関西の古寺と史跡

2007年1月14日 (日)

西宮の十日戎の思い出

一昨日でしたか、テレビを見ていると、西宮の十日戎の様子、特に「福男」についてニュースが流れていました。

小生、兵庫県に住んでいたとき、住んでいた自宅から近いために、たびたび西宮神社には行きましたし、十日戎にも何度か行きました。特急電車ではお隣の阪神芦屋駅から阪神電車に乗り、阪神西宮駅を降りると、すごい人の波、また屋台が並んでいます。西宮神社にたどり着いて、お参りを済まして境内を見渡すと、ここも縁日よろしく屋台が立ち並んでいるのですが、小生がいた当時(今から13年以上前)は、スマートボールなどもありました。今は、さすがにそんなのはないかなあ。

<西宮神社>

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西宮神社の歴史は古く、また十日戎の神事も江戸時代に遡るとのことですが、今のように大規模かつ一般的になったのは明治期に鉄道が走り、西宮に駅が国鉄、阪神電車と出来てからのようです。えびすさんは、地元の言葉ではえべっさん、正式には夷三郎というそうです。三郎というからには、日本の神様であり、七福神のうちえびすだけが、日本の神様だということです。

どういうわけか、関西には戎なんとかという地名が多いですね。大阪の戎橋とか、京都の戎川とか。東京にも、恵比寿はありますが。

<大阪戎橋付近の夜景>

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なぜ、「商売繁盛笹もってこい」といい、西宮神社でも福笹をわけているかといえば、伊弉諾尊(いざなぎの みこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子である蛭子神が足腰が不自由だということで海に流され、西宮の浜に漂着し、成人したのが夷三郎さんで、足腰が不自由にもかかわらず、釣りが上手で、そこで漁業の指導などをしていた。付近の住民は、夷三郎さんに漁業を教わって世話になっていたので、御礼をしようとしたが、夷三郎さんは無類の酒好きで、それなら「ささ(酒)もってこい」というので、酒をもっていった。これが漁業だけでなく、商売繁盛のご利益があるとされ、いつのまにか「ささ(酒)もってこい」が「笹もってこい」に変化したというのが、小生の記憶しているいわれです。

蛭子神、のちの夷三郎さんが漂着したという伝説は、西宮だけでなく、鳴尾や大阪の堺にもあるようです。

例の「福男」ですが、この「福男」選びはそれほど古いことではなく、昭和15年(1940)から始まり、開門神事で何事も一番参りをされた参拝者を称えようと、先着上位3名を福男として認定するようになったということ。しかし、昭和20年(1945)の空襲により社殿が全焼、翌年の十日戎からは中止され、戦後復活したといいます。

西宮神社の「福男」のニュースを見て、しばし兵庫県にいたころのことを思い出しました。

<芦屋公園>

Ashiyakouen

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2006年12月23日 (土)

逃れ者森知安、大阪~三重へ

「逃れ者おりん」というテレビ番組がありますが、つい最近逃れ者森知安になっていました。

仕事が立て込んだり、うまく行かないことがあると、つい逃避してしまいがちです。小生、関西に逃避する傾向があるようです。

ふと、関西に行きたくなり、大阪まで新幹線で行きブラブラした後、今度は新幹線ではなしに難波から近鉄に乗って三重県の津に行ってきたのです。さらに、津からフェリーで常滑へ渡り、半田まで帰ってきたという、わけの分からない行程で、戻ってきました。

大阪に何をしに行ったかといえば、本当はISACA大阪支部の講習会を受けに行ったのですが、小生所属は日本システム監査人協会であり、ISACAではないのです。お題は「IT保証の概念フレームワーク」というものでしたが、半分は内部統制の話でした。先月日本システム監査人協会北陸支部の個人情報保護の講習会を受けたのですが、そちらの方は具体的な内容でしたので、よく分かりましたが、今回のはちょっと難しく、理解度は今ひとつ。

空いている時間で、大阪城へ行きましたが、途中御堂筋で変な屋台付きの自転車に女性が乗っているのを見かけました。どうもお菓子屋さんのようですが、街角で女性達が寄ってきて、何か買っていました。屋台のスイーツというのは、台湾で水菓子のようなものを売っていたりしますが、日本でお菓子を屋台で売っているのは、大阪くらいなものでしょう。

<大阪御堂筋で目にした屋台のお菓子屋>

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大阪では、平凡で大阪城を見てきました。元の大坂城は、今の城址ではなく、豊臣時代は古くはより大きな城域でありました。今の城址は、江戸時代に建てられたもので、豊臣時代の城址がすっかりなくなっているそうです。それにしても、広大な城で、城のまわりを機関車風の観覧車が走っています。

<大阪城の堀>

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<大阪城をめぐる機関車風の観覧車>

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枡形門から入ると、二の丸公園とかありますが、それには寄らず、大阪城の内堀を越えると、天守閣のある本丸へ。しかし、豊国神社近くから流れる、何かの案内テープは中国語オンリーで、観光客も大半が中国人なんじゃと思えるほど、北京語が飛び交っています。もはや、日本人は没落し、中国の富裕層が日本中出歩いている?まあ、中国人は全世界何処にでもいて、生活力の強さでは日本人の比ではないでしょう。

<枡形門>

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<内堀を越える>

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それはともかく、本丸へ。ここでも、再建された天守閣には登る気がせず、一回り。ここに、大阪市立博物館だった建物がありますが、これは元々は第四師団司令部だったものです。ヨーロッパの古城をイメージしたもので、建築様式のことはよく分かりませんが、なかなか重厚な作りです。そういえば、四隅に城の櫓のようなものが、ついていますな。

<第四師団司令部跡>

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<大阪城天守>

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また、ここで見つけた変なもの。いかにも、大阪らしいというか、ゼッケンをつけた小さなプードルが散歩していました。よく見ると「パトロール中」と書いてあります。一体、何をパトロールしていたのでしょうか。

<「パトロール中」?>

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さて、帰りに紀伊国屋書店で立ち読みした津城をたずねて、津まで。その前に、難波まで行き、道頓堀辺りを歩いてみました。道頓堀のかにのディスプレイ、食い倒れ人形も昔のまま、法善寺横町に行ってみましたが、思ったより上品な感じで。

<道頓堀>

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<法善寺横町>

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法善寺横町といえば、「月の法善寺横町」。包丁一本、さらしに巻いて~の法善寺横町ですが、上品すぎると、雰囲気がそぐわない気がするのですが。しかし、「月の法善寺横町」といても、最近の若い人は知らないんだろうな。水掛不動さんなども、昔のままありましたが。

そして、翌日津城址へ。津城といえば、藤堂高虎。津城址は、堀と石垣がありますが、それ以外に目立つ遺構もなし。多分藤堂高虎の騎乗の姿は、有名でしょう。

<津城址>

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<藤堂高虎の銅像>

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そして、津のフェリー乗り場から、常滑(セントレア)行きに乗船し、常滑へ。所要時間は40分ほどでした。常滑まで来ると、一気に近所まで帰ってきた感じです。

<津をフェリーで離れて>

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<常滑で下船>

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一時の逃避はここで終わり。

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2006年2月19日 (日)

出チタ記(復路・完結編)

昨日、お役目に少々疲れ、骨休めに上方へ飛んだ森知安(ちゃん)、姫路城と龍野城を見聞し、龍野の茶屋で一休み。そして、姫路に戻って旅籠に泊まりました。今日は朝から、置塩城の話を聞きに姫路の北なる前之庄へ乗り合い馬車に乗っていったのでありました。

神姫バスなる小型の乗り合い馬車で来たが、山の中じゃな。拙者の親の田舎の上州黒川山中の風景にも似ておる。終点のここが前之庄か。姫路市に統合される夢前町の中心じゃな。しかし、旧道も新道も店がまばらじゃ。早く着いたので、置塩城に寄ってからとするか。ほう、地図が出ている。・・・これは、大分遠いなあ、しかも乗り合い馬車で通った場所ではないか。山城だし、簡単に登れるものでもあるまい。拙者の認識が甘かった。仕方ない、昼食を取って、喫茶店か何かで待つとしよう。

<前之庄にある町役場と講演会会場になった公民館(後ろ)>

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これは参ったな。新道沿いを見ても、喫茶店どころか、食堂もないぞ。旧道沿いは・・・おや、食堂はあるが、閉まっておる。肉屋はあるから、「ころっけ」でも食するとしよう。おお、肉屋には猪の肉もある。確か、丹波篠山に行ったときにも、猪肉が名物であった。牡丹鍋にするのであったな。旧道沿いには、見過ごしそうな路傍に石の道標があり、「たじま たんご道」と書いてある。

<松の本にある道標>

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講演会の会場は、中央公民館でござるか。結構、立派な建物でござる。受付をすませ、大ホールで開会を待つとしよう。何か、童謡のような歌を繰り返し流しているが、夢前町の歌でござるか。そうこうするうち、開会じゃ。最初、置塩城の発掘の様子をスライド上映でござるか。その後に、置塩城発掘調査の指導者であった、おおざかの大学院名誉教授、村田修三殿の講演でござるな。

<置塩城発掘調査結果の講演会の様子>

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<置塩城発掘調査結果を説明する村田修三・大阪大学大学院名誉教授>

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なるほど、置塩城を築城した赤松氏は、この山中に播磨国守護として公家や寺家も滞在できるような、居住性の高い都市空間を作ろうとしたのでござるか。それで、山城なのに、「麓に居館、山には詰めの城」で山城のほうは防御性を重視、居住性はあまり問わないという、従来の常識とはかけ離れているのでござるな。それにしても、大規模で石垣や瓦葺きの建物なども立派な山城であった様子じゃ。この城には庭園もあったのが、発掘で明らかになっている。しかし、生活物資を運ぶのは大変であったろう。

帰りはまた乗り合い馬車に乗らねばならぬ。拙者と同様に停車場で待つ御仁、神戸の住人の方でござるか。拙者が昔住んでいた摂津の国の、しかもお近くの方ではないか。拙者より少し年上の五十二、三歳の方とお見受けしたが、いづれ同好の士でござる。乗り合い馬車のなかでも、いろいろ話をした。置塩城だけでなく、白旗城や高取城など山城をいろいろまわっているそうな。置塩城の「ぱんふれっと」を下さるのか。これは、かたじけない。また、山城は危険な場所がいろいろあり、一人で行かないほうがよい、置塩城であれば教育委員会に電話すれば団体でのぼれるように手配してくれる云々、ご忠言重ねてかたじけない。

<バス車中から撮った置塩城址のある城山>

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神戸の御仁とは姫路で別れ、拙者は「じぇーあーる」新幹線で名古屋へ向い、武豊線に乗るのでござる。短い間であったが、いろいろ見聞をいたした。知多郡長尾村(武豊)に戻り、また明日からはお勤めじゃ。

<JR名古屋駅 武豊行きの電車が入線するホーム>

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<JR武豊駅>

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2006年2月18日 (土)

出チタ記

出エジプト記は壮大な物語ですが、これはささなかな話です。

ご家老の言いつけにより、江戸勤番から尾張の国は知多郡成岩村にある屋敷勤めをすることになった森知安(ちゃん)でしたが、くろがねの荷運びを行う他家の何とか計画書なる巻物づくりをお手伝いし、連日のお勤めに疲れ気味。本来のお勤めもこなせねばならぬし、困ったものよと思案の最中。そして、他家のご家老への報告をもって、そのお勤めからは解き放たれたのを良いしおに、かつて住んでいた摂津の国の隣、播磨の国に骨休めに参ったのでありました。しかし、町医者からは禁酒を言い渡され、新幹線なる乗り合い馬車の中でも麦で作った酒が飲めないとは、つらいなあ。

では、出発は尾張の国は知多郡長尾村(武豊)より。「じぇーあーる」とか申す乗り合い馬車に乗り込んで、いざ名古屋まで。ここまでなら、知多に来てからでも何回か行ったたことがあるが、はてさて新幹線で岡山行きとな。途中、姫路で降りるのでござるな。

<JR武豊駅:1953年の13号台風の際に列車を救い殉職した駅員さんの像(銅像のように見えるが、常滑で作った陶製だそうだ)*がある> *2006.2.19改

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<名古屋駅新幹線ホーム>

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姫路城は、白鷺城とも呼ばれているそうな。確かに美しい城でござるな。たしか池田様の城であった。

<姫路城の大手門>

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<姫路城の堀>

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うーん、天守閣に子天守がついて、これはなかなか見所の多い城でござる。

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しかし、姫路ばかりには居られぬ。脇坂様の龍野城も見聞しておくとしよう。では、姫路からまた乗り合い馬車に乗るのでござるか。「じぇーあーる」姫新線とな。初めて聞くような名じゃが。姫路と播磨新宮を結んでおるとか。

<姫路駅の姫新線ホーム>

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何と? 自動扉ではなく、釦を指で押して開閉するとは、初めて見聞するな。上野の国と下野の国を結ぶ両毛線では、扉を手で開け閉めする荒技を使っていたが、これは折衷方式でござるか。龍野城へ行くには、本竜野で降りればよろしいな。

<本竜野駅>

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ここから歩いて、城下へ参ろう。途中、揖保川にかかる龍野橋という橋がござるが、手前の橋の東詰の近くには醤油作りを生業としている町人がいるとか。ヒガシマルとか申したな。また、揖保乃糸という素麺でも有名じゃ。手延べ素麺協同組合の建物もある。町人の寄り合いじゃな。そうこうするうち、龍野橋じゃ。おお、橋の上から龍野城が見える。足利将軍のころ、赤松村秀という武将が鶏籠山の山頂に築いたのにはじまるとか。赤松四代の城であったが、天正五年、織田信長様の命により豊臣秀吉様が行った播州征伐で開城したとか。また山麓にある御殿は、徳川の御世になってからのものと聞く。

<龍野橋からみる鶏籠山>

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<江戸期の龍野城(復元)>

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城下は町屋の蔵や格子戸が目立つのう。そして、寺も多い。また、幅がちと狭いが、堀であるのか、水路がめぐっておるぞ。

<城下町の風情を残す龍野の町並み>

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龍野城は御殿に上げて頂けるのか。しかも金子をとらないとは。さすが龍野は醤油や素麺で商売繁盛している土地柄であるな。かたじけない。もう、そろそろ日も傾いてきたから、茶でも一服。そうじゃ、龍野橋の東詰に、古風な茶屋があった。そこで一休みしよう。「しふぉんけーき」という南蛮渡来の菓子に「こーひー」という茶で、一組になったものを注文しよう。六百文なら安いではないか。

<龍野橋東詰の喫茶店~入り口に細かいタイルがはってある>

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<喫茶店の店内~よく見なかったがアンティーク喫茶らしい>

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では、また姫路へ戻るとするか。何、「いべんと」があるとな。落とし噺でござるか。聞きたいのはやまやまじゃが、拙者尾張より隠密で上方に来ている身。また、明日は置塩城についての学者の話があると聞いておる。それでは、さらばじゃ。

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