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2005.11.30

徳川家康と知多半島(その4:緒川の宇宙山乾坤院)

前回まで、半田からなかなか出なかったが、阿久比町へ行く前に緒川町へと飛ぶ。なぜなら、徳川家康の生母於大の方について、もう少し話をしなければならないが、それには阿久比の久松家に再嫁した話からではなく、緒川で於大の方が生まれたところからでないと、順序としてうまくいかない。
於大の方は、享禄元年 (1528 ) に現在の愛知県知多郡東浦町の緒川という場所で生まれた。父は緒川城主水野忠政で、母は於富の方という。於大の方の父、水野忠政の代には緒川付近から刈谷にも勢力を伸ばし、於大の方6才の時には城を刈谷に築いて家臣団とともに移り住んでいる。水野氏は、戦国時代に東は三河の知立から、西は知多半島は河和あたりから常滑にかけて、広大な地域を支配下に置いた。それは同時に、水野氏の支配圏が東は駿河の今川、西は尾張の織田という強大な勢力にはさまれた形であることを意味した。東西を今川、織田の両雄に挟まれたのは松平氏も同じである。松平氏は家康の祖父、清康の代に三河のほとんどを平定するに至り、実に水野忠政はその妻、すなわち於大の方の母、於富の方を離縁し、清康に差し出す政略結婚を行っている。
さらに、松平氏は清康が天文4年(1535)の12月5日織田信秀を攻めるために守山に布陣していたおり、家臣の阿部弥七郎に殺害されるという、いわゆる守山崩れでなくなって、広忠がその跡を継いだが、家臣の離反が相次ぎ家運は衰退していった。天文10年 (1541)、その松平広忠に、於大の方は嫁がされた。翌年、竹千代、後の家康が誕生するが、父松平広忠は幼い竹千代を人質として今川に差し出し、その今川方の前線で何とか家名を保つことになった。
では、なぜ衰退しゆく松平氏に於大の方は嫁がされたかといえば、近隣の豪族同士ということもあるが、やはり松平氏の後ろに今川氏がいて、その今川と松平を通じてよしみを結ぶという政略があってのことであろう。於大の方とその母、於富の方という親子2代にわたり、水野氏と松平氏は政略結婚で結ばれた間柄ということになる。

<於大の方を中心とした水野家系図>
odaikeizu

<於大の方略年譜>
年  号 (西暦) 事         歴
享禄元年 (1528 ) 緒川城主水野忠政の娘として緒川にて生まれる。母は於富の方(華陽院)
天文元年 (1533) 三河のほとんどを平定した岡崎城主松平清康から求婚された於富の方(母)は、
           水野忠政に離縁されて松平清康と再婚。
天文2年  (1533) 刈谷城(現在の亀城公園)が完成し、水野氏家臣団を連れて移る。
天文10年 (1541) 於大の方岡崎の松平広忠のもとへ嫁ぐ。広忠16歳。
天文11年 (1542) 於大の方が竹千代(徳川家康)を生む。
天文12年 (1543) 於大の方の父忠政が逝去。於大の方の兄信元が相続する。
天文13年 (1544) 刈谷城主水野信元が今川方を離れ織田方についたため、今川方の松平広忠は於大の方を離別する。
天文14年 (1545) 於大の方この頃椎の木屋敷(現在の刈谷市銀座6丁目)に住む。
天文16年 (1547) 於大の方知多郡阿久比城主久松佐渡守俊勝と再婚。後に3男をもうける。
天文18年 (1549) 於大の方の前夫松平広忠逝去。
永禄3年  (1560) 於大の方の母華陽院逝去。桶狭間の戦い、今川義元敗死。以後織田信長の勢力 が急激に伸展。
            松平元康(後の徳川家康)は大高城を脱出、知多半島から三河、岡崎へ帰る。
天正10年 (1582) 本能寺の変、織田信長が殺される。 変後、堺にいた徳川家康は「伊賀越え」をし、岡崎へ戻る。
天正10年 (1582) 於大の方夫久松俊勝逝去。
天正16年 (1588) 髪をおろし伝通院と号す。
慶長5年  (1600) 関ケ原の戦、徳川氏政権が確立される。
慶長7年   (1602) 於大の方伏見城にて逝去、寿経寺(後の伝通院)へ納骨される。

この於大の方の生家、水野家はどういう出自かといえば、於大の方の父、忠政の代には緒川城主であったのだから、忠政より数代前には緒川に定着していたと思われる。それ以前については、江戸時代大名となった水野氏が幕府に提出した系図以外に確たる資料がなく、はっきりわからない。これは、徳川家康の祖父、松平清康以前の松平氏について、明確にわからないのと同様である。
水野氏は忠政の曽祖父にあたる貞守の代に緒川(小川、あるいは小河とも書く)に復帰、これを領邑としたといい、水野貞守は南北朝期の延文5年(1360)に小河の地で守護土岐氏に攻められて滅亡した小河氏の末裔で、小河氏は一時春日井郡水野(今の愛知県瀬戸市中水野)に退転しており、そのため水野氏を名乗ったという。しかし、水野氏が鎌倉時代以来の土地の名門であった小河氏の子孫かどうかは確証がなく、元は春日井郡水野にいた水野氏が、何らかの縁故で緒川に来て土地の名家の名跡を継いだか、勝手に名乗った可能性がある。

その水野貞守が文明7年(1475)に創建したというのが、曹洞宗中本山である古刹、宇宙山乾坤院で、その乾坤院には「水野先祖御判物写」という文書があり、水野氏先祖の小河氏を小河村地頭職に補任した鎌倉幕府政所下文や足利尊氏の感状など 小河氏の事跡を物語る資料を写したものであるという。また、水野氏は勢力下におさめた諸氏を自らが帰依した曹洞宗に改めさせて支配力の強化をはかったという。

<乾坤院本堂>
kennkonhondo

乾坤院の寺伝によれば、
「当山は、室町時代中期の文明7年(1475)に緒川城の守護を目的に初代城主 水野貞守公の寄進によって、川僧慧済が開山した。以来、代々水野家の菩提寺であり、江戸時代を通じて尾張徳川家より禄を下されるなど、厚い庇護を受けてきた。四代目水野忠政公の息女で、徳川家康の生母である於大の方(伝通院)からも、三里四方の山林を寄進されたと伝わっている。明応9年(1500)から明治7年までは輪番制度をとっていたが、以降は今日に至るまで独住制を継承。現在は直門六十一ケ寺、門葉寺院総数五百余ケ寺を有する曹洞宗の中本山をいただいている。明治初頭の廃仏毀釈、第二次世界大戦、伊勢湾台風の大被害から復興を果たし、今日、境内は二万坪におよび、松・杉の森を背景にした七堂伽藍(文化財)は整然として古格を表し、清浄境の趣を呈している。また禅寺の根源となる座禅道場や寺院に隣接する於大公園は一般に開放され、多くの人々に親しまれている。」 とのことである。

実は、乾坤院と水野氏の深いかかわりを示すものとして、乾坤院の総門があり、これは水野氏が城主であった緒川城の城門を移築したものである。また、乾坤院の本堂の裏にある堅雄堂は、於大の方の弟忠守の孫である岡崎城主水野忠善が寛文10年(1670)に曽祖父忠政の御霊屋として建立した、祖霊供養のための御堂である。その堅雄堂の西隣には於大の方の父、水野忠政の墓がある。さらに西側には於大の方の弟忠守、その子忠元、孫の忠善の五輪塔の墓が並んでいる。

<乾坤院の総門~緒川城の門を移築>
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<堅雄堂>
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<於大の方の父、水野忠政の墓>
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<於大の方の弟、水野忠守、その子忠元、孫の忠善の墓>
tadamoritadamasatadayosi

於大の方の異母兄である水野信元は、忠政のあとをうけて、積極的に知多半島へも進出した。成岩の成岩城を攻落としたのも水野信元である。そのころ、乾坤院は水野一族からの寄進を受けて、諸堂を整備したり、経済的安定を得た。しかし、水野信元の領民が甲斐の国に物資を送ったことから、信元が武田氏に内通したとの嫌疑により、天正3年(1575)織田信長の命で岡崎で誅されるにおよび、水野氏の緒川支配は一時中断した。乾坤院も太閤検地などで寺領を失って荒廃した。
その乾坤院がかつての隆盛を取り戻すのは、文禄3年(1594)刈谷城主となった水野忠重の寄進や関ヶ原合戦後に緒川を領有した水野分長の寺領三十一石七斗の寄進、山屋敷の領有権安堵という水野一族の尽力によってである。さらに、緒川が尾張徳川家の領地となった江戸時代も、 於大の方の実家の菩提寺である乾坤院は、於大の方、家康の血を引く尾張徳川家の庇護を受ける。
すなわち、寺領は黒印地として領有を認められた。江戸時代の乾坤院は、唯一の檀家水野氏の菩提寺として、尾張・三河・遠江に六十一ヶ寺の末寺を擁する曹洞宗中本山となったのである。 なお、堅雄堂を建てた水野忠善の子孫に、老中となった水野忠邦がいる。

さて、次回からは緒川から、知多半島をでてしまうが刈谷に目を転じ、さらに知多の阿久比町に戻ることにする。

<乾坤院の山門>
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参考文献

・宇宙山乾坤院発行資料
・広報ひがしうら 2004年4月1日号
・愛知県刈谷市ホームページ

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2005.11.24

徳川家康と知多半島(その3:岩滑城の中山氏)

11月23日(水)は勤労感謝の日、東海地方は天気が良くて、行楽客が大勢繰り出していた。岐阜県多治見市にたまたまいた小生も、虎渓山永保寺に行って、綺麗な紅葉の写真をたくさん撮ったのであった。また、多治見でも農業祭をやっていて、会場となっていたセラミックスセンターだったかな?とJR多治見駅をシャトルバスで参加する人のピストン輸送をしていた。さる11月20日(日)の「はんだふれあい産業祭り」も、会場が前日のJFEスチールから半田運動公園となって、農産物、農機具の販売など地元農業関係の団体が中心の内容となっていた。そうはいっても、国際色豊かに海外の物産販売などもしており、半田も変わっていくのである。

<はんだふれあい産業祭り2日目の一コマ>
sangyou

前置きはそのくらいにして、徳川家康が桶狭間の合戦後、大高から生母於大の方のいた坂部(今の阿久比町)に入って、矢勝川を越えて岩滑(やなべ)を通り、成岩の常楽寺に逗留後、水路三河に帰ったことは、「徳川家康と知多半島(その1:成岩の天龍山常楽寺)」で述べた通りである。

阿久比町を南下し、矢勝川を越えると、現在の半田市の北端である岩滑(やなべ)となる。ここは「ごん狐」などの童話で有名な新美南吉が生まれた場所であり、新美南吉の生家などが残っている。「ごん狐の森」などもあり、半田の一つの文化エリアになっている場所である。

<新美南吉の生家~常夜灯のある街道の交点にあり、南吉は大正2年この家で生まれた>*2005.12.11追加
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<南吉生家近くの常夜灯>*2005.12.11追加
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<矢勝川沿いの公園にある新美南吉作品「ごんごろ鐘」の石碑>
nannkichi

実は、この岩滑も徳川家康と縁があり、於大の方の妹、つまり家康からみると叔母が、岩滑の中山刑部大輔勝時に嫁していた。中山勝時の居城は、岩滑城で、今では遺構が残っていないが、現在成岩の常楽寺と同じ浄土宗(それも西山浄土宗)であり、名前も似ている甲城山常福院という寺院やその東の八幡神社のある場所にあったという。その常福院や八幡神社のある場所は、かつて城山と呼ばれ、県道264号線の西側のやや小高い丘になっており、北に矢勝川を臨む立地となっている。常福院の山号「甲城山」も、その城山に由来するのであろう。
常福院の門を出て南側を東に県道のほうへ降りる道は、かつての堀址か城道であろうか。八幡神社の境内も、遺構はないが、城址の面影を残すようである。
なお、常福院は新美南吉の童話「ひよりげた」の舞台となった場所で、新美南吉が植えた大きな蘇鉄がある。また、どういう由来か私にはわからないが、役の行者の石像がまつられている。

<甲城山常福院>
jyohukuin

<常福院に残る南吉が植えた蘇鉄>
sotetsu

<常福院境内の役の行者石像>
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その中山氏であるが、いつの頃からか岩滑の領主となり、おそらく中山勝時の代あたりで、地理的な関係で水野氏の配下となったと思われる。実は「ごん狐」に出てくる「中山様というおとの様」は、その中山勝時がモデルとのことである。そして「ごん狐」自体、近くにある権現山の狐を省略して、「権狐」→「ごん狐」となったという説がある。*2005.12.11付記:筆者は権現山が東照大権現(すなわち徳川家康)に関係あるものと思っていたが、山頂にある「権現さん」と呼ばれる五郷社から権現山と呼ばれているそうである(新美南吉顕彰会資料より)
桶狭間の合戦後、岡崎を目指して強行軍であった家康は、岩滑で少し休憩しただけかもしれない。天正10年(1582)の本能寺の変後の危機については、伊賀越えの後、伊勢の白子浜から海路常滑に上陸した家康一行に対し、中山勝時の子、勝尚(家康からみると従兄弟)が家臣25騎を率いて駆けつけたという。身内の支援で、大いに意気が上がったであろう。かくして、家康は常滑を板山街道を通って半田に出て、常楽寺に立ち寄った後、岩滑湊から三河へ渡った。その中山勝尚が家康の元に馳せ参じた時には、すでに父勝時は二条城で戦死していた。

<城址の面影を残す八幡神社境内>
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<かつての城道か、常福院門前から県道へ続く~右側に南吉のはなれの家址あり>
shiromichi

なお、岩滑には、桶狭間の合戦後、三河の岡崎をめざして、知多半島を南下していた家康が、岩滑を通った時のエピソードとして、面白い話が伝わっている。
知多半島に生せんべいという、京都の生八つ橋のような御菓子があるが、この起源が家康と関わりあるというのである。つまり、永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、岡崎をめざす家康が知多半島を南下している途中、岩滑でとある百姓家で休息をとったとき、たまたま食した生のせんべいの味が気に入り、それがきっかけで生せんべいをつくるようになったというのである。生せんべいの製造・販売をしているのは、生せんべいの田中製菓(半田市)と、総本家田中屋(半田市)という会社であるが、両社のHPにそのような内容が書かれている。

桶狭間合戦の後という危急のときに、家康が駆け抜けた矢勝川。桶狭間合戦の後と本能寺の変の後、その家康を助けた、坂部から見ると川向うになる、岩滑の中山氏。今も川はゆたかに流れているが、その矢勝川にかかる高田橋の上を通勤の車などがせわしなく行きかっている。

<矢勝川から岩滑城址方面を望む>

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2005.11.22

徳川家康と知多半島(その2:成岩城とその周辺)

前回、成岩の常楽寺について、徳川家康との関係を中心に紹介した。成岩城についても、若干触れたが、写真が日没後のものだったり、周辺について書き足りていないので、再度成岩から成岩城とその周辺についてレポートする。

<成岩城址と石碑~「成岩城址」の字は成瀬正雄子爵の書>
narawajyou

成岩城は、半田の臨海工業地帯の一角にある鉄鋼メーカー、Jスチール知多製造所の正門の西600mほど行った、現在の半田市有楽町7丁目周辺の細長い台地上にあった。そこは、成岩の集落をおさえ、海にも近い好立地で、船で知多半島はもちろん、衣浦湾を越えて三河にも出ることができる。成岩の北の亀崎には、水軍がいたというから、このあたりも同様に海の武士たちが蟠居する場所であったかもしれず、住民も漁民が多かったであろう。

城主の榎本了圓は、常滑の時宗の僧(衆徒)で、金蓮寺という寺にいたという。時宗は一遍上人を開祖とする「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える念仏宗であり、いわゆる「踊念仏」で知られる。榎本了圓が常滑を離れた理由はさだかではないが、知多半島西岸を治めていた一色氏の勢力が衰えたことに関係していそうである。どういうわけかは分らないが、時宗の僧が、成岩に来て城主となった。おそらく、榎本了圓は成岩の衆に担ぎ上げられて、城主になったものらしく、地域の一揆的な結合が基盤にあったと思われる。成岩の南の,現在の武豊、当時の長尾の長尾城には岩田氏があって、榎本了圓の成岩城と連携していた。長尾城の岩田氏は、鎌倉時代から当地にいた在地領主である。

<成岩城址と石碑碑文>

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一方、緒川城主であった於大の方の父、水野忠政、その子信元(忠次)は、勢力を知多半島一円に伸ばそうとしていた。水野氏は、今川と織田の中間にあって、その時々に勢いのあるほうに加勢していた傾向があった。また三河に領地をもっていたため、松平氏とよしみを通じ、松平親康(家康の祖父)の代から姻戚関係にあった。もちろん、家康は松平広忠と於大の方の間に生まれたのであるから、家康自身が水野氏の松平さらにはその後ろにいる今川への政略結婚で生まれたともいえる。

いずれにせよ、水野氏は知多半島を手中にいれて、その勢力を確立しようとしていた。榎本了圓の成岩城は、あたかも長島の一揆勢が信長に抵抗したように、そんな水野氏の野望とあいいれない存在であったろう。
その成岩城は、榎本了圓ら念仏を唱えた成岩衆がよく守ったが、敵の間者に火をかけられことから、西側の紺屋が淵からの敵の一斉攻撃に崩れ、天文12年(1543)ついに於大の兄水野信元によって攻め落とされた。同年勢いにのる水野軍の侵攻により、長尾城の岩田安広も降伏し、仏門に入った。水野信元は、成岩城をせめるために砦を築き、成岩砦とか水野砦といわれる。成岩城址の北へ400mほどいった、鳳出観音(砦観音)がその址だというが、遺構は残っていない。ちなみに、成岩城の榎本了圓がどうなったか、記録がないとのことである。

水野氏の手におちた成岩城には、大府の横根城にいた水野の家臣梶川五左衛門文勝がそのあとに移った。この梶川氏は、後に朝鮮の役で戦死し、成岩城も廃城となった。その後慶長16年以降は、犬山城主の成瀬氏の領地となる。家康が桶狭間合戦の後、成岩に身を寄せたときには梶川氏が成岩城主であり、水野の血をひく家康を成岩湊に丁重に送ったのであろう。

成岩城址にたつ石碑は、成岩町が昭和12年(1937)9月に建立したものである。そして、その碑文には、以下のように書かれている。

「天文年間榎本了圓氏此地ニ東西三十五間南北ニ百三十間ノ居城ヲ築キ成岩長尾両村ニ馬場ヲ置キ成岩ヲ領シ殷賑ヲ極ム
後水野下野守信忠ノ為ニ略サレ其臣梶川五左衛門ノ居トナル
慶長十六年犬山成瀬隼人正ノ領地トナリ其ノ支配ヲ受ク
以テ今日ニ及フ(以下、略) 昭和十二年九月    成岩町」

表の字も成瀬子爵の手になるものであるし、今回レポートした成岩が成瀬氏の領地であったとは、今までのブログの内容と重なって、奇遇である。

下の写真は、ご近所の庭越しに見た成岩城址であるが、少し小高くなっている様子がわかるであろう。

<ご近所の庭越しに見た成岩城址>

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また、成岩の北、半田市の最北、阿久比町との境に近いところに、岩滑(やなべ)城があった。ここには於大の方の妹が嫁した中山氏がいた。そして阿久比には於大の方の再嫁先である坂部城主久松佐渡がいた。そのあたりから、於大の方の生家水野家について、今度は詳しく見ていくことにする

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2005.11.21

徳川家康と知多半島(その1:成岩の天龍山常楽寺)

実は徳川家康と知多半島には、いろいろ関わりがある。徳川家康は言うまでもなく、三河の岡崎の出身である。しかし、実母である、於大の方は知多半島の北東に位置する緒川(現在の東浦町緒川)の水野家の出身であり、松平広忠に嫁して家康を生んだ後離縁して、やはり知多半島中ほどに位置する坂部城主(坂部は現在の阿久比町)の久松佐渡守俊勝に再嫁している。その縁で、徳川家康は母の縁者の多い知多半島を度々訪れているし、人生のターンニングポイントといえるような永禄3年(1560)の桶狭間合戦の後や天正10年(1582)本能寺の変の際伊賀越えの後に知多を経由して、岡崎に帰って、危機から逃れている。その際に一時逗留して、危機を回避した場所が、成岩(ならわ)、すなわち現在の半田市東郷町の浄土宗の古刹、天龍山常楽寺である。さらに、家康は、天正17年(1589)年、国許より上洛の途中で常楽寺を訪れている。

この常楽寺は、空観栄覚上人によって、文明16年(1484)当時成岩にあった天台宗の仏性寺を改宗して開かれたという。その常楽寺第八世典空顕朗上人は、家康の母方の従兄弟にあたる。すなわち、成岩は後に緒川から刈谷に進出した水野氏が勢力を伸ばした場所であり、支配の拠点である成岩城とともに、常楽寺にも水野氏の縁者を送り込んだということであろう。

成岩城は、実は偶然にも私の在勤先であるJスチール知多製造所の正門の西600mほど行った場所(半田市有楽町7丁目周辺)にあった。現在は遺構が残っていないが、地形的には、北は入江に注ぐ神戸川(ごうどがわ)となり、西は紺屋ヶ淵とよばれる堀があったし、東は今は陸地であるが、当時は海岸線であったらしく、東西三十五間(63m)、南北二百三十間(418m)の細長く広大な丘上に城はあった。つまり、成岩の集落をおさえ、海にも近い好立地であった。
城主の榎本了圓は、もともとは常滑の時宗の寺の僧であったといい、成岩の人々から慕われ、推されて城主となったという。すなわち、一揆的な地域での関連に基づく城であったようだ。その成岩城は、天文12年(1543)に於大の兄水野信元によって攻め落とされ、大府にいた水野の家臣梶川五左衛門文勝がそのあとに移った。家康が桶狭間合戦の後、成岩に身を寄せたときには梶川氏が成岩城主であり、水野の血をひく家康を成岩湊に丁重に送ったのであろう。

<成岩の天龍山常楽寺>
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<成岩城址~撮ったときにはすっかり日が落ちていた。。。>
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<成岩城址の石碑の碑文~昭和12年に当時の成岩町が建立>
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さて、永禄3年(1560)の桶狭間合戦で、徳川家康、その当時の松平元康は、大高城へ兵糧入れ・入城に成功したが、思いもよらぬ今川軍の敗北によって、かえって大高城を織田軍に包囲され、窮地に立たされた。織田軍の隙をついて、なんとか大高城からの脱出に成功した元康は、一旦於大の方の再嫁先である坂部城を目指し、そこで少しの間かくまわれたようであるが、織田方である久松氏は本来敵方である元康をかくまっていることは出来ず、元康は矢勝川を越え、岩滑(やなべ)をへて、成岩の常楽寺に入ったのである。成岩湊から、岡崎の近くまでは水路で行くことができる。おそらく、元康は血縁者のいる成岩まで来て、安堵したに違いない。元康は、無事成岩湊から船で三河に渡り、岡崎に入ることができた。この後の元康は岡崎城主に復帰し、もともとの家臣も集まって来て、今川義元のもと、駿河で味わった人質生活から解放された。一方、今川との縁を切るために、織田信長の命令で自ら正妻である築山殿や子の信康を処断するという苦汁をなめることになるが、ともかくは今川からは独立し、織田信長と同盟した大名となった。

<常楽寺の扁額>
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ニ度目に家康が常楽寺を訪れたのは、天正10年(1582)本能寺の変直後の伊賀越えの後である。
このときは、堺見物をした後、茶屋四郎次郎の急報により、本能寺の変で信長が死んだことを知った家康は、少ない人数の供回りで、山城、近江、伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、白子浜から伊勢湾を渡り、知多の常滑、成岩経由で本国三河に戻った。そのとき気が動転した家康は、知恩院で切腹しようとしたが、本多ら家臣に留められた。その際の明智勢の追及や便乗した者の動きは急であり、ひと時も気を抜けない状況であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った穴山信君は、山城で土豪の襲撃を受けて死んでいる。豪商であり、知恵者である茶屋四郎次郎の同行もあり、伊賀で所縁のある土豪らの支援を受けたとはいえ、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。不意に本能寺の変の凶報に接し、馴染みなく、険しい伊賀などの山中を越えて緊張の連続で急ぎ帰ったのであるから、白子浜から知多の常滑に上陸、常楽寺に入った時にはさぞやほっとしたことだろう。

さて、家康をシェルターの如く、危難から守った成岩の常楽寺であるが、江戸期になっても尾張徳川家の庇護をうけて殷賑を極めた。しかし、残念のことに、大正13年の火事で多くの建物が焼失した。とはいえ、国の重要文化財である阿弥陀如来像のほかに、家康から賜ったといわれる鐙と鞍も現存する。

<常楽寺の賽銭箱にある葵紋>
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ほかにも、いろいろ珍しいもの(たとえば下の亀に乗った地蔵など)があり、仏像を比較的間近に見ることができるのも嬉しいものである。

<境内にあった亀に乗る地蔵>
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<開運毘沙門天>
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実は、小生東京から在勤先に戻るとき、JRを使っていたが、新幹線では東京から名古屋市内までの乗車券となり、あとは名古屋市の範囲から東成岩までの切符となると、大高から東成岩の在来線の切符ということになる。実際に乗り換えるのは名古屋と大府であるが、「大高~成岩」というと桶狭間合戦後の家康が岡崎を目指したルートと重なるので、少しく偶然に驚いている。

次回は、家康の生母於大の方と水野家について、関連ある寺院や史跡の紹介をしようと思っている。
(実は、今回そこまで手がまわらなかったので)

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2005.11.19

再び野間の源義朝終焉の地へ

「はんだふれあい産業まつり」の本日11月19日、本来は会場である会社へまつり見物に真っ先に行くのが、社員の務め?かもしれないが、小生知多の工場在勤とはいえ、本社在籍であり、前に野間大坊の紹介をしたときの反省から、朝から野間へ行ってきたのである。その後、半田に戻って、ちゃんと「はんだふれあい産業まつり」には行った。以下の写真が証拠である(実は山車が出ないという事前情報を得ていたので、朝一番から行く気になれなかった)。

<はんだふれあい産業まつりの様子>
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前に野間大坊をご紹介したが、長田氏館址(通称「長田屋敷」)、源義朝の討たれた場所について、説明が十分でなかった。
また、使ったデジカメの画像が今ひとつ不鮮明だったので、再アップすることにする。
野間大坊は、多分源義朝を討った長田忠致らが日常的に使っていた場所ではあるが、長田氏の館そのものではなく、長田氏館は野間大坊の東へ200~300mほど離れた場所にあったらしい。現在、付近の水田や畑のなかを細い道が通っており、その道沿いの畑のなかに「長田屋敷」と書かれた、地元の史跡保存会が立てた看板がある。また、その近くには、源義朝に返り忠を行った長田忠致父子が、後に頼朝によって磔に処された後、松を目印に埋葬されたという場所もあり、「磔の松」といわれている。

<「長田屋敷」~すっかり何の変哲もない畑になっている>
osadayashiki

源義朝は、平治元年(1159)の平治の乱に敗れて東国へ落ち延びる途中、尾張国野間で、「相伝の家人」である長田忠致のもとに身を寄せる。だが、長田忠致、景致父子の裏切りによって、長田の郎党に入浴中を襲われた源義朝は「せめて木太刀にてもあらば」と悔やみながら、法山寺の湯殿で命を落としたという。なお、その法山寺は、「長田屋敷」から東へ600mほど行った、小さな山の上にあり、現在の名鉄野間駅がすぐ西側にある。その際、源義朝に従っていた鎌田正清も別の場所で討たれたという。それで、野間大坊には義朝と、その従者である鎌田正清の墓があり、義朝の墓には、その最期の伝承(「尾張名所図会」などやその影響を受けた芝居、物語で広く知られている)にちなんで木太刀が供えられている。しかし、愚管抄では、この義朝の最期について、長田に謀られて監禁され、もはや脱出不可能であるという鎌田正清の言に対して、「サフナシ、皆存タリ、此頸打テヨ」と義朝は言い、正清が義朝の首を打った上、自決したと伝えており、状況が異なっている。
実際、法山寺に行って見たが、石組みの露天風呂風の湯船は、伝承に基づいて作ったもののようだ。しかし、知多にも温泉は多く、野間周辺でも野間の病院に付随した温泉や内海にかけて海岸にある温泉、坂井温泉など温泉が出るところがあるし、法山寺にも御湯殿薬師といったいかにも温泉の効能をあらわしてくれそうな仏様がいるのだから、ここに温泉が出ていても不思議ではない。しかし、源義朝が温泉につかっていたか、どうかはさだかではなく、むしろ法山寺にかくまうと言って連れてこられ、そこで監禁されたという方が正しいように思われる。

<法山寺の湯殿址>
yudono

そもそも長田忠致とは、どんなプロフィールかといえば、伊勢国飯野郡長田庄を根拠にしていたが、知多半島へ移住したものか尾張国内海庄司となった人物で、桓武平氏ではあったが、平清盛らと同じ国香流ではなく、良茂流であったらしく、中央政界からは遠い存在であった。また源義朝の「相伝の家人」と呼ばれたように、平氏と勢力を競っていた源氏とも結びつきをはかり、何とか領地の保全、地位の向上を図ったらしい。
長田忠致は、鎌田正清の妻の父であったというから、主筋の源義朝と同時に娘婿を討ったことになる。少しはためらったかもしれないが、その後の言動を見ると、やはり手中に良い獲物が飛び込んできた、これで干されていた身にも運が向いてきたと、長田父子は思ったのであろう。一方、鎌田正清の妻となっていた長田忠致の娘はどうだったのか。伝承では鎌田正清の妻は、正清の後を追って自決した貞女となっている。しかし、実際その場所に妻がいたのかどうかも含めて、史実は不明である。
長田忠致父子は、義朝を討った手柄で、長田忠致は壱岐守に、子の景致は左兵衛尉に任ぜられた。しかし、長田忠致はこれが不満で、せめて「尾張国をも給はるべきにて候」とたびたび申し立てたというから、図々しいにも限度がある。これを清盛が怒ったという説と、周りの怒りを清盛が抑えたという説とあるようだ。父の仇として内心うらみ続けた源頼朝が、表面的には許した振りをして長田父子を利用したあげく、磔にしたというのが、一般的な伝承であるが、実際には、中央政界の平氏の怒りによって、長田父子は一旦与えられた官位を取り上げられ、首を切られそうになって内海に逃げ帰ったらしい。
そのときの様子を詠んだ平治物語記載の狂歌は、

  おちゆけば命ばかりは壱岐(生き)の守
           そのおはり(終り、尾張)こそきかまほしけれ

というもの。尾張一国をねだったために、せっかく主殺し、婿殺しまでして手に入れた壱岐守の官位も棒に振り、落ち延びて命だけは助かったが、もう終りだというような意味である。
この狂歌が、伝承のなかで尾ひれがついて、以下のようになった。

   ながらへて命ばかりは壱岐(生き)の守
           身のをはり(身の終り、美濃尾張)をぞ今ぞ賜はる

すなわち、源頼朝が平氏に対抗して関東で復活し、力をつけてきた頃、長田父子は鎌倉に赴いて頼朝に謝罪したが、頼朝は本心を隠して長田父子を許した振りをして、身命を惜しまず、平氏討伐に邁進して軍功をあげるなら、罪を許して、美濃尾張を与えると申し渡した。長田父子は、その言葉に感激して、平氏討伐で数々の軍功をあげた。これに対し、天下を平定した源頼朝は約束通り、美濃尾張(身の終わり)を与えるとして、義朝の墓前で長田父子を磔にし、亡骸を長田屋敷の裏山の松の根方に埋めたというのである。その死に際して、前述の歌が高札にかかれたとも、長田忠致の辞世であったともいう。

<磔の松と石碑>
haritsuke

しかし、これはあくまで「話」である。実際には、平氏の怒りをかった長田忠致は、野間内海の庄司としても失脚し、歴史の表舞台から姿を消す。「保暦間記」によると、後に長田忠致は捕らえられ、建久元年(1190)10月の頼朝の上洛の際に、美濃青墓で斬首されたことになっている。
この建久元年(1190)の上洛の際、頼朝は、尾張の御家人須細為基の案内で、父義朝の墓に参じている。墓が荒れ果てているかと思っていたら、意外に綺麗になっており、かつて平康頼が義朝の墓の荒廃ぶりを嘆いて整備してくれたためと知って、あらためて平康頼に感謝している。実は野間大坊自体、承暦年中白河天皇の勅願で建てられたという寺伝はあるが、実際は平康頼が義朝供養の堂宇を創建し、源頼朝が伽藍として整備したのが事実であろう。

<野間大坊にある源義朝の木太刀で覆われた供養墓>
yoshitomo

<義朝の供養墓の近くにある鎌田正清夫妻の墓>
kamata

なお、同じ場所に織田信孝の墓もあるが、今回関係ないので省略する。

<野間大坊を創建したか平康頼の墓>
tairayasuyori

<源頼朝が寄進した野間大坊の大門>
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なお、非常に分かりやすいアンチヒーローである長田忠致父子は、後世になっても狂歌の題材となった。

   主を切り聟を殺すは美濃尾張(身の終り)
           昔は長田今は山城

これは、主人である土岐頼芸らを追って、美濃の国取りをおこなった、斎藤山城守、つまり斎藤道三について歌った狂歌であるが、「主を切り聟を殺すは美濃尾張」は「昔は長田」の長田忠致の所業である。斎藤道三は主人を追放し、息子である義龍と戦ったが、そこまでのことはしていない。

ところで、野間には長田屋敷や磔の松以外にも、源義朝の最期や長田父子に関連して、いろいろ伝承が残っている。

血の池

野間大坊の大門東側にある池で、長田父子が義朝の首級を洗ったという言い伝えがある。今でも正月7日にここで国家鎮護の祈祷がおこなわれる。もしかしたら、野間大坊を城代わりに使う際に、水堀が周囲を回っていて、その一部が池のように残ったものか。

<どう見ても堀の一部のように見える「血の池」>
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乱れ橋

野間の田上と長田屋敷址の間を杉谷川という小さな川が流れているが、その橋で乱れ橋というのがある。これは、渋谷金王丸や鷲津玄光たち源義朝の郎党が、主君の危機を聞いて、この橋まで来たときに長田の郎党と乱戦になったというのが由来のひとつ。しかし、誰がわざわざ源義朝の郎党に、義朝の危機を伝えたのだろう。

<田圃のなかにある乱れ橋の碑>
midarebashi

胴塚

田上の法山寺の西の山頂に五輪塔があり、源義朝の胴塚(千人塚)と呼ばれている。長田氏が渋谷金王丸や鷲津玄光たちと戦ったときの戦死者の首を葬ったともいう。仙人塚、耳塚、古墳塚など、いろいろな呼び方があって、なぜそんなに別名があるのか、よくわからない塚である。

<源義朝の胴塚と伝承される塚>
senninduka

(最後に・・・)
長田父子のような話は、源平の頃だけでなく、鎌倉時代以降、特に戦国時代においてもよく聞かれた話である。人の世の愚かしさ、罪深さは、時代を経ても変わらないものか。しかし、かつての殺伐とした話の舞台とは思えないように、野間の里はのどかである。

<法山寺のある山の麓から乱れ橋方面を見る>
midarebashi-enkei

<<参考文献>>
 『美浜町誌』  愛知県南知多郡美浜町 (1983)

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2005.11.15

船橋の寺町周辺の石仏たち

船橋は、市役所の北東、本陣書店や中央図書館のある本町通りの南側の、かつての海岸近くの一帯が寺町と言われるように寺が集まっていたり、意外に仏様に縁のある所である。

<本町通りを南に入った街並み>
teramachi

実は、その寺町という、かつて九日市といわれた市街地に、特徴のある仏様がいるので紹介しよう。
まずは因果地蔵。因果と漢字で書くが、「えんが」と呼ぶ。「い」が「え」に訛る千葉弁であるが、「いんが」とそのまま発音するより、がありそうで良いかもしれない。
この因果地蔵があるのは、本町通りを南側へ川奈部書店の角を曲り、さらにその道を右側に路地を入ったところにある、海岸山圓蔵院という寺である。海岸山というくらいであるから、かつては海岸であったのであろう。願い事が叶うことで知られる石造地蔵尊が山門を入ったお堂の中にあり、願い事をかなえてくれる地蔵尊ということで受験シーズンなどは賑わうとか。なぜ因果という名前がついているかというと、侍女を強盗に殺された主人が、「何の因果で」と悲しんで立てたとか諸説あり、よく分からない。400年はたっている古い地蔵尊で、永禄元年(1558)に海から上がったとも言われており、昔は漁民達が漁の安全を祈ったとされている。また、江戸時代、船橋宿にいた、俗に「八兵衛」と呼ばれていた遊女が薮入りの際に、この地蔵にだけはまいることが許され、くつろぐ場所になっていたという。
写真を改めて見て気づいたが、堂の前にある二本の柱が釈杖の形をしているのが面白い。

<因果地蔵の圓蔵院>
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<圓蔵院の地蔵堂>  *2005/11/16追加
enga

また、この圓蔵院の近くに不動院という寺がある。ここは、船橋市の無形民俗文化財となっている飯盛り大仏で有名であるが、その由来は悲しい話である。船橋浦の漁場をめぐって、船橋の漁師と近隣の浦安、葛西辺りの漁師はたびたび紛争となった。船橋浦は三番瀬など、江戸前の恰好の漁場で、密漁も多く、漁業権を主張する船橋の漁師と周辺地域の漁師がよく争い、海上で争うことも多かった。特に文政7年(1824)には、一橋家御用の幟を押し立てて来た葛西の漁師と、船橋浦を守ろうとした船橋の漁師が衝突し、葛西の船に乗っていた一橋家の侍を船橋の漁師が殴ったことから大事となり、船橋の漁師惣代3名が入牢させられ、そのうち仁右衛門、団次郎の2名が獄死もしくは出牢後に病死した。その80年ほど前の延享3年(1748)津波の被害で落命した漁師たちの供養とあいまって、その牢の中で飯も満足に食べられなかった漁師惣代の苦労を偲んで、文政8年より大仏の顔に正月28日に飯を盛ることが年々続けられ、今日に至っている(明治以降は2月28日に飯盛りをする)。その大仏は、石造の釈迦如来像であり、不動院の門前にまつられ、いつも近隣の人の手によってか、花が供えられている。

<不動院の飯盛り大仏>
hudouin0

なお、この不動院の南にある覚王寺には竜神をまつる龍王堂がある。龍王堂の本尊は難陀龍王という八大龍王の一柱で、やはり海の守護神として漁師町の人の信仰を集めた。この龍王堂はなかなか立派で、彫刻も良くできている。ただ残念なことに、龍王堂は現在補修中である(船橋市のHPの文化課の頁に綺麗な写真あり)。ここにも、新しいが地蔵があったので、撮影した。ただ、どうみても、石仏ではありませんな。

<龍王堂をバックにたつ地蔵>
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また、寺町からは離れているが、本町通りの北、御殿地の西側の道祖神社には、愛染明王像がある。これは、石仏としては珍しい部類かもしれない。よく、女人信仰の対象になったと聞く。他にも染物屋さんとか水商売の人とかも。下の写真左が愛染明王で、その右横にあるのは、馬頭観音である。

<珍しい愛染明王の石像(左)>
aizenmyoo

さらに、船橋のかつての宿の西のはずれには、西向地蔵尊というのがある。これは、西方浄土に向いているというよりは(もちろんそういう意味はあろうが)、宿場の西はずれでお仕置き場があったという跡で供養のためにたてられたものらしい。宿のはずれには、お仕置き場とか遊郭があることが多いが、船橋も例外ではない。

<西向地蔵尊>
nishimukai

ほかにも、寺町は浄勝寺のお女郎地蔵とかあるのだが、後日紹介する。もう少し伝承などが調べられたらと思うこのごろである。

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2005.11.12

犬山城主成瀬氏と船橋

犬山城についてはすでに「犬山城は日本の名城」の項で書いたが、その城主成瀬氏は、船橋と所縁がある。
犬山城主となった成瀬氏と船橋との関わりは、犬山城主初代の正成の代から始まる。成瀬正成は徳川家康の側近であったが、天正18年(1590)に家康が豊臣秀吉によって関東に移封された際、栗原郷といわれていた現在の船橋市西部の四千石の所領を与えられた。成瀬正成は、能力のあった人物であったらしく、関ヶ原の合戦で軍功をあげ、堺の行政官としても業績をあげた。その功績に対して、甲斐で2万石、三河で1万石を与えられ、大名に列する。しかも、後の老中に相当する年寄り衆に慶長12年(1607)から元和2年(1616)の9年間任ぜられた。

<木曽川沿いの道から見た犬山城>
inuyamajyo

ところが成瀬正成は、元和3年(1617)、徳川家康の九男義直が尾張徳川家を興したときに、家康に懇願されて付家老となった。これによって、将軍側近の譜代大名であった立場から、将軍家からみると陪臣となる。家康存命の頃や秀忠、家光が将軍であった頃には、成瀬氏と徳川家康の近しさ、正成の業績を知る人も多く、正成やその子の正虎は、大名でなくともそれなりに処遇されていた。しかし、後世になると、陪臣扱いが顕著になっていく。つまり3万石以上の所領をもちながら、大名ではなくなったことが、後の成瀬家に影を落すのである。
成瀬正成は、家康の有能な部下であったがゆえに、普通の大名で生涯を終えることができなかった。そのアイロニーは、正成の次男之成が将軍秀忠の小姓として千石を与えられていたのに、正成が犬山城主となったときに、正成の所領の一部である栗原郷四千石と三河の一万石を譲って、之成が大名となったことにも現れている。つまり成瀬本家は尾張徳川家の付家老、之成の栗原成瀬家は大名となったのである。
その後、正成は寛永2年(1625)に江戸で没し、船橋の宝成寺で荼毘にふされた。さらに、日光の家康の廟近くに埋葬された。その犬山の家督は長男正虎が継ぎ、以降連綿として明治維新を迎える。

<船橋の宝成寺>
houseiji

<宝成寺の成瀬家墓地~大きな石塔が犬山城主七代正寿の墓>
masatoshi

一方、栗原の成瀬之成は寛永11年(1634)に39歳で亡くなり、家督はわずか1歳の之虎が継いだ。その之成の亡くなった際に、平野宇平次、青木右源太、藤村仁右衛門の3名が殉死している。幼くして家督を継いだ之虎も、4年後に病死し、他に男子がなかったため、栗原成瀬家は断絶した。ただ、船橋の宝成寺は、成瀬氏の江戸における菩提寺のひとつとして存続し、現に7代城主の墓もある。
現在も船橋の宝成寺には之成、之虎、之成夫人と殉死した3名の墓がある。そして犬山成瀬家の7代正寿(まさなが)の墓もあるが、これは3m以上ある大きなもので墓としては県内最大級のものという。殉死した家臣の墓が主君と同じ場所に建立されるのは極めてめずらしく、また之成の墓の裏面には三人の殉死者の名前が刻されるなど異例のことである。よほど、成瀬家はオープンマインドであったのか。それにしても、殉死とは現代に生きる我々には想像しにくいことである。忠誠心だけでなく、家名をあげるとか、いろいろな思惑があったのかもしれないが。なお、之成の墓や殉死者の墓のところに全国成瀬会と書いた卒塔婆があったが、全国成瀬会とは何だろう?
全国の成瀬さんの親睦団体か、それとも犬山成瀬家ゆかりの人々?

<之成の墓~駒形のもの>
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<之成の墓の裏~殉死三人の文字あり>
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宝成寺の近く、京成西船駅の北側道路沿いに成瀬地蔵という地蔵がまつられている。いわれとしては、成瀬之成が宇都宮の釣り天井事件に連座して切腹し、その菩提を弔うためとか、近郷の早世した子供の冥福を祈るためとか、伝承にも諸説あるらしく、はっきりしない。ただ、成瀬地蔵というからには、成瀬家の遺風を懐かしむ何かがあったのであろう。

<成瀬地蔵>
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2005.11.11

犬山城は日本の名城

犬山城は木曽川の右岸崖上、端正な天守閣が聳える日本の名城である。彦根城、姫路城、松本城とともに、国宝に指定されているが、そのうちで最古の城である。犬山城は天文6年(1537)に信長の叔父、織田信康によって築城されたというが、現存する天守閣は兼山城の天守閣の部材で建造されたというから、慶長年間(1600年頃)の建造と思われる。

<木曽川上の犬山橋から望む>
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<木曽川沿いの道から>
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<旅館街から>
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犬山城は別名白帝城といい、比較的小さな城でありながら、木曽川沿いの低地から眺める姿など美しく、さすがに国宝に指定されるだけのことはある。犬山城が他の有名な城と異なるのは、個人の持ち物、具体的には尾張徳川家の附家老をしていた成瀬氏のものであることである。その成瀬氏の先祖、成瀬正成が尾張徳川家の始祖徳川義直の尾張入りに際して、平岩氏に替わって、義直の守役となり、三万五千石の犬山城主となったのが、元和3年(1617)であった。以来、代々の成瀬氏が城主となり、明治の廃藩置県を経て、明治24年(1891)の濃尾震災で天守閣東南角の付櫓などが壊れ、修復することを条件に再び成瀬氏の所有になって以降、現代にいたるまで犬山城は成瀬氏が所有してきた。
その成瀬氏と船橋は、実は関係がある。西船橋にある宝成寺は、犬山城主成瀬氏の江戸在勤時における菩提寺だったようで、寺には成瀬氏所縁のものがいろいろある。大きな墓があるだけでなく、寺の什器などにも。

<犬山城の門>
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<犬山城の天守閣>
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<天守閣内の武者隠し>

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さて、犬山辺り、濃尾平野の奥の犬山から各務原にかけては、古くから開けていたらしく、大きな古墳もある。実は、先日11月6日(日)に犬山に行ったのも、東之宮古墳のシンポジウムが犬山の国際観光センター、フロイデであったからである。東之宮古墳は犬山の白山平(はくさんびら)の山頂にあり、多くの鏡や鉄剣などの副葬品が出土した貴重な遺跡であり、国の史跡に指定されている。山の麓に位置する妙感寺古墳とともに、付近を治めていた王の墓であるという。予定では、シンポジウムは、朝の10時から夕方16時までであったが、犬山城にも行きたかった私は、シンポジウムの方は昼過ぎで切り上げ、雨のなかを犬山城に向ったのである。なお、シンポジウムは無料で予約も不要、犬山市長やそうそうたる学者の人が出ているのにである。また、ずうずうしい私は、パンフレットを2部貰ってきたし、なんと犬山の皆さんは太っ腹なんだろう。

<東之宮古墳シンポジウムの様子>
IMG_0631

それはともかく、犬山城は何度来ても美しい。夕暮れの木曽川に天守閣が映える美しさを、犬山遊園方面から、鵜沼から何度となく見てきた。それだけでなく、内部に入ったものしか分からないが、天守閣の階段が急なのも変わらない。よく、昔の人はこんな階段を上り下りしていたものだ。コント仕立ての古い時代劇などで、階段から落ちるシーンがあったが、やはり本当に転げ落ちた人もいたのだろうか。

<天守閣 近影>
inuyama4

<天守閣から木曽川を見る>
inuyama02

<同、ツインブリッジ方面>
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2005.11.06

知多半島、武豊から常滑と野間へ

「振り出しに戻る」、「元の木阿弥」というと表現が悪いが、鉄鋼メーカーJ社のシステム統合で一仕事終えて、J社の前身であるK社に入社した後の初任配属の地である、愛知県は知多半島に、一時的にせよ舞い戻ってきた小生は、早速昔の(20数年前のであるが)土地勘で、知多半島でも休みに良く行っていた常滑、そして野間に行ってきたのであった。
まず土曜日の朝、車を飛ばして常滑のスカイラークという喫茶店(外食チェーンの「すかいらーく」とは全く関係なく、昔からそういう名前)に行き、20数年振りにそこでコーヒーを飲んだ。東京生まれで、東京西部の学校を出た私には、知多の喫茶店のコーヒーで口にあうのは、この店のものくらいしかなく、住んでいた武豊町から自然と通うようになった。昔住んでいた寮は既にないが、今は近くの別の寮にいて知多の工場に在勤している。そして、武豊から常滑へと、かつてのルートで、その喫茶店に行ったのである。しかし、20数年振りに行ってみると、かつての店構えと少し変わり、2階は使っておらず、「名古屋名物あんかけスパゲティ」が売り物の店になったいた。
昔の感傷を振り切るように、一路南下し、野間へ行った。野間は、野間大坊と灯台で有名な場所である。野間の灯台には、夜でも良く行った。

<野間の海岸>
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その灯台にちなんで、野間の町には灯台ラーメンという店もあり、実際店の駐車場の一角に灯台を模した宣伝用の塔が立っている。実は灯台ラーメンと野間大坊は、すぐ近くだということを、ずっと忘れていたが、行ってみて思い出した。昔は野間大坊の門のところに、路上駐車していたのだが、今は道路もきれいになり、そうするのは憚れる(第一交通違反だ)ので、信徒会館の駐車場に車を止めた。
野間大坊の建つ野間の地は、源義朝が暗殺された場所で、その義朝を裏切り湯殿で討った張本人である長田忠致の館址も野間大坊にほど近い所にあったことで有名である。そういう意味では、野間大坊付近も中世の武士の館址の延長なのだが、例によって、遺構らしいものが残っていない。野間大坊の門の両側に土塁痕のような、土盛もあるのだが、多分ただの境界土手址であろう。

<野間大坊の門:源頼朝が寄進したもの>
nomataibo

<源義朝の墓>
nomataibo2

ここには、桃山城の客殿の一部を移築した建物がある。それは本殿であるが、県の指定文化財だそうで、ただの田舎の寺ではないと自己主張しているようだ。だが、元は鎌倉時代以前の武士の館に近接した、長田氏にとっては庭のような場所であったのが、源義朝の供養のためか真言宗の寺となったのである。実際本堂へ行ってみると、何やら加持祈祷をしている。そういえば、境内にはマニ車というものがあって、回すとそれだけ経文をよんだことになるそうだ。知多には、他にも古刹といえる寺があるのであろうが、私の知る限りでは、野間大坊が一番古刹らしい。そのうち、寺に行っているのに不謹慎なのだが、寮の部屋で酒を飲むときに、ぐい呑みがあればと思っていたことを思い出した。

<桃山城から移築した本殿>
nomataibo3

<何やら祈祷もしています>
nomataibo1

野間やもっと先の内海でも探したが、ぐい呑みを売っている店がないようで、やはり常滑に戻るしかないかとまた常滑へ行ったのである。常滑でも、植木鉢を専門に扱っている店などあり、大きい店構えだからといっても、ぐい呑みのような酒器や茶器を扱っているかどうかは分からない。実は、最初はいった店には、安い大きな品物ばかりで、作家物のぐい呑みもあったが、気に入ったものはなかった。
常滑は知多半島の西側中央部にあたり、今でも常滑焼の工場の四角い煉瓦作りの煙突が建ち並ぶ、風光明媚な所である。ここには、常滑焼の散歩道という観光スポットがあって、道沿いに常滑焼の工場やギャラリー、展示場、登り窯などあるが、観光客に混じって少し歩いてみた。以前、知多にいた頃は、陶磁器には興味がなく、常滑の町をゆっくり歩いてみたこともなかった。そういう場所があること自体、よくわかっていなかったのである。

<常滑風景>
tokoname1

<散歩道で>
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<登り窯>
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散歩道の途中で、ガラスケースにぐい呑みと茶陶(水差し)を飾ってあった家があった。そこで、しばらく立ち止まっていると、中から年配の男性が出てきて、いらっしゃいと言う。家の土間にはなぜか工具やいろいろな物が散らばっており、また工事もしていて騒々しく、正直ここでぐい呑みを買う気は余りなかった。ぐい呑みを探している旨を言うと、中にもあるからと私を誘い、ガラスケースのなかのぐい呑みを全部出して、家の中にあるテーブルに置いた。好きなものを選んでくれという訳である。男性は「猪飼です」と名乗り、それらは自分が作陶したもので、陶芸家であるという。普通の、そこらにいる初老の男性のように見えるのだが。なるほど、この人を写した、四つ切くらいに引き伸ばし、いかにも写真家が撮ったような写真が飾ってある。また、自分の経歴書をくれたが、それによればいろいろな展覧会で入選したようなことが書いてある。
猪飼さんは、ぐい呑みをいくつか選び、それぞれにお茶をついで、飲み比べてみてくださいと言う。ぐい呑みは、いずれも肉厚で黒か茶の釉がかかっている。光に反射するので、何の薬をかけているか聞くと、鉄釉だという。鉄屋なのだから、鉄釉のかかったぐい呑みで飲むのは、ピッタリではないか。
後で寮に帰って渡された経歴書をじっくり見ると、以下のようであった。

「一友窯 猪飼眞吾  (その次に住所と電話番号)
陶暦
昭和十五年二月 愛知県常滑市に生まれる
(略)
昭和四十六年 江崎一生先生の指導を受け作家活動を始める
(略)
昭和五十年   (略)
          東海伝統工芸展入選
          朝日陶芸展入選
          (略~入選多数のようだ)
昭和五十一年 谷川徹三先生に知遇を受ける
          東京南青山グリーンギャラリー個展
          (以下略)                」

なるほど、ちょっとした陶芸家ではないか。買ったぐい呑みも、ごろっとした感じで、重量感があって手になじみ、なかなか良いのである。やはり、このぐい呑みを買って良かった。

<猪飼眞吾作のぐい呑み>
tokoname5

 

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