臼井城退転後の臼井氏

鎌倉時代から戦国時代にかけて、臼井城の城主として、宝治合戦後の一時的な没落期以外は、連綿として名門臼井氏が存続し、その治世を継いで来た。しかし、戦国期も半ばに入り、ついたり離れたりした古河公方との関係や千葉宗家の衰退、千葉氏重臣であった原氏の台頭など、歴史の波に翻弄され、臼井氏の勢力にも翳りが見えるようになってきた
弘治3年(1557)14才で臼井景胤の跡を継いだ当主久胤であったが、景胤の「小弓の原胤貞に城を護ってもらうように」という遺言により臼井に来た原胤貞に、事実上城主の座を追われ、現在「御屋敷」という地名の残る臼井城の主郭部の南に位置する谷に屋敷を構えて幽居させられた。

<臼井城主郭より臼井氏の菩提寺円応寺を望む>

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小弓の原胤貞は、月の三分の二は臼井城の本丸(第1郭)に居住して、「小弓、臼井両城主」と称された。原胤貞は、家臣、領民に対し、俸給を上げ、税を軽くするなどの施策をしたために、城主として尊崇され、かたや本来の城主であった臼井久胤はないがしろにされた。そこで、臼井久胤は、ひそかに城を出ることを考えていた。

永禄4年(1561)里見氏重臣の正木大膳が臼井、小弓城に攻めてきたのを機に、臼井久胤は臼井城を脱出して結城に走り、臼井城は落城した。臼井久胤は結城晴朝に仕え、十二人円判衆の一人という重臣に列せられた。臼井久胤は水谷(みずのや)正村(蟠龍斎)の旗下として、その厚遇を受けた。永禄9年(1566)3月、後北条氏打倒を目指し、関東に出陣した上杉謙信と里見義堯・義弘父子らの軍勢が原氏の臼井城を攻めたが、この臼井城攻めの軍勢のなかに、臼井久胤の姿があった。臼井久胤は結城晴朝に従って、上杉勢に加わったのである。この合戦では第1郭を残し「実城堀一重」というところまで、上杉勢は攻めたてたが、臼井方はよく守った。臼井久胤がよく知っていた堅城ぶりが発揮されたのである。上杉勢は臼井城主原胤貞の好守備により敗退し、臼井久胤は結局臼井に復帰出来ず、下館で生涯を終えた。

久胤は結城で上野氏の娘を妻に迎え、忠胤、良胤、村胤という子を成した。長じて忠胤と村胤は水谷(みずのや)氏に仕えたが、父久胤の待遇と比べ、禄も減らされ冷遇された。忠胤は水谷家を辞し帰農したが、その子常数は苗字帯刀を許され、子孫は牛久の山口家などに仕えた。良胤は立身を目指して大坂へ行き、浪々の日々を送り、音信不通となった。
村胤は寛永17年(1640)、水谷勝隆の国替に伴い、備中高松に赴き、その地で亡くなった。
その子益胤、孫秀胤は水谷家に仕えるも、秀胤は水谷家を出て浪人後、間部家に300石で迎えられ、子孫は代々間部家に仕えて越前鯖江に居住した。こうして、臼井城主として権勢を振るった臼井氏の嫡流は、臼井から離れ、別の場所で家名を残したのである。

一時里見勢の手にあった臼井城であるが、落城の報せを聞いた千葉胤富が原胤貞を先鋒として臼井城を攻めさせ、これを奪回、原氏は臼井城に返り咲いた。原氏は以降、臼井氏に代わって臼井領の支配を確立していく。今も臼井氏菩提寺円応寺には臼井氏中興の祖、興胤の十三代後胤で、久胤からは孫にあたる益胤の娘貞笑尼を含め、臼井氏の子孫の墓がある。また久胤の曾孫秀胤(信斎)は、有名な「臼井八景」*の撰者である。

*臼井八景とは、以下の和歌にあらわされた臼井周辺の情景

「舟戸夜雨」 漁する舟戸の浪のよるの雨 ぬれてや網の縄手くるしき
「遠部落雁」 手を折りてひとつふたつとかぞふれば みちてとをべに落つる雁がね
「飯野暮雪」 ふり積もる雪の夕べを見ぬ人に かくといひののことの葉もなし
「師戸帰帆」  もろ人の諸戸の渡り行く舟の ほのかに見えてかへる夕くれ
「瀬戸秋月」 もろこしの西の湖もかくやらん には照る浪の瀬戸の月かげ
「城嶺夕照」 いく夕べ入日を峰に送るらん むかしの遠くなれる古跡
「光勝晩鐘」 けふも暮れぬあはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん
「州崎晴嵐」 ふき払ひ雲も嵐もなかりけり 州崎によする波も静かに

<師戸城址から臼井方面を望む>
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臼井興胤に関する伝説と実像

千葉県佐倉市臼井田の地には、下総の雄城の一つである臼井城がある。この城の主であった臼井氏の中興の祖といわれ、臼井城を事実上築城した人物が臼井興胤である。この人にまつわる伝説と実像について述べたい。

<臼井城近くの天満宮~臼井興胤創建といわれる>

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臼井氏は千葉氏の一族で、千葉常胤の祖父である下総権介平(大椎)常兼の三男で、常胤からは叔父にあたる臼井六郎常康が永久2年(1114)に臼井を領したのが始まりという。常康の子常忠は源頼朝に仕え、伊東祐親の娘を妻としたともいわれる。常忠の跡は、その子成常が継ぎ、盛常、山無常清、山無胤常と続く。宝治元年(1247)の宝治の合戦で、三浦泰村についた臼井氏は、臼井(山無)太郎胤常、二郎親常兄弟と思われる臼井太郎、次郎が戦死して敗れ、臼井の所領を失いその勢力は一時衰退する。

山無胤常の子は景胤である。山無景胤以後、山無氏の嫡流から常忠の子、成常の弟である久常の系統の臼井康胤、昌胤が跡を継ぎ、その代を経てようやく、臼井氏は臼井の領地を回復した。その頃の当主であった臼井太郎祐胤は、正和3年(1314)に25才で亡くなったが、その時祐胤には3才の竹若丸という子があり、幼少ということで祐胤の弟、志津次郎胤氏が竹若丸成人まで後見することになった。

しかし、志津胤氏はやがて竹若丸を殺し、臼井城主になる野心を抱いたが、竹若丸の保母阿多津の機転で、忠臣であった岩戸胤安に竹若丸は託される。岩戸胤安は、修験者に身をやつし、背中の笈のなかに竹若丸を隠して臼井城を脱出した。そして、胤安は竹松丸を居城岩戸城に一旦かくまった後、鎌倉へ赴き建長寺の仏国禅師に竹若丸を託した。竹若丸はこうして、鎌倉建長寺に逃げのび、後事を託された仏国禅師に養育されることになる。そのことを知った志津次郎胤氏は阿多津を捕えて殺害、さらに岩戸胤安、胤親父子の籠る岩戸城を攻めた。岩戸氏父子はよく防いだが、多勢に無勢で敵わず、自刃して果てた。

<円応寺にある岩戸胤安の碑>

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その際、城から逃れ葦原に隠れた阿多津が咳をしたために捕まったという伝承があり、後にそれを哀れんだ民衆によって建てられた供養塔は、今も臼井城の北側の印旛沼のほとりにある。現在その供養塔は、昭和4年(1929)建立の「阿多津之祠碑」という大きな石碑(後に倒れて横に二つに割れたため、斜めに寝かせて石積で支えてある)と共に建っている。

<阿多津の墓>

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こうして志津胤氏は、一旦は臼井領を押領した。一方、鎌倉に逃れた竹若丸は、建長寺で仏国禅師とその死後後事を託された仏真禅師に師事して成長、元服し、臼井行胤と名乗った。時代は鎌倉時代から南北朝の戦乱期に移っており、臼井行胤は足利尊氏に従って戦功をたて、その戦功により、暦応元年(1338)に臼井領を安堵された。さらに行胤は、尊氏の推挙で官位も得て、臼井興胤と改名したという。同時に千葉介貞胤(千葉氏12代当主)は、志津胤氏を志津に退けた。それを不満に思った志津胤氏は、なお興胤に本心から臣従しなかった。それどころか、その後も主従の礼に従わずに、興胤を侮った態度を改めなかった。そこで、臼井興胤は、主君の意に従わない志津胤氏を滅ぼすための謀略を考え、暦応3年(1340)8月14日、臼井城の堀の浚渫工事の使役と称し、胤氏に命じて志津城の兵を臼井に呼び寄せた。そうして、志津城を手薄にし、その隙を狙って志津城を奇襲し、攻め落したのである。その際、志津胤氏は城を臼井勢に囲まれ、配下の兵も少なく絶望した。胤氏は妻から「潔く自刃してください、私も後を追います」と言われて自刃し、その妻は胤氏の遺骸の後始末をし、自ら長刀を振るって勇戦したが、最後は屋敷に火をかけ、胤氏の柩とともに自決したと伝えられている。その志津氏の子孫がどうなったか不明であるが、志津では志津城址の近隣にある志津家が子孫とされているようである。志津氏は下志津の報恩寺を創建したと伝えられ、臼井氏の有力な分家であったが、当時なんらかの争いが臼井宗家とあり、それがこのような伝承になっているのかもしれない。

<円応寺本堂>

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上述のような、臼井行胤、後の興胤が足利尊氏の後援で、本領を安堵され、志津胤氏に報復するという話は後世に作られた伝説といってよく、臼井行胤とは足利尊氏の近習として活躍した白井行胤と混同され、かつモチーフとなって作り出された人物である。白井行胤は臼井にも近い白井庄を治めていた白井氏の一族で、文和4年(1355)2月25日の「足利尊氏近習馬廻一揆契状」という古文書に、「白井弾正左衛門尉行胤」の署名と花押が見られる。すなわち、臼井行胤とそれにまつわる逸話は、実在の白井行胤に仮託して作り出されたものであろう。

それが、同時代の臼井氏当主である臼井興胤の事績として、足利尊氏という当時の最高権威である将軍家と結びつき、重み付けされた形で伝承されたと思われる。

<鎌倉鶴岡八幡宮>

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ともかく臼井城主として実権を確保した臼井興胤は「臼井家中興の祖」と称され、その後の臼井氏は昔の勢いを取り戻した。 現在の臼井城も興胤の代に整備され、現在の城の原形が出来たといわれる。ちなみに、現在臼井城の北側の低地にある臨済宗瑞湖山円応寺を、鎌倉から仏真禅師を招いて創建したのも、この臼井興胤であり、その十三代後胤である益胤の娘貞笑尼を含め、臼井氏の子孫の墓がある。

<臼井興胤創建の円応寺>

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