(市河)合戦の際、千葉実胤、自胤が拠った市川城であったという説(千野原靖方氏の説)がある。

◆市川城とは

言うまでもなく、市川の国府台は、下総の国府が置かれた場所である。また、その国府台は治承四年(1180)源頼朝挙兵時の千葉介常胤参会の舞台であった。千葉氏の本拠としての城は、千葉常胤の父常重の代から千葉城であったが、平安時代末から鎌倉時代の初め頃は国府、国衙のあった国府台が下総における政治の拠点であったと思われる。市川城は、下総権介としての千葉氏の居城であるとともに、何か有事の際に千葉氏が兵を率いて立て籠もれるような城であったのであろう。市川城は、下総国府の近くに、当時の様式通り単郭方形の館として築かれたかもしれない。あるいは真間山弘法寺の境内の西側、台地端にある弘法寺古墳など台地上にあった古墳を土塁代りに使うようなこともあったかもしれない。真間山弘法寺の境内には、鐘楼がある本堂南東側の一角に本当に土塁らしき土盛がある。

千野原靖方氏の『千葉氏 室町・戦国編』によれば、「市川城については、『武家事記所収文書』(康正二年)四月四日付足利成氏書状写に『餘黨等尚以同国市川ニ構城槨候間、今年正月十九日不残令討罰、然間両総州討平候了』とみえる。この市川城は、『真間山市河』=弘法寺敷地内、すなわちその寺院の施設を利用して構築された城であったと推定され、(小略) 市河合戦は日蓮宗の門徒と密接に関わっており、当地域における日蓮宗の拠点を念頭に置かなければならない。千田庄・八幡庄の日蓮宗寺院の中には本妙寺=中山館、法華寺=若宮館の例の如く、城館としての性格の色濃い、その構えを持った寺院も多かったのである」とある。確かに周辺には現在の中山法華経寺の前身、法華寺に若宮館(富木常忍の館)、本妙寺に中山館(大田乗明の館)と日蓮宗寺院と鎌倉武士の館の組み合わせが特徴的で、曽谷についても日蓮宗信者の曽谷教信と曽谷館(戦国期の曽谷城ではなく、曽谷教信存命中に使用した館)は同様の組み合わせであろう。

しかし、真間山弘法寺境内の古墳や鐘楼がある場所は、台地端の東西300mほどの直線の延長上にあって、この両方を含む単郭方形居館であったなら、かなり大きなものとなり、現実には城の土塁として用いられたかどうか、土塁として用いられたにしてもどちらか一方か、複郭構造であったものか。

<真間山弘法寺>

Mamasan_1

市川城があった場所は、真間山弘法寺の境内を含めて、現在の国府台のどこかにあったと思われる。国府台は現在、公園や病院、住宅地などになっていて、その痕跡を殆ど留めていない。ここは戦前・戦中は砲兵連隊が配置され、兵舎や錬兵場の設置、首都防衛のための高射砲陣地設置など軍事目的のために台地の至る所が掘り返された。戦前・戦中の軍事利用さらに戦後の市街地化とともに、市川城址は破壊されている模様で、千野原靖方氏の説は別として、現状では市川城の正確な場所も分からない状態である。

<弘法寺周辺の航空地図>

Mk_map

◆千葉宗家の最後の拠点

康正元年(1455)、当時関東における覇者であった古河公方足利成氏への立場によって、千葉氏は分裂する。すなわち、足利成氏に組みする有力な千葉氏庶子、馬加康胤と同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らによって、足利成氏と対立していた千葉氏宗家の胤直は、千葉城を急襲され、子の胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、千田庄の志摩城や多古城に拠った。千田庄は九州千葉氏の本拠地で、ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待った。しかし、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさ(武射か)の阿弥陀堂」で自刃し、志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃され、胤直、胤賢兄弟はそこを脱出し土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で胤賢も脱出先の匝瑳郡小堤辺りで何れも自刃し、常胤以来の千葉宗家は一旦滅んだ。その千葉宗家のあとを継いだのは馬加康胤であったが、その康胤、胤持父子も将軍足利義政の御教書を戴いた東常縁らによって滅ぼされ、その後の千葉宗家は康胤の子岩橋輔胤が継いだ。輔胤は原胤房と下総国内で分散し、東常縁軍に抵抗を続けた。一方、胤賢の子実胤、自胤は、土橋の如来堂を逃れ、一時東常縁や両上杉氏に後援されて市川城に拠っていた。足利成氏は康正2年(1456)正月、胤賢の子実胤、自胤の拠る市川城を攻撃し、実胤は武蔵の石浜城(現在の浅草近辺)へ、自胤も武蔵赤塚城へ落ちていった。これが、武蔵千葉氏の始まりであった。

<市川城があったといわれる真間山弘法寺境内の土壇と鐘楼>

Guhoujishou02

◆市川城と国府台合戦の国府台城は、同一の城か

この市川城と国府台合戦の国府台城は、同一の城という説がある。本当にそうであろうか。その件は真間山弘法寺の施設をつかって市川城がなりたっていたとすれば、別であることは自明である。では、国府台城とはどのような性格の城であるのか。それについては、次回。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国府台周辺の遺跡と伝説(その1)

市川市の国府台は、読んで字の如く、かつて下総国の国府があった場所である。その国府台は、戦時中までは野砲兵隊や高射砲部隊が置かれるなどして、軍隊の町であったが、中世以前の様々な遺跡が残っている。長い軍隊の駐留や戦後の開発によって、かつての国府、国衙の遺跡や大小の古墳、中世城郭などの遺跡が、かなりの部分破壊されてしまったことは残念であるが、周辺を含めて、残存する遺跡もあり、またそれらにまつわる伝説もある。今回、その一端を紹介する。

JR市川駅から北へ向って、国府台にむかって歩いていくと、まず市川真間の弘法寺の参道が目に付く。その辺りから、真間川の向う、弘法寺のある台地を望むとき、かつてその低地は殆ど真間の入江で、海であったのに気付かされる。中世まで、国府台の台地の下は西から大きく入江が入り込み、その南側の一部に砂嘴があるという地形であったのだ。その真間は、今は京成市川真間駅の周辺と弘法寺参道沿いに商店が建ち並ぶ、古い商店街である。

<真間の入江の名残り、真間川沿いの低地から弘法寺方面を望む>

Mamasita

つまり、真間川の下流域が、かつての真間の入江であり、弘法寺参道は、その入江があった場所をこえて真間の台地下を一直線に、弘法寺の石段の下まで続いているというわけである。その途中に後述する、真間の継橋や手児奈霊堂などがある。

<弘法寺参道>

Guhoujisandou

手児奈伝説

市川国府台の台地下の真間といえば、真間の手児奈の伝説が、有名である。真間の手児奈とは、古代真間にいた娘であり、村長あるいは国造の娘とも、巫女ともいわれる。そして、伝説では手児奈は美人であり、複数の男性から求婚されたことがもとで懊悩し、真間の入江に入水自殺をとげたとされる。

真間の手児奈の伝説は、いろいろと万葉集の題材になっている。

にほ鳥の 葛飾早稲をにへすとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも (東歌) <巻一四の三三八六>

このにほ鳥とは、水辺にいるカイツブリの古名であるが、ここでは葛飾の枕詞である。葛飾は勝鹿とも書いたが、葛飾の早稲を神にささげる新嘗の夜は、恋人が訪ねてきても家の中にいれる訳にはいかない。なぜなら、自分は今、神に仕える身なのだから。しかし、そうはいっても、あの愛しい人を、夜通し家の外に立たせたままにしておけるだろうか。

というような意味であり、情熱的な歌である。

また、同じ万葉集で、やはり真間の手児名について山部赤人の詠んだ歌があるが、

吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処   <巻三の四三二>

葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ <巻三の四三三>

というものである。

上記の最初の一首を現代語にすれば(するほどのこともないが)、以下のようになるだろう。

私も見た 人にも告げよう 葛飾の真間の手児名が眠る墓の様子を

また、高橋虫麻呂も、万葉集に

勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平(な)らし 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ  <巻九の一八〇八>

という歌を詠んでいる。

手児奈は、国造の娘や巫女であったという説以外に、一庶民であったとか、遊女であったという説もある。
山部赤人の歌は、「玉藻刈りけむ」、つまり入江できれいな藻を刈っていた、健康的な庶民女性を前提に詠まれたようである。それは複数の男性から求愛されて、入水自殺した女性という、はかないイメージと違い、山部赤人の歌は、前出の歌の前に
「いにしへに 有りけむ人の 倭文幡(しづはた)の 帯解き替えて 伏屋たて 妻問いしけむ」とあり、どうも手児奈は誰かに求婚されて、結婚したように詠まれている。また、高橋虫麻呂の歌でも、「勝鹿の 真間の手児奈が 麻衣に 青衿づけ ひたさおを 裳には織り着て 髪だにも かきは梳らず 靴をだに 履かず行けども 錦綾の 中に包める いはひ児も 妹にしかめや」とあり、身なりは粗末で髪の毛を梳ってもいないし、靴もはいていないが、どんな令嬢にも負けない美しさであったと、手児奈が庶民女性であると明言している。それが、いかなる経緯でなくなったのか。

山部赤人や高橋虫麻呂のころに、すでに手児奈は、伝説の人になっていた。
そして、万葉集でも、いろいろなイメージを詠む人によって持っていたから、ニュアンスの違う歌が生まれたのであろう。最近の研究では、手児奈は名前ではなく、一般名詞で、特別な若い女性を指す、すなわち抱かれる女性(東国方言で「てご」は女子を指し、奈という幼児を示す接尾語がついた「お姉ちゃん」に近い意味)のことをいっているのだという。またその当時の遊女(あそびめ)は、近世の遊女とは異なるが、遊行僧が旅から旅へ渡り歩いたように、「男から男へと『遊行』する女婦」を意味するのだという。もし、本当にそうなら、従来われわれが抱いていた、真間の手児奈のイメージとは、かなりのギャップがあるのだが、如何に。

<真間の継橋>

Tsugihashi

真間の継橋は、砂洲が南にあり、入江が入り込んでいた当地をいくつかの橋を継ぐことで、国府まで通ることができるようにしていた、その橋のことであるが、当然ながら、当時の橋は入江の杭に板などを渡して作った粗末な橋であったろう。現在、赤い欄干の短いコンクリート製の橋があるが、高知のはりまや橋を思い出す。しかし、けなしてばかりではいかがなものか。ちゃんとこの橋にも、万葉集の歌がある。

足(あ)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 止まず通はむ (東歌) <巻七の一三三九>

真間の継橋を足音がしないように、馬で手児奈のもとに通えるなら、通いつめるのに、というような意味である。板橋を馬で行って音がしないのは無理であるが、それくらい手児奈のもとに通いたいという男たちがいたということか。

<手児奈霊堂~手児奈の墓があった場所に建てられたという>

Tekonado

手児奈霊堂は、真間の台地のすぐ下にある。近くには、真間の井で有名な亀井院がある。この手児奈霊堂は、文亀元年(1510)、日蓮宗の寺となっていた真間山弘法寺の日与上人が手児奈の奥津城跡に手児奈を祀ったと伝えられている。もともと、弘法寺と手児奈は、奈良時代の天平9年(737)に行基が当地を訪れ、求法寺という寺堂を建てて、手児奈を供養したのに始まるとされるが、弘法寺の七代日与上人が読経しているときに、少女の霊が現れ、この寺を守護するというお告げをしたため、日与上人はこれを手児奈の霊とし、現在の場所に霊堂を建てたと伝えられている。

<亀井院>

Kameiin

なお、現在の手児奈霊堂は、安産、子育て、縁結びの信仰を集め、近所の人が遊びに来たり、古代の赤米を利用した食物などのフリーマーケットが開かれるような場所になっている。

手児奈霊堂の道を挟んで向い側には、亀井院がある。これは寛永15年(1638)頃、弘法寺の第十一世住職日立上人によって、貫主の隠居寺として建てられた。はじめ瓶井坊と称し、のちに弘法寺の大檀那鈴木長常を葬って鈴木院と改称、長常の子鈴木長頼が宝永2年(1705)になくなって没落すると、近傍にあった霊亀出現の井戸、亀井(真間の井のこと)にちなんで亀井院と再度改称した。その亀井、真間の井は、亀井院の中庭に伝わっている。

手児奈霊堂や亀井院の北側、台地上にあるのが、真間山弘法寺である。読んで字のごとく、元は真言宗の寺であったが、天台宗となり、さらに鎌倉時代に日蓮宗である法華寺(現中山法華経寺)の開基富木常忍らと法論となり、日蓮宗の僧が勝ったために、日蓮宗に改宗した。その経緯を真間山弘法寺のHPでは、以下のように書いている。

「鎌倉時代に入り、建治元年(1275)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。
 その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。」

この真間山弘法寺、いろいろ謎を秘めた寺である。それについては、また次回。

<真間山弘法寺の石段>

Mamasan

| | コメント (0) | トラックバック (0)

旧沼南町大井をめぐる伝承

現在は柏市になっているが、旧沼南町に大井という場所がある。ここは旧沼南町でも比較的早くから開けた地区であるが、いろいろな歴史伝承を持っている。

大井といえば、「大井の晩鐘」の福満寺を思い出す人もいるかもしれない。福満寺は山門からして、古色蒼然としている。しかし、山門を過ぎると、なぜ本堂まで下がっていくのであろうか、逆に上って行く寺はよくあるのであるが。それはともかく、相馬御厨がかつてあった場所は、鎌倉時代に相馬氏が支配下においたために、相馬氏が千葉氏、さらには平良文ら阪東平氏の流れを汲み、また平将門が本拠にした岩井も近いとあって、この辺りにも将門伝説がある。

<大井の福満寺山門>

Fukumansanmon1_1

それは、伝承によると、平将門が藤原秀郷に敗れてなくなった後、その妾であった車ノ前が遺児とともに大井の地に隠れ棲み、将門が信仰していた妙見菩薩を祀る堂をたてて、菩提を弔ったというものである。実際、車ノ前の墓と伝えられる五輪塔が、福満寺の裏にある。すなわち、福満寺南側の境外地にある約100m四方の森となっている、「妙見さま」と地元の人から呼ばれる妙見堂の跡地に、その五輪塔はある。車ノ前が生前将門の菩提を弔うために妙見菩薩を祀る堂をたてたものが、現在の妙見堂跡といわれ、地元の人々は例年2月21日には将門の命日と称して妙見講を行っている。

さて、手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の父常重が、その叔父常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝が領有した。当時、源義朝に千葉氏はしたがっており、千葉氏も未納分を返して権利を主張したが、義朝の方に分があったらしい。さらに常陸の源義宗が相馬郡を領有、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も、下総相馬氏は南朝についたため罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国期まで当地に残っていたと思われる。実際、大井の大津川対岸の戸張にいた戸張氏は、相馬氏系である(後に、戸張氏も高城氏、後北条氏の圧迫をうけ、簗田氏配下に走り、戸張からいなくなるが)。

<戸張城の堀址>

Tobarihori1

しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。なお手賀城主は原氏であり、手賀周辺を原氏が治めたといわれるが、戦国期には、小金の高城氏が当地も支配下に置いている。その大井には、かつて大井追花城があった。もともと、この城は大井追花の相馬氏系の在地領主の城館であったとともに、大津川河口付近の水運を監視する、役割を担っていたのであろう。

<この道の両側の藪の中に大井追花城址がある>

Ooi1

なお、この城には面白い伝説があり、大津川対岸の戸張城主、戸張弾正と、当城の城主とは仲が悪く、合戦を度々行っていた。その最後の決戦の時に、両将が自ら戦い、組打ちとなったまま、水田に落ちて、どちらかが相手の鼻を食いちぎったため、その田があった場所を「鼻喰田(はなつけげ)」というのだという。戦国時代には戸張も大井も、高城氏の支配下になっていたため、そうした合戦はありえないが、それ以前の時代には在地領主同士の小競り合いのようなことはあったかもしれない。 大井追花城主は、高城伊勢守とも坂巻若狭守とも伝えられるが、あくまで伝承であり、確たることは分かっていない。高城伊勢守といえば、八千代市吉橋にあった吉橋城主として伝承されている人物と同姓で同じ受領名である。しかし、高城伊勢守という名前が信じるに足る古文書類に出てきた例がなく、戦国時代には高城氏の支配下にあったというのは確かとしても、そういう人物が城主であったという証拠はない。伊勢守という受領名は、何かもっともらしく、昔は名前が分からない場合、伊勢守とかいっておけば本当らしいと、勝手につけてしまったのか。

坂巻若狭守というのも同様で、大井の福満寺観音堂縁起に大旦那とあり、相馬氏の一族である坂巻氏が当地の領主であったと想定できるが、客観的な史料には出てこない。しかし、城址の近くにある妙照寺の慶長11年(1606) 9月13日の『護代帳』(中山法華経寺)には、酒巻勘解由、坂巻八郎右衛門など坂巻姓の者が見られ、やはり相馬氏族坂巻氏が在地領主であった可能性がある。たしかに、坂巻という名字は、大井には多い。

大井追花城は、高城氏が勢力を当地にまで拡大したときは、その代官として派遣されていたであろう座間氏が預かっていたと思われる。実際、現在も子孫が残っていて、その座間さんが、城址のある場所の地主である。ちなみに座間氏の名字は、今の神奈川県の座間から来ているという。 前述したように、大井は手賀沼、大津川の水運の拠点であったようで、古くから商業活動も営まれていた可能性がある。商業、流通は、物と同時に、人の行き来も伴うものである。そのため、大井は旧沼南町では、比較的開放的なところがあるのかもしれない。

<大井追花城址の土塁>

181ohi01

| | コメント (0) | トラックバック (0)

臼井城退転後の臼井氏

鎌倉時代から戦国時代にかけて、臼井城の城主として、宝治合戦後の一時的な没落期以外は、連綿として名門臼井氏が存続し、その治世を継いで来た。しかし、戦国期も半ばに入り、ついたり離れたりした古河公方との関係や千葉宗家の衰退、千葉氏重臣であった原氏の台頭など、歴史の波に翻弄され、臼井氏の勢力にも翳りが見えるようになってきた
弘治3年(1557)14才で臼井景胤の跡を継いだ当主久胤であったが、景胤の「小弓の原胤貞に城を護ってもらうように」という遺言により臼井に来た原胤貞に、事実上城主の座を追われ、現在「御屋敷」という地名の残る臼井城の主郭部の南に位置する谷に屋敷を構えて幽居させられた。

<臼井城主郭より臼井氏の菩提寺円応寺を望む>

13usuienouji

小弓の原胤貞は、月の三分の二は臼井城の本丸(第1郭)に居住して、「小弓、臼井両城主」と称された。原胤貞は、家臣、領民に対し、俸給を上げ、税を軽くするなどの施策をしたために、城主として尊崇され、かたや本来の城主であった臼井久胤はないがしろにされた。そこで、臼井久胤は、ひそかに城を出ることを考えていた。

永禄4年(1561)里見氏重臣の正木大膳が臼井、小弓城に攻めてきたのを機に、臼井久胤は臼井城を脱出して結城に走り、臼井城は落城した。臼井久胤は結城晴朝に仕え、十二人円判衆の一人という重臣に列せられた。臼井久胤は水谷(みずのや)正村(蟠龍斎)の旗下として、その厚遇を受けた。永禄9年(1566)3月、後北条氏打倒を目指し、関東に出陣した上杉謙信と里見義堯・義弘父子らの軍勢が原氏の臼井城を攻めたが、この臼井城攻めの軍勢のなかに、臼井久胤の姿があった。臼井久胤は結城晴朝に従って、上杉勢に加わったのである。この合戦では第1郭を残し「実城堀一重」というところまで、上杉勢は攻めたてたが、臼井方はよく守った。臼井久胤がよく知っていた堅城ぶりが発揮されたのである。上杉勢は臼井城主原胤貞の好守備により敗退し、臼井久胤は結局臼井に復帰出来ず、下館で生涯を終えた。

久胤は結城で上野氏の娘を妻に迎え、忠胤、良胤、村胤という子を成した。長じて忠胤と村胤は水谷(みずのや)氏に仕えたが、父久胤の待遇と比べ、禄も減らされ冷遇された。忠胤は水谷家を辞し帰農したが、その子常数は苗字帯刀を許され、子孫は牛久の山口家などに仕えた。良胤は立身を目指して大坂へ行き、浪々の日々を送り、音信不通となった。
村胤は寛永17年(1640)、水谷勝隆の国替に伴い、備中高松に赴き、その地で亡くなった。
その子益胤、孫秀胤は水谷家に仕えるも、秀胤は水谷家を出て浪人後、間部家に300石で迎えられ、子孫は代々間部家に仕えて越前鯖江に居住した。こうして、臼井城主として権勢を振るった臼井氏の嫡流は、臼井から離れ、別の場所で家名を残したのである。

一時里見勢の手にあった臼井城であるが、落城の報せを聞いた千葉胤富が原胤貞を先鋒として臼井城を攻めさせ、これを奪回、原氏は臼井城に返り咲いた。原氏は以降、臼井氏に代わって臼井領の支配を確立していく。今も臼井氏菩提寺円応寺には臼井氏中興の祖、興胤の十三代後胤で、久胤からは孫にあたる益胤の娘貞笑尼を含め、臼井氏の子孫の墓がある。また久胤の曾孫秀胤(信斎)は、有名な「臼井八景」*の撰者である。

*臼井八景とは、以下の和歌にあらわされた臼井周辺の情景

「舟戸夜雨」 漁する舟戸の浪のよるの雨 ぬれてや網の縄手くるしき
「遠部落雁」 手を折りてひとつふたつとかぞふれば みちてとをべに落つる雁がね
「飯野暮雪」 ふり積もる雪の夕べを見ぬ人に かくといひののことの葉もなし
「師戸帰帆」  もろ人の諸戸の渡り行く舟の ほのかに見えてかへる夕くれ
「瀬戸秋月」 もろこしの西の湖もかくやらん には照る浪の瀬戸の月かげ
「城嶺夕照」 いく夕べ入日を峰に送るらん むかしの遠くなれる古跡
「光勝晩鐘」 けふも暮れぬあはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん
「州崎晴嵐」 ふき払ひ雲も嵐もなかりけり 州崎によする波も静かに

<師戸城址から臼井方面を望む>
morotokihan2

| | コメント (2) | トラックバック (0)

臼井興胤に関する伝説と実像

千葉県佐倉市臼井田の地には、下総の雄城の一つである臼井城がある。この城の主であった臼井氏の中興の祖といわれ、臼井城を事実上築城した人物が臼井興胤である。この人にまつわる伝説と実像について述べたい。

<臼井城近くの天満宮~臼井興胤創建といわれる>

usui-tenmangu

臼井氏は千葉氏の一族で、千葉常胤の祖父である下総権介平(大椎)常兼の三男で、常胤からは叔父にあたる臼井六郎常康が永久2年(1114)に臼井を領したのが始まりという。常康の子常忠は源頼朝に仕え、伊東祐親の娘を妻としたともいわれる。常忠の跡は、その子成常が継ぎ、盛常、山無常清、山無胤常と続く。宝治元年(1247)の宝治の合戦で、三浦泰村についた臼井氏は、臼井(山無)太郎胤常、二郎親常兄弟と思われる臼井太郎、次郎が戦死して敗れ、臼井の所領を失いその勢力は一時衰退する。

山無胤常の子は景胤である。山無景胤以後、山無氏の嫡流から常忠の子、成常の弟である久常の系統の臼井康胤、昌胤が跡を継ぎ、その代を経てようやく、臼井氏は臼井の領地を回復した。その頃の当主であった臼井太郎祐胤は、正和3年(1314)に25才で亡くなったが、その時祐胤には3才の竹若丸という子があり、幼少ということで祐胤の弟、志津次郎胤氏が竹若丸成人まで後見することになった。

しかし、志津胤氏はやがて竹若丸を殺し、臼井城主になる野心を抱いたが、竹若丸の保母阿多津の機転で、忠臣であった岩戸胤安に竹若丸は託される。岩戸胤安は、修験者に身をやつし、背中の笈のなかに竹若丸を隠して臼井城を脱出した。そして、胤安は竹松丸を居城岩戸城に一旦かくまった後、鎌倉へ赴き建長寺の仏国禅師に竹若丸を託した。竹若丸はこうして、鎌倉建長寺に逃げのび、後事を託された仏国禅師に養育されることになる。そのことを知った志津次郎胤氏は阿多津を捕えて殺害、さらに岩戸胤安、胤親父子の籠る岩戸城を攻めた。岩戸氏父子はよく防いだが、多勢に無勢で敵わず、自刃して果てた。

<円応寺にある岩戸胤安の碑>

iwatotaneyasu

その際、城から逃れ葦原に隠れた阿多津が咳をしたために捕まったという伝承があり、後にそれを哀れんだ民衆によって建てられた供養塔は、今も臼井城の北側の印旛沼のほとりにある。現在その供養塔は、昭和4年(1929)建立の「阿多津之祠碑」という大きな石碑(後に倒れて横に二つに割れたため、斜めに寝かせて石積で支えてある)と共に建っている。

<阿多津の墓>

usui-atatsu

こうして志津胤氏は、一旦は臼井領を押領した。一方、鎌倉に逃れた竹若丸は、建長寺で仏国禅師とその死後後事を託された仏真禅師に師事して成長、元服し、臼井行胤と名乗った。時代は鎌倉時代から南北朝の戦乱期に移っており、臼井行胤は足利尊氏に従って戦功をたて、その戦功により、暦応元年(1338)に臼井領を安堵された。さらに行胤は、尊氏の推挙で官位も得て、臼井興胤と改名したという。同時に千葉介貞胤(千葉氏12代当主)は、志津胤氏を志津に退けた。それを不満に思った志津胤氏は、なお興胤に本心から臣従しなかった。それどころか、その後も主従の礼に従わずに、興胤を侮った態度を改めなかった。そこで、臼井興胤は、主君の意に従わない志津胤氏を滅ぼすための謀略を考え、暦応3年(1340)8月14日、臼井城の堀の浚渫工事の使役と称し、胤氏に命じて志津城の兵を臼井に呼び寄せた。そうして、志津城を手薄にし、その隙を狙って志津城を奇襲し、攻め落したのである。その際、志津胤氏は城を臼井勢に囲まれ、配下の兵も少なく絶望した。胤氏は妻から「潔く自刃してください、私も後を追います」と言われて自刃し、その妻は胤氏の遺骸の後始末をし、自ら長刀を振るって勇戦したが、最後は屋敷に火をかけ、胤氏の柩とともに自決したと伝えられている。その志津氏の子孫がどうなったか不明であるが、志津では志津城址の近隣にある志津家が子孫とされているようである。志津氏は下志津の報恩寺を創建したと伝えられ、臼井氏の有力な分家であったが、当時なんらかの争いが臼井宗家とあり、それがこのような伝承になっているのかもしれない。

<円応寺本堂>

usui-ennouji

上述のような、臼井行胤、後の興胤が足利尊氏の後援で、本領を安堵され、志津胤氏に報復するという話は後世に作られた伝説といってよく、臼井行胤とは足利尊氏の近習として活躍した白井行胤と混同され、かつモチーフとなって作り出された人物である。白井行胤は臼井にも近い白井庄を治めていた白井氏の一族で、文和4年(1355)2月25日の「足利尊氏近習馬廻一揆契状」という古文書に、「白井弾正左衛門尉行胤」の署名と花押が見られる。すなわち、臼井行胤とそれにまつわる逸話は、実在の白井行胤に仮託して作り出されたものであろう。

それが、同時代の臼井氏当主である臼井興胤の事績として、足利尊氏という当時の最高権威である将軍家と結びつき、重み付けされた形で伝承されたと思われる。

<鎌倉鶴岡八幡宮>

hachimangu1

ともかく臼井城主として実権を確保した臼井興胤は「臼井家中興の祖」と称され、その後の臼井氏は昔の勢いを取り戻した。 現在の臼井城も興胤の代に整備され、現在の城の原形が出来たといわれる。ちなみに、現在臼井城の北側の低地にある臨済宗瑞湖山円応寺を、鎌倉から仏真禅師を招いて創建したのも、この臼井興胤であり、その十三代後胤である益胤の娘貞笑尼を含め、臼井氏の子孫の墓がある。

<臼井興胤創建の円応寺>

usui-ennnouji1

| | コメント (3) | トラックバック (1)

吉橋城に関する伝説

◆吉橋郷の成立と背景

吉橋の地は、古くは神保郷とともに、臼井氏の勢力下にあったと思われる。しかしながら、臼井氏が宝治元年(1247)の宝治の合戦で没落した後、吉橋郷は千葉介の直接支配を受けるようになった。鎌倉から室町時代にかけて、千葉介の直轄地であったことは、香取神宮の保管文書などで明らかになっており、例えば宝治元年(1247)11月11日の「香取社造営所役注文写」に「■於岐栖社一宇 吉橋/郷役 千葉介」、康永4年(1345)3月の「香取社造替社役并雑掌人注文写」に「一宇 若宮社 吉橋役所 地頭千葉介」とあり、千葉介が吉橋郷を直轄していたことが客観的な資料から裏付けられている。千葉常胤の嫡子胤正は、千葉庄や千田庄など下総の所領、北九州の小城、上総広常の所領を伝領し、千葉介、上総介を名乗った。その下総の所領に吉橋郷も含まれ、千葉氏の本宗である千葉胤正から、その嫡子成胤に下総の所領である千葉庄、千田庄、萱田郷、吉橋郷が継承され、吉橋は代々の千葉介の直轄地であった。吉橋と千葉氏の結び付きの深さは、山号から妙見を祀っていたことが明らかな妙見山来福院があったこと、城域にも妙見菩薩の小祠が現存することからも分かる。

◆戦国期の吉橋

戦国期の吉橋城主であったという高木(高城)伊勢守は、吉橋城を根城に勢力を振るったが、天文5、6年に突然後北条氏に攻められ、吉橋城は落城したという。「当主が正月の若水汲みに行った折の松明の明かりを目印に攻められた」、「後北条氏に攻められた際主要な武士達は出払っており、残った老人達を含む者供だけで戦ったため呆気なく落城してしまった」、「落城後に家臣の一部が楠ヶ山に移り住んで帰農し、それらの者は故郷を懐かしんで吉橋姓を名乗った」、などの落城にまつわる伝承が、当地や周辺地区に残されている。吉橋には、吉橋姓の家も多いが、「千葉郡誌」によれば、後宇多天皇の建治年間に吉橋を中心とした地域は吉橋丹後守胤俊という千葉氏一族の吉橋城主が治め、桑橋(そうのはし)、桑納(かんのう)、楠ヶ山に熊野三社を建立したという。吉橋丹後守は、吉橋のほか桑納川流域の桑納、桑橋、麦丸、船橋市鈴身町、金堀、西向にかけての地域を支配していたというのである。また、吉橋氏はその後某氏と戦って敗れ、一族は四散し、その一部は楠ヶ山に隠れ住み、楠ヶ山や金堀に住んでいる吉橋姓の人々はその子孫とのことである。その後、戦国期になって、高木(高城)伊勢守胤貞が吉橋城主となって吉橋と周辺を治め、後北条氏との戦いに敗れたことになる。鎌倉時代には、吉橋郷は千葉氏直轄地であったことは前述の通りであり、吉橋氏が当地を支配した云々という話は、あくまで伝承である。

<吉橋城の東櫓があったという尾崎吉祥院址>

<115yoshihashi-kishoin

◆吉橋城の落城話

伝承によれば、後北条氏による吉橋城攻略は、江戸方面から攻めるのを不利とみた後北条軍が木下方面から迂回して進入する策をとり、桑納の「帰久保」に達したものの長雨にあい、窪地の湿地帯に足を取られて行き詰った大軍は結局引き返した。「帰久保」の地名は、その話に由来するという。また、軍が待機した所が「待坂」、敵を破った場所が「勝坂」という地名になったと伝えられる。敵の大軍は、年末から正月まで桑橋周辺に滞在し、付近の集落は大変難儀した、その際の難儀を偲び桑橋地区では正月に来客があっても正月7日までは祝い酒を出さない習わしという。前述した「水汲みのために行った折の松明の明かりを目印に攻められた」というのは、正月の若水を吉橋城主が家臣をつれて早朝に汲みに行った際に、斥候に発見され攻められたということである。その時の井戸址は、北側台地下の桑納川沿いの水田に面した低地にあり、現状は近くに作業場があるだけで跡形もないが、かつては池があったということである。
また幼い城主の子は、家臣が守って千葉氏を頼って落ち延び、その後出家したという。その際、千葉氏を頼って幕張方面に逃げた家臣達は、途中の大和田の笹塚辺りで多くの討死者を出したといわれる。高木(高城)氏遺臣は、吉橋城址周辺に居住して、「血流地蔵尊」をご本尊とする貞福寺を建立して、高木(高城)伊勢守の出家した子息を初代住職に招き、亡き城主や家臣らの菩提を弔ったという。楠ヶ山の吉橋姓の人々は、この高木(高城)伊勢守の遺臣であるともいい、実際楠ヶ山館址に残る元祖山神宮の碑には、明治十九戌年の年季と共に「高木伊勢守家来 七十六代 吉橋五良左衛門」と書かれている。

◆吉橋の貞福寺縁起

その辺りの歴史伝承は、吉橋の貞福寺の縁起として元文2年(1736)に貞福寺住職長慶によって記述された「貞福寺縁起」にも記載されている。「貞福寺縁起」は、明治16年(1883)7月31日の打上げ花火による火災で貞福寺が焼失した際に、本尊とともに持ち出されたが、戦後原本、写本共になくなり、最近になって船橋市立図書館に写しがあることが分ったという文書である。江戸期に書かれたもので、寺の規模や由緒を誇張して表現し、信憑性に疑わしい面もあるように思えるが、現存する資料で戦国期から江戸期にかけての吉橋を記録した唯一といっていいものである。伝承での後北条氏に攻められたという部分が、「貞福寺縁起」では高木(高城)伊勢守胤貞が北条氏康に与して鎌倉山之内を攻めた報復で、天文5年(1536)に上杉朝定の軍勢に攻められたことになっている。上杉朝定は扇谷上杉氏の代表人物で、天正15年(1587)に北条氏康の河越夜戦で討死しているが、天文6年に父朝興の病死により13才で家督を継ぎ、すぐに居城である河越城を北条氏綱によって落され松山城に逃れている。したがって、「貞福寺縁起」の記述のような天文5年時点での扇谷上杉氏の下総侵攻は考え難い。また「貞福寺縁起」には合戦に敗れた当主胤貞は討死ではなく、武射の鏑木教胤の館に蟄居し、胤貞の命で残された家臣が氏寺の地蔵院を城址に移し、北条氏に従って吉橋郷を回復、愛宕宮、地蔵堂、輪蔵、宝蔵、鐘楼、客殿、山門などを普請して寺を貞福寺と改号、寺台にあった諸寺を楠ヶ山、麦丸など処々に移した、後に里見軍の狼藉によって寺は荒され、元和年間に復興したが以前の規模には戻らなかった云々とある。

◆吉橋を中心とした信仰の輪

吉橋の北側、貞福寺のある場所の県道を挟んだ西側台地に「寺台」の地名が残るが、現在は寺台地区の集落には墓地や厨子の入った堂、大杉神社などはあるものの、寺はない。かつては「寺台」に貞福寺の末寺である諸寺院があって、近隣に移築されたこともあったかもしれない。船橋市楠ヶ山にある青蓮院は、その寺の一つであるが、楠ヶ山にも吉橋から移されたという伝承が残っている。但し、麦丸の醫眼山東福院は、慶長2年(1593)9月に慶純和尚によって開基されたということであり、「貞福寺縁起」で寺台にあったという十二寺を各所に移し、楠ヶ山青蓮院や麦丸東福院などになったという天文15年(1546)頃と時代があわない。
ちなみに国道296号線、成田街道の新木戸の交差点に「血流地蔵道」の道標があり、江戸期にも吉橋は講など地域の信仰の地として重要な場所であったことが分かる。貞福寺の末寺は、①来福院(吉橋字花輪)、②吉祥院(尾崎)、③長福寺(萱田)、④神宮寺(船橋市三山、二宮明神の別当寺)、⑤東福院(麦丸)、⑥威光院(桑納:かんのう)、⑦安養院(桑橋:そうのはし)、⑧蓮蔵院(船橋市行々林:おどろばやし)、⑨龍蔵院(船橋市金堀)、⑩青蓮院(船橋市楠ヶ山)、⑪西光院(船橋市大穴)、⑫西光寺(船橋市坪井)、⑬東光寺(船橋市古和釜、天台宗でもとは印旛郡永治村小倉の泉倉寺末寺)で、その範囲は高木(高城)氏の支配圏であったという桑納川水系の諸地域、すなわち吉橋、麦丸、桑納、桑橋、金堀、楠ヶ山、坪井だけでなく、隣接する地域や遠く三山に及んでいる。
また、興味深いことに、上記⑦安養院(桑橋)、⑫西光寺(船橋市坪井)の山号は熊野山であり、⑤東福院(麦丸)、⑥威光院(桑納)および⑦安養院(桑橋)、⑩青蓮院(船橋市楠ヶ山)の近くには熊野神社がある。楠ヶ山の熊野神社は、永禄3年(1560)の記録があり、坪井の西光寺も中世の板碑が出土するなど、古い寺であることは間違いない。麦丸には、吉橋・尾崎に近い、農業道路の西側の麦丸新田という地域に、鳥居に祠という簡素な神社であるが、「熊野宮」という木彫の神社額が掲げられ、近年再建されたと見られる熊野神社があるだけでなく、麦丸本郷の日枝神社に熊野神社が明治期に合祀されており、二つの熊野神社が存在したことになる。これらは、高城氏の熊野信仰の名残と考えられる。

<吉橋血流地蔵尊の石碑>
115yoshihashi-10


◆吉橋城の家臣の子孫たち

また高木(高城)氏の家臣は、「貞福寺縁起」では高橋伊豫佐康隆、安原左京進、湯浅右近忠らとあるが、高木(高城)氏の四天王とは、高橋縫之助(尾崎)、吉橋五郎右衛門(花輪)、安原蔵人(寺台)、湯浅四郎右衛門(高本)であることが、古老の口碑により伝承されている(高橋姓は尾崎地区、吉橋姓は花輪地区、安原、湯浅姓は寺台、高本地区に多い苗字である)。なお、「高橋縫之助家」は東櫓があったという吉祥院址近くにあり、前述の通り「吉橋五郎右衛門家」は妙見山来福院址を南に臨む貞福寺下の腰郭址にある。
これらはあくまで伝承であるが、全て信用できないわけではなく、室町期の前半くらいまで千葉氏一族の誰かが、千葉氏直轄領であった当地を治め、その後戦国期になって高木(高城)氏の支配するところとなった、第一次か第二次国府台合戦の前哨戦における小弓公方または里見氏と後北条氏との戦闘で吉橋城主であった高木(高城)氏は滅んだが、その遺臣は当地周辺に帰農して住み、連綿として子孫も残っているというのが真相であろう。

◆吉橋城の周辺

尾崎の台地の縁辺下にある道を東に約1.5Km進むと、前出の東福院があり、これも古い集落である麦丸地区にでる。前出の日枝神社の東側台地下、麦丸本郷のバス停のある付近が、麦丸地区の中心地である。さらに台地下の道を南東に約700m行き、新川に突き当たって城橋を渡ると米本城址のある米本地区に行き着く。米本からは、保品を経て、印旛沼北方の師戸城址などの近くを通り、臼井に出る。あたかも、城郭ネットワークがあったかのようである。吉橋の西北西約1.7Km、桑納川の北側にある金堀城や西南西約2.6Kmにある坪井城も、吉橋城主高木(高城)伊勢守の勢力下にあったと伝えられるが、金堀や坪井からも東側谷津を越え、吉橋地区の高本、寺台を経て、吉橋城址にいたる道がある。

           
<吉橋城址の土塁と竪堀(左側竹薮の中に続く)>
115yoshihashi-16

| | コメント (3) | トラックバック (0)

米本城は二度落ちた

◆太田道灌と対峙したか米本城

米本には、米本城を太田道灌が攻略するために萱田の権現山に陣を置き、そこに砦あるいは陣城を作って「龍ヶ城」といっていた当時の米本城と対峙、これを落とした。城主であった村上綱清は将兵七百余人とともに村上の神社で切腹して果て、それでその神社を七百余所神社という、などといった落城にまつわる伝承もある。萱田の権現山は、現在飯綱神社と文化伝承館が建っているが、米本を一望することができ、確かに陣を張るのに適当な場所に思える。
権現山に本当に砦があったか、文化伝承館の方に聞いてみたが、遺構がないこと、また太田道灌と村上綱清では在世の年代が合わないことから、多分伝説の上の話でしょうということであった。
元々、米本には長福寺がある場所に、中世の武士の居館があったらしく、村上の正覚院館と同様に低地に面し、裏山を背負ったような場所にあり、裏山である台地がくりぬかれ、平地にされた部分に館があったのであろう。この館の主が誰であったのか不明であるが、米本の複数の場所から室町期の板碑が出土し、特に長福寺から多くの板碑が発見されていることや、付近に妙見を祀る米本神社があることから 室町期に千葉氏系の氏族がいたことは確実であり、それが太田道灌の軍勢と戦ったのではないか。また、現在の米本城址からは土塁の下から、焼き米が発見されている。これは一度焼けた建物の上に、新しく城を築き、より堅固にしたのであろう。
もちろん、太田道灌自身は下総まで来て指揮をとっていないが、太田道灌の弟図書をして臼井城を攻めさせたのが文明11年(1479)である。室町期に武士の居館で、長福寺の板碑がそれからやや新しい年代のものが多いことは、太田道灌が権現山に陣をおいたという伝承にあるように、太田軍が臼井城攻略の前後に「米本の龍ヶ城」すなわち元の米本城も落とし、その際の戦死者の供養の板碑が多いのではないか。そう考えると、既に室町期に現在の長福寺の場所に館を構えていた在地領主が、文明11年頃に太田軍と戦って敗れ、その後戦国期の天文年間頃に村上氏が本格的に築城し、永禄期におそらく里見軍と戦ってふたたび城が落ちたのであろう。その合戦にまつわる地名というのが、逃げ道になったという「禰宜知」(逃げ地)、敵兵を萱田まで追いかけ回したという「おんまわし」などである。

<中世の武士の館址という米本の長福寺>

114yonamoto-08

◆咳の神様としろぬし様

現在、米本城址の第3郭の土塁上に祀られている小さな板碑は、康永3年(1344)銘の武蔵式板碑であるが、なぜか咳止めのご利益を持った咳の神様として、信仰されている。その手前には「ポーポー」という竹筒が供えられているが、咳が直った時に新しい筒が供えられるという。これは逃げ遅れて隠れていた老兵が咳をしたために敵に見つかり、殺されたという伝説に基づいている。この老兵や落ち武者などが咳をしたために見つかったという話は全国各地にあり、臼井では臼井城主竹若丸を逃した忠臣阿多津の伝説で、葦原に隠れていた阿多津が咳をしたために追っ手に捕まったという話がある。
しかし、分からないのは、その板碑を咳の神様というだけでなく、しろぬし様というのがなぜかということである。しろぬし様とは、一説に城主様のことだという。ただ、板碑の銘は康永3年(1344)で南北朝時代である。これは太田道灌の時代よりも古い。もし、しろぬし様が城主様なら、南北朝の頃すでに当地は確固とした勢力(おそらく臼井氏または千葉氏本宗の流れを汲む在地領主であろうが)によって統治され、長福寺か米本城址の場所に城館もあったことになる。そして、その城主様と哀れな老兵を重ね合わせて信仰するのはなぜであろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

正覚院のおしどり伝説

◆正覚院の敷地にある中世城館址

正覚院館址は、新川に村上橋が架かっている所を川沿いに少し遡り、村上の台地を登りかけた場所にあり、おしどり伝説で有名な正覚院の寺院境内にある。正覚院は池證山鴨鴛寺正覚院といい、新義真言宗豊山派の寺院である。その境内に、釈迦堂という美しい三間堂があり、屋根は一重の寄棟造りで鉄葺(元は茅葺)、一間の向拝が付いている。

<正覚院釈迦堂>

111shokaku

◆正覚院のおしどり伝説とは

新川一帯、北は今の城橋あたりから、南は正覚院の入口付近にある弁天社(通称片葉の弁天)のある所は、以前は阿蘇沼という沼になっており、その阿蘇沼でおしどりの雄を捕った武士が霊夢でおしどりの雌が夫を殺された悲しみを歌に詠じたのを見て、翌朝目が覚めると前日捕ったおしどりの雄にくちばしを重ねて、おしどりの雌が死んでいたことから、無用な殺生をしてしまったと後悔し、発心出家して館に持仏堂をたてたという。武士は平氏の一族で、出家後は平入道真円といった。延宝2年(1674)に書かれた「村上正覚院釈迦如来縁起」(川嶋一晃家所蔵)には、智證大師の霊夢にまつわる本尊の釈迦如来の由来とあわせて、以下のようにその話を伝えている。
「下総国葛餝郡千葉庄 -破損- 鴨鴛寺の本尊ハ人王五拾六代清和天王の御時如来の御首印旛のうらにくだる、其ころ智證大師れいむをかふむり給ふ事度々なり、金色の如来智證にむかひてのたまハく我ハ是毘首羯磨天のつくる所の釈迦なり、しかるにあめかしたの内に仏法はんじやうのところをみるに日本にすきたるハなし故に本朝にとびきたり末世の衆生をみちひがんとおもふなり、汝ハ顕密の学超内外ともに達者にしてしかも仏像をつくるにもつともたくみなり、吾身形をつくりたすへしといふ、智證これよりあつま地にくたり此ところにつきたまひ、霊夢のみくしをたつねたまへは里人有てふりくたりたまふ所の尊面を智證に授く、夢中に御対面の如来と少もたかひなし、是によつて是を修理せんとおもひ威儀を調へ道場に入三宝をうやまひ諸天にいのりすてに小刀とらんとしたまふ時に、童子一人こつぜんとして道場に入来る、智證童子を見ていわくなんぢハ何国よりかきたる、いわく我ハこれ仏工なり師の志しふかきを感し力を我も加へんとおもひいま此所にきたるなりと云、智證よろこびをなし相ともにこれをきざむ、仏像ほとなく出来しくおわすときに童子のいわく、我ハこれ毘首羯磨天なりいまつくる所の仏像ハむかし天ぢくにおいて優?王われに命じて世尊の妙相をうつさしむときにまづ心みに此御首をきさむ、日来の宿意をおきぬハんためにいま師とともにこれを満足と云おハつて化しさりぬ。竊にかんかへみるに其はしめにつくるとはこのみくしその終りに作る所の仏像ハ嵯峨野釈迦なり。そのかみ此本尊ハ保科むらにありしを保元年中の頃平の入道真円といふ人当寺を建立してうつして本尊とす。いまに至て五百弐拾有七年なり、又鴨鴛寺といふことはかの入道つねづね殺生をすきこのむ。或時あそ沼にてひとつの鴛鳥を射殺し餌袋に入て帰る、その夜丹顔美麗なる女子一人うれへるいろをつげていわく、けふ吾夫をころしたまふと云。入道こたへて云我かつておほへす、女云まことに偽りたまふましと。なほ入道あらそひたまへりけれハ
  日くるれは誘ひしものをあそぬまの
           まこもかくれのひとり寝そうき
ゑいじてかへる、此を見れは鴦の雌なり。入道あはれにおもひ夜あけてみれはきのふの鴦と嘴をあわせて死にけりかな、鳥類まてあひしふれんぼのみちふかくいかなれハ人界に生をうけ物のあはれをおもハざらんと。生死無常のさだめなきことをおもひ発心出家して遁世の門に入池のほとりに草庵をむすひ池證山鴨鴛寺と号す、夫よりとしゆき月かわり三百年の星霜を経て天文十五年に源太郎平の胤廣と云人鎌倉の仏師大内卿長盛をやとひさひかうしおわる」とあり、
保元年間(1156~1158)に正覚院が創立されたことになる。その前に館があった筈であるから、源平の争乱に先立つ平家が世を支配した時代に館が作られていたことになる。

◆実際の正覚院の成立時期

しかしながら、本尊の清涼寺式釈迦如来像は、像の高さ166cmでカヤの木の寄木造り、玉眼、肉髻珠、白亳に水晶を嵌めこんだ釈迦如来の立像で、鎌倉時代後期の作であり、時代があわない。館の創立時期も、やや時代を下った鎌倉期と思われる。
文中「そのかみ此本尊ハ保科むらにありしを」とある保科村とは、近世保品村と呼ばれていた現在の八千代市保品であるが、印旛の浦に仏像の御首が流れ漂着したというのは、当時の印旛沼が、現在よりもかなり大きく、保品の背景に広大な印旛浦があったことをうかがわせる。
当時の館を偲ばせるものとしては、正覚院の門近くの駐車場左側に4~5mほどの高い土居(自然の土手に切岸を施した)が聳えているほか、一部破壊されているが、方形であったと思われる土塁が境内をまわっている。方形であったと思われる土塁は、あまり高くなく、1m数十cm程度の高さである。また本堂の裏山にある竹薮の中にも、土塁と堀がめぐっている。本堂裏の墓場の裏手にある堀は、深さが2m以上ある。
裏山を背に、方形の土塁がめぐった館があったと思われ、典型的な鎌倉武士の館址である。鎌倉にある様々の武士の館址、例えば比企氏の館址である妙本寺の付近も、比企ヶ谷(やつ)というように、山を背景にした谷戸と呼ばれる谷あいに立地している。足利公方館も、滑川に沿った浄妙寺のある谷、浄明寺ヶ谷にあった。足利氏の執事に発し、鎌倉に館を構えた四つの上杉氏(扇ヶ谷、宅間、山内、犬懸)の居館も、同様の場所にあった。正覚院も同じような立地条件で建っている。館は台地をくりぬいたような状態の平場にあって、北と東は、裏山となっており、南の低地に向かって開け、西は自然の高い土手が聳えるが、その向うは阿蘇沼のあった低湿地で現在は新川が流れている。なお館は、東西、南北約150m四方であったと推定される。南側の低くなっている寺の入口付近にある厳島神社、通称片葉の弁天のある辺りにも、地形からみて水堀か池か何かあったのであろう。そのあとに後世になって、厳島神社を建てたと思われる。

◆戦国期の正覚院

持仏堂は、現在釈迦堂と呼ばれているが、その堂内に安置された清涼寺式釈迦如来像の中から出た木札に「天文十五年 平胤広」とあり、戦国期には千葉氏の一族が館の支配者になっていたことが分かっている。したがって、正覚院は鎌倉時代の武士の館として建てられ、その子孫かどうか不明であるが、戦国期には千葉氏一族が支配し、館の周囲も補強したものと思われる。

◆鎌倉武士の信仰心

現在の釈迦堂は江戸時代前期の延宝2年に再建されたものであり、上述の縁起も同時期に書かれたものである。その実証性はともかくとして、往時の武士の信仰心を伝える資料には違いない。鴛鴦の話かどうかは別として、武士が殺生を後悔して仏門に入るという説話は、全国的に残されている。鎌倉時代は、現代のわれわれが想像する以上に戦乱の絶えない、一種殺伐とした時代であった。鎌倉の有力御家人でも、比企能員の一族の誅殺、和田義盛の謀反劇、三浦氏の乱と、幕府・執権北条氏に脅威となりうる存在は、次々と滅ぼされていった。そうした戦乱のなかで、素朴な武士の心象には、静かな信仰心をもって生きるという生活に対する憧憬が芽生えていったに違いない。下総の地においても、中山法華経寺の基になった法華寺を建てた富木常忍や曽谷城主で後に出家した曽谷教信のように、日蓮の唱えた法華の教えに、有力な在地武士たちが帰依していったのである。
他に、正覚院の裏の墓地に「(光明真言)六月廿七日 応永十八年 為妙吽禅尼(光明真言)」「三十三廻忌 孝子等敬白」という銘文のある宝篋印塔があるが、これは妙吽という法名をもつ母の三十三回忌の法要を応永18年(1411)に子等が営んだ際に建てたものである。妙吽という女性は、この館の主の母親か近い縁者であったのだろう。板碑も境内から発見されているが、これも館関連の者たちの供養に作られたものであろうか。
 
<正覚院館址の切岸と土塁(左手)>

111shokaku-01

| | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

伝説 | 国府台と真間 | 平将門 | 旅行・地域 | 歴史 | 臼井氏