関東の古寺と史跡

2010年9月13日 (月)

手賀の歴史散歩

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、今まで近隣の歴史見学会をやってきましたが、直近でその候補になっているのが、手賀。

柏市手賀ですが、手賀沼は、なぜこの手賀の名前を冠しているのか、いまだに分りません。また、手賀は、10年ほど前から、たまに来て、城跡を見ていますが、その全貌がはっきりしません。軍船を係留した場所が分ればよいと思っています。

それは兎も角、何度か下見とプラン作成に行っています。手賀の見どころは、ハリストス教会と手賀城跡(遺構は断片的にしか残っていませんが)。ほかに兵主八幡神社など。

<手賀ハリストス教会>

Tegakyoukai

つい最近、手賀まで下見に行き、手賀寿司さんでランチを食べましたが、寿司一カンが、通常家の近く等で食べる寿司とくらべると、倍くらいあります。特にシャリは、俵結びくらいあり、しかも甘くてうまいのです。マスターもいい人です。

手賀をまわるとき、欠かせないのが手賀原氏の存在。原氏の墓所で説明しようとおもいましたが、お墓はどうも苦手で早々に退散したく、やはり城跡で説明した方が良いかもしれません。

関係ありませんが、ぶどうを頂きました。手賀の人は親切な人が多いです。

<頂いたぶどう>

Tega_budou

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2009年2月15日 (日)

東葛地方で中世城郭発見か (続報)

主題の件について、鋭意探索中です。

詳しくは、夜霧の古城をご参照願います。

「夜霧の古城」:東葛地方で中世城郭発見か (続報)

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2009年1月18日 (日)

東葛地方で中世城郭発見か

かねて、中世城郭を調査していた東葛地方の某市において、先日千葉県文化財関連の研究者某氏と某市学芸員の方、および言い出した地元の方と郷土史研究の方々とともに、その中世城郭の遺構らしきものの踏査に行きました。

主郭と思われる郭は台地上にあって、一辺が40mから50mほどの方形であり、土塁、空堀、虎口、土橋を備えています。虎口は北にむいて開き、西側が入江状の低湿地を望む場所にあって、縁辺の土塁の下は切り岸か急になっていて、台地中腹に腰郭らしきものがあります。

<主郭らしき郭の周りを取り巻く空堀と土塁>

Kakunai

主郭らしき郭の東側の空堀は深く、人の腰ほどもありますが、落ち葉などの堆積を考えると、実際は3mとかあったかもしれません。

正確に計測はしていませんので、詳しい数字が出ていませんが、主郭はほぼ正方形に近い形と思われます。

西側は竪土塁のようなものを残して、切岸があり、腰郭状になっている平場の北側にさらに土橋があって、小さな郭(物見用か?)と連絡しています。土橋は比較的高く作られ、人が一人通るのがやっとというような幅しかありません。小さな郭の北側にはさらに溝がありますが、それが竪土塁に付随する空堀のあとか、近世以降に作られた溝または道路かは不明です。

<土橋は一人通る幅しかない>

Dobashi

主郭らしき郭の周囲を取り巻く土塁は比較的しっかりしていて、幅が1.5mほどはあり、上に乗って歩いてもびくともしません。版築構造になっているのでしょう。ぐるっと土塁の上を歩くと、最初入ってきた虎口の場所に出ます。

一応ここは『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』にも出ていますが、「消滅」扱いになっています。これは新年早々に新発見かな。

<土塁の上をいく>

Doruiue

小生の推理では、西側にある池を伴う入江状の低湿地は、中世にはもっと広範囲に水をたたえた場所で、船着場あるいは船隠しがあったのではないかと思います。

多分、この城もその船着場を利用して、水運によって手賀沼、印旛沼(印旛浦)とつながり物資を移動させていた勢力が船着場を守るためにつくったか、何かと思います。

虎口が平虎口で、腰郭や切岸以外に目立った防御設備がないことから、戦国初期以前の城跡かもしれません。

なお、近くには塚もあり、ほかに土塁もありますが、城跡との関係などは不明です。というより、城跡の主や、近くにある城跡との関連も不明です。

文化財関連の方からは、正確な位置を確認し、縄張り図を描くように指導がありました。小生縄張り図が苦手でありますが、この際下手でも協力せねばならないようです。

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2008年6月22日 (日)

松ヶ崎城の現況について(かなり愚痴がまざっています)

以前、箕輪城跡を手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会の会員のNさん、Yさんと一緒に踏査したとき、その城跡の近くには船着場があって、そこまで道があったらしいとのことで、実際発掘をしてみると、城の中心になる主郭部に通じる堀や土塁の脇の通路の南側延長線上に、硬化面があったとNさんから聞きました。

<箕輪城跡>

Minowajo

Nさんは箕輪城跡の発掘調査にも加わった人で、詳しいことを知っていました。かならずしも、その硬化面が道とは断定できないため、会報にもそうは書きませんでしたが、その可能性はあると思います。

<松ヶ崎城の今は改変された北側斜面>

Kitagawa

今回、松ヶ崎城は北側斜面の擁壁工事を柏市が許可し、北側の腰郭について何も調べないまま工事がされてしまい、北側にあったと伝説のある「船隠し」、船着場というものを証明することができなくなりました。以前の発掘調査でも北側斜面にはピット列が検出されていたのですが、想像するに船を台地上から綱か何かで引き上げる施設があって、その綱を引っ掛けるような柱が斜面に列を連ねていたのではないかと思います。

いまとなっては、その仮説を証明することは不可能になりました。かつては手賀沼は台地下に迫っていて、松ヶ崎城はそこに岬状に突き出した舌状台地の上にあって、なだらかな斜面に船を引っ張り揚げた、水辺の城であったのではないでしょうか。

まだ、主郭部、南側腰郭部分は残存しています。今後は、それを守っていくしかありません。

しかし、この城跡が柏市ではなく、市川市や松戸市、船橋市にあったら、ここまで話がこじれ、結果地権者が破壊するに至ることはなかったのではないか、とも思います。例えば市川市には中山法華経寺があって、国宝・重要文化財がいろいろあります。それで、文化財行政もある程度の水準になっているのでしょう。ところが、柏市にはそうしたものが少ないのです。

今回、会の内部では熱い人がいて、いろいろ動いてくれたわけですが、むしろ文化財保護の面で団体・個人で表立って動いてくれたのは、会をのぞくと千葉、八千代、松戸の人たちです。

<中山法華経寺>

Hokekyouji

また、柏市には、博物館や郷土資料館というものがありません。今の本多という市長ではつくろうという気もないかもしれません。流山市や鎌ヶ谷市のような小さな市でもそうした施設をもっています。松戸市は松戸市立博物館という立派な博物館をもっていますし、市川市は歴史と考古と二つの博物館をもっています。船橋市も飛の台貝塚に博物館があり、郷土資料館もあります。柏市には民間の方から寄贈された砂川美術工芸館という小さな美術館がありますが、それも休館中です。

文化財に興味の殆どない行政、伝世の土地ではなく、入札で土地を手に入れた地権者、ほっておいたらうまく行くはずがありません。ヨーロッパの例をひくまでもなく、日本のどこか別の場所と比べればよく分かります。

<大堀川>

Oohorigawa

最近の話題で、大堀川から来たカワセミが松ヶ崎城に巣を作ったかもしれないというのがありました。それが唯一の救いでしょうか。

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2008年1月31日 (木)

北小金をめぐって

1月20日の日曜日、朝から北小金の史跡めぐりをしました。「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」主催でしたが、コースなどの企画は小生がけっこうしました(自画自賛)。解説は、松戸市立博物館の中山学芸員。中世の城郭という、一般にはとっつきにくい史跡をわかりやすく、しかも詳細に解説していただきました。

<駅前で集合>

Kitakoganeshuugou

その前の週に下見をしたのですが、当初コースに入れようとしていた、あるお寺に寄ると、距離が長くなるとか、地図上では道があると思える場所は、実は行き止まりであったり。それこそ、城の土塁をこえなければ駄目とかあって、一部想定していたコースを組み替えました。城の踏査と一緒で、実際に何度かこないとだめですね。

旧水戸街道を根木内へ、根木内城跡を見た後、上富士川を遡ってJRの線路を越え、慶林寺から小金城跡を見学、午前はそこまでで、昼からは市民センターで休憩した後、本土寺、東漸寺とまわりました。9時半にスタートして、午後は3時まで。ほぼ半日歩いていたと思います。

<根木内城跡にて>

Negiuchinite

当日は天候が良かったし、気温は昼は7度くらいだったのですが、風がなかったのであまり寒いとは感じませんでした。参加者はあまり多くないと思っていたのですが、ちょうど30人。下見のときに、資料は20部くらいでいいかと最初はいっていたのですが、30部刷っておいて良かったのでした。

<小金城の主郭はいずこ>

Honnmaruhadoko

根木内城も小金城も、何度も来ていましたので、とくにサプライズはなかったのですが、根木内城の自然に近い状態が個人的には良かったと思いました。それと、東漸寺は、なにしろ拝観料もなし、喧騒を忘れる静かな場所で、落ち着いた雰囲気があります。

<東漸寺>

Touzenji

今度、春になったらまた来てみようと思ったのであります。

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2007年9月27日 (木)

北小金に秋を見た(付記:「下総地方の城」の「松戸地域の城」を加筆修正しました)

先日、北小金を久しぶりに訪ねました。所属している会の史跡めぐりのイベントを企画しており、同じ会のUさんと東漸寺や根木内城をまわりましたが、東漸寺で土手の上に彼岸花が咲いていました。東漸寺は、雰囲気が落ち着いていて、なんとなく心ひかれる良い寺です(もちろん、あじさい寺で有名な本土寺も良いですが)。根木内城も、東漸寺も室町、戦国と当地を治めた高城氏の関連史跡なのですが、高城氏にスポットをあててもどうかと思うので、小金の中世から近代とか、単純に北小金の史跡めぐりとしたほうが良いでしょうな。

小生としては、根木内城と東漸寺だけで良いのですが、それではコースとしてまわる箇所が少なすぎるということで、後日駅の北側の小金大谷口城址などを一人で回ってきました。達磨口は感動的、といっても「こんなおおきな土塁が・・・」ということで感動する人は、小生も含めて少数派?小金大谷口城址以外には、小さい寺ですが慶林寺をまわろうかと思っております。

慶林寺の裏にある鹿島神社の境内にも、彼岸花が咲いていました。鹿島神社は千葉では香取神社に比べると少ないようです。それがなぜ、小金にあるのかも小生の知るところではないのです。しかし、小金大谷口城址と高城胤吉の妻桂林尼の墓のある慶林寺をコースに加えると、ますます高城氏ゆかりの史跡めぐりになってしまいます。まあ、小金宿もまわれば、少しは中和されるかな。

このようなコースであれば、一通りのアバウトな説明なら、小生でもできるのですが!

なお、今回色々Uさんから教えてもらったり、自分で調べた結果、小生のHPの「下総地方の城」のなかの「松戸地域の城」の頁でいくつか古い説をベースに書いている部分など、不備が見つかり、遅ればせながら修正しました。

<鹿島神社で見つけた彼岸花>

Higanbana1

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2007年3月 5日 (月)

鷲野谷の歴史散策に行ってきました

昨日は、一日、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催の手賀沼沿岸鷲野谷の歴史散策に行ってきました。

天候にも恵まれ、4月の陽気ということで、歩いていると汗ばんでくるほど。鷲野谷は、中村先生ではないが、中世が残った地域。鎌倉時代か、室町時代くらいの景観も、なんとなく想像できそうな場所でした。

妙見曲輪を中心とした村落の様子、北の内古墳と「古墳之址碑」、医王寺、香取神社など、見所がいくつかまとまってあり、一日快適に回れました。これも、いろいろ準備をしてくれたNさんやOさん達のおかげです。

妙見曲輪は、戦国期の鷲野谷城に先駆けて、中世城館として存在したと思われるもので、今も星神社(鷲野谷青年館)の周辺を中心に所々に土塁が存在します。戦国時代には当地域は高城氏の勢力範囲にありましたが、その高城氏が小田原北条氏と運命をともにして没落すると、元々高城氏についていた当地の土豪染谷氏が帰農したのが、ここの旧家染谷家の先祖だといいます。「古墳之址碑」は、その染谷家の江戸時代から明治時代にかけての当主二代にわたり関心をもち、東京帝大にも依頼して調査した結果の記念碑です。

医王寺では、偶然出てこられた若いお坊さんから、いろいろ聞いてしまいましたが、絵馬と寅年しか公開されない仏像が印象に残りました。染谷家は大きな長屋門と曲り屋が特徴、ほかに別の民家で大きな庇が家屋の外に張り出したマテ屋という作りがある(以前柳戸で見たことがありましたが)のをここでも見ました。

最後に回った、香取神社は彫刻が立派で、登り龍、下り龍など、小さな社殿全面に彫刻が施されていましたが、女性陣から「可愛い」と声のあがったのが、波に兎の彫刻。しかし、波に兎という図柄はよく見ますが、陸上の動物である兎がなぜ波の上にいるのか、いまだに分かりません。

良い陽気に恵まれ、適度に運動もしたので快適な一日でした。

<香取神社の兎の彫刻>

Usagi

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2007年1月 2日 (火)

いざ鎌倉

皆様、あけましておめでとうございます。

毎年、初詣は鎌倉へ行っている小生、今年も例年通りです。しかし、普通は近所の神社などにお参りに行くのでしょうか。

なぜ千葉県に住んでいる人間が、わざわざ近所の船橋大神宮やほかの神社仏閣でなしに、鎌倉八幡宮なのか、それは習性としか言いようがありません。どうも、総武線快速にばかり乗っていると、千葉県の隣は東京都、そして品川を出るとすぐ隣は神奈川県(実際には間に西大井という駅があるのを忘れている)という意識があり、埼玉県や茨城県はどこか遠い県という感覚になっています。

ですから鎌倉といっても電車で1時間も乗っていれば、乗り換えなしで着く隣県の一地区というイメージでいつもホイホイ出て行くのでしょう。

<鎌倉の段かずら>

Dankazura

あるいは、「いざ鎌倉」という先祖の意識が、遠い子孫の記憶に蘇るのか、何かよくわかりません。

小生、先祖は美濃の森氏であることは間違いなく、巷間言われるように、美濃森氏が源氏の森冠者陸奥六郎源義隆(源義家の息子、生涯官位をもらえなかった)をルーツとするならば、名字の地は今の神奈川県厚木市で、鎌倉時代の初めまではそこの荘園の管理か何かしていた御家人であったことになりますが、そうそうビッグネームに連なるとは思えません。今も厚木には毛利台とか森の里という地名がありますが、昔は森も毛利も発音としては「もり」であり、愛甲郡森庄(毛利庄)にいた源氏あるいは大江氏が森とか毛利と名乗ったのです。で、どうも源氏の森、大江氏の毛利とも必ずしも言えないようで、源氏の毛利もいたようです。

<八幡宮は参拝客でいっぱい>

Hachimanngu

源氏の森は二代目の頼隆の代に、三浦氏の乱に連座して、信濃へ追われる形となり、その信濃で主流は若槻氏と名乗り、里城という城を構えて現在の長野市の一領主になっていたのが、南北朝頃に近隣の豪族に圧迫されて、美濃に逃げたのが、美濃森氏の始まりのようです。その後の系譜が、文書によって二通り以上あり、よく分かりません。美濃森氏のなかから土岐明智氏に仕える者が出て、それが森可成、長可、蘭丸らの先祖と言いますが、森可成が土岐明智氏の家来であったことを証明するものもありません。

ところで、美濃の森氏といっても、源氏だけではないようで、古代の守君(もりぎみ)をルーツとする守氏が音の同じ森になったというのがあります。こうなると、さっぱり分からんのです。

<なぜか八幡宮には取材陣が、ミス鎌倉もスタンバイ?>

Houdoujin

実は美濃といっても、小生の先祖のいたのは尾張藩領でした。曽祖父はそれで尾張徳川の兵隊として戊辰戦争にも行ったのです。つまり、尾張の森氏が出張ってきた可能性もありますが、尾張の森氏は源氏でもなんでもない、熱田神宮の社家とのこと。この尾張の森氏は、有名な森春涛などを出しています。

しかし、家には系図など、先祖を証明するものが何もなく、どういう系統なのかさっぱり分からないのが実態で、誰か小生の先祖と同じ、美濃国可児郡(現可児市・多治見市)あたりの森氏が、どういう系統なのか、教えてチョ(なぜか尾張弁になる、これも先祖返りか)。

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2006年11月 8日 (水)

松戸へ、そして秋の本土寺へ

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会のUさんから券をもらい(元々は松戸の学芸員Nさんからのもの)、松戸市立博物館の企画展「戦国の城をさぐる」を見てきました。松戸市立博物館は新京成線の八柱にありますので、自宅から乗換なしで行けるのです。

<松戸市立博物館>

Matudohakubutukan

今回の企画展は、根木内城の歴史公園開園記念ということで、高城氏が城主であった松戸は北小金にある根木内城を市として保存することをアピールするための、一つのイベントでありましょう。展示内容は写真に撮ることができなかったのですが、根木内城や小金城で出土した陶磁器や関連する古文書などが展示されていました。なかでも目をひいたのが、織田信長の朱印状、これは祐筆が書いたものに信長とサインがあり、「天下布武」の朱印が押してあるもの。小生たまたま最近も、常滑で織田信長の黒印状を見ていましたが、朱印状というのは珍しいようです。

しかし、一番ギョッとしたのは、葛西城址から出土した成人前の女性の頭骨、しかも三回刀で斬って、三度目にやっと首を落としたことが骨にある刀傷で分かるというもの。実際にその頭骨が展示されていました。これは葛西の博物館でも見なかったと思います。展示の説明では詳しく書いてありませんでしたが、この頭骨は葛西城の上杉氏時代の古い堀の中から出てきたもので、上杉氏の城代として大石氏が入っていたころに何らかの事情で処刑されたものか、葛西城が後北条氏に攻められて一旦落城したときに捕えられた大石氏の身内が後北条氏の手の者に斬られたものと考えられます。戦国時代は現代の感覚とは違う、野蛮なこともあったのです。

<根木内城の堀>

Negiuchihori

また、記念講演で峰岸純夫氏の「関東戦国時代と城」という講演があり、拝聴しました。関東の情勢、古河公方や下総における千葉氏さらに臼井領を中心とした原氏、小金領の高城氏の動向、そして下総を取り巻く相模の後北条氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏など周辺の戦国大名の角逐などの状況が、分かりやすく講演されていたと思います。意外というか、よく知らなかったのが、戦国時代の終焉は小田原合戦といいますが、殆ど同時期の天正12年(1584)に戦われた後北条氏と佐竹氏との沼尻合戦という合戦があり、それが後北条氏と組んだ徳川家康と佐竹氏を後援した豊臣秀吉の代理戦争であったということ。これは中公新書で斎藤慎一氏が『戦国時代の終焉―「北条の夢」と秀吉の天下統一 』という本を出していますが、その本に詳しく記載されているとのこと。

講演が終わり、時間が少し余ったので、北小金に出て本土寺へ。秋の紅葉にはまだ早かったような。夏のアジサイの頃は、観光客も多いのでしょうが、今時分はぼちぼちでした。

<本土寺の門>

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<本土寺の本堂>

Hondo

本土寺のある場所には平賀、あるいは殿平賀という地名がありますが、本土寺は平賀という源氏の流れをくむ武士の館であったということです。平賀氏といえば、甲斐の武田と戦った豪族で平賀氏というのがあり、また平賀源内はその子孫というのを何かの本で読んだことがありますが、その平賀氏の先祖がいたのでしょうか。

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2006年6月 4日 (日)

芝で生まれて神田で育ち

芝で生まれて神田で育ち、今じゃ火消しのアノ纏持ち♪ (端唄)

Matoime_2 芝は江戸っ子が生まれるにふさわしい場所といわれていたわけですが、今では愛宕山の辺りまでビルも建ち並んでいます。増上寺の「大門」は、都営地下鉄の駅名にもなり、最近では浅草線にくわえて大江戸線もとおっています。大門といっても、それほど大きくはなく、現在の門は再建されたもの。それでも、オフイスや商業ビルのなかでは目立ちます。

<夕暮れ時の大門>

Daimon

<増上寺の三門>

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<増上寺の境内>

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増上寺の境内には、新しい本堂や鐘楼があり、本堂の裏の墓地の一角に徳川家廟所があって、徳川秀忠らの将軍が葬られています。

鐘は江戸時代の川柳に、「今鳴るは芝か上野か浅草か」、「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」などとうたわれました。芝は増上寺、上野は寛永寺、浅草は浅草寺、何れも徳川家が江戸の守りとして信仰した寺を示しています。鐘楼自体は戦後の再建ですが、鐘は、延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成した、江戸三大名鐘の一つに数えられた鐘だそうです。では、あとの名鐘は?? 鐘の音もいろいろで、小生京都の知恩院の鐘が気になっています。関係ないので話を戻しましょう。

増上寺といえば、徳川家。ここには、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の将軍たちが眠っています。

<「芝の鐘」と川柳にうたわれた増上寺の鐘>

Zoujyojikane

<徳川家廟所>

Zoujyojitokugawa_1

実は徳川家廟所の前に、葵の紋を染め抜いた幕のかかった建物(安国殿)があるのですが、これは徳川家康の信仰していた黒本尊をまつっています。黒本尊とは何か、増上寺のオフィシャルHPによると、「恵心僧都(えしんそうず)の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願した。その歿後増上寺に奉納されたましたが、勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めてきています。黒本尊の名は、永い年月の間の灯明の煤(すす)で黒ずんでいることによります。やはり家康公の命名といわれています。」とあり、阿弥陀如来の煤で黒くなった像ということになります。

<黒本尊をまつる安国殿>

Kurohonzon

本堂の裏に四観音という、石の観音像がありました。見ると、老婦人がお参りしていましたが、花を供えている様子。近くに居た白人男性が、不思議そうに見ていました。

<朝の増上寺四観音>

Zoujyoujikannon

東京にも、こういう場所がまだ残っていたのですね。

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