「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」主催の花野井の歴史散策に行ってきました
4月23日(日)、柏市花野井で行われた、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」主催の花野井の歴史散策に行ってきました。普段の「地域史を語る会」、および講演会以外の活動としては、この種のイベントには初めての参加になります。
この歴史散策では、花野井香取神社→秋水燃料貯蔵庫など戦争遺跡→きつね山古墳→大洞院→(花野井香取神社)→吉田甚左衛門家(外から)→勾玉のあるお宅→陶芸家伯耆田幸男氏宅→花野井の旧家松丸家という行程でまわり、午前10時から最後は午後4時頃になりました。
(正式なイベントの内容報告は「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」のHPに出ると思いますので、以下はmoriの主観、趣味?がまじった内容説明になります。
午前10時に花野井香取神社に集合、会長や香取神社の神官の方の挨拶があり、早速香取神社を見学。今回特別に神社本殿の彫刻などをみせて頂きました。この神社は現在の社殿は文化10年(1813)に築造されたものですが、大工棟梁は武州の三村若狭、彫刻は上州花輪村の石原常八(二代目常八、三郎主信)でした(香取神社内の棟札(左の写真)にも、そう書かれてありました)。このペアでは野田市愛宕神社の造営をおこなっています。なお石原常八は上州勢多郡花輪村の出身ですが、花輪あたりで石原といえば、童謡「兎と亀」で有名な石原和三郎という明治の教育者・作詞家を思い出します。実は小生の父方の先祖は今の岐阜県から出ていますが、戊辰戦争後に上州へ来て花輪村(最近までの群馬県勢多郡東村花輪、今はみどり市東町花輪)に住み着き、父も海軍の予科練にはいるまで花輪に住んでいました。しかし、花輪にこんな彫刻の名人もいたとは少し驚きですが、上州勢多郡花輪村や近隣の上田沢村には彫刻師の一派がいたそうで、この彫刻師の系譜には桐生の天満宮の彫刻を行った関口文治郎(上州の左甚五郎といわれる)も連なっています。彼ら花輪近辺の彫刻師たちは、今の千葉県の神社などにもいくつか彫刻を残しています。
少し話がそれましたが、当神社には珍しい和算の算額があり、また本殿とは別に妙見社があります。神官の松丸さんのお話では、神社に隣接した古墳から人骨が出ているが、調査したのは一部で、他は上物がたってしまい未調査とのこと。それ以外にも興味深い話がありました。
<花野井香取神社>
<石原吟八、常八らの系譜に連なる関口文治郎作の桐生天満宮の彫刻>
では、次の目的地秋水燃料格納庫址へ。
秋水は、ロケット戦闘機であり、昭和19年9月にドイツから図面を譲り受け、設計開発してわずか1年以内に飛行までこぎつけたものの、昭和20年(1945)に実際に飛行機が作られ、昭和20年7月に初飛行を飛行士(大尉)搭乗で行い、300m飛んで墜落したというもの。秋水は航続時間が短く、3分で1万mの高度にまで上昇し、急降下でB29など敵機を迎撃する、その次に上昇する高度は7千mとなり、また急降下で敵を狙える、そして一度攻撃すれば滑空により着陸するというという、まさに名刀で一撃必殺の期待をこめて作られようとしていた迎撃戦闘機でありました。
<秋水の地下燃料貯蔵庫址~実際はこの上に土を覆う予定であった>
この開発には戦争末期の国家予算の7%がつぎ込まれましたが、結局燃料生産がうまくいかず、また完成機も上述の状況となりました。柏にはこの燃料貯蔵庫が作られたほか、秋水用の飛行場も建設されつつあったようですが、地下燃料貯蔵庫址は現存しています。
住宅地の片隅、台地の縁辺に残っている姿は異様ですが、貴重な戦争遺跡です。なお、台地端にある燃料貯蔵庫址には、終戦直後人が住んでいたとのこと。
この貯蔵庫自体は国有地にあるようですが、すぐ近くは私有地になっており、奥までは立ち入りできません。
<秋水の地下燃料貯蔵庫址~台地端の斜面に開く出入口>
<秋水地下燃料貯蔵庫址~~下の写真は通気孔として突き出たヒューム管>
台地の縁辺に出入口があり、台地上には通気孔としてヒューム管が斜めにつきだしています。
(左側は分かりにくいが階段の途中に、燃料庫の出入口のコンクリートが見えます)
さて、次に行ったのは、きつね山古墳。6世紀後期の円墳ということですが、周溝が見当たらず、はっきりした形も良く分かりません。ただ、立地的には台地端で、他の古墳とよく似ています。台地端の斜面が急崖なのは、後世の土取りのためとのこと。
<きつね山古墳>
きつね山古墳から近い、大室の台地にあった城の越の遺跡、大室城址は、後世台地が大幅に改変されてしまい、破壊されてしまったとのことです。
<大洞院~大銀杏の木がある>
それから、大銀杏で有名な、曹洞宗の華井山大洞院へ行きましたが、このお寺にある銀杏の木は樹齢450年ほどとのこと。また、お寺ではペット供養などもするそうです。
そして、昼から(われわれ会員は総会があったのですが、その内容は省略)。
花野井の旧家の一つ、吉田甚左衛門家を屋外からですが見ました。とてつもない豪邸で、かつては醤油の醸造で財をなしたということですが、大きな長屋門と洋風和風折衷の家屋があったり、家の中にテニスコートがあったりします。元は相馬氏系の家柄で、江戸時代は牧士もしていたそうです。明治、大正と醤油の醸造を行っていましたが、利根川に通じる水路の船着場から荷物をこのお宅に隣接した工場に運ぶなど周囲のインフラも整え、昼の12時、午後3時に鐘を鳴らして工場の作業の合図にし、地域の人の希望もあり、キッコーマンに事業を譲渡してから昭和20年以降もしばらく鳴らしていたそうです。(旧家松丸家の方の話)
<吉田甚左衛門家~一部のみ、中央は茅葺でなく鉄筋コンクリート製の家屋>
<吉田甚左衛門家の長屋門>
さて、その次に勾玉など古墳からの出土物を行程の途中で見せてもらいました。そのお宅では、勾玉のほか、鉄剣も持っていましたが、鉄剣は破片になってしまっていました。早いうちに補修すれば、復元できるかな。。。
<途中のお宅で見せてもらった勾玉など>
この辺りは塚原古墳群といって、古墳がたくさんある地域だそうです。その一つを見学させてもらいました。見学したのは6世紀前期の方墳で、過去の発掘でいろいろ出土したそうです。
<古墳群の古墳の一つの上で>
その後、陶芸家伯耆田幸男氏宅で、登り窯のところで伯耆田幸男氏よりお話をうかがいました。作品を窯で仕上げるには、「三泊四日」で窯を温度管理しながら、火をたき続けねばならないということでした。土はこの辺りでは良い土がなく、関東では筑波山付近のものが良く、それで笠間、益子の窯ができたらしいです。しかし、関東より関西の土の方がよいとのことで、信楽、丹波、伊賀その他、そういえば窯元も関西のほうが多いかもしれません。
この後、旧家松丸家へ行き、いろいろお話を聞きました。
一つは大きな松の木に網を張り、和田沼に飛来する雁を捕る話、もう一つは利根川につながる水路と吉田甚左衛門家の醤油醸造業の話、さらに松丸家の先祖や昔の花野井の話がありました。それら(特に最初の話)を表現するには、イメージ画でも書いたほうが良さそうなので、この辺で。
なお、この散策で、近隣の方のお世話になりました。天気も曇りだったので、ちょうど良かったかもしれません。
<伯耆田幸男氏宅の登り窯>
<散策の途中でみた桃色にいろづいたロウの木>
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