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2005.02.21

三山七年祭考

船橋市三山にある二宮神社は、諸説あるが10世紀延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといい、二宮神社を中心とする三山地区は古代から寒川神社の名が示すように湧水地を持つ豊かな土地であったようである。古く三山地区は、「千葉郡山家郷」と呼ばれ、有力な荘園に囲まれていた。その二宮神社の創建は、弘仁年間(810-824)、嵯峨天皇の勅創であると言われる。三山は「御山」や「宮山」を地名の起源とするといわれ、水源を背景に豊かであった、この地域は、後に三山庄(荘)といわれることになる。二宮神社は、近傍神社の惣社的な地位にあった。
湧水地には、古来弁天や不動が祀られることが多いが、三山周辺には倶利伽羅不動や田喜野井のおはんが池の弁天など、そうした水源に関する神様のたぐいが多く、二宮神社自体、かつては境内に池もあり水神を祀っていた。これはすなわち、水の恵みから豊穣な農産物がもたらされるという、古代から続いた信仰であろう。
二宮神社と関係の深い習志野市津田沼(旧地名:久々田)にある菊田神社の由緒によれば、治承5年(1181)に藤原師経、師長卿の一族郎党下総に左遷のみぎり、相模国より乗船し相模灘を経て袖ヶ浦に来たところ、海が荒れていたため、波が静かな所を探して久々田の浜に上陸した。そこに久々田明神が住民たちに祀られていたのを、藤原師経たちは航海の無事をこの祭神のためと深く感銘し、久々田明神をあがめ奉り、この地を安住の地と定め、久々田明神に祖先の藤原時平を合祀して暮らした。後に、師経の一族は三山の郷に移住し、子孫は神官になったという。勿論、あくまでこれは伝承であるが、藤原師経や藤原時平の縁者ではなしに、藤原氏に連なる誰か下級官僚のような者が流されたということはあったかもしれない。

<普段の日の菊田神社>
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その二宮神社を中心に、文安2年(1445)馬加康胤の妻の安産祈願をきっかけに、丑と未の年に近隣の神社も参加して行われる大規模な祭礼が、三山七年祭である。そこに参加する神社とは、二宮神社を中心に、幕張の子安神社、子守神社、三代王神社、前述の菊田神社、実籾の大原神社、高津の高津比咩神社、萱田の時平神社(八千代市)、八王子神社(船橋市)で、各神社各々役割が決まっており、以下のようになっている。

 ・二宮神社(船橋市三山)   :主人・父君
 ・子安神社(千葉市畑町)   :妻・母
 ・子守神社(千葉市幕張)   :子守
 ・三代王神社(千葉市武石)  :産婆
 ・菊田神社(習志野市津田沼) :叔父
 ・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
 ・高津比咩神社(八千代市高津) :娘
 ・時平神社(八千代市萱田)  :息子
 ・八王子神社(船橋市古和釜) :息子

馬加康胤の妻の安産祈願とは、文安2年(1445)馬加康胤の妻が臨産の際に馬加康胤の霊夢に三代王の神があらわれ、その後康胤の妻が平産したので、馬加康胤が馬加城に程近い三代王神社に礼願、本殿を造営し、家臣の小川采女を社人としたという。なお、二宮神社記では馬加康胤が祈願したのは、三代王神社と二宮神社で、そのお礼として盛大な祭事を催したという。
三山七年祭は、子安神社など八つの神社の神輿が二宮神社に集まる神揃の祭と磯出祭、すなわち磯辺に葉付の竹垣を結び、神輿を安置して、盥、手桶、柄杓を奉り、神酒、赤飯を備え、薦ゴザを敷いて安産の産屋の儀式を行うという神事からなっている。また、三山七年祭では、火の口台の儀式という、久々田浜に上陸した藤原師経一行が、海上ではぐれ、姉ヶ崎に上陸した姉たちに無事を伝えるために火を焚いたという故事に基づいた儀式が、鷺沼の「神の台(かんのだい)」で、藤原師経に縁の深い菊田神社と二宮神社とで営まれる。このように、三山七年祭は、三山でもともとあった地域の豊作豊漁を祈願する祭に、久々田の藤原師経にまつわる神事が加わり、室町期の馬加康胤の妻の安産祈願が主題として混ざり合って、江戸時代以前に原形ができ、江戸時代に現在のような祭として完成、継続して来たと思われる。

<2003年11月に行われた七年祭の日程表>
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祭りに参加している神社は、前述の通りであるが、三山庄という地域にあった地縁的結合がある。このうち、菊田神社は藤原師経の、高津比咩神社、時平神社は藤原時平の妻娘の流離譚を由緒とし、二宮神社のある三山地区には藤原師経が住んだという言い伝えがある。三山の七年祭に参加する神社のうち、子守神社はもと素加天王神社という馬加の鎮守で、馬加城に隣接する場所にあったといわれる。三代王神社も同様で、最近の発見ではその敷地近くに馬加城の堀と思われる堀が検出されたほど、馬加城に近く、武石氏、馬加氏に信仰された。大原大宮神社は、元は実籾本郷にあったらしく、この地は千葉氏と所縁が深い。二宮神社も神紋は七曜であり、千葉氏との関連もあったかと想像される。
すなわち、藤原師経および一族の流離譚に関連した神社が、菊田神社、高津比咩神社、時平神社で、馬加康胤あるいは千葉氏に所縁の深い神社が、三代王神社、子守神社、子安神社、大原大宮神社で、二宮神社は両方に関連があるらしい。八王子神社については、筆者にはよく分らないが、八王子神社のある坪井も含め三山庄にある地縁、千葉氏(馬加氏)所縁の血縁をベースとした宗教的、習俗的な地域結合が、この三山七年祭を室町の昔から継続させてきたのである。
なお、筆者が撮影した2003年11月の三山七年祭の模様は以下の通り。筆者の家が近い菊田神社中心の視点になっていますが、ご容赦あれ。

<二宮神社の神官と三山の役員さんで記念撮影です>
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<三山における菊田神社御一行をお世話する御宅~門構から見ても旧家である>
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<神揃場に集まる神輿~菊田神社など各神社の神輿が勇壮に練り歩く>
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<菊田地区でもちゃんと事務所を構えています>
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<菊田神社の花流し~ご苦労様でした>
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2005.02.19

臼井城址近くの情景

臼井城は、やはり下総地方の城のなかでも、有数の優れた城であった。残念ながら主郭部分とそれを取り巻く空堀以外の遺構はほとんど残っていないが、主郭である第1郭の台地上小高くなった部分から北へ円応寺の境内に至る斜面に、数多くの腰郭が段々をなしている様子や、空堀の深さなど見所もあり、雄城の感がある。

<臼井城址の第1郭からみた印旛沼>
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その臼井城址のある臼井には、「臼井八景」という景勝の地がある。印旛沼を取り巻く風景は、琵琶湖を背景にした近江八景と共通するものがある。これは臼井の隠士、臼井信斎と円応寺の住職宗的が、中国北宋の瀟湘八景にならい、元禄11年(1698)に選定した景勝の地である。「臼井八景」とは、その情景をあらわす和歌とともに列記すると以下の通り。

「舟戸夜雨」 漁する舟戸の浪のよるの雨 ぬれてや網の縄手くるしき
「遠部落雁」 手を折りてひとつふたつとかぞふれば みちてとをべに落つる雁がね
「飯野暮雪」 ふり積もる雪の夕べを見ぬ人に かくといひののことの葉もなし
「師戸帰帆」 もろ人の諸戸の渡り行く舟の ほのかに見えてかへる夕くれ
「瀬戸秋月」 もろこしの西の湖もかくやらん には照る浪の瀬戸の月かげ
「城嶺夕照」 いく夕べ入日を峰に送るらん むかしの遠くなれる古跡
「光勝晩鐘」 けふも暮れぬあはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん
「州崎晴嵐」 ふき払ひ雲も嵐もなかりけり 州崎によする波も静かに

<夕暮れの師戸城址から見た臼井>
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「城嶺夕照」の景色を見ようとした訳ではないが、2003年6月のある日の夕方、臼井城址を訪ねた筆者は、星神社に参じて帰路につこうとした。その時、後ろから勢いよく自転車で星神社の社殿前に乗りつけ、お参りをしていった中学生と思しき青いジャージを着た日焼けした少女がいた。臼井城の興亡は、遠い歴史の彼方のこととなったが、先人の残した思いや慣わしは、今も息づいている。

<臼井城址近くの星神社~臼井原氏の創建と伝える>
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2005.02.16

市川市国分の二つの城館址

JR市川駅からバスで北に進むと須和田を経て下総国分寺のある国分の地に出る。ここには、国分寺(国分僧寺)、国分尼寺址があるだけでなく、国分氏が拠った国分館址がある。ところが、この国分館址が、戦国期のもの(国分城というほうが適切か)ならあるといえばあり、国分五郎胤通の居た国分館といえば、正確な場所がわからない。おまけに北国分にも城館址があったようで、千葉常胤の五男、国分五郎胤通の居場所はどこだったかが、よく分からない。以下は、そのよく分からない話のレポートである。

国分館(市川市国分字根古谷)

平安末期、「下総国葛飾郡国分郷」すなわち国分の地は、千葉介常胤から、千葉介常胤五男である国分五郎胤通が受け継ぎ、名字の地とした。胤通は早くから、下総権介である常胤を下総国衙にて補佐などして助けていたと思われ、国分台地北部にあった馬牧や市川津の管理もしていたらしい。なお、下総国分寺には、国分胤通の墓と伝える宝篋印塔二基がある。以前は石塔坂にあったが、さらに昔は三基で、近隣の葡萄園にあったという。現存する二基の宝篋印塔には、それぞれ明徳4年(1393)、応永5年(1398)の年季が入っている。
国分胤通は香取神社領地頭に任じられて、香取郡本矢作(現在の佐原市)に住んだ。国分胤通は香取神社領を押領しており、建永2(1207)年、香取神社神主職(大中臣国房ら)が胤通の濫妨を荘園領主「関白前左大臣家(近衛)政所」に訴え、それに対する「関白家政所下文」が下されている。国分胤通の葛飾郡国分郷の所領は、国府台、真間、国分、須和田、市川、平田、八幡、菅野、宮久保、曽谷、貝塚、柏井、中沢、大野、稲越、大橋、栗山、矢切と広範囲であった模様である。胤通の一族は、分立が相当に行われており、下総の葛飾国分郷と香取郡矢作周辺を一族が分領し、さらに矢作にいた一族は奥州にも移住している。葛飾郡国分郷の所領内には、中沢、平田、大橋など地名を名乗る者があって、分割相続により所領が細分化されていったらしい。なお胤通の後、葛飾郡国分郷を分領した一族はその後あまり繁栄していない。
国分胤通の子は、国分次郎常通、大戸六ヶ村領主(佐原市大戸)の大戸四郎親胤、大戸庄村田の村田小五郎有通、大戸矢作領主の国分六郎常義の四人がいる。胤通の次男親胤の子には「国分寺本主」の時通がおり、時通が国分寺領の本主として国分の地を治めたと思われる。常通は、胤通の嫡子として葛飾郡国分郷を治め、その系統は代々国分寺と関係が深かったらしく、子孫から出家する者が出ている。佐原の大戸矢作へ移った国分氏は有力国人領主として、その後発展した。さらに、その矢作国分氏の系統から奥州へ移住した子孫(藤原秀郷流小山氏の子孫から奥州国分氏が生まれたという異説がある)も、伊達氏からの養子国分盛重(伊達政宗の叔父にあたる)の代に至るまで活躍して、仙台の国分町の地名の起こりになった。
現在遺構の残る国分館址は、前述の通り戦国期のものである。国分五郎胤通の頃の国分館は、国分寺の近くであったにせよ、平安末から鎌倉初期当時の居館が一般的にそうであったように、低地近くの台地の立上り端あるいは台地中段にあったのであろう。国分寺の東側台地中段の経王寺付近、あるいはその北にある日枝神社、龍珠院付近であったかもしれない。その辺りは、古くからの住宅地になっており、何も遺構が残っていないが、堀をめぐらした方形居館であったと思われる。当時は、国分寺も戦国期のように荒廃していなかったため、国分寺の寺域とは、重ならない場所に国分館があったことは間違いない。
戦国期は国分辺りは高城氏の支配下に置かれたが、現在遺構の残っている館がいつ築かれたか、城主は誰かは記録等がなく、よく分からない。しかし、前述のように国分寺のある台地には、台地端に土塁や櫓台、虎口といった遺構が現存している。国分寺のある台地下、国分3丁目の一地区には「根古谷」という字名がいまだに使用されており、台地上に城があったことを証している。
国分寺の北東には、国府台合戦時に「大膳山」という里見方の正木大膳が陣を構えた伝承の地もあるが、農地と荒地になっているその場所には、台地東端に土塁の残欠があり、土塁の頂上部分に祠が祀られている。土塁は東西にのび、土塁沿いに東へ台地を下りると竺園寺の門前に出る。竺園寺は南北朝時代に創建され、市川城落城までは北国分の地にあったが、長享2年(1488) 3月、臨済宗関東十刹の一つである鎌倉東慶寺の僧だった東氏一族の喜州和尚を招いて石井泉のある現在地に再建中興となった。寺紋は千葉氏所縁の九曜である。台地上の土塁から、竺園寺門前まで続く小道は、かつては竪堀であったかもしれない。またその約100m南の台地中段にある龍珠院は、腰郭であった可能性がある。これも、国分寺南東に遺構の残る館址の外郭部の一部であろうか。国分館址の外郭部が龍珠院や竺園寺西側の台地上の土塁まで含んでいた場合、国分館は南北約400m、東西約200mの城域を持ち、国分寺をもその城域に含んでいたことになる。なお、北国分の堀之内には、別の城館址があり、国分氏との関係も含め興味深い。

<下総国分寺庫裏にある土塁痕> ~お寺の方のご厚意で撮影させていただきました
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北国分堀之内館(市川市北国分字堀之内)

国分の地には、城館址がもう一つある。それは、北国分の堀之内という地名の残る、市川市立歴史博物館の北側にあたる緑道の上、北総鉄道北国分駅のある権現原台地上にあり、住宅地化して地表面には遺構は残っていないが、昭和60年(1985)の発掘調査により、堀址が検出されている。この「堀之内」とは、堀之内貝塚として全国的に有名な地名であるが、勿論城館を取り巻く「堀の内」を意味するもので、文字通り城館址を示している。
本来の「堀之内」の地名は、北総鉄道北国分駅の南、伊弉諾神社のある場所のさらに南の台地上を指し、その南側台地下の低地はかつて千艘谷津と呼ばれ、上古船が入り込む入江であったという伝承をもつ。千艘谷津の西側奥には、現在市川市立歴史博物館が建っているが、その南の堀之内貝塚のある台地は、「駒形」という地名で呼ばれ、ちょうど貝塚のある中心的な場所に駒形様の祠がある。昭和41~44年の道免谷津土地改良事業で、現在の考古博物館のある所で、その台地は切られているが、かつては東側バス通りの近くまで舌状台地は続いていた。その舌状台地は東西にのび、北に千艘谷津、南に道免谷津があって、東側の国分川につながる水路が谷津の中を流れていた。また、東側低地には湧水があって、今でも弁天が祀られている。大正時代頃は、道免谷津の南、中国分の台地から、現在の住友金属鉱山の敷地を通って、道免谷津を越え、舌状台地を中廟の坂という坂道を上ると、雑木生い茂って馬捨場や無縁墓があり、台地を下りて千艘谷津を越えると、「堀之内」にいたったという。この「堀之内」が、まさに城館のあった場所である。
「堀之内」にあった城館は、中世のものであることは間違いなく、前述の発掘調査で空堀の底から中国北宋時代の古銭が10枚近く発見され、堀の作りからみて鎌倉初期の築城であったらしいことが分っている。そうであれば、国分五郎胤通の館であった可能性があるが、国分寺やその北側台地上にあったらしい馬牧と位置が離れている。国分館の項で前述の通り、国分氏は葛飾国分郷においても、中沢、平田、大橋と所領地を名乗った一族の分立があった模様で、「堀之内」に近い大橋など国分一族の館址であったもしれないが、国府の執務などのための居館ではなく、水路なども使いつつ、曽谷など周辺城館と連絡していた軍事目的の強い城館であったのではないか。「駒形」の台地も、物見台を置き、防護柵をめぐらすなど防御施設のあった場所であったように思われる。康正2年(1456)正月に、千葉宗家を滅ぼした馬加康胤らとそれを後援する古河公方足利成氏の勢力は、千葉実胤、自胤の拠る市川城を攻撃し、落城させたが、その頃にこの城館も落城させられたのであろう。当地には、落城の際に城主の奥方が弁天池に身を投じたといった伝承が残っている。
ちなみに、国分館の項で前出の竺園寺は、市川城落城までは市川市国分新田(現在の北国分町)にあり、この城館の裏鬼門にあたる場所に建っていた。北国分に大銀杏が二本ある愛宕神社も、同様に裏鬼門を守るために建てられたと語り伝えられてきた。

<堀之内貝塚>
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