« 徳川家康と知多半島(その5:於大の方の生誕地、緒川) | トップページ | 徳川家康と知多半島(その7:於大の方、久松氏と阿久比) »

2005.12.11

徳川家康と知多半島(その6:於大の方、水野氏と刈谷)

緒川で生まれた於大の方は、数えで6才の時には水野忠政が築いていた刈谷城が完成し、父に伴われて刈谷に移っている。その刈谷城とは、現在亀城(きじょう)公園となっている場所に本丸と二の丸の一部があり、三の丸は郷土資料館(昔の亀城小学校)のある場所にあったという。なお、なぜ刈谷城を亀城というかといえば、郷土資料館の職員の方に聞いたところ、①亀が多かった場所にあった、②刈谷の昔の地名、亀ヶ岡村とか亀村といったものから城の名前になった、③三浦氏のあと、西尾から移封されてきた土井氏の前の居城は鶴城といったため、縁起をかついで亀城とし、西尾の城と鶴亀の対をなすようにした、という説があるそうである。
ともかく、現在の亀城公園には当時の城を偲ばせる遺構といえば、本丸があった丸い小山とその下の腰郭、亀池、城池といわれる水堀の名残りがあるが、二の丸の大部分と三の丸はすっかり市街化している。なお、公園化した本丸は表門のあった部分の虎口が、天文2年(1541)に築城された当時からのものと余り変わっていないのではないかと感じさせる。勿論、当時は小山の側面にある石垣はなく、石段も後付のものであろう。小山の側面の土を良く見ると、硬い砂岩質の土であり、城を築くには最適の場所であったかもしれない。
この城は、前述のように天文2年(1533)に築かれたが、水野忠政の子、信元の代に、桶狭間の合戦で敗北した今川軍によって焼かれてしまい、再建されたのは慶長5年(1600)の水野忠重が城主となった頃である。この城には天守閣はなかったが、当初本丸の四隅に櫓があり、一つは三層、あとは二層であった。しかし、元禄年間には、櫓は二箇所となり、階層も三層ではなく二層となっている。その後、明治維新を経て、戦時中は高射砲陣地として使用されるなどしたが、近年公園として整備され、今日に至っている。

<刈谷城本丸址・中央>
kariyajyo1

<刈谷城本丸址・表門付近>
kariyajyo2

<刈谷城二の丸址から本丸址へ>
kariyajyo3

前述の郷土資料館の東へのびる道が、大手道であり、郷土資料館より60~70mほど行ったところに大手門址がある。その東の図書館のある辺りは侍屋敷、さらに筋を2つ挟んだ東は町場となり、付近は城下町を形成していたが、明確には江戸期に形成されたと思われ、戦国期にはどうだったのであろうか。当然ながら、城の周りには家臣団の屋敷はあったであろう。その家臣団の屋敷を取り囲むように、つまり城を中心として同心円を描くように町場があったのであろうか。

<城池の外側から城址を望む>
kariyajyo-hori

その刈谷と水野氏の関係であるが、既に忠政の曽祖父貞守の代に刈谷に進出しており、文明8年(1476)頃には刈谷古城を築いたという。刈谷古城は現在の刈谷市天王町2丁目から元町6丁目*の台地上(本刈谷神社の西北側)にあって、西側、南側には低地が広がり、城があった辺りの台地上からは東浦の大型スーパーが見渡せる。*2005.12.31改
実は刈谷古城のことは、よく知らなかった。というより、刈谷城は若い時にも訪れており、その当時から公園化されていて、刈谷の一種のシンボルのようになっていた印象が強く、もう一つ刈谷古城なるものがあるとは思いもよらなかったという方がよい。今回も、郷土資料館作成の「歴史の小径」という印刷物を頼りに、車を走らせたが、例によって古い町は道が細い。また、途中工事もあって、目的地にはすんなりとは行けず、さらにそれらしき場所に着いたものの、立て札もなく、場所が特定できない。台地端に、小さい畑があり、そこに枝が落ちた木があるが、その根方にある土盛が土塁のようで、ひとまずそこが古城址の一部と目星を付けた。

<刈谷古城遠景>
kariyakojyo-enkei

そして、台地の上から台地下の低地やら周辺をまわったが、よく分からないので、何か配達をしている若い女性に聞いた。しかし、「いやー、わからないですね。ここが古い町なのは確かですが」と言われ、低地に止めた車に戻って帰ろうとしたとき、犬を連れた年配の婦人が来たので聞いたところ、「その竹薮ですよ」とのこと。なるほど、最初自分が目をつけた畑のある場所とは50mほどは離れているが、同じ台地続きで城址があってもおかしくない場所である。その竹薮の横を東西に道が通っており、台地の上から低地へ下っているが、その年配の婦人によれば、その道は元は道幅の半分ほどは水路になっていたという。つまり、刈谷古城とは台地端に占地し、台地鞍部とは水堀で区切っていたことになる。あるいは、台地先端の木の根方に土塁状のものがあった場所は、物見があったのではと思われる。
つまり、この刈谷古城は緒川を本拠とする水野氏が西三河に進出する足がかりとした出城であり、東からの進攻への防備のために構えたのではないだろうか。水野氏、それは言われるように貞守であったかもしれないが、当主自身は緒川に屋敷をもち、この刈谷には平時は一族か家臣を配置していたのであろう。それが、刈谷において勢力を拡大し、ついにはより本格的な統治のための城を建設するにいたったということだと思われる。

<刈谷古城址~右側の藪、道路には昔水路があった>
kariyakojyo1

<刈谷古城址の一部か、台地端の畑地に残る土塁状のもの>
kariyakojyo2

その刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある。これは水野忠政が刈谷城を築き、刈谷に移住した際、この寺に帰信し、水野家の菩提寺になった。元は、応永10年(1403)に浜松普済寺の利山義聡が海会寺を開き、多くの修行僧が集まって手狭となったため、応永20年(1413)新たに楞厳寺を建てたといい、第七世古堂周鑑の時に、忠政の帰信があって、水野家の菩提寺となり、於大の方も度々当寺を参詣している。境内にある水野家廟所は、市の史跡となっているが、小さい五輪塔などがある。緒川の乾坤院の水野忠政以下4人の墓地とは違い、いかにも中世の豪族が建てたもののようである。

<楞厳寺本堂>
ryogonji

<水野家廟所>
mizunoshibochi

於大の方は、天文10年(1541)に松平広忠に嫁ぐまでの数え年6才から14才までを刈谷で過ごし、さらに水野氏が天文13年(1544)信忠の代に織田方となったために離縁された17才から阿久比の久松佐渡守俊勝に再嫁する天文16年(1547)、20才まで、やはり刈谷に戻って城下の椎の木屋敷で過ごしたという。その椎の木屋敷に住んでいた頃に、楞厳寺に度々参っている。そのため、この寺にも於大の方の調度品がいろいろ残されている。また、晩年の画像、「伝通院画像」があり、これは県指定文化財となっている。
岡崎から離縁され、わが子家康は今川に人質になっている状況で、於大の方はどういう心境で、椎の木屋敷での日々を過ごしていたのであろうか。
やがて、刈谷から阿久比の坂部城主久松佐渡守俊勝に再嫁して、阿久比に住むようになってからも。

<椎の木屋敷址>
shiinoki1

<同所 於大の方像>
shiinoki2

次回、阿久比での於大の方と久松家のその後について見ていきたい。

参考文献:

・「刈谷 歴史の小径」 刈谷市郷土資料館
・「刈谷のあゆみ」 刈谷市郷土資料館
・刈谷市発行資料

|

« 徳川家康と知多半島(その5:於大の方の生誕地、緒川) | トップページ | 徳川家康と知多半島(その7:於大の方、久松氏と阿久比) »

コメント

重ねての質問で恐縮です。

>刈谷古城は現在の刈谷市“天王町6丁目”の台地上(本刈谷神社の西北側)にあって、西側、南側には低地が広がり、城があった辺りの台地上からは東浦の大型スーパーが見渡せる。――

この苅屋古城については、小生も大変興味があり楞厳寺へ採訪時に探索しましたが、ついに判明しませんでした。よくぞ発見なさってくださいました。感謝、感謝です。(^^)

 それで、“天王町6丁目”と書かれていますが、この住所地は楞厳寺の所在地ですよね。「本刈谷神社の西北側」といいますと、「元町6丁目」か若しくは「港町6丁目」付近ではなかろうかと思われます。もしその付近ですと「刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある」に整合するのではないかと推察されます。
小生も春になったら是非、「その竹薮ですよ」の箇所に行ってみたいと考えています。お差し支え無ければ、「竹藪」の詳しい所在地をお知らせ願えれば幸いです。
 マイ・ブログにも書きましたように、当時の刈谷古城は、おそらく館(屋形)ではなかったかと推測しています。つまり外敵防禦のため、屋敷の周囲に「塀」や「垣根」を設け、「門」を構えた簡単なもの、若しくはそれに「堀」や「土塁」が加わった程度のものであったろうと考えています。

投稿: ∞ヘロン | 2005.12.30 12:42

今日は。ご指摘の通りです。
刈谷市郷土資料館の資料で記載されていた住所をそのまま書いてしまいました。よくよく地図を見ると、天王町2丁目から元町6丁目に該当します。
ただし、天王町2丁目は小生が畑の中に土塁のようなものを見つけた場所で、散歩中おばさんが指した竹薮は元町6丁目になります。
竹薮および近隣の民家の場所に、居館があったのではないかと思います。刈谷市街からは名古屋トヨペットのある交差点を南に西勝寺の脇を通って、しばらく行くと、お堂で囲われた仏さんがありますので、それを右(西)に折れれば低地へ下る道となり、右側にその竹薮があります。何しろ、住宅が密集していますので、遺構らしきものはほとんど見当たりません。竹薮の中にも入った訳でもないので、何ともいえませんが。近隣の民家とは、たしかワタナベ何とかさんと言っていたと記憶しています。なお、道が狭く止める場所もありませんので、本来はどこかに車を置いて歩いていったほうが良いです。

投稿: mori_chan | 2005.12.31 11:21

年末のとてもお忙しい中を、早速ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。(^^)
 詳しいご説明でしたので、とってもよく解りました。わたしは、元刈谷神社付近と考えていましたのが、それより更に北になるのですね。
小河城から直線距離で約1.8Kmの地点で、両地点共に相対岸にあったことになりますね。少し暖かくなったらぜひ訪ねてみたいと思っています。改めて感謝いたします。m(__)m

投稿: ∞ヘロン | 2005.12.31 12:04

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 徳川家康と知多半島(その6:於大の方、水野氏と刈谷):

« 徳川家康と知多半島(その5:於大の方の生誕地、緒川) | トップページ | 徳川家康と知多半島(その7:於大の方、久松氏と阿久比) »