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2005.11.24

徳川家康と知多半島(その3:岩滑城の中山氏)

11月23日(水)は勤労感謝の日、東海地方は天気が良くて、行楽客が大勢繰り出していた。岐阜県多治見市にたまたまいた小生も、虎渓山永保寺に行って、綺麗な紅葉の写真をたくさん撮ったのであった。また、多治見でも農業祭をやっていて、会場となっていたセラミックスセンターだったかな?とJR多治見駅をシャトルバスで参加する人のピストン輸送をしていた。さる11月20日(日)の「はんだふれあい産業祭り」も、会場が前日のJFEスチールから半田運動公園となって、農産物、農機具の販売など地元農業関係の団体が中心の内容となっていた。そうはいっても、国際色豊かに海外の物産販売などもしており、半田も変わっていくのである。

<はんだふれあい産業祭り2日目の一コマ>
sangyou

前置きはそのくらいにして、徳川家康が桶狭間の合戦後、大高から生母於大の方のいた坂部(今の阿久比町)に入って、矢勝川を越えて岩滑(やなべ)を通り、成岩の常楽寺に逗留後、水路三河に帰ったことは、「徳川家康と知多半島(その1:成岩の天龍山常楽寺)」で述べた通りである。

阿久比町を南下し、矢勝川を越えると、現在の半田市の北端である岩滑(やなべ)となる。ここは「ごん狐」などの童話で有名な新美南吉が生まれた場所であり、新美南吉の生家などが残っている。「ごん狐の森」などもあり、半田の一つの文化エリアになっている場所である。

<新美南吉の生家~常夜灯のある街道の交点にあり、南吉は大正2年この家で生まれた>*2005.12.11追加
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<南吉生家近くの常夜灯>*2005.12.11追加
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<矢勝川沿いの公園にある新美南吉作品「ごんごろ鐘」の石碑>
nannkichi

実は、この岩滑も徳川家康と縁があり、於大の方の妹、つまり家康からみると叔母が、岩滑の中山刑部大輔勝時に嫁していた。中山勝時の居城は、岩滑城で、今では遺構が残っていないが、現在成岩の常楽寺と同じ浄土宗(それも西山浄土宗)であり、名前も似ている甲城山常福院という寺院やその東の八幡神社のある場所にあったという。その常福院や八幡神社のある場所は、かつて城山と呼ばれ、県道264号線の西側のやや小高い丘になっており、北に矢勝川を臨む立地となっている。常福院の山号「甲城山」も、その城山に由来するのであろう。
常福院の門を出て南側を東に県道のほうへ降りる道は、かつての堀址か城道であろうか。八幡神社の境内も、遺構はないが、城址の面影を残すようである。
なお、常福院は新美南吉の童話「ひよりげた」の舞台となった場所で、新美南吉が植えた大きな蘇鉄がある。また、どういう由来か私にはわからないが、役の行者の石像がまつられている。

<甲城山常福院>
jyohukuin

<常福院に残る南吉が植えた蘇鉄>
sotetsu

<常福院境内の役の行者石像>
ennnogyojya

その中山氏であるが、いつの頃からか岩滑の領主となり、おそらく中山勝時の代あたりで、地理的な関係で水野氏の配下となったと思われる。実は「ごん狐」に出てくる「中山様というおとの様」は、その中山勝時がモデルとのことである。そして「ごん狐」自体、近くにある権現山の狐を省略して、「権狐」→「ごん狐」となったという説がある。*2005.12.11付記:筆者は権現山が東照大権現(すなわち徳川家康)に関係あるものと思っていたが、山頂にある「権現さん」と呼ばれる五郷社から権現山と呼ばれているそうである(新美南吉顕彰会資料より)
桶狭間の合戦後、岡崎を目指して強行軍であった家康は、岩滑で少し休憩しただけかもしれない。天正10年(1582)の本能寺の変後の危機については、伊賀越えの後、伊勢の白子浜から海路常滑に上陸した家康一行に対し、中山勝時の子、勝尚(家康からみると従兄弟)が家臣25騎を率いて駆けつけたという。身内の支援で、大いに意気が上がったであろう。かくして、家康は常滑を板山街道を通って半田に出て、常楽寺に立ち寄った後、岩滑湊から三河へ渡った。その中山勝尚が家康の元に馳せ参じた時には、すでに父勝時は二条城で戦死していた。

<城址の面影を残す八幡神社境内>
hachimannsha

<かつての城道か、常福院門前から県道へ続く~右側に南吉のはなれの家址あり>
shiromichi

なお、岩滑には、桶狭間の合戦後、三河の岡崎をめざして、知多半島を南下していた家康が、岩滑を通った時のエピソードとして、面白い話が伝わっている。
知多半島に生せんべいという、京都の生八つ橋のような御菓子があるが、この起源が家康と関わりあるというのである。つまり、永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、岡崎をめざす家康が知多半島を南下している途中、岩滑でとある百姓家で休息をとったとき、たまたま食した生のせんべいの味が気に入り、それがきっかけで生せんべいをつくるようになったというのである。生せんべいの製造・販売をしているのは、生せんべいの田中製菓(半田市)と、総本家田中屋(半田市)という会社であるが、両社のHPにそのような内容が書かれている。

桶狭間合戦の後という危急のときに、家康が駆け抜けた矢勝川。桶狭間合戦の後と本能寺の変の後、その家康を助けた、坂部から見ると川向うになる、岩滑の中山氏。今も川はゆたかに流れているが、その矢勝川にかかる高田橋の上を通勤の車などがせわしなく行きかっている。

<矢勝川から岩滑城址方面を望む>

yakachigawa

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