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2005.11.30

徳川家康と知多半島(その4:緒川の宇宙山乾坤院)

前回まで、半田からなかなか出なかったが、阿久比町へ行く前に緒川町へと飛ぶ。なぜなら、徳川家康の生母於大の方について、もう少し話をしなければならないが、それには阿久比の久松家に再嫁した話からではなく、緒川で於大の方が生まれたところからでないと、順序としてうまくいかない。
於大の方は、享禄元年 (1528 ) に現在の愛知県知多郡東浦町の緒川という場所で生まれた。父は緒川城主水野忠政で、母は於富の方という。於大の方の父、水野忠政の代には緒川付近から刈谷にも勢力を伸ばし、於大の方6才の時には城を刈谷に築いて家臣団とともに移り住んでいる。水野氏は、戦国時代に東は三河の知立から、西は知多半島は河和あたりから常滑にかけて、広大な地域を支配下に置いた。それは同時に、水野氏の支配圏が東は駿河の今川、西は尾張の織田という強大な勢力にはさまれた形であることを意味した。東西を今川、織田の両雄に挟まれたのは松平氏も同じである。松平氏は家康の祖父、清康の代に三河のほとんどを平定するに至り、実に水野忠政はその妻、すなわち於大の方の母、於富の方を離縁し、清康に差し出す政略結婚を行っている。
さらに、松平氏は清康が天文4年(1535)の12月5日織田信秀を攻めるために守山に布陣していたおり、家臣の阿部弥七郎に殺害されるという、いわゆる守山崩れでなくなって、広忠がその跡を継いだが、家臣の離反が相次ぎ家運は衰退していった。天文10年 (1541)、その松平広忠に、於大の方は嫁がされた。翌年、竹千代、後の家康が誕生するが、父松平広忠は幼い竹千代を人質として今川に差し出し、その今川方の前線で何とか家名を保つことになった。
では、なぜ衰退しゆく松平氏に於大の方は嫁がされたかといえば、近隣の豪族同士ということもあるが、やはり松平氏の後ろに今川氏がいて、その今川と松平を通じてよしみを結ぶという政略があってのことであろう。於大の方とその母、於富の方という親子2代にわたり、水野氏と松平氏は政略結婚で結ばれた間柄ということになる。

<於大の方を中心とした水野家系図>
odaikeizu

<於大の方略年譜>
年  号 (西暦) 事         歴
享禄元年 (1528 ) 緒川城主水野忠政の娘として緒川にて生まれる。母は於富の方(華陽院)
天文元年 (1533) 三河のほとんどを平定した岡崎城主松平清康から求婚された於富の方(母)は、
           水野忠政に離縁されて松平清康と再婚。
天文2年  (1533) 刈谷城(現在の亀城公園)が完成し、水野氏家臣団を連れて移る。
天文10年 (1541) 於大の方岡崎の松平広忠のもとへ嫁ぐ。広忠16歳。
天文11年 (1542) 於大の方が竹千代(徳川家康)を生む。
天文12年 (1543) 於大の方の父忠政が逝去。於大の方の兄信元が相続する。
天文13年 (1544) 刈谷城主水野信元が今川方を離れ織田方についたため、今川方の松平広忠は於大の方を離別する。
天文14年 (1545) 於大の方この頃椎の木屋敷(現在の刈谷市銀座6丁目)に住む。
天文16年 (1547) 於大の方知多郡阿久比城主久松佐渡守俊勝と再婚。後に3男をもうける。
天文18年 (1549) 於大の方の前夫松平広忠逝去。
永禄3年  (1560) 於大の方の母華陽院逝去。桶狭間の戦い、今川義元敗死。以後織田信長の勢力 が急激に伸展。
            松平元康(後の徳川家康)は大高城を脱出、知多半島から三河、岡崎へ帰る。
天正10年 (1582) 本能寺の変、織田信長が殺される。 変後、堺にいた徳川家康は「伊賀越え」をし、岡崎へ戻る。
天正10年 (1582) 於大の方夫久松俊勝逝去。
天正16年 (1588) 髪をおろし伝通院と号す。
慶長5年  (1600) 関ケ原の戦、徳川氏政権が確立される。
慶長7年   (1602) 於大の方伏見城にて逝去、寿経寺(後の伝通院)へ納骨される。

この於大の方の生家、水野家はどういう出自かといえば、於大の方の父、忠政の代には緒川城主であったのだから、忠政より数代前には緒川に定着していたと思われる。それ以前については、江戸時代大名となった水野氏が幕府に提出した系図以外に確たる資料がなく、はっきりわからない。これは、徳川家康の祖父、松平清康以前の松平氏について、明確にわからないのと同様である。
水野氏は忠政の曽祖父にあたる貞守の代に緒川(小川、あるいは小河とも書く)に復帰、これを領邑としたといい、水野貞守は南北朝期の延文5年(1360)に小河の地で守護土岐氏に攻められて滅亡した小河氏の末裔で、小河氏は一時春日井郡水野(今の愛知県瀬戸市中水野)に退転しており、そのため水野氏を名乗ったという。しかし、水野氏が鎌倉時代以来の土地の名門であった小河氏の子孫かどうかは確証がなく、元は春日井郡水野にいた水野氏が、何らかの縁故で緒川に来て土地の名家の名跡を継いだか、勝手に名乗った可能性がある。

その水野貞守が文明7年(1475)に創建したというのが、曹洞宗中本山である古刹、宇宙山乾坤院で、その乾坤院には「水野先祖御判物写」という文書があり、水野氏先祖の小河氏を小河村地頭職に補任した鎌倉幕府政所下文や足利尊氏の感状など 小河氏の事跡を物語る資料を写したものであるという。また、水野氏は勢力下におさめた諸氏を自らが帰依した曹洞宗に改めさせて支配力の強化をはかったという。

<乾坤院本堂>
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乾坤院の寺伝によれば、
「当山は、室町時代中期の文明7年(1475)に緒川城の守護を目的に初代城主 水野貞守公の寄進によって、川僧慧済が開山した。以来、代々水野家の菩提寺であり、江戸時代を通じて尾張徳川家より禄を下されるなど、厚い庇護を受けてきた。四代目水野忠政公の息女で、徳川家康の生母である於大の方(伝通院)からも、三里四方の山林を寄進されたと伝わっている。明応9年(1500)から明治7年までは輪番制度をとっていたが、以降は今日に至るまで独住制を継承。現在は直門六十一ケ寺、門葉寺院総数五百余ケ寺を有する曹洞宗の中本山をいただいている。明治初頭の廃仏毀釈、第二次世界大戦、伊勢湾台風の大被害から復興を果たし、今日、境内は二万坪におよび、松・杉の森を背景にした七堂伽藍(文化財)は整然として古格を表し、清浄境の趣を呈している。また禅寺の根源となる座禅道場や寺院に隣接する於大公園は一般に開放され、多くの人々に親しまれている。」 とのことである。

実は、乾坤院と水野氏の深いかかわりを示すものとして、乾坤院の総門があり、これは水野氏が城主であった緒川城の城門を移築したものである。また、乾坤院の本堂の裏にある堅雄堂は、於大の方の弟忠守の孫である岡崎城主水野忠善が寛文10年(1670)に曽祖父忠政の御霊屋として建立した、祖霊供養のための御堂である。その堅雄堂の西隣には於大の方の父、水野忠政の墓がある。さらに西側には於大の方の弟忠守、その子忠元、孫の忠善の五輪塔の墓が並んでいる。

<乾坤院の総門~緒川城の門を移築>
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<堅雄堂>
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<於大の方の父、水野忠政の墓>
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<於大の方の弟、水野忠守、その子忠元、孫の忠善の墓>
tadamoritadamasatadayosi

於大の方の異母兄である水野信元は、忠政のあとをうけて、積極的に知多半島へも進出した。成岩の成岩城を攻落としたのも水野信元である。そのころ、乾坤院は水野一族からの寄進を受けて、諸堂を整備したり、経済的安定を得た。しかし、水野信元の領民が甲斐の国に物資を送ったことから、信元が武田氏に内通したとの嫌疑により、天正3年(1575)織田信長の命で岡崎で誅されるにおよび、水野氏の緒川支配は一時中断した。乾坤院も太閤検地などで寺領を失って荒廃した。
その乾坤院がかつての隆盛を取り戻すのは、文禄3年(1594)刈谷城主となった水野忠重の寄進や関ヶ原合戦後に緒川を領有した水野分長の寺領三十一石七斗の寄進、山屋敷の領有権安堵という水野一族の尽力によってである。さらに、緒川が尾張徳川家の領地となった江戸時代も、 於大の方の実家の菩提寺である乾坤院は、於大の方、家康の血を引く尾張徳川家の庇護を受ける。
すなわち、寺領は黒印地として領有を認められた。江戸時代の乾坤院は、唯一の檀家水野氏の菩提寺として、尾張・三河・遠江に六十一ヶ寺の末寺を擁する曹洞宗中本山となったのである。 なお、堅雄堂を建てた水野忠善の子孫に、老中となった水野忠邦がいる。

さて、次回からは緒川から、知多半島をでてしまうが刈谷に目を転じ、さらに知多の阿久比町に戻ることにする。

<乾坤院の山門>
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参考文献

・宇宙山乾坤院発行資料
・広報ひがしうら 2004年4月1日号
・愛知県刈谷市ホームページ

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