東海の古寺と史跡

2008年11月 3日 (月)

心月斎の晋山式に行ってきました

11月2日(日)、愛知県知多郡美浜町布土にある心月斎という、曹洞宗の寺院の晋山式に行ってきました。

<晋山式が執り行われた心月斎>

Shingetsusai1

岩滑城主、中山勝時ご子孫のSさんから誘われたからですが、この心月斎の先代、当代住職はSさんのご親戚です。晋山式とは、新しい住職にかわるお披露目の式のようなものですが、新しい住職とは、先代住職の息子さんで、副住職をつとめてこられた人です。

こういう式に参加するのも初めてですが、心月斎のお堂の中に入るのも今回が初めてです。心月斎は、「花の寺」というだけに、季節の草花がいろいろ咲いています。以前来たときは、裏山の植物がいろいろ植えられている公園のような場所を散策したりしましたが、蓮池でハグロトンボを見かけて写真を撮りました。

<ハグロトンボ>

hagurotonbo.

この心月斎は、緒川水野氏一族の水野忠分(水野忠政の六男、あるいは七男という)が開基となって創建されました。開山は、緒川から招かれたという大良喜歓大和尚。戦国時代、緒川水野氏は知多半島を制圧すべく、一族を知多半島の要所に配置しましたが、河和の戸田氏に対する備えとして、この布土に水野忠分を領主として配置したようです。また、水野氏の勢力下には、曹洞宗の水野氏系の寺院を建立していったのですが、この心月斎もその一つといえるでしょう。水野氏の本拠、緒川には水野忠政の墓のある乾坤院、常滑には常滑水野氏が創建した天澤院、大高には大高水野氏が開いた春江院といった具合です。

水野忠分は、布土城という城を天文年間には、当地の神明神社のそばに構えていたらしいのですが、遺構が残っておらず、当時を偲ばせるのは、心月斎の佇まいくらいなものでしょうか。

<心月斎の山門>

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なお、今回の式の様子などは、別に「夜霧の古城」に書き残そうと思います。

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2008年7月22日 (火)

久しぶりに岡崎へ行く

久しぶりに岡崎に行ってきました。岡崎には、たまに行きますが、前回はいつだったか、忘れるくらい前です。その折には、六所神社と大樹寺に行き、大樹寺の門越しに岡崎城を見ましたが、岡崎城には行きませんでした。

岡崎城は、いうまでもなく徳川家康が生れた場所。ゆえにそのあたりは康生町という町名です。城の近くを流れる乙川沿いに、何かイベントがあるようで、桟敷席の設営がされていました。

<乙川>

Otsukawa

思えば、この乙川にかかる殿橋から岡崎城を眺めるのは、十数年ぶりかもしれない。この間行ったときは、バスで大樹寺の近くまで行ったので、城の周りは歩きませんでした。

岡崎城の天守閣は、模擬天守閣ではありますが、周囲の堀などは江戸時代に改修されたままと思いますので、城の雰囲気はあります。ここに三河守護代の西郷氏が城を築いたときには、このような大きな規模でなく、建物も板張りの小さなものだったに違いありません。

<岡崎城の天守閣>

Okazakijyo2

そして松平の一族が戦国時代に居城とし、松平清康が安城から岡崎を攻め、岡崎にいた松平の一族を追い払って、三河平定の拠点としたわけですが、清康、広忠、家康と単純に受け継がれたのではなく、長い家康の駿府での人質生活があいだに入っています。

<岡崎城の堀>

Okazakijyo3

家康のえな塚がありましたが、前にみたことがあったか、記憶にありません。産湯の井戸は見た記憶があります。ほぼ同じような場所にあるので、どちらも見ている筈ですが、なぜか記憶が飛んでいます。というより、ここに来るのが十数年ぶりですから、忘れているのです。前は花見のシーズンで、人が多かったのは覚えています。

<東照神君のえな塚>

Enaduka

あるいは、前は産湯の井戸だけ見て、引きかえしたのかもしれません。

資料館の三河武士のやかた家康館には、前も入ったはずですが、そのときは何を見たのかな。もっと昔に行った彦根城の資料館では井伊の赤備えの甲冑など、印象に残っていますし、同じ頃では姫路城に行き、ここでも木でできた天守内部や城壁にあった矢狭間の様子など、よく記憶しているのですが。

常設展では、戦国時代の甲冑や家康の生涯を追った資料展示(複製品が多い)がされていましたが、特別展示で馬の鐙や画像、火縄銃など、家康自身のものではありませんが、当時の正真のものを展示していました。

なぜ、岡崎に行ったかといえば、石ヶ瀬合戦に関する資料など、なにかないかと思ったのですが、今回それはなく、刈谷に行ってこないとダメだという神様の御返事かな。

それ以前に、明日は会社の用事で豊田に行かねばならないし、その次には豊川海軍工廠の関係で、名古屋大学に講演を聞きに行きます。フィールドワークもありますが、そっちは忙しくて行けません。といっても、豊川海軍工廠跡には、今年の初めにも行き、豊橋高女出身の女医さんから本まで貰いましたし、豊橋陸軍墓地とか以外は知っている場所ですので、まあいいか。

ともかく、いい気晴らしになりました。

<東照神君産湯の井戸>

Ubuyuido

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2008年4月16日 (水)

半田・武豊の祭り

前の土日は、春の祭りでした。

Narawadashi1

休日出勤をしたら、途中で成岩神社の山車と遭遇しました。会社は一応、成岩神社の管轄?

Taketoyo_chigo

住まいの近くでも、JR武豊線の線路を越えて歩く人たちが稚児を背負っていきました。

Uokatsu

昼食を食べに行ったお店にも、山車の模型が。

知多半島は当分祭りかな?   

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2007年5月22日 (火)

「駿公墓碣」(すんこうぼけつ)という墓碑

先日5月13日、名古屋市緑区の方の桶狭間古戦場まつりに行ってきました。昔から、桶狭間の合戦なのに、なぜ世の中の人は桶狭間で合戦はされず、「田楽狭間」「田楽ヶ窪」という別の場所で合戦があり、今川義元もそこで死んだと言っていたのであろうか、豊明市のあの桶狭間古戦場伝説地の小さな公園のある場所で合戦ができたのだろうかと疑問に思っていました。

最近になって、今川義元が陣をはったのは「おけはざま山」であり、どうも豊明市の国指定の古戦場跡は違うらしいと、世間の人も気付いてきました。そうなると、小生の昔の疑問は正しかったといえます。ちなみに、豊明市の公園入口には、昭和16年(1941)建立の「史跡桶狭間古戦場」の石碑が建っています。こちらの方は、いくら当時の軍部が盛んに吹聴しても、さすがにここが古戦場とは言い難く、石碑の下に小さく「伝説地」と書いてあると、梶野渡氏の講演でも語られましたが、確かにその通りなのでした。

<「史跡桶狭間古戦場」の碑の下部にある「伝説地」の文字を後日確認>

Kosennjyo

豊明の桶狭間古戦場伝説地にある義元の墓も、明治に入ってからのものだし、どうもとってつけたような感じ。その点、名古屋市緑区の公園にある「駿公墓碣」という小さな墓碑のほうが、村人が祀ったらしい雰囲気を漂わしています。

現在桶狭間古戦場公園にある、「駿公墓碣」という墓碑が、以前頭を少し地上に出して埋っていたのは、村人が今川義元の菩提を弔った際に、尾張藩に見つからないように、墓碑を埋めたためといいます。

これについては、思い当たることがあります。同様の例が岐阜県可児市の長山城にもあり、斎藤義龍に滅ぼされた明智氏(明智光秀の親族といわれる)を弔った「六親眷属幽魂塔」がやはり近隣住民(明智氏の家臣の子孫)によって建てられたが城址の一角の地中に埋められていたのと符合するのです。
これは、徳川家が同盟し、のち従った織田家に敵対した勢力を村方が公然と祀ることができなかったということでしょう。

<「駿公墓碣」という墓碑>

Yoshimotokuyou1

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2007年4月 8日 (日)

岡崎、大高ぶらり旅

4月1日の転勤復帰がなく、ちょっと寂しい今日この頃ですが、そうは言っても4月からは新年度ゆえに、ちょっと気晴らしに。最近酒飲みの機会が増え、木曜日には半田の料理屋で宴会、翌日車を会社においてきた小生、歩いて名鉄の駅まで行き、東岡崎へ。

平日(会社の創立記念日で当日は休み)にも関わらず、岡崎の乙川の桜並木や岡崎公園のあたりでは、花見客も出ていました。なぜ、岡崎へ行ったかといえば、別に深い理由はありません。三河でよく知っている場所といえば、刈谷、岡崎、少し離れて豊川稲荷周辺くらいしかないのですが、名鉄の東岡崎あたりは、その少ない土地勘のある土地。

松平家の菩提寺である大樹寺と、やはり松平の産土である六所神社に行こうとしたのであります。まず、駅から近い、六所神社へ。鳥居をくぐると参道の途中が踏切になっていて、社殿は少し高いところにあります。社殿の階段は急で、いまでこそ手摺が付いていますが、昔はよく階段から落ちた人もいるでしょう。

<六所神社>

Rokusho1

Rokusho2

ここで、階段の途中で記念写真を撮っている若者の集団がいました。何してるのか知りませんが、男女6、7人います。まあ、気にせず、先へ進むこととし、バスを待つ間、昼飯を食べに駅前に行きました。さすがに世間は休みでなく、昼飯時の食堂は混んでいました。小生、「天ぷらうどん定食」を頼みましたが、後の席に「急ぎ」と言っているグループがおり、食堂のおばさんは「『天ぷら』とかとにかく『天』が付かないメニューが早いです」と言っていたので失敗したかなと思いましたが、さほど待たずに済みました。

そして、東岡崎駅前のバスターミナルからバスで大樹寺まで。バス停の名前も「大樹寺」。

バス停からは、住宅街の間を歩き、暫く行くと、忽然と大樹寺があらわれました。三門はかなり大きく、京都の南禅寺にはかなわないものの、かなりの大きさ。

<大樹寺の三門>

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ここでも、年配者のグループや家族連れなど、結構人が多く、みな平日でも出歩いているのだなと認識した次第。

大樹寺の本殿を上ると、「欣求浄土 厭離穢土」の金地に大書した文字が仏様の両脇に書かれていました。そして、上ろうとしたところ、拝観料の文字が目に入ると、変なところ始末屋な小生、そのまま後退したのであります。

入れ違いに小さな女の子二人と赤ちゃんを連れたお母さんが、本堂へ上っていきました。お母さんは赤ちゃんを軽々と肩に背負い?、お賽銭を払っていました。

<大樹寺の本堂>

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帰りのバスから、ふと見ると、安倍晴明神社が。例の独特の星型「ゴボウセイ」の紋所が付いています。京都なら分かりますが、なぜ安倍晴明神社が岡崎に? それは謎だ。

<バスから安倍晴明神社を見たところ>

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その後、会社に車を取りに行き、翌4月7日(土)は疲れが出て一日ぐったりし、武豊の某所にいて、外出したのはJAに買い物に行ったくらい。ただ、「夜霧の古城」で書きかけていたブログを完成させました。

本日4月8日(日)は思い立って、ひとっ走り大高城址へ。大高城址、海岸寺、春江院へ行ってきました。大高城址の本丸に桜が咲いていましたが、花見客は少なめ。でも、行って来て収穫があった。こんな行き当たりばったりで良いのだろうかと思いつつ、寮には食事を頼んでいなかったので結局帰らず、また同町の居所に戻ったのでありました。

<意外に花見客が少なかった大高城址>

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