先日、お身内が徳島師範から勤労動員で半田(中島飛行機のようです)に来て、半田空襲で亡くなったという方から、慰霊碑について問合せが「夜霧の古城」の豊川海軍工廠に関する記事にコメントとして記入されていました。
小生が勤務する半田には、かつて中島飛行機の工場があり、半田空襲で多くの人が亡くなりました。また、戦時中におきた東南海地震でも勤労学徒の犠牲者が出ています。
お寺では前明山光照院に、中島飛行機山方工場に動員され東南海地震の犠牲になった半田市内の学校の殉難者の供養が行われ、「追憶之碑」というのが建立されたそうです。
よく行く岩滑の温泉と住まいの途中、JR半田駅近くに光照院の看板がありますので、ちょっと行ってきました。光照院は西山浄土宗のお寺。さっそく本堂にお参りし、寺務所で光照院の若いお坊さんに聞いたところ、石碑は7、8年前墓地の整理をしたときに、雁宿公園に移したそうです。結局光照院には、動員学徒の関連のものは「おおない十一面観音像」しか残っていないようです。「おおない十一面観音像」は東南海地震で犠牲になった人が勤めていた山方工場の土を常滑の陶土にまぜて作った高さ50cmほどの陶製の観音様です。和尚さんがいたら、もっといろいろわかったでしょうが。
最初、「あれは刈谷に移した」と聞こえたので焦りました。ちなみに、庫裡を建て直すため、古い食器類がいらなくなったとのことで、小さいお皿をもらいました。
ほかに、小生でも知っている戦争遺跡で半田では赤レンガのカブトビールの建物がありますが、これも機銃掃射でやられており、弾痕が数多く残っています。
半田は空襲の慰霊碑が、他にも柊町の墓地にあります。どれがそうかよく分からないのですが、慰霊碑やお地蔵さんなどはほかにもあります。
雁宿公園には半田地方の432人の犠牲者氏名を刻んだ「半田・平和祈念碑」、東南海地震の学徒犠牲者を追悼する「殉難学徒の像」とその横に光照院にあった「追憶之碑」もたしかにありました。
<雁宿公園にある半田空襲・東南海地震犠牲者の慰霊碑>
その「半田・平和祈念碑」の裏に石碑がありますが、小栗風葉の記念碑で、戦争遺跡ではありません。
「半田・平和祈念碑」のそばに、若い女性の立像があり、これが中島飛行機山方工場に勤務し、東南海地震でなくなった学徒らの慰霊のために建てられた「殉難学徒の像」があり、像の台座の円柱状になっている部分に犠牲者の氏名が彫られています。犠牲になった学徒は96名だそうですが、名前を見ると、地元の名字が多いようです。
なぜ、地震で犠牲者が多かったといえば、建物の柱が地震に耐えられる強度になかった。生産優先で、地震の際に退避する訓練もされていなかったなど、人災の側面が強いようです。このあたりは、研究されている人もいるかと思いますが、実態がよくわかっていないようです。
<殉難学徒の像>

殉難学徒の碑の横にあるのは、同じ東南海地震で犠牲になった学徒の慰霊碑「追憶之碑」です。もとは半田の光照院にあったものです。これは昭和25年(1950)に半田高女有志ほかの人々によって光照院で、犠牲となった学徒の慰霊追善法要が行われ、山方工場に残った国旗掲揚塔の残骸などを使って、碑や仏像をつくろうということになり、国旗掲揚塔の組み石を利用して作られた石碑です。半田市内の学校の学徒48名を慰霊しています。占領軍にはばかって、碑のおもてには「追憶之碑」としか刻まなかったといいます。
<追憶之碑>
問い合わせをしてきた人は、乙川という地名とお寺に慰霊碑があったとのことで、今まで紹介した碑ではないようです。
どうも、空襲の犠牲者は地区ごとにもおまつりしているようなので、今度乙川地区について調べてみることにしました。乙川ですと、気になるお寺があるのですが、今後行ってみようと思います。
なお、今回初めて、自分のブログに来た問い合わせについて調べるという動機ではありますが、自発的に戦争遺跡を調べました。小生が半田の戦争遺跡を調べている間、森兵男さんは、流山あたりで柏飛行場の輸送ラインを調べようと右往左往しているのでしょう。
兵男さん、お手伝いせず、すみませんね。
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