2009年6月20日 (土)

松ヶ崎城跡の柏市との共催見学会は75名と犬1頭参加

ようやく、松ヶ崎城のオープン後の見学会を開催できました。準備としては城跡の整備のもろもろがあり、特に草刈りに動員がままならなかったのですが、保存の活動の一環として見学会など、ここは松ヶ崎城の会が動かないと、と松ヶ崎城の会の総会でも決まっていることですので、当初考えていたタイミングより遅くなりましたが、市との共催でとりおこなった次第。

<見学者に説明する柏市吉田学芸員>

Kaisetu_yosida

20人くらいしか来なかったら、ゆっくりマイペースで見学会ができるので、そのほうが良いかと思ったら、75名ほどの参加者がありました。正確には犬を1頭連れていた人がいるので、プラス犬1頭です。ただし、若い人の比率が、圧倒的に低く、30代以下の人は10人弱ではないでしょうか。逆に多かったのは、団塊世代以上の人たち。これは、歴史関係の催しだけでなく、自然保護のイベントについても同様のようです。

会のホームページに見学会の様子とともに、植物の写真も載せましたが、アジサイの写真が不鮮明だったので、昨日別件で柏に行ったついでに撮り直し、差し替えました。

<アジサイ>

Ajisai1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月16日 (木)

オープン直前、松ヶ崎城跡の整備状況

柏市の松ヶ崎城のオープン前の清掃活動に、先日行ってきました。

郭内の木が切られ、土塁や堀が表土まで露出する状態になったため、よく見渡せるようになった反面、東側の土塁など、だいぶへこんだり、損傷しているのも、よく分かるようになっていました。

写真は、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」HPのトップにも掲げた、筆者が物見台(1号古墳)にのぼって撮った郭内の様子ですが、重機のわだちが痛々しい。

Kakunai

古墳は3基とも無事でしたが、2号墳、3号墳は、周囲に草木がなくなったため、前より大きく見えました。

そうした古墳の上にも、春のきざしが。なんと、わらび、ゼンマイの芽が出ており、タラの芽までありました。

Warabi 

柏市によって、土塁、虎口といった看板が取り付けられる予定ですが、清掃作業のときには、仮設のものでした。その他、台地縁には、木の柵が設置され、切った木も運び出される予定です。

オープン後には、4月29日に「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の講演会が予定されており、さらに見学会も計画されています。

Hori

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月 6日 (月)

松ヶ崎城の今後に関する講演会

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催で、下記の講演会を行います。

松ヶ崎城は、柏市にある中世城郭です。昨年、市の指定文化財でありながら、遺構の破壊問題があり、いかに保存していくかが焦眉の課題となりました。

・テーマ:松ヶ崎城の明日を語り合う 基調講演 「これまでの松ヶ崎城とこれから」
・日時:2009年4月29日(水:祝日) 13時30分から15時30分(予定)
・場所:柏市中央公民館 集会室1,2
・講師:吉田敬氏(柏市教育委員会学芸員)
・会費:資料代程度
・問い合わせ先:久川さん方 TEL. 04-7134-8833

Matsugasakijomokei

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月15日 (日)

東葛地方で中世城郭発見か (続報)

主題の件について、鋭意探索中です。

詳しくは、夜霧の古城をご参照願います。

「夜霧の古城」:東葛地方で中世城郭発見か (続報)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月18日 (日)

東葛地方で中世城郭発見か

かねて、中世城郭を調査していた東葛地方の某市において、先日千葉県文化財関連の研究者某氏と某市学芸員の方、および言い出した地元の方と郷土史研究の方々とともに、その中世城郭の遺構らしきものの踏査に行きました。

主郭と思われる郭は台地上にあって、一辺が40mから50mほどの方形であり、土塁、空堀、虎口、土橋を備えています。虎口は北にむいて開き、西側が入江状の低湿地を望む場所にあって、縁辺の土塁の下は切り岸か急になっていて、台地中腹に腰郭らしきものがあります。

<主郭らしき郭の周りを取り巻く空堀と土塁>

Kakunai

主郭らしき郭の東側の空堀は深く、人の腰ほどもありますが、落ち葉などの堆積を考えると、実際は3mとかあったかもしれません。

正確に計測はしていませんので、詳しい数字が出ていませんが、主郭はほぼ正方形に近い形と思われます。

西側は竪土塁のようなものを残して、切岸があり、腰郭状になっている平場の北側にさらに土橋があって、小さな郭(物見用か?)と連絡しています。土橋は比較的高く作られ、人が一人通るのがやっとというような幅しかありません。小さな郭の北側にはさらに溝がありますが、それが竪土塁に付随する空堀のあとか、近世以降に作られた溝または道路かは不明です。

<土橋は一人通る幅しかない>

Dobashi

主郭らしき郭の周囲を取り巻く土塁は比較的しっかりしていて、幅が1.5mほどはあり、上に乗って歩いてもびくともしません。版築構造になっているのでしょう。ぐるっと土塁の上を歩くと、最初入ってきた虎口の場所に出ます。

一応ここは『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』にも出ていますが、「消滅」扱いになっています。これは新年早々に新発見かな。

<土塁の上をいく>

Doruiue

小生の推理では、西側にある池を伴う入江状の低湿地は、中世にはもっと広範囲に水をたたえた場所で、船着場あるいは船隠しがあったのではないかと思います。

多分、この城もその船着場を利用して、水運によって手賀沼、印旛沼(印旛浦)とつながり物資を移動させていた勢力が船着場を守るためにつくったか、何かと思います。

虎口が平虎口で、腰郭や切岸以外に目立った防御設備がないことから、戦国初期以前の城跡かもしれません。

なお、近くには塚もあり、ほかに土塁もありますが、城跡との関係などは不明です。というより、城跡の主や、近くにある城跡との関連も不明です。

文化財関連の方からは、正確な位置を確認し、縄張り図を描くように指導がありました。小生縄張り図が苦手でありますが、この際下手でも協力せねばならないようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月30日 (火)

最後まで忙しかった今年

今年は、最後まで忙しく過ごしました。

世の中は、不況とか言っていますが、実感がありません。何か遠い世界の話のように聞こえますが、現実にトヨタあたりは派遣社員だけでなく、協力会社も契約期間がくると、再契約せずに終了というのが増えているらしいです。

<東京駅前八重洲付近>

Taketoyo

小生の会社のほうも、西日本で高炉を一基止めるのですから、会社には影響があったのは事実だと思います。しかし、もともと改修しようとしていたものを前倒しにするだけで、計画を早めただけともいえます。アメリカの金融不安で株価が下がったのは、日本の産業が衰退したとかが原因でもなく、不況だと、不況だと騒ぎ過ぎるのもどうかと思います。

全世界が不況でもなし、何か探せば仕事のネタはあるものです。日本で仕事がなければ、海外にいけば色々転がっています。

自分はといえば、ある大きなプロジェクトを担当することになり、西へ東へ何度か出張したり、通常ないようなことで頭を悩ませたりしましたが、秋ごろから別の企画的なテーマにも従事するようになりました。その企画業務もまた全国規模の話でしたが、無事に話が進みましたので、来年からその仕事を継続することになりました。

また、来年も初日から忙しくなりそうです。世の中は不況かもしれませんが、あまり自分には関係ないと思って来年も過ごすつもりです。

<JR武豊駅にとまっている電車>

Taketoyo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月17日 (水)

TV番組に偶然出た親戚の家

最近、ある旅番組で、小生の親戚の家に有名人が泊まるという椿事がありました。

群馬県の片田舎の街道筋で、なぜか宿泊希望のお医者さんは、子供たちの遊びに興味津々、やがて日は暮れて泊まる場所を探して慌て出し、5軒くらい断られてたどりついたのが、小生の親戚の家。

二つ返事でOKしたのは、人の良い証拠と思いますが、小生の親戚には義理人情を重んじるような人が多いのも事実。実は、その田舎は父方の実家の近くで、「鉄砲屋」という屋号のその家と、父方の祖父などはかなり親しかったのですが、親戚としては母方の親戚です。確かにあのあたりで、突然来た人を泊めるような、ある程度大きな家は、「鉄砲屋」くらいしかないかもしれません。なお、「鉄砲屋」はダイナマイトの火薬などを扱っていて、鉄砲の火薬も売っていたので、そう呼ばれていましたが、昔のショーウインドー?はいまだに残っていました。

逆に母方の本家の近所に、父方の親戚がいたりと、入り組んでいて、小生も全部の親戚をわかっておりません。

それにしても、珍しいこともあるもんで、TVカメラを通じてみた父方の田舎も相当変わっており、文化財に指定されたという父が卒業した小学校の廃校は映らず、小学校としては父の記憶にない別地区の学校が映ったのみでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月29日 (土)

つい最近まで勘違いしていたこと

もう35年も前になりますが、高校生のころ、ジェットストリームという日本航空提供のラジオ番組を聴いていました。主にムード音楽などがかかり、いい雰囲気の音楽番組です。

スターダスト、シバの女王、エーゲ海の真珠など。

「ジェットストリーム、遠い地平線が消えて、深々とした夜のやみに心を休めるとき・・」、あの出だしも忘れられません。

このパーソナリティが、今はなき城達也さん。

どういうわけか、つい最近まで、この城達也さんと城卓矢さんを同一人物と思っていました。つまり、「骨まで愛して」の歌手が、ラジオ番組のパーソナリティに転じたものと。

子供のころは、モーツァルトと毛沢東を混同していたのですが、同じような間違いを50になるまでしていたとは。

以下は、YouTubeにあったジェットストリームでの城達也さんの声の入った動画です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 3日 (月)

心月斎の晋山式に行ってきました

11月2日(日)、愛知県知多郡美浜町布土にある心月斎という、曹洞宗の寺院の晋山式に行ってきました。

<晋山式が執り行われた心月斎>

Shingetsusai1

岩滑城主、中山勝時ご子孫のSさんから誘われたからですが、この心月斎の先代、当代住職はSさんのご親戚です。晋山式とは、新しい住職にかわるお披露目の式のようなものですが、新しい住職とは、先代住職の息子さんで、副住職をつとめてこられた人です。

こういう式に参加するのも初めてですが、心月斎のお堂の中に入るのも今回が初めてです。心月斎は、「花の寺」というだけに、季節の草花がいろいろ咲いています。以前来たときは、裏山の植物がいろいろ植えられている公園のような場所を散策したりしましたが、蓮池でハグロトンボを見かけて写真を撮りました。

<ハグロトンボ>

hagurotonbo.

この心月斎は、緒川水野氏一族の水野忠分(水野忠政の六男、あるいは七男という)が開基となって創建されました。開山は、緒川から招かれたという大良喜歓大和尚。戦国時代、緒川水野氏は知多半島を制圧すべく、一族を知多半島の要所に配置しましたが、河和の戸田氏に対する備えとして、この布土に水野忠分を領主として配置したようです。また、水野氏の勢力下には、曹洞宗の水野氏系の寺院を建立していったのですが、この心月斎もその一つといえるでしょう。水野氏の本拠、緒川には水野忠政の墓のある乾坤院、常滑には常滑水野氏が創建した天澤院、大高には大高水野氏が開いた春江院といった具合です。

水野忠分は、布土城という城を天文年間には、当地の神明神社のそばに構えていたらしいのですが、遺構が残っておらず、当時を偲ばせるのは、心月斎の佇まいくらいなものでしょうか。

<心月斎の山門>

Shingetsusai2

なお、今回の式の様子などは、別に「夜霧の古城」に書き残そうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月28日 (火)

勇気あるもの

へとへとになって、会社にいくのも、苦痛な朝は、音楽を聴きながら出かけると、軽快に会社にたどり着けるかもしれません。

休みでも仕事をしていると、気分がふさぎこみがちですが、家でレコードでも聴きながらやると結構はかどります。なぜ、あえてレコードかといえば、小生の家のステレオはアンプは生きていますが、CDがだめになり、チューナーも壊れ、レコードプレイヤーしかまともに動かないからです。これはもう27年も前、新入社員の冬のボーナスで買ったミニコンポの一部ですが、アンプなどはすでに壊れ、別物と入れ替えたのに、なぜかレコードプレイヤーだけ健在なのです。

レコードは、洋楽、例えばビートルズなどのグループものやヨーロッパのポップス、ビリー・ジョエルのストレンジーなどに混じって、吉永小百合の「勇気あるもの」といった懐かしのレコードを所蔵しています。他にも、たくさんあったのですが、だいぶ処分してしまいました。

吉永小百合の「勇気あるもの」は、だいぶ古くホコリや傷で、音質はぼろぼろですが、聞いてみると昔はよくこういう歌が流行ったと思います。しかし、「石っころだらけの道を歌いながらゆこう」とは、今の自分の状況そのもののような歌ですな。

だけど、明らかに自分の若いころとも年代の一昔古いレコードをなぜ持っているかといえば、どこかのボロ市で買ったとしか思えないのですが、その記憶がまったくないのであります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 5日 (日)

知多のケーブルテレビが小生のブログを番組で紹介?

東海市に本社があり、東海市のほか大府市、知多市、阿久比町など知多半島北部を拠点とする知多メディアスネットワークという会社から、小生のブログ「夜霧の古城」のなかの記事を番組で紹介したい旨、問い合わせと依頼がありました。ケーブルテレビは「メディアスチャンネル」というらしいです。

東海市にある木田城とか今川塚のことらしいのですが、なにせ小生は知多半島でも北部ではなく、そのケーブルテレビは受信しておらず、その番組が放送されたかどうかは知りません(知多半島の常滑市にある別のケーブルテレビや三重テレビなら見ることができます)。

でも、今まで何か問い合わせがあると、小生のものではなく、「千葉県の戦争遺跡」とか兵男さん関連が多かったのです。少し、溜飲を下げました。

知多メディアスネットワークのHP:URLは以下

http://www.medias.co.jp/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 4日 (土)

月はおぼろに東山

小生、歌はあまり人前で歌いませんし、熱烈な音楽ファンではないように思います。しかし、音楽はそこそこ聴いていました。聴くのも、学生時代はクラシックでしたが、社会に出てからはヨーロッパのポップスとかになり、カーステレオでよく聴いていました。特に、シルビー・バルタン、ジリオラ・チンクエッティは。会社にはいった当時は、CDなどありませんでしたからテープばかり。レコードはあまり持っていませんでしたが、たまに買ってくると繰り返し聴き、うっかり傷つけてしまうと大変損した気分になりました。

そういう小生が、ときどき、無意識のうちに口ずさんでいる歌が、二曲あります。それは「祇園小唄」と「君恋し」。なぜ、その曲なのか、皆目わかりません。かなり昔からですし、「君恋し」はフランク永井が歌っているのを聴いていますが、自分の胸のなかにあるのは曲調が違い、もっとテンポが速い。これについては、最近変なことに気付きました。

Kamogawa3

祇園小唄など、京都出身でもない小生がなぜ口ずさむのか、自分でもよく分かりません。小生の雅号は、「湖城」ですが、その湖は琵琶湖を意味し、早い話が琵琶湖湖畔の城にちなんでつけたものです。それは滋賀大学にときどき行っていたおりに、経済学部を訪問すると必ず彦根城を経由して自宅に帰っていたので、最初は彦根城をイメージしていましたが、膳所城でも大津城でもどうでもよくなりました。

滋賀大学の教育学部のある石山へは、自宅近くのJR芦屋から電車に乗り、京都で乗り換えて行っていましたが、京都ではおりませんでした。もちろん、兵庫に住んでいたときは、京都にはよく行っていましたが、小生の変な癖はずっと前からです。

「祇園小唄」を聴くと、祇園新橋あたりの光景が目に浮かんできます。

Minamiza1

一番の歌詞で「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に」とありますが、東山の山麓、円山公園の近くに、かがり火をたいた料亭か何かありましたが、それは祇園小唄を意識しているのか、まさにそんな感じでしょうか。「夏は河原の夕涼み」も鴨川の河原に、川床を広げた店やそこに集まる人々が目に浮かぶようです。

この歌詞は、作家・長田幹彦が昭和3年(1928)、祇園の茶屋「吉うた」に滞在していたときに作ったものです。長田幹彦の小説『絵日傘』が映画化されることになり、浅草オペラの佐々紅華が長田幹彦の詞に曲をつけたものを主題歌として、「祇園小唄」が誕生しました。

祇園小唄 Gion Kouta - 美空ひばり Misora Hibari

前に書いたように、変なことに気づいたというのは、「祇園小唄」も「君恋し」も昭和3年から5年にかけて成立した歌であり、どちらも佐々紅華が作曲していることです。

二村定一が歌うオリジナルの「君恋し」が、YouTubeにありました。このような歌が懐かしいと思うのは、なぜでしょうか。親も生まれたか生まれないかのころの歌ですから、じいさんの記憶でも、小生の脳に残っているのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 7日 (日)

半田空襲・東南海地震の慰霊碑

先日、お身内が徳島師範から勤労動員で半田(中島飛行機のようです)に来て、半田空襲で亡くなったという方から、慰霊碑について問合せが「夜霧の古城」の豊川海軍工廠に関する記事にコメントとして記入されていました。

小生が勤務する半田には、かつて中島飛行機の工場があり、半田空襲で多くの人が亡くなりました。また、戦時中におきた東南海地震でも勤労学徒の犠牲者が出ています。

お寺では前明山光照院に、中島飛行機山方工場に動員され東南海地震の犠牲になった半田市内の学校の殉難者の供養が行われ、「追憶之碑」というのが建立されたそうです。

よく行く岩滑の温泉と住まいの途中、JR半田駅近くに光照院の看板がありますので、ちょっと行ってきました。光照院は西山浄土宗のお寺。さっそく本堂にお参りし、寺務所で光照院の若いお坊さんに聞いたところ、石碑は7、8年前墓地の整理をしたときに、雁宿公園に移したそうです。結局光照院には、動員学徒の関連のものは「おおない十一面観音像」しか残っていないようです。「おおない十一面観音像」は東南海地震で犠牲になった人が勤めていた山方工場の土を常滑の陶土にまぜて作った高さ50cmほどの陶製の観音様です。和尚さんがいたら、もっといろいろわかったでしょうが。

最初、「あれは刈谷に移した」と聞こえたので焦りました。ちなみに、庫裡を建て直すため、古い食器類がいらなくなったとのことで、小さいお皿をもらいました。

ほかに、小生でも知っている戦争遺跡で半田では赤レンガのカブトビールの建物がありますが、これも機銃掃射でやられており、弾痕が数多く残っています。
半田は空襲の慰霊碑が、他にも柊町の墓地にあります。どれがそうかよく分からないのですが、慰霊碑やお地蔵さんなどはほかにもあります。

雁宿公園には半田地方の432人の犠牲者氏名を刻んだ「半田・平和祈念碑」、東南海地震の学徒犠牲者を追悼する「殉難学徒の像」とその横に光照院にあった「追憶之碑」もたしかにありました。

<雁宿公園にある半田空襲・東南海地震犠牲者の慰霊碑>

Hannda_heiwa

その「半田・平和祈念碑」の裏に石碑がありますが、小栗風葉の記念碑で、戦争遺跡ではありません。

「半田・平和祈念碑」のそばに、若い女性の立像があり、これが中島飛行機山方工場に勤務し、東南海地震でなくなった学徒らの慰霊のために建てられた「殉難学徒の像」があり、像の台座の円柱状になっている部分に犠牲者の氏名が彫られています。犠牲になった学徒は96名だそうですが、名前を見ると、地元の名字が多いようです。

なぜ、地震で犠牲者が多かったといえば、建物の柱が地震に耐えられる強度になかった。生産優先で、地震の際に退避する訓練もされていなかったなど、人災の側面が強いようです。このあたりは、研究されている人もいるかと思いますが、実態がよくわかっていないようです。

<殉難学徒の像>

Jyunnshokugakuto1

殉難学徒の碑の横にあるのは、同じ東南海地震で犠牲になった学徒の慰霊碑「追憶之碑」です。もとは半田の光照院にあったものです。これは昭和25年(1950)に半田高女有志ほかの人々によって光照院で、犠牲となった学徒の慰霊追善法要が行われ、山方工場に残った国旗掲揚塔の残骸などを使って、碑や仏像をつくろうということになり、国旗掲揚塔の組み石を利用して作られた石碑です。半田市内の学校の学徒48名を慰霊しています。占領軍にはばかって、碑のおもてには「追憶之碑」としか刻まなかったといいます。

<追憶之碑>

Tsuiokunohi

問い合わせをしてきた人は、乙川という地名とお寺に慰霊碑があったとのことで、今まで紹介した碑ではないようです。

どうも、空襲の犠牲者は地区ごとにもおまつりしているようなので、今度乙川地区について調べてみることにしました。乙川ですと、気になるお寺があるのですが、今後行ってみようと思います。

なお、今回初めて、自分のブログに来た問い合わせについて調べるという動機ではありますが、自発的に戦争遺跡を調べました。小生が半田の戦争遺跡を調べている間、森兵男さんは、流山あたりで柏飛行場の輸送ラインを調べようと右往左往しているのでしょう。

兵男さん、お手伝いせず、すみませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月11日 (月)

何気なく買ったCD

会社の近くのリサイクルショップ、といってもかなり大規模でカラオケとインターネット喫茶の複合施設ですが、そこでシルビーバルタンのCDが安く売ってあったので、衝動買いしてしまいました。

曲目は「アイドルを探せ」「悲しみの兵士」など定番のもの。随分昔、知多にいる頃だったか、カーステレオで聞いていたことを思い出しました。それから、神戸で古いレコードを処分しようとして、逆にシルビーバルタンのレコードを買ってしまったことなど。

ジリオラ・チンクエッティのCDは、半田あたりでは売っていません。名古屋でもなかなか。東京に出て行かないと、ないものと思われます。

下はYouTubeにあった、オーラの「雨」です。

おとついは、名古屋で豊川海軍工廠の話、昨日は柏で自分が講演する側、そして今日は非情にも仕事があり、既に夏バテ気味ではありますが、会社に行かねば成りません。

昨日は変なところで講師をやってしまい、唯一入っている歴史系の学会が軍事史学会であることを自分でばらしてしまいました。軍事史学会は、前身の名前が国防史学会ですし、特別顧問が猪木正道と中曽根元総理ですから、そんなところにいていいのかなと多少思います。江田島とかに行けるのが魅力的ですが。

でも、昨日もおとついも面白かったです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月22日 (火)

久しぶりに岡崎へ行く

久しぶりに岡崎に行ってきました。岡崎には、たまに行きますが、前回はいつだったか、忘れるくらい前です。その折には、六所神社と大樹寺に行き、大樹寺の門越しに岡崎城を見ましたが、岡崎城には行きませんでした。

岡崎城は、いうまでもなく徳川家康が生れた場所。ゆえにそのあたりは康生町という町名です。城の近くを流れる乙川沿いに、何かイベントがあるようで、桟敷席の設営がされていました。

<乙川>

Otsukawa

思えば、この乙川にかかる殿橋から岡崎城を眺めるのは、十数年ぶりかもしれない。この間行ったときは、バスで大樹寺の近くまで行ったので、城の周りは歩きませんでした。

岡崎城の天守閣は、模擬天守閣ではありますが、周囲の堀などは江戸時代に改修されたままと思いますので、城の雰囲気はあります。ここに三河守護代の西郷氏が城を築いたときには、このような大きな規模でなく、建物も板張りの小さなものだったに違いありません。

<岡崎城の天守閣>

Okazakijyo2

そして松平の一族が戦国時代に居城とし、松平清康が安城から岡崎を攻め、岡崎にいた松平の一族を追い払って、三河平定の拠点としたわけですが、清康、広忠、家康と単純に受け継がれたのではなく、長い家康の駿府での人質生活があいだに入っています。

<岡崎城の堀>

Okazakijyo3

家康のえな塚がありましたが、前にみたことがあったか、記憶にありません。産湯の井戸は見た記憶があります。ほぼ同じような場所にあるので、どちらも見ている筈ですが、なぜか記憶が飛んでいます。というより、ここに来るのが十数年ぶりですから、忘れているのです。前は花見のシーズンで、人が多かったのは覚えています。

<東照神君のえな塚>

Enaduka

あるいは、前は産湯の井戸だけ見て、引きかえしたのかもしれません。

資料館の三河武士のやかた家康館には、前も入ったはずですが、そのときは何を見たのかな。もっと昔に行った彦根城の資料館では井伊の赤備えの甲冑など、印象に残っていますし、同じ頃では姫路城に行き、ここでも木でできた天守内部や城壁にあった矢狭間の様子など、よく記憶しているのですが。

常設展では、戦国時代の甲冑や家康の生涯を追った資料展示(複製品が多い)がされていましたが、特別展示で馬の鐙や画像、火縄銃など、家康自身のものではありませんが、当時の正真のものを展示していました。

なぜ、岡崎に行ったかといえば、石ヶ瀬合戦に関する資料など、なにかないかと思ったのですが、今回それはなく、刈谷に行ってこないとダメだという神様の御返事かな。

それ以前に、明日は会社の用事で豊田に行かねばならないし、その次には豊川海軍工廠の関係で、名古屋大学に講演を聞きに行きます。フィールドワークもありますが、そっちは忙しくて行けません。といっても、豊川海軍工廠跡には、今年の初めにも行き、豊橋高女出身の女医さんから本まで貰いましたし、豊橋陸軍墓地とか以外は知っている場所ですので、まあいいか。

ともかく、いい気晴らしになりました。

<東照神君産湯の井戸>

Ubuyuido

| | コメント (0) | トラックバック (1)

«松ヶ崎城の現況について(かなり愚痴がまざっています)