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2005.12.25

徳川家康と知多半島(その9:常滑と大野)

前に述べたように、徳川家康がその生涯で遭遇した危機を二度も知多半島の縁者に守られて切り抜けたが、一度目が桶狭間合戦後の敗走時、二度目が本能寺の変直後であった。

天正10年(1582)、本能寺の変の際、家康は堺見物をしていた。そして、家康は茶屋四郎次郎の急報により、本能寺の変で信長が死んだことを知った。この後、少ない人数の供回りで、山城、近江、伊賀の山中を通って伊勢へ抜けるという、有名な「伊賀越え」を行い、家康は白子浜から伊勢湾を渡り、本国三河に戻ったのである。このとき、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った穴山信君は、山城で土豪の襲撃を受けて死んでおり、家康も一歩間違えば、穴山信君と同じ運命をたどったかもしれない。この「伊賀越え」は、豪商であり、知恵者である茶屋四郎次郎の同行もあり、伊賀で所縁のある土豪らの支援を受けたとはいえ、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。

この「伊賀越え」の後、伊勢の白子浜から、海路どういうルートで家康は三河の大浜に行ったのか。伊勢の白子浜からは、三河大浜まで直に行くには、知多半島の先頭の師崎の沖をまわって行くことになる。それでは時間がかかってしまうため、伊勢の白子浜から三河までなら、知多半島の常滑に一旦上陸し、半田、成岩から再び海路で三河大浜に渡るほうが自然である。

常滑には、於大の方の実家である緒川水野家出身の*水野忠綱を初代常滑城主とする、水野氏一族の三代常滑城主水野監物守隆がいた。水野守隆の妻は、水野信元の娘であり、家康とは二重の縁である。常滑水野氏初代の忠綱は常滑城を築くとともに、雲関珠崇和尚を招き、曹洞宗の寺院である天沢院を創建した。この天沢院は現在も大きな寺であるが、当時はさらに大きな寺容を誇ったという。忠綱は連歌のたしなみのある人物で、そのためか応仁の乱を発端とする戦国時代の戦乱を逃れた京都辺りの文化人で常滑に身を寄せる人もいた。そのため、常滑城は一種の文化サロンの様相を呈し、三代監物守隆も茶道や和歌の心得があるなど、武将でありながら文化人的な風雅を解するところもあった。*2006.1.7改

<天沢院付近から見た常滑の海>

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<常滑水野氏が建てた天沢院本堂>

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この三代水野監物守隆に関するニュースが、最近あった。

「信長と家康の古文書を常滑市に寄贈
 【愛知県】戦国時代の3代常滑城主、水野監物に織田信長と徳川家康があてた古文書が15日、水野家の嫡流にあたる水野さと子さん(71)=西春町弥勒寺=から、常滑市に寄贈された。伊勢湾の魚などの贈り物を受けての礼状で、西春町の文化財にも指定されていた貴重な資料。400数十年ぶりの常滑への里帰りに、市は年内にも一般公開するとともに、文化財指定に向けた手続きを進める。 (朝田 憲祐)
 監物は、信長方の武将として活躍したが、本能寺の変で明智光秀につき、常滑城を追われた。慶長3(1598)年の死後、水野家はいったん途絶えたが、その後、養子が跡を継いだ。
 養子から数えて14代目にあたる、さと子さんの夫、滋さんが今年3月に77歳で死去。西春町は「古文書は、監物ゆかりの常滑で保管した方が価値がある」とのさと子さんの意向を受け、文化財指定を解除。常滑市に寄贈されることになった。
 信長の書状は10通。いずれも天正5(1577)年ごろに書かれた黒印状で、5、6行程度の短い手紙だが、「このわたやタイを頂きありがとう」「鯨肉を頂きありがとう」などといった内容で、監物のこまやかな心遣いに対し、信長が感謝の気持ちを記している。
 書状の最後は「あなたが来られた時に詳しい話をする」「持ち場の警護を油断しないように」と締めくくられている。
 家康の書状は1通で、天正7年6月に、京都で家康方の陣を守っていた監物に出されたものとされる。「見事なお香と鉄砲の火薬をありがとう」との内容となっている。
 水野家では、これらの書状を大切に保管。滋さんの父、銕太郎さん(故人)が戦前に旧満州(中国東北部)に渡る際にも持参し、戦後の帰国時には紛失しないよう、リュックの肩ひもの中に縫いつけて持ち帰ったという。
 さと子さんは、石橋誠晃市長に書状を手渡すと「やっと肩の荷が下りた。(保管を)よろしくお願いします」と笑顔。石橋市長は「長く大切に保管するとともに、市民の皆さんに常滑の歴史の一端を見てもらうようにしたい」と話した。
 さと子さんは、水野家の家系図など文書9点も市に寄贈した。」
                  (中日新聞) - 11月16日11時43分更新

<常滑城址>

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この水野守隆は、本能寺の変の後、京で明智方についた。なぜ、本能寺の変以前の信長配下であり、書状のやり取りもしていた、水野守隆が明智光秀についたのだろうか。水野信元が誅されたことと関連があるのだろうか。いずれにせよ、家康は、それを知らずに守隆をたよって常滑に上陸したのではないか。常滑水野氏の居城、常滑城は、現在の山方町の天理教常滑分教会がある市街地にあった。かつては、細長い台地であったが、大正年間に削平されたため、面影はない。ただ、天理教会の前に、石碑がたっているだけである。この常滑城は水野守隆が京で明智方について放棄した後、一時織田信雄の管理下におかれ、さらに高木氏が領有したようであるが、廃城となった。しかし、水野氏が建てた曹洞宗の天沢院は、城があった場所の南の台地上に今も往時を偲ばせるように建っている。

<天沢院にある監物守隆の供養塔~近年建立のもの>

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家康が本能寺の変後の三河帰還の途中、伊勢から海路をいって、常滑に上陸したなら、具体的にはどこだったのか。漁民が多かったという保示か、あるいは苅屋湊か。苅屋では少し南に外れている。また、水野監物が明智についたのを、家康は知らなかったか、どうか。知っていても、常滑に上陸したとすれば、単純に成岩辺りとの距離を最短にということであろうが、慎重な家康がそういう行動をとったかどうか。

だが、そもそも徳川家康は、常滑でなく、少し北の大野に上陸したという説もある。それについては、次回述べたい。

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2005.12.21

歌いつつ歩まん

スチール統合プロジェクトで仕事をしていた忙しい時、私は会社の往き帰りに好きな音楽を聴いていた。例えば黛ジュンのデビュー曲「恋のハレルヤ」*などは、良く聴いていた。もはや「懐メロ」の部類になってしまった曲しか分からないというのは、年のせいだろうか。しかし、黛ジュンはデビューの時から歌唱力がすごいと思っていたが、実は本当のデビューはもっと前で米軍キャンプなどで歌っていたのだということを最近知った。黛ジュンは、歌は目茶苦茶うまいが、格別美人でもなく、親戚のお姉さんみたいな感じでフレンドリーであったためか、その歌はよく替歌が作られていた。「恋のハレルヤ」も、たしか「ハレルヤ~」を「禿げるヤ~」にして、「花は散っても」を「髪は散っても」とし、頭髪の薄い方を揶揄するような、けしからん内容の替歌になっていたと思う。他の曲も同様で、黛ジュンの歌ほど、替歌になったものは余りない。

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しかし、「恋のハレルヤ」はでだしが、「ハレルヤ~」といっているだけで、それ以降は少しもキリスト教的な文句がない。しいていえば「愛されたくて愛したんじゃない」がアガペーの愛を感じさせる程度である。*日本音楽著作権協会作品コード 031-1579-8 ISWC T- 101.229.647-6 

話はちょっと脱線する。植木等の「スーダラ節」**は、青島幸男作詞だが、根がまじめな植木等はその歌をもらったとき、歌詞の内容に悩んだそうである。そして、寺の住職をしていたお父さんにこんな歌詞だけど歌うのはどうかと思っていると、相談したところ、お父さん曰く、この歌詞の「分かっちゃいるけどやめられない」というのが仏の道に通じるということで、植木等も納得したという。**日本音楽著作権協会作品コード 043-0001-7  ISWC T- 101.317.016-4

「ハレルヤ」が歌詞のなかに出てくる歌を、私はもう一つ知っている。夜、武豊と半田の間を車で走る時、赤いライトで縁取られた十字架を屋根にのせた教会が二つ、沿道にあるのが見える。私はキリスト教ではないが、そんな時ふと、ある賛美歌を思い出すのである。その賛美歌とは、そういう類の歌で、メロディーもしっかり覚えていた唯一の歌、聖歌498番「歌いつつ歩まん」である。

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高校生の頃であるから、もう30年も前のことであるが、私はなぜかバプテスト教会の集会に行ったことがある。その時、上映されていた映画のバックに、その歌が流れていた。

♪ 歌いつつ歩まん ♪

1、主にすがる我に 悩みはなし
  十字架の御許に荷を降ろせば
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

2、恐れは変わりて 祈りとなり
  嘆きは変わりて 歌となりぬ
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

3、主はいと優しく 我と語り
  乏しきときには 満たしたもう
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

4、主の御約束に 変わりはなし
  御許に行くまで 支えたまわん
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

実際には、メロディーは正確に覚えていたものの、歌詞については「この世の旅路を」を「心の旅路を」と覚えていた(「心の旅路」では記憶喪失をテーマにした古い映画である)し、それ以外でもかなり間違って覚えていたので、私のなかではほとんど別の歌になっていた。

この歌が流れていた教会の映画では、ある少女がお母さんの死をきっかけに絶望し、駅のホームから身を投げて自殺しようとしたが、奇跡的に命が助かったものの、両足と片腕(左腕と思いますが)を失い、残った腕も、指が3本という状態になってしまった。そして病院で意識を取り戻した少女は、再度自殺をしようとするが、キリスト教によって救われ、やがて牧師さんと結婚し、子供ももうけて充実した日々を送っているという内容であった。映画の最後に、その本人、市川在住の田原米子さんが登場し、台所で料理をしたり、家事をしている様子やインタビューに答える声などが流されていた。

その後、私はキリスト教徒にはならず、千葉県の県立高校から、大学へ進み、会社勤めをしている。会社でも勤続25年になるのだから、もうロートルの部類に入りそうである。家の仏壇には線香もあげるし、先祖の位牌に手を合わせるので、家の宗派である禅宗の信者といえなくはない。だが、前記の賛美歌と田原米子さんの姿は、ずっと記憶の底にあった。

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思えば「歌いつつ歩まん」は、きわめて楽天的な歌である。主にすがって悩みはなく、荷をおろしているのだから、足取りも軽く、歌いながら歩けるよ、というのは言いすぎかもしれないが、表面的にはそんな歌詞である。しかし、実際にはそう思いたい、つらい悩みを負った人の負担を何とか軽くしたいということであろう。田原米子さんも、多分生還したが三肢を失った障害者になって一時は絶望したのであろうが、キリスト教の信仰に支えられ、まだ片腕と3本の指があるというものすごいプラス志向で、生き抜いてきたのである。これこそ、奇跡である。

だが、田原米子さんも今年なくなってしまった。生前はライフカウンセラーとして、活発に活動されていたそうであるが、そういう人の活動が重要になっているだけに実に惜しいことである。今年なくなった有名な人は、いろいろいるが、私にとっては、田原米子さんがなくなったことが惜しまれる。

あらためて、ご冥福をお祈りいたします。

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2005.12.19

「ねこの手も借りたい」考

「ねこの手も借りたい」という言葉がある。忙しい時に、ねこの手も借りたいほど忙しいなどという。
この「ねこ」とは、動物の猫であろうか。
もし、動物の猫なら、猫の手を借りても、孫の手の代わりに背中がかけるわけでもなし、猫パンチでボクシングができるわけでもない。じゃんけんをしても、パーを出しているのか、グーを出しているのか判別がつかない。チョキが出せないのは間違いない。

ところで、来年は戌年である。だが、猫年というのはない。十二支に猫がないのはなぜかという、物語があったが、猫としてみれば、ねずみ年やウサギ年があるのになぜ?と思っているに相違ない。
また、猫が銅像になっているのも見たことがない。その他の動物では忠犬ハチ公や高知城にある馬を連れた山内一豊の妻の銅像などあるが、忠猫なんとかなどといった銅像はない。もともと猫は人になつくより、家につくといわれるのである(家につくといっても、気まぐれでぷいといなくなる)のであるから、忠猫はあまり出ないのであろう。虎ノ門に猫か?と思う銅像があったが、虎であった。猫で有名な造形は、左甚五郎の眠り猫くらいか。

<虎ノ門の銅像>
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「猫の手も借りたい」というのが、正しければ、役に立たない猫の手でも借りたいくらい忙しいというのであろうか。
「ねこの手も借りたい」というのは「女子(めこ)の手も借りたい」が訛ったものという説もある。しかし、女子は明治時代の女工哀史にあるように工場で働いたり、江戸時代以前でも重要な労働力であり、年端の行かない子供でも子守などをやらされていたのであるから、その説は違うだろう。
だが、動物の猫の手では、役に立たないこと、この上ない。役にたっても、ねずみをたまに取ることぐらいであろう。
だいたい、猫はいつもぐうたらしている。日光にある左甚五郎の眠り猫のように、猫はよく眠る。

もともと、猫とは寝る子である「寝子」が語源であるという。道理で、良く寝るはずである。

<藁籠のなかの猫~有馬温泉にて>
KC320025

猫、あるいは寝子には、別の意味がある。猫は、芸者を示す隠語でもある。芸者は猫の皮をはった三味線を弾き、客をだますからだという(勿論、そういう語源だからというだけで、筆者はそう思っていませんので、念のため)。芸者といえば、江戸時代以降になるが、「ねこの手も借りたい」とは何時ごろからの言葉であろうか。
「ねこ」は芸者ではなく、遊女かもしれない。寝子は、男と寝る子、つまり遊女を意味する言葉でもある。
猫と書いても、同様であり、本所回向院辺りには、金猫銀猫と呼ばれる遊女がいたそうだ。金猫、銀猫とは、揚げ代が金一分の遊女が金猫、銀二朱の遊女が銀猫と呼ばれたということで、吉原の花魁などとは違って下級の遊女である。吉原も、志ん生の落語などで聞くところによれば、昔は日本橋にあり、それが浅草の裏、千束の近くに移ったというが、新吉原はかつての江戸の北のはずれにあった。品川は、その逆で南のはずれである。大体、遊女屋や刑場は似たような場所にあり、回向院などもその通りである。
だから、遊郭、遊女というと、町のはずれのわびしいイメージがあるが、なぜか遊郭には可愛らしい招き猫がつきものである。その昔の遊郭に招き猫が置いてあったのも、遊女=猫が客を招くというのをあらわしたものであろう。もっとも、実際に猫があのような手をあげるポーズはしない。顔を洗うような仕草はするけれども。
それはともかく、猫、もしくは寝子が芸者、あるいは遊女を示すことから、読み方の同じ猫が遊郭につきものなのだろう。

<臼井の謙信一夜城公園の猫>
usui21oujidai

つまり、「ねこの手も借りたい」とは、農業など、江戸時代の大多数の民衆が携わってきた仕事を、普段そのような肉体労働をすることのない、芸者もしくは遊女にでも手伝ってもらいたいほど忙しいのだということを言っているのであろう。

<手賀城址の猫>
teganeko

では、こんな筆者でも気がつくことを、なぜ国語学者のような人が言わないのか。遊女から来る言葉は、嫌悪感を感じるという感覚なのであろうか。日本の昔にも、マグダラのマリアは大勢いたと思うのだが。

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2005.12.16

徳川家康と知多半島(その8:阿久比、そして再び岩滑)

まず前回、久松氏の出自について少し述べたが、補足したい。
久松氏は、久松麻呂、あるいは英比丸といった人物の後胤かどうかは分からないが、菅原氏の流れをくむ武士で、何らかの事情で先祖が知多半島の阿久比へ配流されたらしいことは前述の通りである。菅原氏といっても、よくあるように道真の子孫とは公には名乗っていないようで、また武門の本流である源氏や平氏とは言わず、菅原氏として傍流の公家出身らしいことを自ら明かしているところに、信憑性がある。
阿久比町誌によれば、「洞雲院系図」では久松定益は斯波義廉の被官で、明応2年(1493)に久松寺の寺号で洞雲院を建立したとしており、「張州府志」なども洞雲院を定益の創建としている。そして、坂部城は、洞雲院とともに、久松氏の支配圏の中心にあったと前回述べたが、築城時期も同じ頃であったらしい。それは、「洞雲院系図」で定益の子、定義について、「領阿古居庄住坂部城館造営之御霊堂大日殿再建」とあり、定益が久松寺を建立したのに対し、定義は「洞雲二世住」とあるから、洞雲院と坂部城はほぼ一体的に修造されたことになる。おそらくは定益が洞雲院と坂部城の両方を作りはじめ、存命中に洞雲院は完成したが、坂部城築城は親子二代がかりになったのではないだろうか。

<於大の方の遺髪塚のある洞雲院>
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永正7年(1510)になくなった定益が生きていた頃、久松氏は大野城に拠った佐治氏と対立していたらしく、ことが起こると烏菟山に登って鐘を鳴らし、貝を吹いて苅屋藤右衛門吉重、小川四郎右衛門尉定英(定益の外戚の叔父とも義理の兄弟ともいう)のはせ参じるのを求め、一方苅屋吉重、小川定英に何かあれば、定益が駆けつけるというように一族で支えあっていたと「寛永譜」「寛政譜」に記されている。
佐治氏とは、久松俊勝の代に、佐治氏の娘おかんの方が輿入れして、姻戚となったが、それも勿論政略結婚で、かつて対立していたもの同士が手を結んで、互いに牽制したのであろう。元々知多半島は室町期には、足利氏の一族で三河出身の一色氏が西知多を中心に支配していた。阿久比の坂部の近く、草木という場所に、竹林(ちくりん)城という城があったが、これは中世大野庄の領域を治めていた一色氏の出城であったが、応仁の乱以降は佐治氏が拠点としたらしい。一方、戦国期には水野信元が大野口のおさえとして、付近に竹之腰城を築き、竹内弥四郎に守らせたという。この辺りは、戦国期には微妙な勢力構図となっていたようである。

かつて一色氏は常滑の大野など西知多の拠点をおさえ、交易によって財力を蓄えていたが、応仁の乱を契機にして急速に地力を失い、ついに知多から退転するにいたり、大野は一色氏の代官であった佐治氏が治めるところとなっていた。一色氏という大きな勢力を失うと、知多の諸豪は駿河の今川に加担するようになった。佐治氏や宮津の新海氏、武豊の岩田氏などは、今川氏になびいたが、久松氏は一線を画して、織田氏に近かった。そして、織田氏に近かったが故に、今川の傘下から織田に加担した水野信元が同じ織田方として近づき、久松俊勝に於大の方が政略結婚で再度水野家から嫁ぐことになる。

<坂部城本丸址>
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なお、阿久比には坂部の久松氏だけでなく、前出の宮津の新海氏も勢力を張っていた。阿久比谷の西を久松氏が治め、東を宮津の新海氏がおさめていたが、新海氏は久松氏と比べると影がうすいようだ。新海氏は久松氏と同じように菅原氏の出身を名乗っており、その系譜、「由緒略」には、正治2年(1200)に、道真の長男淳茂から十代の後である新海実行がいかなる理由によるものか不明ながら卯之山の館を出奔し、備中国英賀郡下村に居住、その孫の実清のとき京都に転じ、さらに実清の子淳英に至って知多郡に帰った、淳英は久松城の城主となり、これを改名、やがて弘安9年(1286)ゆえあって宮津村柳審城に転住したという。最後の「弘安9年(1286)ゆえあって宮津村柳審城に転住」という部分のみが本当らしく、後は久松氏の系譜を真似したのか、創作が多いようである。卯之山の館とは、現在の兎養山弘誓院(元は長安寺)のある山の中腹、池のほとりにでも館があったのであろうか。寺伝では兎養山長安寺は七堂伽藍が建ち並び、五十もの坊舎のある広大な寺院であったが、戦乱で焼け、小さな寺になったという。勿論それは話半分としても、戦乱で焼け、寺域が相当小さくなったというのは事実であろうから、その周りに寺を保護した豪族がいてもおかしくはない。したがって、上記の伝承が全て脚色とはいえないであろう。

<兎養山弘誓院>
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宮津村柳審城は、現在の宮津の秋葉山に比定されており、明確な文書はなくても、周囲にはその伝承があるのであるから、勿論そこに城があり、それに新海氏が拠ったことも事実であろう。なぜ新海氏が久松氏と比べると影がうすいかといえば、新海氏二十一代という淳尚の代、天文12年(1543)に柳審城が水野氏に攻められて落城し、その「家士残党」三百余名が当地の農民になったというから、戦国期に水野氏の攻勢の前に没落したためである。
また、かつては阿久比の一部とみなされていた岩滑に新海氏は進出していて、宮津城主新海淳尚の出城を岩滑に築いて、榊原主殿をここに居住させたが、天文12年に水野信元が新海を攻めて領地を奪取し、岩滑城には中山勝時を入れたという。この中山氏については、前にも述べたが、水野氏配下であり、元は桶狭間辺りにいた武士であるという。ちなみに、榊原姓の家は、今でも岩滑には多いが、水野氏に岩滑が支配されるようになってから、榊原氏は半田城に拠った可能性があるという。

少し前置きが長くなったが、於大の方が阿久比の坂部城主久松佐渡守俊勝に再嫁し、生き別れとなった竹千代(後の家康)の身を案じつつも、夫久松俊勝や子に囲まれて、穏やかな日々を過ごしていたことは、前回述べた通りである。

しかし、前回の年表で、

永禄3年(1560) 33歳
 
 5月初め、生母お富の方(玄応尼)駿府に没する。
 (今川義元、駿府を出発、西征に向かう。)
 5月17日、松平元康(家康・19歳)阿久比城を訪れ、感激の対面をする。
 5月19日、桶狭間の戦い。織田信長の奇襲により、今川義元戦死す。元康、水野信元、於大のはからいにより、無事岡崎城へ帰還す。

とあった、永禄3年(1560)を境に、於大の方も、徳川家康も、それまでとは違う生き方となっていく。

すなわち、東海の雄であり、上洛して足利将軍家を助けるという代々の夢を実現しようとしていた今川義元が、尾張の織田信長に桶狭間であえなく敗れ、東海地方での勢力構図が大きく変わり、織田信長が台頭することになった。於大の方が嫁いだ久松氏、実家である水野氏は織田方で勝ち組、松平元康(徳川家康)は今川方の先鋒の部将として大高城への兵糧入れを行った武功が一転敗軍の将となり、織田軍に包囲された大高城から辛くも脱出する始末であった。
大高城を脱出した元康は、一旦母の居る阿久比を目指したであろう。年表では桶狭間の合戦の前に、元康は阿久比をたずねたことになっているが、実際は今川軍が桶狭間の合戦で敗れたため、大高城を脱出して、知多半島を南下し阿久比に行ったのではないだろうか。そこで親子の再会があったとしても、束の間のことであったろう。
阿久比では織田方であった手前、余り長い間元康をかくまうことができなかった。そして、元康は矢勝川を渡って、岩滑を経て、成岩の常楽寺に入り、ここで休憩した後、成岩浜から三河大浜へ渡り、途中大樹寺に参詣して無事に岡崎城に帰ることができた。
なお、元康が矢勝川を渡ろうとした時に、仮に架けたような木橋(丸木橋という話もあるが、それでは馬が渡れないので、板橋のような橋か)があり、元康はその橋を渡った。その時元康は、「無事に帰り、天下をとったら、この橋を立派にかけかえる」と言い、実際に将軍となった時に、立派な橋をかけた。そして、後々もその橋の修繕などは尾張徳川家に一切まかせることとし、そのことは江戸期を通じてずっと守られたたため、その橋を「藩費の橋」といったという話が伝わっている。なお、その時道案内したのは、常滑の住人、衣川八兵衛で、家康はその労をねぎらって槍一筋を与えたという。
そして、岡崎に帰った松平元康は、氏真が継いだ今川家を見限り、織田信長について同盟関係を結ぶことになる。今川家は家臣の離反が相次ぎ、今川氏真は駿府を維持することができず、掛川に居城を移している。元康は、名前も今川義元の名前の一字である「元」の字を返上して、家康と名乗り、永禄9年(1566)には先祖松平親氏以前の復姓ということで徳川と勅許を得て名字もかえ、徳川三河守家康となる。

<矢勝川にかかる「殿橋」~かつて「藩費の橋」があった>
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<この辺りにあった木橋を家康も渡ったか>
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一方、於大の方と久松俊勝は、長子信俊に阿久比、坂部城をまかせて、永禄4年(1561)に岡崎に移り、於大の方の阿久比での15年間の生活は終わった。
その後、天正3年(1575) に於大の方の兄、水野信元が領民が武田方へ物資(兵糧とか炭とかいわれる)を売ったため内通の嫌疑をかけられ、信元とその子信政が織田信長の命により岡崎で誅されるという事件が起きる。実際に手を下したのは家康の命で動いた石川数正と平岩親吉であったといい、於大の方の夫、久松俊勝はこれを憤り、城を出て、諸国を放浪したという。その後、天正15年(1587)に、久松俊勝は、西郡城(一説に岡崎城)でなくなり、蒲郡の華林寺で火葬、遺骨を清田安楽寺と坂部洞雲院に葬る。

<久松墓所>
hisamatsubosho

<久松墓所2>
hisamatsubosho2

<於大の方の遺髪塚>
odaibosho

さらに、その2年後の天正5年(1577)7月、阿久比城主であり、於大の方の義子久松信俊が、石山本願寺攻めの軍勢に加わっていたものの、佐久間信盛のざん言により引き出され、織田信長の命で、大阪四天王寺で切腹させられている。水野信元なきあと、刈谷城主となった佐久間信盛の軍勢が、坂部城を攻め、城は炎上、灰燼に帰した。哀れ、久松信俊の幼い子、小金丸、吉安丸が落城とともになくなっている。血のつながりはないが、於大の方の子や孫が一ぺんになくなったのだから、於大の方はさぞ嘆いたことであろう。

今も洞雲院には、於大の方の遺髪塚とともに、久松定益、定義、俊勝という歴代の墓がある。それらは後の久松松平家の先祖として、墓所には囲いが付けられ、丁重に祀られている。しかし、久松信俊、小金丸、吉安丸の墓地は寺の本堂の裏、ひっそりとした場所にある。久松信俊らの墓は、小さな五輪塔であるが、新しくなっていおり、以前はもっと小さい簡単な墓であったらしい。
松平の姓をもらった一族およびその先祖と、そうでない不名誉な死を与えられた人々の差が、墓にまであらわれている。

<久松信俊の墓>
nobutoshi

<信俊の子の墓>
yoshiyasumaru

前にも述べたように、阿久比での15年は、於大の方にとって比較的平穏な日々であったが、後に優しかった夫は出奔の末なくなり、なついていた信俊は織田信長の命で切腹させられている。久松信俊が切腹した2年後、家康はやはり織田信長の命でわが子信康を処断している。
皮肉なことに、徳川家康の身内で信長の信の字を名前につけた者たち、つまり伯父である水野信元、従兄弟の水野信政、義理の兄弟である久松信俊、そして実子である信康は、織田信長の命で討たれるか、切腹させられている。
戦国時代の動乱は、今の阿久比や岩滑からは想像できない。今も阿久比と岩滑の境には矢勝川が流れているが、現在は川岸に新美南吉にちなんだ公園があったり、川岸の道を犬を連れて散歩している人などが行きかっている。川は護岸工事がされているが、のんびりと鴨が泳いでいる。家康が木橋を急いで渡ったのは、もう440年以上も前のことである。

<矢勝川を泳ぐ鴨>
yakachi-kamo

参考文献
・「あぐいのあゆみ」   阿久比町誌編さん委員会 1994
・「阿久比町誌」     阿久比町教育委員会    1993
・「やなべの歩み」    やなべの歩み編集委員会   (岩滑コミュニティ推進協議会) 1985

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2005.12.14

徳川家康と知多半島(その7:於大の方、久松氏と阿久比)

ようやく阿久比までたどり着いた。思えば長い道のり?であった。
家康も言っている、「人の一生は重き荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」と。
家康が、本当にそう言ったかどうかは別として、岡崎に生まれて幼児の頃に、駿河の今川に人質に出され、桶狭間の合戦を契機に今川の下を離れてからも、織田信長や豊臣秀吉の風下にたち、本格的に天下を狙うようになったのは老人になってからという家康なら、言いそうな格言ではある。

さて、天文10年(1541)、政略結婚で岡崎の松平広忠に嫁いだ於大の方は、天文13年(1544)に兄である水野信元が今川から離反し、織田方についたため、松平広忠から離縁され、わが子竹千代(後の家康)と生き別れとなった。その直後は前回の刈谷での於大の方について書いたような状況であったが、天文16年(1547)には水野信元の命で、今度は水野家と近しい阿久比の坂部城主久松佐渡守俊勝に再嫁することになった。そして、生き別れとなった竹千代の身を案じつつ、戦国武将には珍しく温厚で優しい人物であったらしい夫や、夫と先妻佐治氏女(おかんの方)の子である信俊とともに阿久比で暮らすことになる。

<坂部城址からみた阿久比の里>
aguinosato

その間の於大の方については、阿久比町発行の「於大の方物語」に詳しいが、その本の年表を引用すると、以下の通りである。強調表示が阿久比で過ごした年である。

***以下引用***

天文13年(1544) 17歳
 
 兄・水野信元、今川家離反の故をもって離別され、9月、竹千代(家康・3歳)と別れて、刈谷城へ帰る。
 帰途、兄の怒りを予測し、国境で岡崎よりの従者を帰してその命を救う。

天文15年(1546) 19歳
 
 刈谷・楞厳寺へ什物を寄進する。

天文16年(1547) 20歳                
 
 兄の命により、坂部城主・久松俊勝(23歳)に再嫁する。
 8月2日、竹千代(家康・6歳)人質として駿府(今の静岡)に送られる途中、田原城主・戸田康光に奪われ、織田方に送られ、熱田に置かれたので、ひそかに衣食を送り続けた。

天文18年(1549) 22歳

 竹千代(家康・8歳)人質交換により、11月、駿府に移されたので、生母玄応尼を通じひそかに衣食を送り続ける。

天文21年(1552) 25歳

 坂部城で、長子・久松康元を生む。

弘治元年(1555) 28歳

 坂部城で、次男・久松康俊を生む。

弘治3年(1557) 30歳
 
 (兄・水野信元と元信(家康・16歳)石ヶ瀬で戦う。)
 (信元(家康)、名を元康と改める。)

永禄2年(1559) 32歳

 坂部城で、三男・久松定勝を生む。

永禄3年(1560) 33歳
 
 5月初め、生母お富の方(玄応尼)駿府に没する。
 (今川義元、駿府を出発、西征に向かう。)
 5月17日、松平元康(家康・19歳)阿久比城を訪れ、感激の対面をする。
 5月19日、桶狭間の戦い。織田信長の奇襲により、今川義元戦死す。元康、水野信元、於大のはからいにより、無事岡崎城へ帰還す。

永禄4年(1561) 34歳
 
 義子・久松信俊に坂部城を譲り、夫・久松俊勝と共に岡崎城へ入る。(阿久比在住15年間)

永禄5年(1562) 35歳                  
 
 夫・久松俊勝、西郡(今の蒲郡)城主となる。

永禄6年(1563) 36歳
 
 9月、三河一向一揆起こり、翌年2月まで続く。夫、各地で転戦。
 松平元康(25歳)、家康と改名する。

永禄9年(1566) 39歳
 
 松平家康、12月、徳川姓を勅許され(28歳)、従五位下、三河守に任ぜられる。

天正3年(1575) 48歳
 
 兄・水野信元、織田信長の命により岡崎城で殺され、夫・久松俊勝(51歳)これを憤り、城を出て、諸国を放流。

天正5年(1577) 50歳
 
 7月、阿久比城主・義子・久松信俊(母は佐治氏の出、おかんと称するとか)、佐久間信盛のざん言により、織田信長の命で、大阪・四天王寺で切腹。
 刈谷城主となった佐久間の軍、坂部城を攻め、城は灰燼に帰す。信俊の子、小金丸、吉安丸死す。

天正7年(1579) 52歳
 
 (織田信長の命により、家康(38歳)やむなく正室・築山御前と長子・信康の命を失う。)

天正8年(1580) 53歳
 (弟・水野忠重は刈谷城主、同忠守は緒川城主となる。)

天正10年(1582) 55歳
 
 (織田信長(48歳)、明智光秀のため、京都・本能寺に死す。)
 (家康(41歳)、堺より急ぎ伊賀を経て岡崎に帰る。)

天正11年(1583) 56歳
 
 次男・久松康俊、久能城主となる。

天正12年(1584) 57歳
 
 (4月、家康(43歳)、豊臣秀吉と長久手で戦う。)
 三男・久松定勝、下総小南城主となる。(後に伏見城代、桑名城主を経て、その子孫、四国松山城主となる。)

天正14年(1586) 59歳
 
 次男、久能城主・久松康俊(4月)死す。33歳
 (5月、秀吉妹朝日、正室として家康(45歳)に嫁ぐ、9月、生母として浜松城に入る。

天正15年(1587) 60歳               
 
 夫・久松俊勝、西郡城(一説に岡崎城)に死す。63歳
 蒲郡の華林寺で火葬、遺骨を清田安楽寺と坂部洞雲院に葬る。
 夫の菩提のため、出家し、伝通院と号す。

天正18年(1590) 63歳
 
 (家康正室朝日、1月京都の聚楽第で病歿。48歳)
 長子・久松康元、下総関宿城主となる。

文禄元年(1592) 65歳
 
 緒川・善導寺に寺宝を寄進する。

文禄3年(1594) 67歳
 
 刈谷・楞厳寺へ、母と自身の画報を納める。

慶長3年(1598) 71歳
 
 (8月、豊臣秀吉病死す。62歳。)

慶長5年(1600) 73歳
 
 関ヶ原の戦い。家康(59歳)天下の実権を握る。

慶長7年(1602) 75歳
 
 長子・康元、三男・定勝の子、定行に伴われて、家康を伏見城に尋ね、8月28日同城にて病死。
 9月18日江戸の小石川で葬儀、伝通院に葬る。遺髪は、坂部洞雲院と岡崎・大仙寺の墓に分納される。
 
***以上***

於大の方が再嫁した久松氏は、菅原道真と同族である菅原家の支族である久松麻呂が配流されて始まるとも、菅原道真から三代の雅規が英比麻呂(英比丸)と称し、さらにその14代の後胤、道定の時、久松を称するようになったともいうが、はっきりしない。しかし、源氏や平氏ではなく、菅原氏をわざわざ名乗っているのは、事実菅原氏の出身であるからであろう。一説では斯波氏被官であった道定が、当地に土着したというが、何らかの事情で菅原氏の流れをくむ武士が当地に配され、在地領主化したものと思われる。
歴史上、明確になっているのは、道定より9代の孫という定益からで、坂部の洞雲院を創建したのは定益であり、洞雲院は永正7年(1510)になくなった定益の法号となっている。
その久松氏が拠ったのが、坂部城であるが、定益が築城したという説と定益の孫である俊勝が築城したという説がある。地形から見ると、阿久比の里を見渡せる高台にあって、洞雲院とも間に細い低地を挟むが、隣接しているといえるほど近い。この坂部城と洞雲院は、久松氏の支配圏の中心となっていたと思われ、やはり洞雲院を開基した定益が築城したというのが正しいように思われる。
現在、坂部城は本丸があった台地の中腹の削平地が、城山公園として整備され、その西側墓地があったところは図書館になっている。

<城山公園となった坂部城址>
sakabejyoushi

<坂部城本丸址>
sakabehonmaru

坂部城は張州府志などでは、東西40間、南北50間という広さになっているが、m換算すると、東西72m、南北91mとなる。本丸の平面と周囲にあったであろう空堀をいれても、現在はそれほど広くない。やはり道路や住宅地などとなって、かなり削られているのであろう。文政9年(1826)に書かれた、洞雲院に残されている古地図(阿久比町発行資料に掲載)では、近代の城のように書かれているが、当時は土塁と空堀の城であり、本丸である現在の城山公園の周りを空堀がめぐり、城の東側には侍屋敷、西側は墓地で、北側には洞雲院との間に細い谷、南側は谷となり、その向こうに寺や侍屋敷があった様子がわかる。洞雲院の東側の斜面は現在駐車場になっているが、ここにも侍屋敷や洞雲院の寺坊などがあった様子で、今でも駐車場には明らかに何かの建造物の礎石らしいものが残っている。ちょっと見には分からないが、実際洞雲院の駐車場に車をとめるのは、あまりに斜面が急なために技術を要するのである。前は、段々がついていたのではないかと思われるが、それを削平せずにそのままならして舗装し、駐車場としたのであろう。
それはともかく、坂部城址で遺構が残っているのは、本丸址の西南に土塁、西側図書館となっている場所との間に空堀址、南側の斜面に竪堀のようなものがあるのと、東南の一角が虎口の様に開口し、そのまま北東へまわりこむ通路となっているものくらいである。
絵図をよく見ると、本丸の一角に坂部藤十郎という武士の屋敷があるが、これは家老クラスの重臣であろう。侍屋敷には新美や竹内という名字の者が何人かいるが、当地には現在もそういう名字の家が多い。
於大の方が、天文16年(1547)阿久比に再嫁した年、戸田康光の謀により尾張に人質にだされた竹千代の身を案じて、於大の方は熱田の竹千代のもとに、平野久蔵、竹内久六をつかわしてお菓子や日用品を与えているが、その平野久蔵、竹内久六の子孫の方も当地にいるかもしれない。以前、会社で同じ課にいた竹内さんも阿久比の人であったが、もしかして竹内久六の子孫かもしれない。

<坂部城を中心とした古地図>
sakabejyouzu

<坂部城の虎口>
sakabekoguchi

<坂部城の土塁>
sakabedorui

於大の方は年表にあるように、康元、康俊、定勝という三子を久松俊勝との間に産み、その三人の子は家康の異父弟として、やがて松平姓を与えられ、自身も大名となったほか、定勝の子孫からは松平定信が出ている。阿久比では、於大の方も、先妻の子で長子である久松信俊と実子(上記男子三人と女子二人いたらしい)の子育てや、坂部城主の妻としての務めに励んでいたと思われ、しばらくは比較的平穏で充実した日々であったろう。

於大の方にとって、穏やかな阿久比での日々であったが、戦国の激動の時代の流れには逆らえず、桶狭間の合戦で織田方にたった夫久松俊勝、今川方の部将になったわが子松平元康(徳川家康)と、身内が敵味方に分かれ、また桶狭間の合戦で敗れた松平元康は危機に直面する。さらに於大の方の兄である水野信元が、織田信長の命で岡崎で誅されたことを契機に、久松家にも暗雲がたちこめることになった。

そのあたりは、次回に述べることにする。それでは、また。

参考資料:
・「於大の方物語」 近藤英道著 (阿久比町)
・阿久比町発行資料

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2005.12.11

徳川家康と知多半島(その6:於大の方、水野氏と刈谷)

緒川で生まれた於大の方は、数えで6才の時には水野忠政が築いていた刈谷城が完成し、父に伴われて刈谷に移っている。その刈谷城とは、現在亀城(きじょう)公園となっている場所に本丸と二の丸の一部があり、三の丸は郷土資料館(昔の亀城小学校)のある場所にあったという。なお、なぜ刈谷城を亀城というかといえば、郷土資料館の職員の方に聞いたところ、①亀が多かった場所にあった、②刈谷の昔の地名、亀ヶ岡村とか亀村といったものから城の名前になった、③三浦氏のあと、西尾から移封されてきた土井氏の前の居城は鶴城といったため、縁起をかついで亀城とし、西尾の城と鶴亀の対をなすようにした、という説があるそうである。
ともかく、現在の亀城公園には当時の城を偲ばせる遺構といえば、本丸があった丸い小山とその下の腰郭、亀池、城池といわれる水堀の名残りがあるが、二の丸の大部分と三の丸はすっかり市街化している。なお、公園化した本丸は表門のあった部分の虎口が、天文2年(1541)に築城された当時からのものと余り変わっていないのではないかと感じさせる。勿論、当時は小山の側面にある石垣はなく、石段も後付のものであろう。小山の側面の土を良く見ると、硬い砂岩質の土であり、城を築くには最適の場所であったかもしれない。
この城は、前述のように天文2年(1533)に築かれたが、水野忠政の子、信元の代に、桶狭間の合戦で敗北した今川軍によって焼かれてしまい、再建されたのは慶長5年(1600)の水野忠重が城主となった頃である。この城には天守閣はなかったが、当初本丸の四隅に櫓があり、一つは三層、あとは二層であった。しかし、元禄年間には、櫓は二箇所となり、階層も三層ではなく二層となっている。その後、明治維新を経て、戦時中は高射砲陣地として使用されるなどしたが、近年公園として整備され、今日に至っている。

<刈谷城本丸址・中央>
kariyajyo1

<刈谷城本丸址・表門付近>
kariyajyo2

<刈谷城二の丸址から本丸址へ>
kariyajyo3

前述の郷土資料館の東へのびる道が、大手道であり、郷土資料館より60~70mほど行ったところに大手門址がある。その東の図書館のある辺りは侍屋敷、さらに筋を2つ挟んだ東は町場となり、付近は城下町を形成していたが、明確には江戸期に形成されたと思われ、戦国期にはどうだったのであろうか。当然ながら、城の周りには家臣団の屋敷はあったであろう。その家臣団の屋敷を取り囲むように、つまり城を中心として同心円を描くように町場があったのであろうか。

<城池の外側から城址を望む>
kariyajyo-hori

その刈谷と水野氏の関係であるが、既に忠政の曽祖父貞守の代に刈谷に進出しており、文明8年(1476)頃には刈谷古城を築いたという。刈谷古城は現在の刈谷市天王町2丁目から元町6丁目*の台地上(本刈谷神社の西北側)にあって、西側、南側には低地が広がり、城があった辺りの台地上からは東浦の大型スーパーが見渡せる。*2005.12.31改
実は刈谷古城のことは、よく知らなかった。というより、刈谷城は若い時にも訪れており、その当時から公園化されていて、刈谷の一種のシンボルのようになっていた印象が強く、もう一つ刈谷古城なるものがあるとは思いもよらなかったという方がよい。今回も、郷土資料館作成の「歴史の小径」という印刷物を頼りに、車を走らせたが、例によって古い町は道が細い。また、途中工事もあって、目的地にはすんなりとは行けず、さらにそれらしき場所に着いたものの、立て札もなく、場所が特定できない。台地端に、小さい畑があり、そこに枝が落ちた木があるが、その根方にある土盛が土塁のようで、ひとまずそこが古城址の一部と目星を付けた。

<刈谷古城遠景>
kariyakojyo-enkei

そして、台地の上から台地下の低地やら周辺をまわったが、よく分からないので、何か配達をしている若い女性に聞いた。しかし、「いやー、わからないですね。ここが古い町なのは確かですが」と言われ、低地に止めた車に戻って帰ろうとしたとき、犬を連れた年配の婦人が来たので聞いたところ、「その竹薮ですよ」とのこと。なるほど、最初自分が目をつけた畑のある場所とは50mほどは離れているが、同じ台地続きで城址があってもおかしくない場所である。その竹薮の横を東西に道が通っており、台地の上から低地へ下っているが、その年配の婦人によれば、その道は元は道幅の半分ほどは水路になっていたという。つまり、刈谷古城とは台地端に占地し、台地鞍部とは水堀で区切っていたことになる。あるいは、台地先端の木の根方に土塁状のものがあった場所は、物見があったのではと思われる。
つまり、この刈谷古城は緒川を本拠とする水野氏が西三河に進出する足がかりとした出城であり、東からの進攻への防備のために構えたのではないだろうか。水野氏、それは言われるように貞守であったかもしれないが、当主自身は緒川に屋敷をもち、この刈谷には平時は一族か家臣を配置していたのであろう。それが、刈谷において勢力を拡大し、ついにはより本格的な統治のための城を建設するにいたったということだと思われる。

<刈谷古城址~右側の藪、道路には昔水路があった>
kariyakojyo1

<刈谷古城址の一部か、台地端の畑地に残る土塁状のもの>
kariyakojyo2

その刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある。これは水野忠政が刈谷城を築き、刈谷に移住した際、この寺に帰信し、水野家の菩提寺になった。元は、応永10年(1403)に浜松普済寺の利山義聡が海会寺を開き、多くの修行僧が集まって手狭となったため、応永20年(1413)新たに楞厳寺を建てたといい、第七世古堂周鑑の時に、忠政の帰信があって、水野家の菩提寺となり、於大の方も度々当寺を参詣している。境内にある水野家廟所は、市の史跡となっているが、小さい五輪塔などがある。緒川の乾坤院の水野忠政以下4人の墓地とは違い、いかにも中世の豪族が建てたもののようである。

<楞厳寺本堂>
ryogonji

<水野家廟所>
mizunoshibochi

於大の方は、天文10年(1541)に松平広忠に嫁ぐまでの数え年6才から14才までを刈谷で過ごし、さらに水野氏が天文13年(1544)信忠の代に織田方となったために離縁された17才から阿久比の久松佐渡守俊勝に再嫁する天文16年(1547)、20才まで、やはり刈谷に戻って城下の椎の木屋敷で過ごしたという。その椎の木屋敷に住んでいた頃に、楞厳寺に度々参っている。そのため、この寺にも於大の方の調度品がいろいろ残されている。また、晩年の画像、「伝通院画像」があり、これは県指定文化財となっている。
岡崎から離縁され、わが子家康は今川に人質になっている状況で、於大の方はどういう心境で、椎の木屋敷での日々を過ごしていたのであろうか。
やがて、刈谷から阿久比の坂部城主久松佐渡守俊勝に再嫁して、阿久比に住むようになってからも。

<椎の木屋敷址>
shiinoki1

<同所 於大の方像>
shiinoki2

次回、阿久比での於大の方と久松家のその後について見ていきたい。

参考文献:

・「刈谷 歴史の小径」 刈谷市郷土資料館
・「刈谷のあゆみ」 刈谷市郷土資料館
・刈谷市発行資料

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2005.12.03

徳川家康と知多半島(その5:於大の方の生誕地、緒川)

前回、於大の方は、享禄元年 (1528 ) に現在の愛知県知多郡東浦町の緒川という場所で生まれたことを述べた。於大の方の父である緒川城主水野忠政や異母兄水野信元は刈谷に進出するとともに、知多半島にも武威を張り、そのかげで、於大の方の母、於富の方は政略によって忠政から離縁され、三河の覇者であった松平清康に再嫁した。於大の方自身も、松平清康の死後跡を継いだ松平広忠に、天文10年 (1541)に嫁がされ、翌年、後の家康である竹千代を生んだ。それらについても、前回述べたとおりである。

その於大の方が生まれた緒川について、もう少し見てみたい。東浦町発行資料などによれば、於大の方の生涯の前後の緒川については、以下のようにまとめられる。

 年代            事跡

平安末期 (1180頃) この頃小河重房小川に住む
延文5年 (1360) 小河正房、土岐氏に滅ぼされる
室町前期 (1350頃) 緒川の高薮城を竹内直道が築城し、以降竹内氏が治めるも、5代直玄は水野氏の臣下となる。
文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守、乾坤院を創建する。
享禄元年 (1528) 於大の方が、緒川城主水野忠政の娘として緒川にて生まれる。母は於富の方(華陽院)。
天文元年 (1533) 三河のほとんどを平定した岡崎城主松平清康から求婚された於富の方(母)は、水野忠政に離縁されて松平清康と再婚。
天文2年  (1533) 水野忠政、刈谷城を築き、家臣団を連れて移る。
天文10年 (1541) 於大の方岡崎の松平広忠のもとへ嫁ぐ。広忠16歳。
天文11年 (1542) 於大の方が竹千代(徳川家康)を生む。
天文12年 (1543) 於大の方の父忠政が逝去。於大の方の兄信元が相続する。
天文13年 (1544) 刈谷城主水野信元が今川方を離れ織田方についたため、今川方の松平広忠は於大の方を離別する。
天文23年 (1554) 村木砦の戦い
永禄元年 (1558) 石ヶ瀬の戦い
永禄3年  (1560) 於大の方の母華陽院逝去。桶狭間の戦い、今川義元敗死。以後織田信長の勢力 が急激に伸展。 松平元康(後の徳川家康)は大高城を脱出、知多半島から三河、岡崎へ帰る。
天正3年  (1575) 水野信元、織田信長のために岡崎にて殺される。
天正10年 (1582) 本能寺の変、織田信長が殺される。 変後、堺にいた徳川家康は「伊賀越え」をし、岡崎へ戻る。
天正10年 (1582) 於大の方の夫、久松俊勝逝去。
天正16年 (1588) 於大の方、髪をおろし伝通院と号す。
慶長5年  (1600) 関ケ原の戦、徳川氏政権が確立される。
慶長7年 (1602) 於大の方伏見城にて逝去、寿経寺(後の伝通院)へ納骨される。
慶長11年 (1606) 緒川城主水野が三河新城に転封となり、その後緒川城も廃城となる。

鎌倉時代には、当地を治めたのは地頭である小河氏であったが、南北朝の争乱期に小河氏が南朝についたため、北朝方の土岐氏に攻められて滅亡。その後、竹内氏が緒川のもうひとつの城である高薮城を築くなどして緒川を治めたようであるが、水野貞守の頃に水野氏が緒川にきて、緒川城を築き、この地域に勢力を伸ばし始めた。初代城主水野貞守は、前の勢力である竹内氏を臣下とし、隣国の刈谷や横根・大府にも手を伸ばし、数代かかって、刈谷などへの支配を確固としたものにしたと思われる。於大の方の父、水野忠政はその勢力の伸張期の当主であったといえる。

於大の方が生まれた緒川の地は、於大の方が生まれた頃には、父水野忠政が完全に掌握していたようである。実際に緒川に行ってみると、なるほど城下町の風情のある、歴史的景観を残した町である。細く入り組んだ路地が多いが、黒塀の屋敷があり、その大きな門がかつての武家屋敷の面影を感じさせる。格子戸のある商家の軒先には杉玉がつるされていたり、町の辻々には小さな地蔵がまつられているという具合である。

<緒川の町並み>
ogawa-machi1

<赤い丸型ポストも健在>
ogawa-machi2

<町辻の地蔵>
ogawa-jizou

さて、緒川には水野氏について、面白い伝説がある。
それは、地蔵禅院という小さな地蔵をまつった御堂の境内の井戸、「沢潟の井戸」にまつわるものである。地蔵禅院の本尊の木造地蔵菩薩は大昔海から引き揚げられたもので、かき殻がたくさん付いていたことから、かき殻地蔵というが、水野氏の3代、緒川城主水野清忠の奥方が子宝を授かるよう、このかき殻地蔵に祈願した。満願の日、この井戸の水を汲もうとすると、沢潟の葉が浮かび、その上に永楽銭が1つ載っていた。その後、子宝に恵まれ、沢潟と永楽銭を水野氏の家紋にしたという。
今、地蔵禅院に行ってみると、御堂は古くなっており、狭い境内も整備中のようであるが、沢潟の井戸はのこっている。ただ、鎌倉の星影の井のように、中をみることはできない。

<沢潟の井戸>
omodakanoi

於大の方や水野一族が暮らした緒川城は、文明7年(1475)に水野貞守が築いた城と言われる。現在は、すこし遺構も残っているが、主郭部分だけで空堀などは埋められたものか、地表上見えなくなっている。この城は、東浦町役場のある場所の北側の台地の中腹にあって、緒川の町全体を見下ろす場所にある。実際に行っても見ると、東浦町役場の南側の低地からは、住宅が密集していて分かりにくい。最初、たずねたときには、車で東浦町役場の南側の低地から住宅のなかの道を進んでいったが、なにしろ私の車一台でも、ぎりぎりでしか通れない、また曲がり角では切返しを何度もしないとこすってしまう位の細い道で、近所の人に聞きながら上っていった。作業場のおばさんに聞いて上がった、天理教教会のある場所のすぐ近くに城址はあったのだが、私はそのまま行かずに途中で右に曲がってしまい、あとで再び別の近所の方に聞いたら、「行き過ぎましたよ」とのこと。その日は、用事があったのと、日が落ちかけていたので、後日として、再度たずねたときにようやく見つかった次第。もし、城址が分かりにくいようなら、東浦町役場の北側を大きくカーブしながら台地を上がっていく広い道路を、台地を上がりきらない半ばほどまで歩き、そこから緒川の町を見下ろせば、木が何本か茂っている小山のような場所が見えるので、そこを目指して行けばよい(ただし、自動車では行かないほうがいいでしょうな)。

<緒川城址~地元の人からは古城(ふじろ)と呼ばれる>
ogawajyo

<緒川城址を下の公園から見る~公園には於大の方生誕の碑>
ogawajyo-sitakara

それはともかくとして、実は緒川には、もう一つ、高薮城という緒川城の北側の台地にあった城があり、鎌倉時代の地頭小河氏が南北朝の戦乱で滅んでからは、高薮城の竹内直道ら竹内氏が当地を治めていたらしい。その5代直玄は水野氏の臣下となったというが、初代竹内直道が高薮城を築いたのが1350年頃として、1代25年とすれば、5×25=125年で、5代竹内直玄は1475年頃の人ということになり、文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守が宇宙山乾坤院を創建した年あたりということとなる。
つまり、水野貞守はどこからか進出してきて、在地の竹内直玄を臣下としてしまったということであろう。寛政重修諸家譜によれば、水野氏は譜代大名5家,旗本が20家以上であり、その主流は清和源氏多田満仲の弟鎮守府将軍満政を祖と称する満政流で占められている。源満政の子孫が尾張知多郡小河庄に住み小河氏と名乗って、在地領主として成長したが、南北朝の戦乱で南朝につき、土岐氏に攻められていったん尾張春日井郡水野に退き、水野氏を名乗って故地に復し、緒川城主となったというわけであるが、信じがたい。
ともかくも、貞守の曾孫水野忠政が戦国初期には緒川から三河に進出して、刈谷に築城、刈谷城主となり、さらにその子信元の代には織田家のもとで知多半島にも進出し、勢力を拡張する。天正3年(1575)織田信長の命で信元が岡崎で誅されるにおよび、水野氏の緒川支配は一時中断するが、於大の方の弟で、忠政の四男、忠守が緒川城主となった。また信元のあとの刈谷は、やはり於大の方の弟、忠政の九男、忠重が刈谷城主となっている。
水野忠守が城主となって、緒川城は改修され、水野忠守はそれまでの古城部分から、高藪城と呼ばれる箇所に移り住んだ。古城部分は緒川古城、高藪城は緒川新城とされる。
水野忠守の跡の家督は、忠守の子忠元、孫の岡崎城主忠善と受け継がれている。ちなみに、水野忠善は豪傑ながら粗忽なところのある人であったというが、祖先を思う気持ちが強かったらしく、乾坤院に堅雄堂を建てたのは、その水野忠善である。
さらに、関ヶ原合戦後に緒川を領有した水野分長が、慶長11年(1606) 三河新城に転封となるまで、水野氏の緒川在城は続いた。なお、緒川城主水野忠守、堅雄堂を建てた水野忠善の子孫に、老中となった水野忠邦がいる。

<高薮城址~今は遺構が見られない>
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では、於大の方は緒川でどんな幼少期を過ごしたのであろうか。記録もないので、よく分からないが、戦に明け暮れる父や兄と政略結婚で松平清康に嫁ぎ、於大の方が物心ついた時にはいなかった母のことを考えると、戦乱の世の常とはいえ、さみしい生活であったようにも思える。
そのような戦乱のなかでの暮らしで、心を寄せることができたのは、前回紹介した乾坤院や善導寺などの仏であったろう。これらの寺には、刈谷にはいってからも、その後も於大の方はたびたび参拝している。

於大の方も参拝した緒川の善導寺は、浄土宗鎮西派の寺で、山号は海鐘山というが、京都の知恩院の末寺になる。
寺伝によれば、嘉吉3(1443)年に音誉聖観聖人が創建した寺である。山号が海鐘山というように、かつては海辺にあって、たびたび潮水の被害にあったため慶長10年(1605)に緒川城主水野分長が現在の山上、すなわち八幡社前に移築したのだという。於大の方は、度々この寺に参拝し、寺に寄進した三尊阿弥陀如来像、善導大師木像、同師自画像、同師所持の柄香炉が今も残っているという。やはり、乾坤院と同じように、尾張徳川家の庇護を受け、21石9升6升の寺領を与えられているほか、尾張徳川家歴代の黒印状を受けている。於大の方の縁故で、徳川家と関係深いことは、寺のいたるところに葵紋があることでもわかる。三つ葉葵の紋所が、いろいろな場所についているのは、成岩の常楽寺と同じである。

 なお、善導寺には県指定文化財になっている正安2年(1300)の異国降伏祈願施行状(非公開)が伝えられている。これは、元寇にさいして鎌倉幕府が広く全国の社寺に敵国降伏の祈祷を命じ、蒙古軍撤退後もなお30年もの間、続けられたということの史料である。
また、於大の方自身の身近なものとして、於大の方の夜着が、この寺に残されている。於大の方は、この寺に宿泊もしたのであろう。そう思うと、緒川の町並みも、於大の方が侍女などを連れて歩いた光景に、重なってくるのである。

<緒川の善導寺>
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<善導寺のいたるところに葵紋が>
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<善導寺の鐘楼門>
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さて、次回は刈谷から知多の阿久比町の関連史跡を紹介することにする。

参考文献

・愛知県東浦町ホームページほか東浦町発行資料
・広報ひがしうら 2004年4月1日号
・愛知県刈谷市ホームページ

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