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2005.11.19

再び野間の源義朝終焉の地へ

「はんだふれあい産業まつり」の本日11月19日、本来は会場である会社へまつり見物に真っ先に行くのが、社員の務め?かもしれないが、小生知多の工場在勤とはいえ、本社在籍であり、前に野間大坊の紹介をしたときの反省から、朝から野間へ行ってきたのである。その後、半田に戻って、ちゃんと「はんだふれあい産業まつり」には行った。以下の写真が証拠である(実は山車が出ないという事前情報を得ていたので、朝一番から行く気になれなかった)。

<はんだふれあい産業まつりの様子>
handafureai

前に野間大坊をご紹介したが、長田氏館址(通称「長田屋敷」)、源義朝の討たれた場所について、説明が十分でなかった。
また、使ったデジカメの画像が今ひとつ不鮮明だったので、再アップすることにする。
野間大坊は、多分源義朝を討った長田忠致らが日常的に使っていた場所ではあるが、長田氏の館そのものではなく、長田氏館は野間大坊の東へ200~300mほど離れた場所にあったらしい。現在、付近の水田や畑のなかを細い道が通っており、その道沿いの畑のなかに「長田屋敷」と書かれた、地元の史跡保存会が立てた看板がある。また、その近くには、源義朝に返り忠を行った長田忠致父子が、後に頼朝によって磔に処された後、松を目印に埋葬されたという場所もあり、「磔の松」といわれている。

<「長田屋敷」~すっかり何の変哲もない畑になっている>
osadayashiki

源義朝は、平治元年(1159)の平治の乱に敗れて東国へ落ち延びる途中、尾張国野間で、「相伝の家人」である長田忠致のもとに身を寄せる。だが、長田忠致、景致父子の裏切りによって、長田の郎党に入浴中を襲われた源義朝は「せめて木太刀にてもあらば」と悔やみながら、法山寺の湯殿で命を落としたという。なお、その法山寺は、「長田屋敷」から東へ600mほど行った、小さな山の上にあり、現在の名鉄野間駅がすぐ西側にある。その際、源義朝に従っていた鎌田正清も別の場所で討たれたという。それで、野間大坊には義朝と、その従者である鎌田正清の墓があり、義朝の墓には、その最期の伝承(「尾張名所図会」などやその影響を受けた芝居、物語で広く知られている)にちなんで木太刀が供えられている。しかし、愚管抄では、この義朝の最期について、長田に謀られて監禁され、もはや脱出不可能であるという鎌田正清の言に対して、「サフナシ、皆存タリ、此頸打テヨ」と義朝は言い、正清が義朝の首を打った上、自決したと伝えており、状況が異なっている。
実際、法山寺に行って見たが、石組みの露天風呂風の湯船は、伝承に基づいて作ったもののようだ。しかし、知多にも温泉は多く、野間周辺でも野間の病院に付随した温泉や内海にかけて海岸にある温泉、坂井温泉など温泉が出るところがあるし、法山寺にも御湯殿薬師といったいかにも温泉の効能をあらわしてくれそうな仏様がいるのだから、ここに温泉が出ていても不思議ではない。しかし、源義朝が温泉につかっていたか、どうかはさだかではなく、むしろ法山寺にかくまうと言って連れてこられ、そこで監禁されたという方が正しいように思われる。

<法山寺の湯殿址>
yudono

そもそも長田忠致とは、どんなプロフィールかといえば、伊勢国飯野郡長田庄を根拠にしていたが、知多半島へ移住したものか尾張国内海庄司となった人物で、桓武平氏ではあったが、平清盛らと同じ国香流ではなく、良茂流であったらしく、中央政界からは遠い存在であった。また源義朝の「相伝の家人」と呼ばれたように、平氏と勢力を競っていた源氏とも結びつきをはかり、何とか領地の保全、地位の向上を図ったらしい。
長田忠致は、鎌田正清の妻の父であったというから、主筋の源義朝と同時に娘婿を討ったことになる。少しはためらったかもしれないが、その後の言動を見ると、やはり手中に良い獲物が飛び込んできた、これで干されていた身にも運が向いてきたと、長田父子は思ったのであろう。一方、鎌田正清の妻となっていた長田忠致の娘はどうだったのか。伝承では鎌田正清の妻は、正清の後を追って自決した貞女となっている。しかし、実際その場所に妻がいたのかどうかも含めて、史実は不明である。
長田忠致父子は、義朝を討った手柄で、長田忠致は壱岐守に、子の景致は左兵衛尉に任ぜられた。しかし、長田忠致はこれが不満で、せめて「尾張国をも給はるべきにて候」とたびたび申し立てたというから、図々しいにも限度がある。これを清盛が怒ったという説と、周りの怒りを清盛が抑えたという説とあるようだ。父の仇として内心うらみ続けた源頼朝が、表面的には許した振りをして長田父子を利用したあげく、磔にしたというのが、一般的な伝承であるが、実際には、中央政界の平氏の怒りによって、長田父子は一旦与えられた官位を取り上げられ、首を切られそうになって内海に逃げ帰ったらしい。
そのときの様子を詠んだ平治物語記載の狂歌は、

  おちゆけば命ばかりは壱岐(生き)の守
           そのおはり(終り、尾張)こそきかまほしけれ

というもの。尾張一国をねだったために、せっかく主殺し、婿殺しまでして手に入れた壱岐守の官位も棒に振り、落ち延びて命だけは助かったが、もう終りだというような意味である。
この狂歌が、伝承のなかで尾ひれがついて、以下のようになった。

   ながらへて命ばかりは壱岐(生き)の守
           身のをはり(身の終り、美濃尾張)をぞ今ぞ賜はる

すなわち、源頼朝が平氏に対抗して関東で復活し、力をつけてきた頃、長田父子は鎌倉に赴いて頼朝に謝罪したが、頼朝は本心を隠して長田父子を許した振りをして、身命を惜しまず、平氏討伐に邁進して軍功をあげるなら、罪を許して、美濃尾張を与えると申し渡した。長田父子は、その言葉に感激して、平氏討伐で数々の軍功をあげた。これに対し、天下を平定した源頼朝は約束通り、美濃尾張(身の終わり)を与えるとして、義朝の墓前で長田父子を磔にし、亡骸を長田屋敷の裏山の松の根方に埋めたというのである。その死に際して、前述の歌が高札にかかれたとも、長田忠致の辞世であったともいう。

<磔の松と石碑>
haritsuke

しかし、これはあくまで「話」である。実際には、平氏の怒りをかった長田忠致は、野間内海の庄司としても失脚し、歴史の表舞台から姿を消す。「保暦間記」によると、後に長田忠致は捕らえられ、建久元年(1190)10月の頼朝の上洛の際に、美濃青墓で斬首されたことになっている。
この建久元年(1190)の上洛の際、頼朝は、尾張の御家人須細為基の案内で、父義朝の墓に参じている。墓が荒れ果てているかと思っていたら、意外に綺麗になっており、かつて平康頼が義朝の墓の荒廃ぶりを嘆いて整備してくれたためと知って、あらためて平康頼に感謝している。実は野間大坊自体、承暦年中白河天皇の勅願で建てられたという寺伝はあるが、実際は平康頼が義朝供養の堂宇を創建し、源頼朝が伽藍として整備したのが事実であろう。

<野間大坊にある源義朝の木太刀で覆われた供養墓>
yoshitomo

<義朝の供養墓の近くにある鎌田正清夫妻の墓>
kamata

なお、同じ場所に織田信孝の墓もあるが、今回関係ないので省略する。

<野間大坊を創建したか平康頼の墓>
tairayasuyori

<源頼朝が寄進した野間大坊の大門>
oomon

なお、非常に分かりやすいアンチヒーローである長田忠致父子は、後世になっても狂歌の題材となった。

   主を切り聟を殺すは美濃尾張(身の終り)
           昔は長田今は山城

これは、主人である土岐頼芸らを追って、美濃の国取りをおこなった、斎藤山城守、つまり斎藤道三について歌った狂歌であるが、「主を切り聟を殺すは美濃尾張」は「昔は長田」の長田忠致の所業である。斎藤道三は主人を追放し、息子である義龍と戦ったが、そこまでのことはしていない。

ところで、野間には長田屋敷や磔の松以外にも、源義朝の最期や長田父子に関連して、いろいろ伝承が残っている。

血の池

野間大坊の大門東側にある池で、長田父子が義朝の首級を洗ったという言い伝えがある。今でも正月7日にここで国家鎮護の祈祷がおこなわれる。もしかしたら、野間大坊を城代わりに使う際に、水堀が周囲を回っていて、その一部が池のように残ったものか。

<どう見ても堀の一部のように見える「血の池」>
chinoike

乱れ橋

野間の田上と長田屋敷址の間を杉谷川という小さな川が流れているが、その橋で乱れ橋というのがある。これは、渋谷金王丸や鷲津玄光たち源義朝の郎党が、主君の危機を聞いて、この橋まで来たときに長田の郎党と乱戦になったというのが由来のひとつ。しかし、誰がわざわざ源義朝の郎党に、義朝の危機を伝えたのだろう。

<田圃のなかにある乱れ橋の碑>
midarebashi

胴塚

田上の法山寺の西の山頂に五輪塔があり、源義朝の胴塚(千人塚)と呼ばれている。長田氏が渋谷金王丸や鷲津玄光たちと戦ったときの戦死者の首を葬ったともいう。仙人塚、耳塚、古墳塚など、いろいろな呼び方があって、なぜそんなに別名があるのか、よくわからない塚である。

<源義朝の胴塚と伝承される塚>
senninduka

(最後に・・・)
長田父子のような話は、源平の頃だけでなく、鎌倉時代以降、特に戦国時代においてもよく聞かれた話である。人の世の愚かしさ、罪深さは、時代を経ても変わらないものか。しかし、かつての殺伐とした話の舞台とは思えないように、野間の里はのどかである。

<法山寺のある山の麓から乱れ橋方面を見る>
midarebashi-enkei

<<参考文献>>
 『美浜町誌』  愛知県南知多郡美浜町 (1983)

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