国府台の戦争遺跡関連動画

国府台の戦争遺跡が少しばかり紹介されている動画。なお、野戦重砲兵連隊の裏門跡につづいてうつる砲兵隊は、国府台のものではないそうだ。

以下、YouTubeより。

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国府台周辺の遺跡と伝説(その5:総寧寺門前に続いていた道と「法皇坂」)

市川の国府台は、JR市川駅のほうから北へ進み、根本を抜け、真間山下のバス停あたりから松戸街道をのぼっていくと車の往来が激しく、また景色もいささか殺風景である。

この松戸街道は、明治になるまでは今のように真間山下から国府台病院附近まで、直線的になっていなかった。明治初年の頃の松戸街道は、『成田参詣記』の「真間国府台略図」に描かれているように、市川四丁目の坂を北へあがって、弘法寺の裏門へ向かう切り通し道を途中カギ型に北へ折れ、現在の和洋女子大の正門辺りで街道筋と繋がっていたという説がある。

<真間山弘法寺>

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しかし、これでは、クランクがきつすぎるため、また道幅も狭く、坂道の登り具合も急であるため、軍用には不向きであった。軍隊に限らず、重い装備をつけた人間は、できれば曲がりくねった道など通行したくはないだろう。また軍馬とても、クランクを行くよりかはまっすぐな道がよい。

それで、今の松戸街道の坂道は、明治になって、国府台が軍隊の町として整備されようとしていたころ、道がまっすぐでないと不便なため、千葉の刑務所に入っていた囚人たちに過酷な労働をさせて切り開いた道である。

<現在の松戸街道の坂道>

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しかし、急ぎの用もなく、徒歩で散歩などをする分には、バス通りである松戸街道をまっすぐ行くよりも、桜の花の咲いている頃などは、江戸川沿いに歩くか、同じ坂でも「法皇坂」とか「将軍坂」という松戸街道から江戸川よりに分岐する坂をのぼっていくほうが、雰囲気も何となくよい。その「法皇坂」は、「鳳凰坂」の文字を当てる場合もある。

今は学校で行き止まりになるが、昔は道がまっすぐのびて、総寧寺まで続いていたのである。それは江戸時代に描かれた、『成田参詣記』の略図や『江戸名所図会』などの絵図からも明白である。

しかし、なぜ、「法皇坂」というのだろうか。今の東京医科歯科大学の敷地内にある法皇塚古墳が、その名前の由来であろうか。あるいは国府台は、鴻之台とも書くし、日本武尊が軍勢を率いて武蔵国に渡ろうとしていたとき、コウノトリが飛来して浅瀬を教えてくれたため難なく武蔵国へ渡ることができたため、日本武尊は褒美にこの台地をコウノトリに与えたのが、その由来で、国府神社はコウノトリの嘴を御神体としていることから、コウノトリ→鳳凰→法皇となったのであろうか。

<「法皇坂」、上りきったところにある貯水槽は戦前からのもの>

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昔の絵図を見ると、今の国府神社を「鳳王社」と書いているのがある。また、『成田参詣記』の略図では、「鴻王明神」としている。つまり、国府神社、別名:鳳王(鳳凰)社附近を起点とした坂道だから、「鳳凰坂」というのが正しい。法皇(法王)坂というのは、どうも前記の法皇塚古墳との混同・錯誤によるものらしい。実際、法皇塚古墳と、その坂は場所も離れていて、あまり関係はなさそうだ。

森兵男の「千葉県の戦争遺跡」では、この坂を「旅団坂」といっているが、野砲兵旅団司令部が坂の途中にあったことに由来する、その坂道が「法皇坂」と同じ坂道をいうのか、囚人が切り開いた松戸街道の坂の部分を「旅団坂」というのかは、市川の地元住民でも説が分かれるそうだ。どちらかというと松戸街道の切通しの坂を「旅団坂」というようであるが、森兵男と同じようにいう人もいる。

坂の途中から、坂のあがりきった右手の場所にある、旅団司令部跡は、一応里見公園の分園になっているようだが、ここで遊んでいる人をみたことがない。人を寄せ付けない、何かがあるのか。貯水槽があるが、軍隊があったころからのものらしい。余り知られていないが、工兵連隊関係の建物が県の研究所のなかに、現存しており、この辺もないようでいろいろ軍隊関係の遺物があるものである。

そのまま、台地上に出て、旅団司令部跡を横にみてしばらく行くと、左側にも里見公園の分園がある。ここはかつて火薬庫のあった場所で、火気厳禁の札があるが、ホームレスの人たちの生活の場でもある。ホームレスの人たちも、よく火薬庫の上に住んでいて怖くないものだ。どうせなら、旅団司令部跡のほうが、火の気の心配もしなくてすむと思うが、余計な心配か。

ちなみに、この公園の下はやはり江戸川であるが、江戸川沿いを北へ進み、羅漢の井のあるあたりが、里見公園である。

<野砲兵旅団司令部があった場所>

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明治新政府は最初、国府台に大学を誘致する予定であったが、それが諸事情でだめになると、東京にあった軍隊の一部をもってくることを考えた。そのさきがけとして、下士官を育成する教導団を当地に移転させるにあたり、千葉監獄所に服役していた囚人を連れて来て、山を切り開かせ、現在のような道筋を造る工事につかせたという。今のような重機のない時代、人力で切通し道を作るのは重労働であった。陸軍教導団が東京から国府台に移って来たのが、明治18年(1885)。その後、続々と軍の設備が作られ、軍隊が移駐して、国府台は軍隊の町になっていった。

そもそも江戸時代、国府台に広大な寺領をもっていた安国山総寧寺は、南北朝時代の永徳3年(1383)に近江国守護の佐々木六角氏頼によって、近江新庄樫原郷に創建された。その後、戦国時代の天正3年(1575)に、北条氏政によって、下総国関宿に移された。さらに、関宿が水害に何度かみなわれたため、江戸時代に入り、四代将軍徳川家綱によって寛文3年(1663)に当地に移されたものである。その時、曹洞宗の関東僧録司三ヶ寺の一つとされ、寺領128石5斗余が与えられたという。これは、真間山弘法寺の寺領が、50石であったのと比べてもわかるように、寺としては破格であった。墓地には、小笠原政信夫妻の供養のための大きな五輪塔がある。

以下は、江戸名所図会に描かれた総寧寺であるが、現在の里見公園の入り口あたりに山門があったようで、大門はそのだいぶ手前にあった。正確には分からないが、筑波大学附属聾学校のあたりだろうか。

<江戸名所図会に描かれた総寧寺>

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しかし、幕末に大火があって多くの伽藍を焼失し、さらに明治になって江戸幕府という後ろ盾を失って、寺領を失った総寧寺は荒れるにまかせていた。結局、寺地のかなりの部分は明治新政府に召し上げられた。そこへ持ってきて、明治新政府は総寧寺の寺領だった部分も含め国府台一帯に、最初は大学、次には軍隊を誘致することを考えたのである。松戸街道の切通し道が作られたとき、総寧寺には囚人の居留する場所が確保され、寺の北側にも獄舎が建てられて、監獄山と呼ばれた。軽犯罪人には青い着物を、重犯罪人には赤い着物を着せて、足は鎖でつなぎ、麦と米が混じった貧しい食事で、一日中苛酷な労働を強いた。そのため、当時は地元の子供たちが悪さをすると、「赤いべべを着せて監獄山に連れて行く」などと、大人は子供に言ったという。

のちに教導団附属病院(のちに国府台陸軍病院になる)が開設されるが、その場所は少し前まで総寧寺の伽藍が並ぶ境内の中だった。今は、病院の跡もなくなり、バラが咲く西洋式庭園になっている。

そして、総寧寺の本堂は、北側の現在地へ移された。里見氏将兵の供養塔が里見公園の南西にあるが、これは総寧寺の墓地がそこにあった名残であろう。

軍用地が拡大するまえは、教導団附属病院の奥の江戸川よりの一角には、里見八景園という遊園地が作られた。その命名は国府台八景にちなんだもので、今でも人口の滝のあとなどが残っている。

<里見八景園>

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ただし、里見八景園跡は、昼でも薄暗く、なんとなく気味の悪い場所になってしまった。特に夕暮れ時から夜は、あまり近づきたくないような所である。

このすぐ近くであるが、終戦間際に、市川の国府台城跡を利用した地下要塞とでもいうべき陣地を陸軍は築こうとしたらしい。これは市川の郷土史家が書いているほか、以前から国府台に駐屯した元軍関係者が今の里見公園に軍が掘ったトンネルがあったと言っているので、間違いないだろう。

明戸古墳の下が少し低くなっているのは掘った跡だといい、たしかに、その部分は一段低くなっている。ここを角型に掘って鉄板で固め、出入口は江戸川側に設けようとしたそうだ。他にも、総寧寺の境内には、陸軍境界標石あり、里見公園を出て、北へしばらく要ったあたりには高射砲の砲座跡があったり、近辺は明確に軍隊が駐屯していたという場所以外にも軍関係の跡地はいろいろあるようだ。

参考文献: 市川の道をたずねて (市川博物館友の会)

       江戸川ライン歴史散歩 千野原靖方著 崙書房 (1991)

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国府台周辺の遺跡と伝説(その4:亀井院と弘法寺の涙石)

真間山弘法寺のすぐ下、手児奈霊堂の向かいに亀井院という寺院がある。これは、弘法寺の子院で、元は瓶井坊といった。寛永15年(1638)頃、弘法寺の第十一世住職日立上人によって、貫主の隠居寺として建てられた。当初瓶井坊といっていたが、のちに弘法寺の大檀那鈴木長常を葬って鈴木院と改称、長常の子鈴木長頼が宝永2年(1705)になくなって没落すると、近傍にあった霊亀出現の井戸、亀井(真間の井のこと)にちなんで亀井院と再度改称した。その亀井、真間の井は、亀井院の中庭に伝わっている。

<亀井院>

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亀井院の名は、霊亀出現という伝説に基づいているにせよ、その前の瓶井坊とは、いかなるいわれであろうか。読んで字のごとく、瓶のような井戸、水瓶を土中に埋めたような形の清水が湧いていたことにちなんだものである。そして、その井戸は真間の井ともいい、真間の手児奈がその清水の湧き出す井戸から水を汲んだという伝説が伝えられている。その伝説は、万葉集で高橋虫麻呂が歌に詠んでいる。

   勝鹿の 真間の井見れば 立ち平し
           水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ          (万葉集 巻第九 1808)

亀井院にある、「真間の井」と称する井戸は、もちろん元々の真間の井の姿とは異なり、元は田舎の畦の脇にあるような単純な湧水であったのであろう。

<真間の手児奈を祀る手児奈霊堂>    

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<亀井院にある井戸>

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ところで、この万葉集の歌にまでなった、亀井院の由緒に惹かれて、大正5年(1916)5月から6月にかけて、亀井院の庫裏に北原白秋が住んでいた。北原白秋は、6月には市川の隣の小岩に引越し、紫烟草舎を興した。その紫烟草舎の建物は、現在里見公園の一角に移築されている。

北原白秋も、この真間の井、真間の手児奈について歌を詠んでいる。

   葛飾の 真間の手児奈が 跡どころ
                     その水の辺の うきぐさの花

この亀井院の東側、坂道の途中の道沿いに、弘法寺、亀井院と所縁が深く、亀井院を修築したという、鈴木長頼の家の墓所がある。この鈴木長頼とは、現代でいえば建築家であり、幕府の作事奉行であった。この人は江戸時代も前期の元禄年間頃に活躍したようである。

この鈴木長頼に関する伝説が、弘法寺にある。

真間山弘法寺の63段ある長い石段の、下から27段目の石が、苔むした状態になっている。いくらか濡れているようであるが、これを涙石という。これは鈴木長頼が、日光東照宮造営のために運んでいた伊豆の石を弘法寺の石段を作るために流用してしまい、発覚して幕府より責任を追求され、涙を呑んで切腹して果てたのが、弘法寺の石段の27段目で、それでその石が長頼の涙で濡れているのだという。もちろん、これは伝説であるが。

<伝説をはらんだ弘法寺の涙石>

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千葉氏の家臣でも日蓮宗の信者である鈴木氏がいるが、一族であろうか。昭和35年(1960)に鈴木家の墓地から長頼の墓が発見され、そこに刻まれた「宝永二年玽」の文字により、長頼の没年が宝永2年(1705)であることが分かっている。長頼の父、長常の代から弘法寺の大檀那であったというからには、財力もあったのであろう。長頼の死後、亀井院が荒れたということであるから、その時点で鈴木家が退転したか何かあった可能性が高い。

鈴木長頼が建てた真間万葉顕彰碑が、今も継橋のほとりに建っている。それは石造の角柱であり、前面に「住待上人日貞議 鈴長頼立碑勒銘」の文字と、背面に建立時を示す「元禄九丙子仲春」の文字が刻まれている。

<真間万葉顕彰碑>

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国府台周辺の遺跡と伝説(その3:国府台合戦の謎)

1.室町幕府と対立した鎌倉公方

話は、鎌倉公方足利基氏の時代に遡る。建武新政で鎌倉に置かれた鎌倉府は、足利尊氏が弟直義を滅ぼし、足利幕府の権力を確立しようとしていたことから、足利幕府の東国支配の機関として位置づけられた。鎌倉府の代表が鎌倉公方であり、千葉氏はその鎌倉公方基氏を支える立場にあった。一面、鎌倉府は東国武士の自立の拠り所であり、鎌倉公方も中央政界とは独自の立場を志向するようになる。室町時代、伊達氏、新田氏の乱など、東国に争乱が相次ぐ。

その当時の鎌倉公方は足利満兼から幸王丸のちの持氏となり、その足利持氏に対して、応永23年(1416)10月、鎌倉公方を支えるはずの関東管領上杉禅秀が反乱を起こす。足利持氏は御所を脱出して反撃し、翌応永24年(1417)1月上杉禅秀は自決した。千葉氏は上杉禅秀の親戚であったために、当初上杉禅秀の側につくが、すぐに降参した。一方、鎌倉公方足利持氏は、中央の幕府と対立し、室町幕府に連なる東国の佐竹、宇都宮、小栗などの領主層を討伐するなど、反幕府的な行動をとっていた。持氏の反幕府的な行動をおさえていた関東管領上杉憲実は、持氏から疎んぜられ、やがて両者は対立するようになった。永享10年(1438)8月上野に下国した上杉憲実に、室町幕府は今川氏、篠川公方、白河結城氏らに命じて合力させ、持氏は自ら出陣した。千葉胤直は、持氏に随って出陣し、持氏を諫めたが容れられず、退陣。翌永享11年(1439)2月、足利持氏とその嫡子義久は自害。しかし、その翌年、持氏遺児の安王丸、春王丸を擁した持氏残党は結城氏朝とともに結城城に籠り、結城合戦が戦われる。嘉吉元年(1441)4月結城城は落城、結城氏朝も敗死し、捕まった安王丸、春王丸は美濃で斬られた。他の兄弟とは別にいて生き残った足利万寿王丸は、文安6年(1449)6月鎌倉公方となる。後の古河公方、足利成氏である。享徳3年(1454)12月、足利成氏の近習結城・武田・里見らは、関東管領上杉憲忠を謀殺、翌年にかけて成氏方と上杉氏が各地で戦う享徳の大乱となる。享徳4年(1455)6月、幕命を受けた今川氏に鎌倉を追われた足利成氏は、古河に本拠を構え、古河公方となった。

<鎌倉公方と関係の深い鎌倉の報国寺>

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2.下総、上総の争乱と小弓公方

享徳の大乱は千葉氏内部にも、大きな影響を与えた。康正元年(1455) 8月、千葉宗家の胤直、胤信親子に対して、馬加康胤は原胤房とともにに反旗を翻した。原胤房に千葉城を攻められ、胤直、胤信親子は千葉城を追われて、千田庄に拠るが追い詰められて自害。東常縁らに馬加康胤は討たれるものの、康胤の庶子といわれる岩橋輔胤が勢力を盛り返し、千葉宗家を継いだ。以降馬加系千葉氏が歴代の千葉氏宗主となり、原氏は千葉氏の宿老としてその勢力は強大となった。

そして、一方上総でも、常陸から来た武田氏(甲斐の武田と同族)が近隣の小土豪を屈服させていた。その上総武田氏の初代は、古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した武田信長である。康正元年(1455)、武田信長は里見義実らとともに、山内上杉房顕の拠る武蔵国騎西城を攻め、翌康正2年(1456)年、成氏が千葉実胤、自胤を市川城に攻めた際にも、続いて子の信高らとともに上総地方へ侵攻した。上総に入った信長は庁南・真理谷の二城を築いて根拠とし、庁南城は上総東部を制し、真理谷城は上総西部を鎮する役割を担った。さらに久留里や椎津・造南・峰上・笹子などに城を築いて一族を配置し、支配体制を確立していった。そして、真理谷城には嫡男の信高を入れ、自らは庁南城に拠った。

戦国前期になると、真里谷に拠った真里谷武田氏(真里谷氏)が、上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となり、北上して下総国境の生実をうかがうことになる。小弓城を守る原氏は、その上総真里谷城主であった武田信保と度々所領争いを行っている。本土寺過去帳によると、文明3年(1471)に「小弓館」を攻められて討死した原越前入道道喜という人物がいるが、この時に小弓城は落ちたものと思われる。しかし、永正6年(1509)には原胤隆が連歌師の宗長を招いて連歌を行っているから、その間のどこかで奪還したものと思われる。原胤清の子胤貞の代には、臼井城に入り、臼井の実質的な領主を兼ね、「小弓、臼井両城主」と呼ばれた。

武田信保は、恕鑑の号で知られ、智勇に優れた人物で、上総における真里谷家の勢力を拡大するため、兄の古河公方であった足利高基と対立して僧体となり、空然と名乗って奥州を放浪していた足利義明を永正年間の初め頃に連れてきて、小弓公方として擁立するなど策略をめぐらした人物であった。
その頃、小弓城では、永正6年(1509) 11月に小弓城主原胤隆に連歌師宗祇の高弟である柴屋軒宗長が招かれて浜野の本行寺を旅宿として滞在し、原胤隆と連歌に興じている。
永正14年(1517)下総進出を願う真里谷武田信保ら上総武田氏は、古河公方足利高基の弟、足利義明を主将として、安房里見氏とも結んで小弓城を攻め、ついにこれを攻め落とした。この戦いで、「原ニ郎(胤隆、あるいは一族の友幸か)」や「高城越前守父子」は「滅亡」(実際は原胤隆は八幡庄の真間山弘法寺の寺領を安堵していることから、少なくとも天文2年(1533)まで生存していたのが分かっており、八幡庄辺りに逃れたものと思われる。城代として城を守っていたとされる原友幸〔小西原氏、原肥前守胤継の子〕も根木内城に逃れた。討死した高城越前守は胤広とされる)、「高城下野守」(高城胤正)は逐電した。また甲斐に原友胤父子は逃れ、友胤の子は有名な原虎胤に成長する。翌永正15年(1518)足利義明は入城して小弓公方、小弓御所と称して、やがて古河公方と同様、関東に覇をとなえるべく、後北条氏と激突することになる。足利義明を還俗させ、小弓城にいれたのは武田信保であったが、足利義明は小弓公方となって独自に動くようになり、武田信保が足利義明の勘気を受けたまま病死すると、その子信隆は後北条氏綱のもとに身を寄せた。さらに事態は、里見氏の内紛で複雑になる。

<小弓城址>

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永正15年(1518)、里見氏の当主里見義通がなくなると、その子義豊は既に元服していて家督を継承し、稲村城に入った。しかし、北条氏綱の策動により、義豊追い落しを図った叔父実堯、正木通綱らの動きを察知し、実堯を誅殺したところ、実堯の子義堯が仇討と称し、後北条氏を後ろ楯として反逆して、義豊を殺害した。そして義堯が里見氏の当主となったが、真里谷武田信保が足利義明の勘気を蒙ると、後北条氏と袂を分かち、武田信隆の追放に加担した。こうして、里見氏は後北条氏と再び対立することになる。
武田氏の内訌については、武田信隆の異母弟信応が信隆と反目し、足利義明と結んだ。武田信隆は子の信政とともに、椎津城に籠り、後北条氏の援軍を待ったが、小弓公方軍に攻められ、脱出する。その天文6年(1537)の内訌の際、武田信隆は後北条氏の後援で峰上城に立て籠り、一時後北条氏に走っていた里見義堯の囲みを受けている。
こうした小弓公方の一連の動きは、里見氏、武田氏の内訌とあいまって、後北条氏対小弓公方・里見氏の対立を鮮明とさせ、ついに 天文7年(1538) 国府台合戦(第一次)が戦われる。

3.松戸の相模台でも戦われた第一次国府台合戦

天文7年(1538)10月、武蔵・相模の後北条氏と雌雄を決するため、小弓公方義明、武田、里見軍は国府台に出陣したが、配下の西上総の諸士、椎津、村上、らは、相模台に在陣して後北条軍の太日川渡河を見張った。小弓公方方は約三千、後北条軍は約七千の軍勢であったという。江戸城から出陣した北条氏綱の約三千の後北条軍は、10月7日に松戸へ渡河、椎津、村上らの小弓軍を破って南下、これを知った足利義明は千の手勢を率いて北上して交戦、義明本人とその子義純、弟基頼ら約140名が討たれた。こうして、小弓軍は惨敗、国府台に陣を張った里見義尭率いる里見軍は、早々に戦を見限って安房に帰陣したという。つまり、第一次国府台合戦は小弓公方軍対後北条軍という色彩が強く、安房の里見はアリバイ的に参加したという可能性が高い。小弓公方足利義明は嫡子義純、弟基頼のほか、安房の里見義尭、土気の酒井定治、真里谷武田信応、庁南武田宗治に出陣を要請し、国府台に陣取って防御工事を行っていた。そして義明は力を過信して、後北条軍の渡河を許したうえ、自ら手勢を率いて戦い、討死している。後北条軍には、千葉宗家は直接加わっていないが、高城氏が後北条軍に味方して参戦しており、その戦功で現在の神奈川県海老名市などの領地を与えられている。

さて、小弓公方なき後、小弓城はどうなったかが問題であるが、天文8年(1539)に後北条氏が奪還、城の東側に有吉城を築いて里見軍に備えた。その後、永禄4年(1561)に里見の重臣正木時茂、時忠の兄弟が下総に侵攻、浜野の本行寺には正木時忠の制札が交付された。また、永禄5年(1562)には後北条氏の攻勢で古河に居られなくなった足利藤氏らは古河城を退去、里見氏のもとに身を寄せる。一方、後北条氏が擁立する足利義氏は、小金から佐貫城へ移座した。

第一次国府台合戦の舞台となった相模台には、戦死者の塚と伝える「経世塚」があり、現在は聖徳学園構内にある。これは2基の円墳で、古代の古墳であり、その上に中世の板碑がのっている。なお、学園関係者によれば、この「経世塚」は、前は別の場所にあったが、事情により現在地にうつされたとのことで、時々近所のお年寄りが写真を撮りにくることがあるという。「経世塚」は、もともとは古墳であり、第一次国府台合戦とは関係ないのであるが、何時の頃か結び付けられて今日にいたっている。

<相模台の経世塚>

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3.第二次国府台合戦とその舞台

永禄7年(1563)の第二次国府台合戦は、北条氏康の率いる後北条軍約二万と里見義弘および里見を支援する太田康資・資正の約一万二千の軍勢の戦いとなった。その際里見軍が、後北条方の籠る葛西城を攻撃したのが戦いの端緒となったが、これも結局後北条方が勝利し、里見氏は里見弘次や正木大膳らの部将が討死して敗走、太田氏も本拠地の岩槻などに落ちていった。この両度の国府台合戦は、国府台城および周辺で戦われ、第一次合戦時は松戸台での激戦が前哨戦になっている。後北条氏は第一次合戦時に、扇谷上杉氏を河越城に破った勢いで、太日川の対岸にある国府台からは4km位西に位置する葛西城を攻略し、上杉家臣大石氏を破って、岩槻の太田氏も攻めた。その際、小弓公方・里見氏側は国府台に陣取っている。第二次合戦の際には、上述のように後北条氏は葛西城を根城として、里見方の守る国府台に対している。

葛西城は、国府台城の太日川(現江戸川)を挟んだ対岸の地である、現在の東京都葛飾区青戸7丁目の環状7号線が通る葛西川(現中川)西岸の平坦な場所にあって、国府台合戦時に後北条軍の基地となった。葛西城は葛西川(現中川)を天然の水堀とし、近くに船着場を備えた平城であった。国府台からは西北西約4Kmの地点にあり、かつては国府台の台地上から見通せたであろう。現在、葛西城址は、環状7号線がその中央部分を南北に通り、道路の西が御殿山公園、東が葛西城址公園という公園になっていて、地表面を見る限り特に遺構は残っていない。城址の東側約200mの地点には青戸神社があるが、扁額に「青砥神社」とあるように、江戸時代から当地は有名な青砥藤綱と結び付けて考えられており、御殿山公園にも「青砥藤綱城跡」の碑が建てられている。

過去の発掘調査では、上杉氏当時の幅7、8m程の堀が確認され、一町四方規模の方形城館であったことが分かっている。その後、天文7年(1538)、第一次国府台合戦の際、北条氏綱が奪取した後、遠山直景を城代にして、城域を拡張し、町場の整備などが行われた。後北条氏の時代には、葛西城は大幅に手を加えられ、主郭を区画する堀は幅18mと大規模なものとなり、土塁も築かれた痕跡があるが、その外側にも郭が展開して東西約300m、南北約400mの城域をもっていた。後北条氏が城を改修した後、永禄3年(1560)には上杉謙信の関東出兵により、小田原城が攻められた際に、葛西城も反後北条氏勢力の手に落ち岩槻太田氏が支配するところとなる。その後、永禄5年(1562)に後北条氏が本田氏を使って葛西城乗っ取りを計り、太田康資の指揮で後北条氏が奪還した。そして、永禄7年(1564)の第二次国府台合戦の折には、北条氏康がここに本陣をしいたわけだ。

合戦は永禄7年(1564)1月8日、後北条方の遠山直景、富永直勝ら第一陣が矢切のからめきの瀬を渡ったところで、里見軍の正木大膳の軍勢がこれを襲って始まり、里見軍が緒戦の勝利をおさめたといわれる。ところが、その日の夜、後北条軍は里見軍が休息しているところに夜襲をかけ、里見軍は完膚なきまでに叩きのめされたという。しかし、この遠山直景、富永直勝らを里見軍が襲って勝利をおさめたのは、永禄7年ではなく永禄6年であったという説もある。いずれにせよ、里見軍は破れ、太田資正らも落ちていった。

その際の里見軍の敗走経路を述べると、市川から海神へ入り、夏見台を経て、船橋城のあった城の腰を通って、峰台にいたり、そこで殿軍が戦闘を行ったと言われている。すなわち、峰台の慈雲寺では里見軍の殿軍が追撃する後北条軍を迎撃し、敗走するという合戦が戦われたという。慈雲寺は里見氏所縁の寺で、この寺の鐘を国府台城で使用し、鐘をつるした松から鐘が川に落ちて、そこが鐘ヶ渕といわれるという伝承がある。

一方、戦いに勝った後北条氏とそれに連なる原氏、高城氏らは勢いづいた。この合戦での高城胤辰の活躍は知られているが、高城氏を派遣して自らは動かなかったとされる千葉宗家の千葉胤富も出陣したと「千葉大系図」には見える。

なお、この第二次国府台合戦後、後北条軍は上総の奥まで侵攻し、その際に小弓城を奪還し、原氏を小弓に戻したらしい。その時原氏は小弓城を城割(破却)して北生実の生実城に移ったとされている。しかし、実際には、発掘調査で後代の遺物も発見されているため、南生実の小弓城は継続して使用されたと思われる。

<国府台城~現里見公園>

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<里見軍敗走路~船橋>

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4..国府台城と合戦にまつわる謎と伝説

国府台城のある台地は、江戸川に沿った標高20~25m位の舌状台地である。その台地上、現在の里見公園および関宿から江戸初期に移された総寧寺の敷地内に、江戸川に沿った細長い郭を囲むような、大きな二重土塁、その二重土塁の間の空堀や、物見の松と呼ばれる櫓台などがある。その北の住宅地にも、江戸川に面した台地端に土塁が見られ、数郭配されている。また、里見公園北側にある土塁は、明戸古墳という前方後円墳を利用したもので、太田道灌が発見したという石室が剥き出しになっている。大規模な土塁や堀はあるが、断片的な遺構しか残っておらず、江戸期の廃城、総寧寺の関宿からの移転、明治からの陸軍砲兵隊の駐留と戦時中の高射砲陣地敷設等による改変があり、当時の真の姿が分からなくなっている。当時の様子は、江戸名所図会に川に面する西側を除いた、東、南、北の三方にコの字形に土塁があって郭を取り巻く状態が、わずかに示されているのみである。この国府台城と市川合戦の市川城を同一視する向きがあるが、本当だろうか。

市川城が千葉氏によって築城され、市川合戦前の康正元年(1455)には存在し、国府台城が境根原の合戦に際して、文明10年(1478)に太田道灌の作った仮の陣城を元に、その後の戦国期の2回の国府台合戦で補強され、城砦として完成されたのは事実であろう。市川合戦後の康正2年(1456)から文明10年(1478)の22年間のどこかで市川城が廃城とならなかったとすれば、文明10年以降、市川城と国府台城はある期間併存したことになる。また国府台城は、西に太日川(現在の江戸川)を望む高台にあり、里見公園、総寧寺辺りに土塁や櫓台、堀などのあとが見られる。市川城は、恐らくその性格から国府の近くにあったと考えられ、真間山弘法寺のある真間を見下ろす台地端から現在の千葉商科大、あるいは国府台病院にかけてのどこかにあったと推定される。現実に真間山弘法寺の境内には土塁が存在し、真間山弘法寺のある台地端、現在国府神社のある辺りが、市川城があった場所という説がある。一方、国府台の台地でも、国府台城は太日川沿いに偏った地域に南北に長く郭が配置されていたと思われるが、これは国府台合戦で後北条氏の軍勢が拠った江戸川の対岸にある葛西城に対する、「向い城」の意味あいがあったと考えられる。
以上から、市川城と国府台城は近い場所にあったが、築城の目的も存立時期も異なる別の城と思わざるを得ない。では国府台城が太田道灌によって初めて築かれた後、戦国期二度の合戦での攻防を経験していた頃、市川城はどうなっていたのであろうか。千葉実胤、自胤が足利成氏の攻撃を受けて武蔵へ逃れてから、主を失った市川城は廃城となったかもしれない。しかし、付近の曽谷城や国分館は鎌倉期初頭前後に築城された後、曽谷氏が康正2年(1456)の市川合戦で武蔵に逃れ、国分氏も下総における拠点を大戸辺りに移してからも、曽谷城址など戦国期の土塁や堀が存在し、戦国期にも城郭として存続していた。したがって、市川城も戦国期に再構築され国府台合戦などで利用されたことも考えられる。

ともあれ、市川城はかつての千葉宗家と馬加系千葉氏との最後の決戦の場となり、国府台城は二度の国府台合戦の舞台となった。それぞれ、下総地方をめぐる勢力の戦いの場となったわけである。
国府台合戦が行われた里見公園内には、里見方の将士の供養碑や里見弘次の姫の伝説の「夜泣き石」があり、敗れた里見氏への世人の同情や憐憫を偲ばせる。

<里見将士の供養碑>

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<夜泣き石>

Yonakiishi

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国府台周辺の遺跡と伝説(その2:真間山弘法寺と市川城)

前回、国府台周辺の伝説として、真間の手児奈について紹介した。

その手児奈を祀る手児奈霊堂の北側の台地上にある真間山弘法寺は、鎌倉時代の建治元年(1275)に真言宗から日蓮宗に改宗した古刹であるが、実はこの弘法寺自体(あるいはその寺域)が康正2年(1456)正月の市川(市河)合戦の際、千葉実胤、自胤が拠った市川城であったという説(千野原靖方氏の説)がある。

◆市川城とは

言うまでもなく、市川の国府台は、下総の国府が置かれた場所である。また、その国府台は治承四年(1180)源頼朝挙兵時の千葉介常胤参会の舞台であった。千葉氏の本拠としての城は、千葉常胤の父常重の代から千葉城であったが、平安時代末から鎌倉時代の初め頃は国府、国衙のあった国府台が下総における政治の拠点であったと思われる。市川城は、下総権介としての千葉氏の居城であるとともに、何か有事の際に千葉氏が兵を率いて立て籠もれるような城であったのであろう。市川城は、下総国府の近くに、当時の様式通り単郭方形の館として築かれたかもしれない。あるいは真間山弘法寺の境内の西側、台地端にある弘法寺古墳など台地上にあった古墳を土塁代りに使うようなこともあったかもしれない。真間山弘法寺の境内には、鐘楼がある本堂南東側の一角に本当に土塁らしき土盛がある。

千野原靖方氏の『千葉氏 室町・戦国編』によれば、「市川城については、『武家事記所収文書』(康正二年)四月四日付足利成氏書状写に『餘黨等尚以同国市川ニ構城槨候間、今年正月十九日不残令討罰、然間両総州討平候了』とみえる。この市川城は、『真間山市河』=弘法寺敷地内、すなわちその寺院の施設を利用して構築された城であったと推定され、(小略) 市河合戦は日蓮宗の門徒と密接に関わっており、当地域における日蓮宗の拠点を念頭に置かなければならない。千田庄・八幡庄の日蓮宗寺院の中には本妙寺=中山館、法華寺=若宮館の例の如く、城館としての性格の色濃い、その構えを持った寺院も多かったのである」とある。確かに周辺には現在の中山法華経寺の前身、法華寺に若宮館(富木常忍の館)、本妙寺に中山館(大田乗明の館)と日蓮宗寺院と鎌倉武士の館の組み合わせが特徴的で、曽谷についても日蓮宗信者の曽谷教信と曽谷館(戦国期の曽谷城ではなく、曽谷教信存命中に使用した館)は同様の組み合わせであろう。

しかし、真間山弘法寺境内の古墳や鐘楼がある場所は、台地端の東西300mほどの直線の延長上にあって、この両方を含む単郭方形居館であったなら、かなり大きなものとなり、現実には城の土塁として用いられたかどうか、土塁として用いられたにしてもどちらか一方か、複郭構造であったものか。

<真間山弘法寺>

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市川城があった場所は、真間山弘法寺の境内を含めて、現在の国府台のどこかにあったと思われる。国府台は現在、公園や病院、住宅地などになっていて、その痕跡を殆ど留めていない。ここは戦前・戦中は砲兵連隊が配置され、兵舎や錬兵場の設置、首都防衛のための高射砲陣地設置など軍事目的のために台地の至る所が掘り返された。戦前・戦中の軍事利用さらに戦後の市街地化とともに、市川城址は破壊されている模様で、千野原靖方氏の説は別として、現状では市川城の正確な場所も分からない状態である。

<弘法寺周辺の航空地図>

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◆千葉宗家の最後の拠点

康正元年(1455)、当時関東における覇者であった古河公方足利成氏への立場によって、千葉氏は分裂する。すなわち、足利成氏に組みする有力な千葉氏庶子、馬加康胤と同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らによって、足利成氏と対立していた千葉氏宗家の胤直は、千葉城を急襲され、子の胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、千田庄の志摩城や多古城に拠った。千田庄は九州千葉氏の本拠地で、ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待った。しかし、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさ(武射か)の阿弥陀堂」で自刃し、志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃され、胤直、胤賢兄弟はそこを脱出し土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で胤賢も脱出先の匝瑳郡小堤辺りで何れも自刃し、常胤以来の千葉宗家は一旦滅んだ。その千葉宗家のあとを継いだのは馬加康胤であったが、その康胤、胤持父子も将軍足利義政の御教書を戴いた東常縁らによって滅ぼされ、その後の千葉宗家は康胤の子岩橋輔胤が継いだ。輔胤は原胤房と下総国内で分散し、東常縁軍に抵抗を続けた。一方、胤賢の子実胤、自胤は、土橋の如来堂を逃れ、一時東常縁や両上杉氏に後援されて市川城に拠っていた。足利成氏は康正2年(1456)正月、胤賢の子実胤、自胤の拠る市川城を攻撃し、実胤は武蔵の石浜城(現在の浅草近辺)へ、自胤も武蔵赤塚城へ落ちていった。これが、武蔵千葉氏の始まりであった。

<市川城があったといわれる真間山弘法寺境内の土壇と鐘楼>

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◆市川城と国府台合戦の国府台城は、同一の城か

この市川城と国府台合戦の国府台城は、同一の城という説がある。本当にそうであろうか。その件は真間山弘法寺の施設をつかって市川城がなりたっていたとすれば、別であることは自明である。では、国府台城とはどのような性格の城であるのか。それについては、次回。

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国府台周辺の遺跡と伝説(その1)

市川市の国府台は、読んで字の如く、かつて下総国の国府があった場所である。その国府台は、戦時中までは野砲兵隊や高射砲部隊が置かれるなどして、軍隊の町であったが、中世以前の様々な遺跡が残っている。長い軍隊の駐留や戦後の開発によって、かつての国府、国衙の遺跡や大小の古墳、中世城郭などの遺跡が、かなりの部分破壊されてしまったことは残念であるが、周辺を含めて、残存する遺跡もあり、またそれらにまつわる伝説もある。今回、その一端を紹介する。

JR市川駅から北へ向って、国府台にむかって歩いていくと、まず市川真間の弘法寺の参道が目に付く。その辺りから、真間川の向う、弘法寺のある台地を望むとき、かつてその低地は殆ど真間の入江で、海であったのに気付かされる。中世まで、国府台の台地の下は西から大きく入江が入り込み、その南側の一部に砂嘴があるという地形であったのだ。その真間は、今は京成市川真間駅の周辺と弘法寺参道沿いに商店が建ち並ぶ、古い商店街である。

<真間の入江の名残り、真間川沿いの低地から弘法寺方面を望む>

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つまり、真間川の下流域が、かつての真間の入江であり、弘法寺参道は、その入江があった場所をこえて真間の台地下を一直線に、弘法寺の石段の下まで続いているというわけである。その途中に後述する、真間の継橋や手児奈霊堂などがある。

<弘法寺参道>

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手児奈伝説

市川国府台の台地下の真間といえば、真間の手児奈の伝説が、有名である。真間の手児奈とは、古代真間にいた娘であり、村長あるいは国造の娘とも、巫女ともいわれる。そして、伝説では手児奈は美人であり、複数の男性から求婚されたことがもとで懊悩し、真間の入江に入水自殺をとげたとされる。

真間の手児奈の伝説は、いろいろと万葉集の題材になっている。

にほ鳥の 葛飾早稲をにへすとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも (東歌) <巻一四の三三八六>

このにほ鳥とは、水辺にいるカイツブリの古名であるが、ここでは葛飾の枕詞である。葛飾は勝鹿とも書いたが、葛飾の早稲を神にささげる新嘗の夜は、恋人が訪ねてきても家の中にいれる訳にはいかない。なぜなら、自分は今、神に仕える身なのだから。しかし、そうはいっても、あの愛しい人を、夜通し家の外に立たせたままにしておけるだろうか。

というような意味であり、情熱的な歌である。

また、同じ万葉集で、やはり真間の手児名について山部赤人の詠んだ歌があるが、

吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処   <巻三の四三二>

葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ <巻三の四三三>

というものである。

上記の最初の一首を現代語にすれば(するほどのこともないが)、以下のようになるだろう。

私も見た 人にも告げよう 葛飾の真間の手児名が眠る墓の様子を

また、高橋虫麻呂も、万葉集に

勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平(な)らし 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ  <巻九の一八〇八>

という歌を詠んでいる。

手児奈は、国造の娘や巫女であったという説以外に、一庶民であったとか、遊女であったという説もある。
山部赤人の歌は、「玉藻刈りけむ」、つまり入江できれいな藻を刈っていた、健康的な庶民女性を前提に詠まれたようである。それは複数の男性から求愛されて、入水自殺した女性という、はかないイメージと違い、山部赤人の歌は、前出の歌の前に
「いにしへに 有りけむ人の 倭文幡(しづはた)の 帯解き替えて 伏屋たて 妻問いしけむ」とあり、どうも手児奈は誰かに求婚されて、結婚したように詠まれている。また、高橋虫麻呂の歌でも、「勝鹿の 真間の手児奈が 麻衣に 青衿づけ ひたさおを 裳には織り着て 髪だにも かきは梳らず 靴をだに 履かず行けども 錦綾の 中に包める いはひ児も 妹にしかめや」とあり、身なりは粗末で髪の毛を梳ってもいないし、靴もはいていないが、どんな令嬢にも負けない美しさであったと、手児奈が庶民女性であると明言している。それが、いかなる経緯でなくなったのか。

山部赤人や高橋虫麻呂のころに、すでに手児奈は、伝説の人になっていた。
そして、万葉集でも、いろいろなイメージを詠む人によって持っていたから、ニュアンスの違う歌が生まれたのであろう。最近の研究では、手児奈は名前ではなく、一般名詞で、特別な若い女性を指す、すなわち抱かれる女性(東国方言で「てご」は女子を指し、奈という幼児を示す接尾語がついた「お姉ちゃん」に近い意味)のことをいっているのだという。またその当時の遊女(あそびめ)は、近世の遊女とは異なるが、遊行僧が旅から旅へ渡り歩いたように、「男から男へと『遊行』する女婦」を意味するのだという。もし、本当にそうなら、従来われわれが抱いていた、真間の手児奈のイメージとは、かなりのギャップがあるのだが、如何に。

<真間の継橋>

Tsugihashi

真間の継橋は、砂洲が南にあり、入江が入り込んでいた当地をいくつかの橋を継ぐことで、国府まで通ることができるようにしていた、その橋のことであるが、当然ながら、当時の橋は入江の杭に板などを渡して作った粗末な橋であったろう。現在、赤い欄干の短いコンクリート製の橋があるが、高知のはりまや橋を思い出す。しかし、けなしてばかりではいかがなものか。ちゃんとこの橋にも、万葉集の歌がある。

足(あ)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 止まず通はむ (東歌) <巻七の一三三九>

真間の継橋を足音がしないように、馬で手児奈のもとに通えるなら、通いつめるのに、というような意味である。板橋を馬で行って音がしないのは無理であるが、それくらい手児奈のもとに通いたいという男たちがいたということか。

<手児奈霊堂~手児奈の墓があった場所に建てられたという>

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手児奈霊堂は、真間の台地のすぐ下にある。近くには、真間の井で有名な亀井院がある。この手児奈霊堂は、文亀元年(1510)、日蓮宗の寺となっていた真間山弘法寺の日与上人が手児奈の奥津城跡に手児奈を祀ったと伝えられている。もともと、弘法寺と手児奈は、奈良時代の天平9年(737)に行基が当地を訪れ、求法寺という寺堂を建てて、手児奈を供養したのに始まるとされるが、弘法寺の七代日与上人が読経しているときに、少女の霊が現れ、この寺を守護するというお告げをしたため、日与上人はこれを手児奈の霊とし、現在の場所に霊堂を建てたと伝えられている。

<亀井院>

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なお、現在の手児奈霊堂は、安産、子育て、縁結びの信仰を集め、近所の人が遊びに来たり、古代の赤米を利用した食物などのフリーマーケットが開かれるような場所になっている。

手児奈霊堂の道を挟んで向い側には、亀井院がある。これは寛永15年(1638)頃、弘法寺の第十一世住職日立上人によって、貫主の隠居寺として建てられた。はじめ瓶井坊と称し、のちに弘法寺の大檀那鈴木長常を葬って鈴木院と改称、長常の子鈴木長頼が宝永2年(1705)になくなって没落すると、近傍にあった霊亀出現の井戸、亀井(真間の井のこと)にちなんで亀井院と再度改称した。その亀井、真間の井は、亀井院の中庭に伝わっている。

手児奈霊堂や亀井院の北側、台地上にあるのが、真間山弘法寺である。読んで字のごとく、元は真言宗の寺であったが、天台宗となり、さらに鎌倉時代に日蓮宗である法華寺(現中山法華経寺)の開基富木常忍らと法論となり、日蓮宗の僧が勝ったために、日蓮宗に改宗した。その経緯を真間山弘法寺のHPでは、以下のように書いている。

「鎌倉時代に入り、建治元年(1275)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。
 その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。」

この真間山弘法寺、いろいろ謎を秘めた寺である。それについては、また次回。

<真間山弘法寺の石段>

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夏見城にまつわる謎と伝承

◆夏見城主の伝承と実像

現在のJR船橋駅の北、夏見の台地の東南端には、長福寺という寺があり、そのあたりが、夏見城址である。夏見城の城主は、「長福寺縁起」に登場する夏見氏といわれている。「長福寺縁起」や「薬王寺過去帳」では、永禄7年(1564)に戦死したという夏見加賀守政芳が夏見城主であり、長福寺の「当山往古開基」とされている。この人物は里見義明旗下とされるなど、疑問な点もあるが、夏見氏を名乗る在地領主がいたという伝承があったこと自体は不自然ではない。その実在性は長福寺木造聖観世音菩薩の天文5年(1536)12月24日付「夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定」という胎内銘によって証明され、船橋市にある城館址で唯一城主またはその近縁者の名前が物証をもって判明していることになる。
奇しくも、長福寺木造聖観世音菩薩の胎内銘にある「豊嶋勘解由左衛門尉」という名乗りは、石神井城城主であった武蔵豊嶋氏の代々引き継がれてきたものと同じである。

◆豊嶋氏とは

そもそも坂東平氏は、桓武天皇の曾孫高望王が下向した後、その子国香、良兼、良将、良文、良茂そして孫の貞盛、将門たちの頃には、一門は東国に地盤を築き大きな勢力を張った。豊嶋氏・葛西氏は、この良文の流れをくむものである。平良文の孫、将常が秩父郡中村郷に土着して秩父氏となり、武蔵国一円に勢力を伸ばし、その秩父氏の武常は秩父を出て、早くから利根川や荒川河口の周辺を開発し、豊島・葛西地方にまたがる荘園を領した。したがって、その子孫は在名により、それぞれ豊嶋氏や葛西氏を名乗ったのである。豊嶋とは、武蔵国豊嶋郷を指す。豊嶋氏は三郎康家を祖とし、その子に三郎清元、平塚入道、四郎俊経がいるが、長男の清元は「豊嶋権守」を名乗って平治元年(1159)の平治滝野川合戦から文治5年(1156)の保元の乱まで確認できる。平塚入道は実名不詳であるが、現在の東京都北区中里にあたる平塚を既に本拠としていたものか。豊嶋氏の居城は、JR上中里駅から南西へ徒歩5分、滝野川公園の南側にある平塚神社にあったという。築城は、平安時代末期に豊嶋氏によって行われたと伝わるが、現況は遺構が見られない。

◆名門豊嶋氏の活躍と没落

治承4年(1180)に挙兵、石橋山の敗戦の後も安房に逃れて再起し、平家に対抗して下総から武蔵へ入った源頼朝の軍勢を、豊嶋清元とその子葛西三郎清重は迎えた。豊嶋氏は豊嶋清元の子有経を本宗とし、平塚に居城を構え、後に石神井川沿いに石神井へも進出していく。室町時代後期、関東の覇者を目指す、関東公方(後の古河公方)足利成氏は関東の諸将を巻き込み、覇権を管領上杉氏と争うことになる。諸将のうち豊嶋氏も例外でなく、享徳4年(1455)1月14日付けの豊嶋勘解由左衛門尉宛ての長尾景仲・上杉持朝方との合戦に備えた足利成氏軍勢催促状が残っている(国立公文書館蔵の「豊嶋宮城文書」)。
寛政4年(1463)8月、管領上杉房顕の家宰である長尾景仲が没し、その子景信が継いだ。文正2年(1467)2月には上杉房顕が戦死し、越後守護上杉房定の子、顕定が山内上杉家の名跡を継いだ。文明5年(1473)6月、長尾景信が死去し、景信の嫡子景春と景信の弟忠景とで跡目争いとなった。管領上杉顕定は、忠景を立てたので、景春はこの顕定の処置を不満とし、主家上杉氏を恨み、上杉氏と対立する古河公方足利成氏に通じるようになった。その頃、駿河の今川氏に内紛が起り、解決のため上杉家重臣の太田道灌が江戸を離れた隙に、長尾景春は文明8年(1476)8月、鉢形城(埼玉県寄居町)に拠り兵を挙げた。豊嶋氏もこれに応じて立っている。
 景春は、まず五十子に陣する主家の上杉顕定ら山内・扇谷両上杉氏の軍勢を急襲した。不意をつかれ上杉方は、翌文明9年(1477)正月18日、利根川を越えて上州那波へ敗走した。長尾景春に与する豊嶋氏は直ちに石神井・練馬・平塚の三城を固めて、上杉方の河越城と道灌の江戸城を結ぶ連絡路を分断し、景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)・小磯城(神奈川県大磯町)・小沢城(神奈川県愛甲郡愛川町)の諸城と結んで、江戸城包囲の布陣を整えた。
 駿河から急ぎ江戸城に帰った道灌は、江戸城と河越城を結ぶ要路を奪回するため、まず豊島氏の拠る石神井・練馬の両城を攻めることをはかり、加勢に相模の上杉勢をあてようとするが、折り悪く前日来の大雨で増水して多摩川が渡れなかった(「太田道灌状」)。そのため、道灌は戦術を転換し、3月にはこの兵力で景春に味方する溝呂木城・小磯城を攻め、両城とも落ちた。つづいて小沢城を武蔵の援軍を得て攻め落とし、さらに4月10日には、武蔵国勝原で河越城攻略に布陣した景春軍と戦い、これを打ち破った。長尾景春、豊嶋氏らの太田道灌の江戸城封じ込め態勢はくずれて形勢は一変し、逆に豊嶋氏が孤立する状態となった。
 道灌は文明9年(1477)4月13日、豊嶋平衛門尉泰明の拠る平塚城を攻撃した。平塚城勢の抵抗が激しく容易に落ちないので、太田道灌軍は城下に火を放ち、いったん兵を引きあげて江戸城へ帰りかけた。その途中、豊嶋泰明の要請で平塚城救援に馳けつける兄の石神井城主豊嶋勘解由左衛門尉泰経が石神井・練馬両城の兵を率いて出発したのを太田道灌は察知した。太田道灌軍は、これを三浦義同・上杉朝昌・千葉自胤らとともに江古田原沼袋に迎え撃った。その結果、豊嶋軍は惨敗を喫し、豊嶋泰経は石神井城に逃げ帰った。この合戦で、豊嶋方は弟の泰明をはじめ一族の板橋氏・赤塚氏以下郎党150人が討死したという。 太田道灌は、翌14日には石神井城を包囲した。数日の攻防の後、豊嶋泰経はついに降参を申し出、和議となった。しかし、それが計略であることに気付いた道灌は再度攻撃し、ついに石神井城を攻め落した。
 このとき、城主豊嶋泰経は闇にまぎれて城外に落ちのび、平塚城で再起をはかったという。しかし、翌文明10年(1478)正月25日にはこの平塚城も道灌によって攻め落され、豊嶋泰経は小机城(横浜市神奈川区小机町)にのがれるが、4月2日には道灌に包囲され小机城も落ちた。これによって、平安末以来、南武蔵に勢力を誇った豊嶋氏も、没落してしまった。石神井城が落城した後、落ち延びた武蔵豊嶋氏が船橋の夏見の小領主となったものか。突飛ではあるが、その可能性も否定できない。

◆夏見城主の豊嶋氏と武蔵豊嶋氏

天文5年(1536)12月24日付の「長福寺聖観音菩薩像胎内銘」とは、以下の通りである。
 
旦那 夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定

  彦三郎弟源五郎戒名道頓 子息彦三郎胤重             
                    天文五年丙申 十二月廿四日
  夏見山長福寺本尊 聖行海小聖知順                     筆者慶仲正善■ 正順  主                     
       仏師成就坊秀印  

この銘のなかで出てくる、彦三郎弟源五郎戒名道頓とは、千葉勝胤のいわゆる佐倉歌壇の一人で「雲玉和歌集」にも歌が載せられている円城寺道頓と思われるが、円城寺道頓は、康生元年(1455)千葉胤直ら宗家とともに馬加康胤らの勢力によって討たれた円城寺下野守尚任(妙城)はじめ、円城寺壱岐守(妙壱)、円城寺日向守(妙向)や翌康生2年(1456)千葉実胤、自胤とともに>、市川城に立て籠もって戦死した円城寺若狭守(妙若)と同族であり、彼らと行動を共にし、千葉実胤、自胤の何れかに従って武蔵国に赴き、そこで30余年過ごして下総に帰ってきた人物である。円城寺道頓と夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定の接点は、武蔵にあるのではないだろうか。道頓は武蔵千葉氏に従って30年以上武蔵にいて、下総に帰って来た人物であり、豊嶋勘解由左衛門尉胤定とは武蔵にルーツをもつ豊嶋氏の出身であろう。
道頓の詠んだ歌に、以下のようなものがある。

円城寺道頓と申人、三十余年のち下総に白地かへりきてよまれしとなり

  故郷にかへる我身はおきなさひ人もとかめぬ世こそ安けれ
 
豊嶋勘解由左衛門尉という名前と円城寺道頓の事績からみると、やはり武蔵国から夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定、あるいはその先祖が夏見に来て、この夏見城主となったのではないか。石神井城主であった豊嶋勘解由左衛門尉泰経の直系ではないにせよ、武蔵豊嶋氏が太田道灌との戦いに敗れ、かつて伊勢神宮領の夏見御厨の地であり、領主として入り込みやすかった夏見の小領主となったものか。
何れにせよ、天文5年頃の夏見城主が、夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定という人物かその近縁者であったことは間違いない。近世初頭である慶長11年(1606)の中山法華経寺諸塔中の檀那のうち、この夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定の子孫と思われる夏見勘解由左衛門尉なる鬼越(現市川市鬼越)在住の檀那の名が、中山法華経寺所蔵の「護代帳」に見られ、今も子孫が市川市に在住している。

◆夏見城の落城伝説

一方、永禄7年(1564)に戦死したという夏見加賀守政芳は、法名が「瑞光院殿長福道榮大居士」、永禄7年1月10日が命日とされるが、その日は第2次国府台合戦で太日川対岸の葛西城を攻撃するなど里見軍が優位に戦いを展開していた頃にあたる。里見義明旗下というが、そもそも里見義明とは里見義弘か足利義明を合成したような名前であり、夏見加賀守の没年が正しければ里見義弘のことであろう。しかし、原氏、高城氏の影響が強い船橋にあって、原氏に従っていたと思われる夏見豊嶋氏の子孫であれば、里見方についていたとは考え難い。一説では夏見加賀守とは、戦国後期に船橋を支配していた高城氏の家臣である伊藤(伊東)加賀守政芳が夏見に居住していたため、夏見氏を名乗ったものという。里見氏に従っていたといえば、船橋では峰台にあった慈雲寺が里見氏の祈願寺で、第2次国府台合戦で敗れた里見軍の殿軍がそこを拠点に最後の合戦をしたといわれているほか、船橋近くの武将では鷺沼の鷺沼源吾が里見軍に従軍している。

<船橋での里見軍の敗走路>

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最近の研究によれば、第2次国府台合戦で敗北した里見軍は、市川から海神を通り、夏見の薬王寺付近から南に城ノ腰を通って現在、峰台小学校のある峰台の慈雲寺方面へ敗走していき、しんがりは慈雲寺を拠点に追撃する後北条軍を迎え撃ったという。
夏見加賀守政芳の伝承は、高城氏に従って第2次国府台合戦で戦死した当時の夏見城主の話が、夏見の南へ敗走し、慈雲寺を舞台に里見軍が最後の抵抗を試みた伝承が付加されるなどして、敵味方が逆になって里見旗下云々と信じ難いものになってしまったのかもしれない。
伝説では、夏見城は戦国時代に不意に敵に襲われ落城したというが、それに関連して長福寺には「抜け穴」の伝承があるほか、雪解塚(ゆきげづか)も夏見城に関連した伝説に由来する名前で、雪解塚のある場所には昔井戸があり、戦いに敗れた夏見城の将兵の遺骸を埋めたとも、城の女中らが身を投げたともいわれ、そのために雪解塚には雪が積もらなかったという。
雪解塚は実際には土塁であるが、今も長福寺境内の北東隅にあり、その塚の上には天明5年(1785)11月吉日建立の妙見菩薩(亀の上にまたがった剣と宝珠を持った姿)のレリーフを刻んだ小祠が祀られている。

<夏見城址のある夏見の長福寺> 113natsumi-chofukuji

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下総地方の城と将門伝説

下総の城には、平将門に関わる伝承がいろいろ残っている。将門は神田明神に祀られるくらい、江戸庶民に人気があっただけに、何かと将門に結びつけた話が多く伝わったのだろうが、将門の本拠地猿島郡・豊田郡を含む下総という地方の特殊性もあろう。将門の伝承には、将門に同情的、あるいは親近感をもつものから、逆に将門を討伐、調伏する側のものもある。以下、いくつかの伝承を紹介しよう。

<大手町のビルの谷間にある将門首塚>

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<本佐倉城近くにある桔梗塚>

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◆市川の大野城と将門伝説(市川市大野)

大野城址は、市川市の市街地の北東方、大柏の台地にあって、大柏川の支流が作る支谷を東に望む台地端にある。大野城は、別名を御門城という。JR市川大野駅の東に大柏のT字路に向かって歩き、T字路を右折して浄光寺を過ぎた、「御門」という地名が残る辺りが城域である。JR市川大野駅の東南東約600m、かつて「城山」と呼ばれていた比高15mほどの台地東端の市立第五中学校の周辺に腰郭などの遺構が残り、JR武蔵野線の線路を越えた、第五中学校の南西約500mの地点にある台地南端に近い大柏小学校周辺と大柏小学校の北に隣接する本将寺跡地にも土塁の残欠が残る。
大柏小学校の南の台地端や本将寺跡にも、土塁が残ることから、大野城の城域は少なくとも南北約600m、東西約500mはあり、比較的規模の大きな城であったことがわかる。平将門の城という伝承があるが、第五中学校周辺の複雑な遺構からみて、戦国期の城であったことは間違いない。
当地には平将門の伝説が残り、城山の向いにある台地には天満天神があるが、これは将門が勧請したという。すなわち、平将門が天慶元年(938)に京都の北野天神を当地に勧請して建てたとの伝承があり、「柳天満宮者 人王六十一代 朱雀天皇御宇 天慶元年 平親王将門 皇都天満宮 下総大野ニ移ス 別当光胤山本光寺」と書かれた菅原道真画像の掛軸が残っている。また、大野城址のある第五中学校敷地の北端にある石の祠を将門様といって土地の古老は供養している。本光寺の北西、三社宮の西側にあたる場所の字名を「螻道(けらみち)」といい、家来が通った道という。「城山」の東にある高台は「テキヤマ」あるいは「デキヤマ」といい、将門の敵の山とか一晩で出来た山という伝承がある。将門の大野城自体、平将門の下総西部における出城という伝承があるが、前述のように時代があわない。
大野には、曽谷山法蓮寺、曽谷山礼林寺という曽谷氏関係の寺が残っている。したがって、大野にも曽谷一族が住んでいたと思われ、また大田乗明も大野に勢力をもち、館を構えていたといわれる。例えば、大柏のT字路近くにある本光寺も、大田乗明の子日高上人の俗甥である日胤上人が、正平16年(1361)に当地を閑居の地として堂宇を建立、中山法華経寺から寺号を許されたという由来をもち、大田氏が大野に館を構えていたことをうかがわせる。
地名でも、前述の「御門」のほか、「殿内」、「殿台」、「殿台下」、「迎米」、「馬寄場」、「一ノ谷」、「二ノ谷」、「楯台」、「根古谷」という中世城郭の名残を留める字名が残されている。「御門」は大手門、「殿内」、「殿台」は領主の館、「迎米」は米倉、「馬寄場」は馬場、「一ノ谷」、「二ノ谷」は外堀、「楯台」は守備陣地、「根古谷」は家臣の住む集落を示すといい、今でも「御門」などは地名として使用され、「殿内」、「殿台」、「迎米」は、バス停の名前にもなっている。上記のうち、「一ノ谷」、「二ノ谷」は、平将門が射た矢が落ちた場所という伝承を持っている。
平将門の伝説は、大野に限らず、下総の各所に残っており、南の本八幡や菅野には、八幡の藪知ず、御代の院という将門を調伏した伝説をもつ古跡が残っている。将門伝説に関わらず、大野に古くから集落があり、在地領主もいたであろうことは、本光寺に残る武蔵型板碑からも明らかである。
また、その本光寺は山号を光胤山というが、これは原豊前入道光胤の名に由来し、光胤は豊前坊という坊を営んでいて、その坊が本光寺の前身であったという説がある。原光胤は原胤親の子で、寛正7年(1466)に吉川の戦いで討死したという(吉川は現在の埼玉県北葛飾郡吉川で、市川大野と同じJR武蔵野線沿線に吉川駅がある)。実際、本土寺過去帳には、寛正7年(1466)2月6日の項に「原豊前入道光胤 吉川ニテ 大ノ」とある。その少し前の市川合戦後の享徳5年(1456)6月に、原胤房は真間山弘法寺に対して安堵状を出し、弘法寺が密接に関係していた市川津や宿、市場を支配下に置いた。すなわち15世紀半ばには原氏の勢力は市川から当地に及んでおり、当時の大野城は原豊前守(光胤か)がいたという。この豊前守の受領名を名乗る原氏の系統は、その後本佐倉に移住した模様で、千葉氏重臣として千葉勝胤らの歴代当主に近侍した。とはいえ、原氏は一定期間、大野の領主であったらしく、本土寺過去帳によると、文明2年(1470)4月16日の項に「原左衛門治部蓮教 大ノ」、長享2年(1488)8月3日の項に「原若狭 大ノ」とあり、原氏一族が大野に居住したことを証明している。さらに、戦国期には市川周辺は、原氏の重臣であった高城氏の支配へ移っていった。
市川合戦の前は大田氏や曽谷氏が支配し、その後15世紀半ばには原氏が支配した大野の地が、なぜ将門伝説と結びつけられたのか。領主が変遷していったことで、地元の人の伝承に混乱が生じたのであろうか。康生2年(1456)正月の市川合戦の舞台となった市川城は、実は大野城であったという説まである。

◆本佐倉城と将門伝説(佐倉市将門町)

本佐倉城は、本佐倉城の項で述べているように文明年間に岩橋輔胤かその子である千葉介孝胤が築いた城であるが、なぜか別名を将門山城という。かつて、土地の人からは本佐倉城は平将門の城であると思われていたようで、2004年新春外郭部の堀の辺りで土地の人に話を聞いたときも本佐倉城を「将門城」と呼んでいた。千葉氏は平将門の父良将の弟、将門からは叔父にあたる村岡五郎良文の子孫であり、同じ坂東平氏で同族ではある。また、実際に、本佐倉城の西の台地には平将門の父良将の館があったといわれ、その付近を将門山と呼んでいた。現在の地名でも、佐倉市将門町になっている。さらに、将門山にある八幡神社は、平良将の創建と伝えられる。
本佐倉城址の西、八幡神社の赤い鳥居のさらに北西側にある口ノ宮神社は、「将門神社」と呼ばれ、「将門口ノ宮神社」の扁額が、佐倉城主であった堀田正信が寄進したという石鳥居に掲げられている。石鳥居には、向って右の柱に「奉寄進将門山大明神 承応三年甲午天十一月吉日」、左の柱に「佐倉之城主従五位下 堀田上野介紀朝臣正信」と朱も鮮やかに書かれている。承応三年(1654)は、佐倉惣五郎が刑死した年の翌年であり、堀田正信は千葉氏旧臣の出である佐倉惣五郎の霊を鎮めるために石鳥居を千葉氏と所縁の深い平将門を祀る将門神社に奉納したのではないか。佐倉惣五郎は本名を木内惣五郎といい、木内氏は千葉氏の隠居城である公津城(鷺山城)の家老を代々務めていた家系であり、千葉氏の重臣であった。元々あった将門大明神に、堀田氏によって佐倉惣五郎が合祀されて口ノ宮明神となり、明治三年に藩により佐倉惣五郎の合祀が外され、神体書類を上納させて、将門神社とされ、廃屋となったという。今の将門口ノ宮神社は、復興されたものである。
口ノ宮神社の前のT字路を西へ100mほどいくと、畑の中に桔梗塚があり、伝承桔梗塚の石碑が建っていて、
「花もなく しげれる草の桔梗こそ いつの時世に花の咲む」
と刻まれている。桔梗は将門の愛妾の一人であったが、敵将藤原秀郷の間者でもあったという。その桔梗に影武者と将門の見分け方を教えられた秀郷が将門を討ち、桔梗の墓には花が咲かなかったという伝説がある。
そもそも将門山に平良将の館があったかといえば、伝承のみであり、やはり後に同族である千葉氏が本拠にしたため、敷衍されて将門の伝説が定着したのであろう。

◆船橋城と将門腰掛松(船橋市市場)

船橋市にも、将門の伝説がある。現在、船橋中央卸売市場のある船橋市市場の一角は、かつて「城ノ腰」という地名で、海老川沿いの微高地であり、船橋城があったといわれている場所である。そこに将門が当地を訪れ、腰を下ろして休んだという将門腰掛松がある。船橋城の成立時期は不明であるが、中世の船橋は、海老川下流部にかつてあった、夏見入江を背景に「船橋津」として繁栄した。また、「左衛門太郎 フナハシ海賊ニテ被打」という本土寺過去帳の記述から、船橋を根拠にした海の武士団がいたことがわかる。
徳川家康、秀忠父子の鷹狩用に建てられた船橋御殿は、貞享年間(1684-1688)船橋大神宮の宮司、富氏に下げ渡され、富氏屋敷となったというが、その土地の近隣には、中世に入江があったときに、安養寺という律宗の大寺があった。その律宗の僧は、「船橋津」の商業活動を担っていたと思われ、中世の船橋は、商業交易を背景に栄え、その「船橋津」を防衛する拠点が船橋城だったのではないか。夏見と船橋大神宮のちょうど中間ほどで、水陸交通の交わる地点、すなわち湊と付随する荷揚場があったと推定される地点を防備する役割を船橋城は担っており、その象徴が城ノ腰松であったのではないだろうか。
城ノ腰松は現在の船橋市宮本の花輪城にあったものを持っていったという説もあり、「城ノ腰」という地名自体、花輪城関連のものであったという。花輪城は、船橋の市街地の東、東金街道沿いの学校や住宅地に囲まれた、茂呂神社(別名:砂山浅間)とその周辺部分にあった。茂呂神社は、祭神は木花開耶姫命、船橋大神宮の摂社で、正月に大神宮を飾る若松は、この境内から切り出されていた。小さな神社ではあるが、昔は「江戸名所図絵」にのるほど富士、房総、筑波を望む眺望の良い場所で名所であった。安養寺が中心となった商業活動の拠点を守っていたであろう船橋城と安養寺を別当寺としていたらしい船橋大神宮とは何かと関係があって、船橋大神宮の松が船橋城に植えられ、いつしか「城ノ腰」という地名に付会して、「将の腰の松」→「将門(しょうもん)の腰掛け松」という具合に、将門が腰をかけたとの伝承になって、今日に伝わったのではないか。

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