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2005.11.21

徳川家康と知多半島(その1:成岩の天龍山常楽寺)

実は徳川家康と知多半島には、いろいろ関わりがある。徳川家康は言うまでもなく、三河の岡崎の出身である。しかし、実母である、於大の方は知多半島の北東に位置する緒川(現在の東浦町緒川)の水野家の出身であり、松平広忠に嫁して家康を生んだ後離縁して、やはり知多半島中ほどに位置する坂部城主(坂部は現在の阿久比町)の久松佐渡守俊勝に再嫁している。その縁で、徳川家康は母の縁者の多い知多半島を度々訪れているし、人生のターンニングポイントといえるような永禄3年(1560)の桶狭間合戦の後や天正10年(1582)本能寺の変の際伊賀越えの後に知多を経由して、岡崎に帰って、危機から逃れている。その際に一時逗留して、危機を回避した場所が、成岩(ならわ)、すなわち現在の半田市東郷町の浄土宗の古刹、天龍山常楽寺である。さらに、家康は、天正17年(1589)年、国許より上洛の途中で常楽寺を訪れている。

この常楽寺は、空観栄覚上人によって、文明16年(1484)当時成岩にあった天台宗の仏性寺を改宗して開かれたという。その常楽寺第八世典空顕朗上人は、家康の母方の従兄弟にあたる。すなわち、成岩は後に緒川から刈谷に進出した水野氏が勢力を伸ばした場所であり、支配の拠点である成岩城とともに、常楽寺にも水野氏の縁者を送り込んだということであろう。

成岩城は、実は偶然にも私の在勤先であるJスチール知多製造所の正門の西600mほど行った場所(半田市有楽町7丁目周辺)にあった。現在は遺構が残っていないが、地形的には、北は入江に注ぐ神戸川(ごうどがわ)となり、西は紺屋ヶ淵とよばれる堀があったし、東は今は陸地であるが、当時は海岸線であったらしく、東西三十五間(63m)、南北二百三十間(418m)の細長く広大な丘上に城はあった。つまり、成岩の集落をおさえ、海にも近い好立地であった。
城主の榎本了圓は、もともとは常滑の時宗の寺の僧であったといい、成岩の人々から慕われ、推されて城主となったという。すなわち、一揆的な地域での関連に基づく城であったようだ。その成岩城は、天文12年(1543)に於大の兄水野信元によって攻め落とされ、大府にいた水野の家臣梶川五左衛門文勝がそのあとに移った。家康が桶狭間合戦の後、成岩に身を寄せたときには梶川氏が成岩城主であり、水野の血をひく家康を成岩湊に丁重に送ったのであろう。

<成岩の天龍山常楽寺>
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<成岩城址~撮ったときにはすっかり日が落ちていた。。。>
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<成岩城址の石碑の碑文~昭和12年に当時の成岩町が建立>
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さて、永禄3年(1560)の桶狭間合戦で、徳川家康、その当時の松平元康は、大高城へ兵糧入れ・入城に成功したが、思いもよらぬ今川軍の敗北によって、かえって大高城を織田軍に包囲され、窮地に立たされた。織田軍の隙をついて、なんとか大高城からの脱出に成功した元康は、一旦於大の方の再嫁先である坂部城を目指し、そこで少しの間かくまわれたようであるが、織田方である久松氏は本来敵方である元康をかくまっていることは出来ず、元康は矢勝川を越え、岩滑(やなべ)をへて、成岩の常楽寺に入ったのである。成岩湊から、岡崎の近くまでは水路で行くことができる。おそらく、元康は血縁者のいる成岩まで来て、安堵したに違いない。元康は、無事成岩湊から船で三河に渡り、岡崎に入ることができた。この後の元康は岡崎城主に復帰し、もともとの家臣も集まって来て、今川義元のもと、駿河で味わった人質生活から解放された。一方、今川との縁を切るために、織田信長の命令で自ら正妻である築山殿や子の信康を処断するという苦汁をなめることになるが、ともかくは今川からは独立し、織田信長と同盟した大名となった。

<常楽寺の扁額>
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ニ度目に家康が常楽寺を訪れたのは、天正10年(1582)本能寺の変直後の伊賀越えの後である。
このときは、堺見物をした後、茶屋四郎次郎の急報により、本能寺の変で信長が死んだことを知った家康は、少ない人数の供回りで、山城、近江、伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、白子浜から伊勢湾を渡り、知多の常滑、成岩経由で本国三河に戻った。そのとき気が動転した家康は、知恩院で切腹しようとしたが、本多ら家臣に留められた。その際の明智勢の追及や便乗した者の動きは急であり、ひと時も気を抜けない状況であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った穴山信君は、山城で土豪の襲撃を受けて死んでいる。豪商であり、知恵者である茶屋四郎次郎の同行もあり、伊賀で所縁のある土豪らの支援を受けたとはいえ、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。不意に本能寺の変の凶報に接し、馴染みなく、険しい伊賀などの山中を越えて緊張の連続で急ぎ帰ったのであるから、白子浜から知多の常滑に上陸、常楽寺に入った時にはさぞやほっとしたことだろう。

さて、家康をシェルターの如く、危難から守った成岩の常楽寺であるが、江戸期になっても尾張徳川家の庇護をうけて殷賑を極めた。しかし、残念のことに、大正13年の火事で多くの建物が焼失した。とはいえ、国の重要文化財である阿弥陀如来像のほかに、家康から賜ったといわれる鐙と鞍も現存する。

<常楽寺の賽銭箱にある葵紋>
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ほかにも、いろいろ珍しいもの(たとえば下の亀に乗った地蔵など)があり、仏像を比較的間近に見ることができるのも嬉しいものである。

<境内にあった亀に乗る地蔵>
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<開運毘沙門天>
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実は、小生東京から在勤先に戻るとき、JRを使っていたが、新幹線では東京から名古屋市内までの乗車券となり、あとは名古屋市の範囲から東成岩までの切符となると、大高から東成岩の在来線の切符ということになる。実際に乗り換えるのは名古屋と大府であるが、「大高~成岩」というと桶狭間合戦後の家康が岡崎を目指したルートと重なるので、少しく偶然に驚いている。

次回は、家康の生母於大の方と水野家について、関連ある寺院や史跡の紹介をしようと思っている。
(実は、今回そこまで手がまわらなかったので)

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