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2005.04.16

中世城郭と商工業者、遊芸人

守護大名クラスの氏族が治める中世の大城郭の周りにある交通の要衝、例えば街道の分岐点や海や河川、湖沼に面した湊や津は同時に農作物などの集散地であり、運搬に従事する馬借などのほか、各種物産の売買にあたる商人や武具や農具、日用品などの生産にあたる職人も、城下に居住し、都市を形成していった。
そうした商工業者以外にも、遊芸人あるいは遊行僧もそうした都市に定住しないまでも、一定期間留まっていたし、街のはずれには刑場のような場所とともに遊女屋などもあった。遊芸人としては中世には後に能となる猿楽や人形劇である傀儡子、猿回しなど座を形成するものから、個人で芸を行うものがあり、遊行僧としては時宗の踊念仏の僧や高野聖などがいた。各地に残る上人塚とは、こうした遊行僧が行き倒れたのを憐れんだ人々が祀ったものも多いであろう。
例えば、下総の守護大名である千葉氏の室町中期以降の本拠地であった本佐倉(現在の印旛郡酒々井町から佐倉市本佐倉、将門町)では、内郭の外側に外郭を配し、直臣層を中心とした家臣団が城の周囲にある根古谷集落に住んで、根古谷の周囲には同心円状に町場と支城群を配することによって、守りを堅固にしていた。言い換えると、その同心円はまた内郭に城主と家族を、外郭に一族や家臣団を、さらにその外側に住民を居住せしめた惣構となり、北に印旛沼の水路、南に下総道という交通手段をもって、外界と接していたといえる。
本佐倉では、家臣達が本佐倉に集まってくると、延徳2年(1490)には、城下に市と町がたてられたという。城下北方にあった浜宿東端にあたる字「松合」という場所の微高地付近に、鎌倉期の陶器や宋銭などが出土しており、中世に市が立てられていた痕跡が残っている。当時、浜宿河岸は印旛沼という大水路による交通の拠点であり、陸上輸送では下総道という輸送路が重要な役割を果していた。実際、現在の国道296号線の通っている「上宿」という場所には、本佐倉の町場が作られたことが、発掘の結果分っている。「上宿」「中宿」「下宿」という下総道沿いの町場は、物資の集散地であり、宿にすみついた住民、すなわち商人や職人などにより、流通交易がされ、商業地としての機能を持っていた。
注目されるのは、篠田氏という千葉氏の家臣は、商人的な側面ももっていたことで、江戸期に本佐倉の城下の一部が酒々井宿となったとき、篠田大隈守が町役人の筆頭となったことに見られるように、千葉氏のごく身近にも御用商人的な人物がいた。それほど、千葉氏の屋台骨を、彼ら町場に生きる商工業者が支えていたということかもしれない。

<かつての浜宿河岸から印旛沼方面を見る>
motosakura-hama

こうした本佐倉には、遊芸人も集まってきた。本佐倉の妙胤寺の近くは、猿楽場という地名が今もバス停の名称として残っている。これは、文字通り猿楽が行われた場所であり、猿楽の座が本佐倉において興行を行ったことを意味している。
猿楽の座が本佐倉において興行していたことは、大和などで盛んであった芸能が本佐倉でも行われた経済的、文化的な背景が当地にあったことに注目するとともに、本佐倉の町場がどの程度まで室町期において展開されていたのか興味が持たれる。

<猿楽場のバス停>
motosakura-sagakuba

そもそも猿楽とは古代の散楽に起源をもち、散楽戸が廃止となって、国家の庇護に頼れなくなり、そのなかから主に大きな寺社に隷属する被差別民である、散所の声聞師として猿楽を行うものが発生し、やがて芸能集団としての座を形成するようになった。観阿弥は大和猿楽四座の一つである結崎座を率いていたが、その始祖は古代散楽の流れを汲む秦姓の散楽戸であったという。観阿弥、世阿弥親子は猿楽を、芸術的な幽玄能にまで昇華させたが、猿楽を舞う大夫としての差別は彼らとて例外ではなかった。
本佐倉の猿楽場の地名の残る場所は、本佐倉城下の西端で妙胤寺だけでなく、多くの寺社があった場所であり、あるいは猿楽場で猿楽の興行を行っていた芸能民も、それらの寺社に属して定住していたのかもしれない。
一方、差別されたのは遊芸人や高野聖に代表される遊行僧だけではなく、商工業者、すなわち鍛冶、皮革加工などの武具、農具等の生産者、馬借その他商人についても差別の対象となった。各種職人は当時のハイテクの担い手であったのに、彼らの社会的な地位は低く、例えば竹細工の一種で茶筅を製造、販売する人々について、中国地方では「茶筅」と呼び、それがすなわち被差別部落民を示す言葉になっている。
浅草の近くに、かつて大きな被差別部落があったが、浅草の近くに被差別部落があったのは武蔵千葉氏の拠点である石浜城があり、武蔵千葉氏が当時のハイテクの担い手である被差別民を連れていたためという説がある。実は本佐倉の城下の一部であった、ある場所にも被差別部落があったが、浅草の近くの部落と石浜城と同様な関係が、その部落と本佐倉城との間にあったということか。
商工業者、遊芸人などの社会的地位の低さは、中世独自のものではない。特権を与えられた町役人クラスや裕福な大商人の類は別として、近世においても連続している面がある。あるいは、現代にも。やはり、これは農業中心の社会観、天皇を頂点とした貴種崇拝が、日本の思想的な底流にあるからであろう。

(註)
本稿において、浅草付近や本佐倉城下の被差別部落の起源について言及しておりますが、もとより差別的な見地で行っているのではなく、商工業者や被差別民を含む遊芸人など、中世の民衆がおかれた社会的状況の一つとして記述しております。むしろ、天皇を頂点とした貴種崇拝のような考え方には、反対であります。万人が平等であり、人間性の尊厳はなんびともおかすことができないものであることは、言うまでもありません。

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