旧沼南町大井をめぐる伝承

現在は柏市になっているが、旧沼南町に大井という場所がある。ここは旧沼南町でも比較的早くから開けた地区であるが、いろいろな歴史伝承を持っている。

大井といえば、「大井の晩鐘」の福満寺を思い出す人もいるかもしれない。福満寺は山門からして、古色蒼然としている。しかし、山門を過ぎると、なぜ本堂まで下がっていくのであろうか、逆に上って行く寺はよくあるのであるが。それはともかく、相馬御厨がかつてあった場所は、鎌倉時代に相馬氏が支配下においたために、相馬氏が千葉氏、さらには平良文ら阪東平氏の流れを汲み、また平将門が本拠にした岩井も近いとあって、この辺りにも将門伝説がある。

<大井の福満寺山門>

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それは、伝承によると、平将門が藤原秀郷に敗れてなくなった後、その妾であった車ノ前が遺児とともに大井の地に隠れ棲み、将門が信仰していた妙見菩薩を祀る堂をたてて、菩提を弔ったというものである。実際、車ノ前の墓と伝えられる五輪塔が、福満寺の裏にある。すなわち、福満寺南側の境外地にある約100m四方の森となっている、「妙見さま」と地元の人から呼ばれる妙見堂の跡地に、その五輪塔はある。車ノ前が生前将門の菩提を弔うために妙見菩薩を祀る堂をたてたものが、現在の妙見堂跡といわれ、地元の人々は例年2月21日には将門の命日と称して妙見講を行っている。

さて、手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の父常重が、その叔父常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝が領有した。当時、源義朝に千葉氏はしたがっており、千葉氏も未納分を返して権利を主張したが、義朝の方に分があったらしい。さらに常陸の源義宗が相馬郡を領有、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も、下総相馬氏は南朝についたため罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国期まで当地に残っていたと思われる。実際、大井の大津川対岸の戸張にいた戸張氏は、相馬氏系である(後に、戸張氏も高城氏、後北条氏の圧迫をうけ、簗田氏配下に走り、戸張からいなくなるが)。

<戸張城の堀址>

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しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。なお手賀城主は原氏であり、手賀周辺を原氏が治めたといわれるが、戦国期には、小金の高城氏が当地も支配下に置いている。その大井には、かつて大井追花城があった。もともと、この城は大井追花の相馬氏系の在地領主の城館であったとともに、大津川河口付近の水運を監視する、役割を担っていたのであろう。

<この道の両側の藪の中に大井追花城址がある>

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なお、この城には面白い伝説があり、大津川対岸の戸張城主、戸張弾正と、当城の城主とは仲が悪く、合戦を度々行っていた。その最後の決戦の時に、両将が自ら戦い、組打ちとなったまま、水田に落ちて、どちらかが相手の鼻を食いちぎったため、その田があった場所を「鼻喰田(はなつけげ)」というのだという。戦国時代には戸張も大井も、高城氏の支配下になっていたため、そうした合戦はありえないが、それ以前の時代には在地領主同士の小競り合いのようなことはあったかもしれない。 大井追花城主は、高城伊勢守とも坂巻若狭守とも伝えられるが、あくまで伝承であり、確たることは分かっていない。高城伊勢守といえば、八千代市吉橋にあった吉橋城主として伝承されている人物と同姓で同じ受領名である。しかし、高城伊勢守という名前が信じるに足る古文書類に出てきた例がなく、戦国時代には高城氏の支配下にあったというのは確かとしても、そういう人物が城主であったという証拠はない。伊勢守という受領名は、何かもっともらしく、昔は名前が分からない場合、伊勢守とかいっておけば本当らしいと、勝手につけてしまったのか。

坂巻若狭守というのも同様で、大井の福満寺観音堂縁起に大旦那とあり、相馬氏の一族である坂巻氏が当地の領主であったと想定できるが、客観的な史料には出てこない。しかし、城址の近くにある妙照寺の慶長11年(1606) 9月13日の『護代帳』(中山法華経寺)には、酒巻勘解由、坂巻八郎右衛門など坂巻姓の者が見られ、やはり相馬氏族坂巻氏が在地領主であった可能性がある。たしかに、坂巻という名字は、大井には多い。

大井追花城は、高城氏が勢力を当地にまで拡大したときは、その代官として派遣されていたであろう座間氏が預かっていたと思われる。実際、現在も子孫が残っていて、その座間さんが、城址のある場所の地主である。ちなみに座間氏の名字は、今の神奈川県の座間から来ているという。 前述したように、大井は手賀沼、大津川の水運の拠点であったようで、古くから商業活動も営まれていた可能性がある。商業、流通は、物と同時に、人の行き来も伴うものである。そのため、大井は旧沼南町では、比較的開放的なところがあるのかもしれない。

<大井追花城址の土塁>

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下総地方の城と将門伝説

下総の城には、平将門に関わる伝承がいろいろ残っている。将門は神田明神に祀られるくらい、江戸庶民に人気があっただけに、何かと将門に結びつけた話が多く伝わったのだろうが、将門の本拠地猿島郡・豊田郡を含む下総という地方の特殊性もあろう。将門の伝承には、将門に同情的、あるいは親近感をもつものから、逆に将門を討伐、調伏する側のものもある。以下、いくつかの伝承を紹介しよう。

<大手町のビルの谷間にある将門首塚>

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<本佐倉城近くにある桔梗塚>

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◆市川の大野城と将門伝説(市川市大野)

大野城址は、市川市の市街地の北東方、大柏の台地にあって、大柏川の支流が作る支谷を東に望む台地端にある。大野城は、別名を御門城という。JR市川大野駅の東に大柏のT字路に向かって歩き、T字路を右折して浄光寺を過ぎた、「御門」という地名が残る辺りが城域である。JR市川大野駅の東南東約600m、かつて「城山」と呼ばれていた比高15mほどの台地東端の市立第五中学校の周辺に腰郭などの遺構が残り、JR武蔵野線の線路を越えた、第五中学校の南西約500mの地点にある台地南端に近い大柏小学校周辺と大柏小学校の北に隣接する本将寺跡地にも土塁の残欠が残る。
大柏小学校の南の台地端や本将寺跡にも、土塁が残ることから、大野城の城域は少なくとも南北約600m、東西約500mはあり、比較的規模の大きな城であったことがわかる。平将門の城という伝承があるが、第五中学校周辺の複雑な遺構からみて、戦国期の城であったことは間違いない。
当地には平将門の伝説が残り、城山の向いにある台地には天満天神があるが、これは将門が勧請したという。すなわち、平将門が天慶元年(938)に京都の北野天神を当地に勧請して建てたとの伝承があり、「柳天満宮者 人王六十一代 朱雀天皇御宇 天慶元年 平親王将門 皇都天満宮 下総大野ニ移ス 別当光胤山本光寺」と書かれた菅原道真画像の掛軸が残っている。また、大野城址のある第五中学校敷地の北端にある石の祠を将門様といって土地の古老は供養している。本光寺の北西、三社宮の西側にあたる場所の字名を「螻道(けらみち)」といい、家来が通った道という。「城山」の東にある高台は「テキヤマ」あるいは「デキヤマ」といい、将門の敵の山とか一晩で出来た山という伝承がある。将門の大野城自体、平将門の下総西部における出城という伝承があるが、前述のように時代があわない。
大野には、曽谷山法蓮寺、曽谷山礼林寺という曽谷氏関係の寺が残っている。したがって、大野にも曽谷一族が住んでいたと思われ、また大田乗明も大野に勢力をもち、館を構えていたといわれる。例えば、大柏のT字路近くにある本光寺も、大田乗明の子日高上人の俗甥である日胤上人が、正平16年(1361)に当地を閑居の地として堂宇を建立、中山法華経寺から寺号を許されたという由来をもち、大田氏が大野に館を構えていたことをうかがわせる。
地名でも、前述の「御門」のほか、「殿内」、「殿台」、「殿台下」、「迎米」、「馬寄場」、「一ノ谷」、「二ノ谷」、「楯台」、「根古谷」という中世城郭の名残を留める字名が残されている。「御門」は大手門、「殿内」、「殿台」は領主の館、「迎米」は米倉、「馬寄場」は馬場、「一ノ谷」、「二ノ谷」は外堀、「楯台」は守備陣地、「根古谷」は家臣の住む集落を示すといい、今でも「御門」などは地名として使用され、「殿内」、「殿台」、「迎米」は、バス停の名前にもなっている。上記のうち、「一ノ谷」、「二ノ谷」は、平将門が射た矢が落ちた場所という伝承を持っている。
平将門の伝説は、大野に限らず、下総の各所に残っており、南の本八幡や菅野には、八幡の藪知ず、御代の院という将門を調伏した伝説をもつ古跡が残っている。将門伝説に関わらず、大野に古くから集落があり、在地領主もいたであろうことは、本光寺に残る武蔵型板碑からも明らかである。
また、その本光寺は山号を光胤山というが、これは原豊前入道光胤の名に由来し、光胤は豊前坊という坊を営んでいて、その坊が本光寺の前身であったという説がある。原光胤は原胤親の子で、寛正7年(1466)に吉川の戦いで討死したという(吉川は現在の埼玉県北葛飾郡吉川で、市川大野と同じJR武蔵野線沿線に吉川駅がある)。実際、本土寺過去帳には、寛正7年(1466)2月6日の項に「原豊前入道光胤 吉川ニテ 大ノ」とある。その少し前の市川合戦後の享徳5年(1456)6月に、原胤房は真間山弘法寺に対して安堵状を出し、弘法寺が密接に関係していた市川津や宿、市場を支配下に置いた。すなわち15世紀半ばには原氏の勢力は市川から当地に及んでおり、当時の大野城は原豊前守(光胤か)がいたという。この豊前守の受領名を名乗る原氏の系統は、その後本佐倉に移住した模様で、千葉氏重臣として千葉勝胤らの歴代当主に近侍した。とはいえ、原氏は一定期間、大野の領主であったらしく、本土寺過去帳によると、文明2年(1470)4月16日の項に「原左衛門治部蓮教 大ノ」、長享2年(1488)8月3日の項に「原若狭 大ノ」とあり、原氏一族が大野に居住したことを証明している。さらに、戦国期には市川周辺は、原氏の重臣であった高城氏の支配へ移っていった。
市川合戦の前は大田氏や曽谷氏が支配し、その後15世紀半ばには原氏が支配した大野の地が、なぜ将門伝説と結びつけられたのか。領主が変遷していったことで、地元の人の伝承に混乱が生じたのであろうか。康生2年(1456)正月の市川合戦の舞台となった市川城は、実は大野城であったという説まである。

◆本佐倉城と将門伝説(佐倉市将門町)

本佐倉城は、本佐倉城の項で述べているように文明年間に岩橋輔胤かその子である千葉介孝胤が築いた城であるが、なぜか別名を将門山城という。かつて、土地の人からは本佐倉城は平将門の城であると思われていたようで、2004年新春外郭部の堀の辺りで土地の人に話を聞いたときも本佐倉城を「将門城」と呼んでいた。千葉氏は平将門の父良将の弟、将門からは叔父にあたる村岡五郎良文の子孫であり、同じ坂東平氏で同族ではある。また、実際に、本佐倉城の西の台地には平将門の父良将の館があったといわれ、その付近を将門山と呼んでいた。現在の地名でも、佐倉市将門町になっている。さらに、将門山にある八幡神社は、平良将の創建と伝えられる。
本佐倉城址の西、八幡神社の赤い鳥居のさらに北西側にある口ノ宮神社は、「将門神社」と呼ばれ、「将門口ノ宮神社」の扁額が、佐倉城主であった堀田正信が寄進したという石鳥居に掲げられている。石鳥居には、向って右の柱に「奉寄進将門山大明神 承応三年甲午天十一月吉日」、左の柱に「佐倉之城主従五位下 堀田上野介紀朝臣正信」と朱も鮮やかに書かれている。承応三年(1654)は、佐倉惣五郎が刑死した年の翌年であり、堀田正信は千葉氏旧臣の出である佐倉惣五郎の霊を鎮めるために石鳥居を千葉氏と所縁の深い平将門を祀る将門神社に奉納したのではないか。佐倉惣五郎は本名を木内惣五郎といい、木内氏は千葉氏の隠居城である公津城(鷺山城)の家老を代々務めていた家系であり、千葉氏の重臣であった。元々あった将門大明神に、堀田氏によって佐倉惣五郎が合祀されて口ノ宮明神となり、明治三年に藩により佐倉惣五郎の合祀が外され、神体書類を上納させて、将門神社とされ、廃屋となったという。今の将門口ノ宮神社は、復興されたものである。
口ノ宮神社の前のT字路を西へ100mほどいくと、畑の中に桔梗塚があり、伝承桔梗塚の石碑が建っていて、
「花もなく しげれる草の桔梗こそ いつの時世に花の咲む」
と刻まれている。桔梗は将門の愛妾の一人であったが、敵将藤原秀郷の間者でもあったという。その桔梗に影武者と将門の見分け方を教えられた秀郷が将門を討ち、桔梗の墓には花が咲かなかったという伝説がある。
そもそも将門山に平良将の館があったかといえば、伝承のみであり、やはり後に同族である千葉氏が本拠にしたため、敷衍されて将門の伝説が定着したのであろう。

◆船橋城と将門腰掛松(船橋市市場)

船橋市にも、将門の伝説がある。現在、船橋中央卸売市場のある船橋市市場の一角は、かつて「城ノ腰」という地名で、海老川沿いの微高地であり、船橋城があったといわれている場所である。そこに将門が当地を訪れ、腰を下ろして休んだという将門腰掛松がある。船橋城の成立時期は不明であるが、中世の船橋は、海老川下流部にかつてあった、夏見入江を背景に「船橋津」として繁栄した。また、「左衛門太郎 フナハシ海賊ニテ被打」という本土寺過去帳の記述から、船橋を根拠にした海の武士団がいたことがわかる。
徳川家康、秀忠父子の鷹狩用に建てられた船橋御殿は、貞享年間(1684-1688)船橋大神宮の宮司、富氏に下げ渡され、富氏屋敷となったというが、その土地の近隣には、中世に入江があったときに、安養寺という律宗の大寺があった。その律宗の僧は、「船橋津」の商業活動を担っていたと思われ、中世の船橋は、商業交易を背景に栄え、その「船橋津」を防衛する拠点が船橋城だったのではないか。夏見と船橋大神宮のちょうど中間ほどで、水陸交通の交わる地点、すなわち湊と付随する荷揚場があったと推定される地点を防備する役割を船橋城は担っており、その象徴が城ノ腰松であったのではないだろうか。
城ノ腰松は現在の船橋市宮本の花輪城にあったものを持っていったという説もあり、「城ノ腰」という地名自体、花輪城関連のものであったという。花輪城は、船橋の市街地の東、東金街道沿いの学校や住宅地に囲まれた、茂呂神社(別名:砂山浅間)とその周辺部分にあった。茂呂神社は、祭神は木花開耶姫命、船橋大神宮の摂社で、正月に大神宮を飾る若松は、この境内から切り出されていた。小さな神社ではあるが、昔は「江戸名所図絵」にのるほど富士、房総、筑波を望む眺望の良い場所で名所であった。安養寺が中心となった商業活動の拠点を守っていたであろう船橋城と安養寺を別当寺としていたらしい船橋大神宮とは何かと関係があって、船橋大神宮の松が船橋城に植えられ、いつしか「城ノ腰」という地名に付会して、「将の腰の松」→「将門(しょうもん)の腰掛け松」という具合に、将門が腰をかけたとの伝承になって、今日に伝わったのではないか。

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