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2005.12.03

徳川家康と知多半島(その5:於大の方の生誕地、緒川)

前回、於大の方は、享禄元年 (1528 ) に現在の愛知県知多郡東浦町の緒川という場所で生まれたことを述べた。於大の方の父である緒川城主水野忠政や異母兄水野信元は刈谷に進出するとともに、知多半島にも武威を張り、そのかげで、於大の方の母、於富の方は政略によって忠政から離縁され、三河の覇者であった松平清康に再嫁した。於大の方自身も、松平清康の死後跡を継いだ松平広忠に、天文10年 (1541)に嫁がされ、翌年、後の家康である竹千代を生んだ。それらについても、前回述べたとおりである。

その於大の方が生まれた緒川について、もう少し見てみたい。東浦町発行資料などによれば、於大の方の生涯の前後の緒川については、以下のようにまとめられる。

 年代            事跡

平安末期 (1180頃) この頃小河重房小川に住む
延文5年 (1360) 小河正房、土岐氏に滅ぼされる
室町前期 (1350頃) 緒川の高薮城を竹内直道が築城し、以降竹内氏が治めるも、5代直玄は水野氏の臣下となる。
文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守、乾坤院を創建する。
享禄元年 (1528) 於大の方が、緒川城主水野忠政の娘として緒川にて生まれる。母は於富の方(華陽院)。
天文元年 (1533) 三河のほとんどを平定した岡崎城主松平清康から求婚された於富の方(母)は、水野忠政に離縁されて松平清康と再婚。
天文2年  (1533) 水野忠政、刈谷城を築き、家臣団を連れて移る。
天文10年 (1541) 於大の方岡崎の松平広忠のもとへ嫁ぐ。広忠16歳。
天文11年 (1542) 於大の方が竹千代(徳川家康)を生む。
天文12年 (1543) 於大の方の父忠政が逝去。於大の方の兄信元が相続する。
天文13年 (1544) 刈谷城主水野信元が今川方を離れ織田方についたため、今川方の松平広忠は於大の方を離別する。
天文23年 (1554) 村木砦の戦い
永禄元年 (1558) 石ヶ瀬の戦い
永禄3年  (1560) 於大の方の母華陽院逝去。桶狭間の戦い、今川義元敗死。以後織田信長の勢力 が急激に伸展。 松平元康(後の徳川家康)は大高城を脱出、知多半島から三河、岡崎へ帰る。
天正3年  (1575) 水野信元、織田信長のために岡崎にて殺される。
天正10年 (1582) 本能寺の変、織田信長が殺される。 変後、堺にいた徳川家康は「伊賀越え」をし、岡崎へ戻る。
天正10年 (1582) 於大の方の夫、久松俊勝逝去。
天正16年 (1588) 於大の方、髪をおろし伝通院と号す。
慶長5年  (1600) 関ケ原の戦、徳川氏政権が確立される。
慶長7年 (1602) 於大の方伏見城にて逝去、寿経寺(後の伝通院)へ納骨される。
慶長11年 (1606) 緒川城主水野が三河新城に転封となり、その後緒川城も廃城となる。

鎌倉時代には、当地を治めたのは地頭である小河氏であったが、南北朝の争乱期に小河氏が南朝についたため、北朝方の土岐氏に攻められて滅亡。その後、竹内氏が緒川のもうひとつの城である高薮城を築くなどして緒川を治めたようであるが、水野貞守の頃に水野氏が緒川にきて、緒川城を築き、この地域に勢力を伸ばし始めた。初代城主水野貞守は、前の勢力である竹内氏を臣下とし、隣国の刈谷や横根・大府にも手を伸ばし、数代かかって、刈谷などへの支配を確固としたものにしたと思われる。於大の方の父、水野忠政はその勢力の伸張期の当主であったといえる。

於大の方が生まれた緒川の地は、於大の方が生まれた頃には、父水野忠政が完全に掌握していたようである。実際に緒川に行ってみると、なるほど城下町の風情のある、歴史的景観を残した町である。細く入り組んだ路地が多いが、黒塀の屋敷があり、その大きな門がかつての武家屋敷の面影を感じさせる。格子戸のある商家の軒先には杉玉がつるされていたり、町の辻々には小さな地蔵がまつられているという具合である。

<緒川の町並み>
ogawa-machi1

<赤い丸型ポストも健在>
ogawa-machi2

<町辻の地蔵>
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さて、緒川には水野氏について、面白い伝説がある。
それは、地蔵禅院という小さな地蔵をまつった御堂の境内の井戸、「沢潟の井戸」にまつわるものである。地蔵禅院の本尊の木造地蔵菩薩は大昔海から引き揚げられたもので、かき殻がたくさん付いていたことから、かき殻地蔵というが、水野氏の3代、緒川城主水野清忠の奥方が子宝を授かるよう、このかき殻地蔵に祈願した。満願の日、この井戸の水を汲もうとすると、沢潟の葉が浮かび、その上に永楽銭が1つ載っていた。その後、子宝に恵まれ、沢潟と永楽銭を水野氏の家紋にしたという。
今、地蔵禅院に行ってみると、御堂は古くなっており、狭い境内も整備中のようであるが、沢潟の井戸はのこっている。ただ、鎌倉の星影の井のように、中をみることはできない。

<沢潟の井戸>
omodakanoi

於大の方や水野一族が暮らした緒川城は、文明7年(1475)に水野貞守が築いた城と言われる。現在は、すこし遺構も残っているが、主郭部分だけで空堀などは埋められたものか、地表上見えなくなっている。この城は、東浦町役場のある場所の北側の台地の中腹にあって、緒川の町全体を見下ろす場所にある。実際に行っても見ると、東浦町役場の南側の低地からは、住宅が密集していて分かりにくい。最初、たずねたときには、車で東浦町役場の南側の低地から住宅のなかの道を進んでいったが、なにしろ私の車一台でも、ぎりぎりでしか通れない、また曲がり角では切返しを何度もしないとこすってしまう位の細い道で、近所の人に聞きながら上っていった。作業場のおばさんに聞いて上がった、天理教教会のある場所のすぐ近くに城址はあったのだが、私はそのまま行かずに途中で右に曲がってしまい、あとで再び別の近所の方に聞いたら、「行き過ぎましたよ」とのこと。その日は、用事があったのと、日が落ちかけていたので、後日として、再度たずねたときにようやく見つかった次第。もし、城址が分かりにくいようなら、東浦町役場の北側を大きくカーブしながら台地を上がっていく広い道路を、台地を上がりきらない半ばほどまで歩き、そこから緒川の町を見下ろせば、木が何本か茂っている小山のような場所が見えるので、そこを目指して行けばよい(ただし、自動車では行かないほうがいいでしょうな)。

<緒川城址~地元の人からは古城(ふじろ)と呼ばれる>
ogawajyo

<緒川城址を下の公園から見る~公園には於大の方生誕の碑>
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それはともかくとして、実は緒川には、もう一つ、高薮城という緒川城の北側の台地にあった城があり、鎌倉時代の地頭小河氏が南北朝の戦乱で滅んでからは、高薮城の竹内直道ら竹内氏が当地を治めていたらしい。その5代直玄は水野氏の臣下となったというが、初代竹内直道が高薮城を築いたのが1350年頃として、1代25年とすれば、5×25=125年で、5代竹内直玄は1475年頃の人ということになり、文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守が宇宙山乾坤院を創建した年あたりということとなる。
つまり、水野貞守はどこからか進出してきて、在地の竹内直玄を臣下としてしまったということであろう。寛政重修諸家譜によれば、水野氏は譜代大名5家,旗本が20家以上であり、その主流は清和源氏多田満仲の弟鎮守府将軍満政を祖と称する満政流で占められている。源満政の子孫が尾張知多郡小河庄に住み小河氏と名乗って、在地領主として成長したが、南北朝の戦乱で南朝につき、土岐氏に攻められていったん尾張春日井郡水野に退き、水野氏を名乗って故地に復し、緒川城主となったというわけであるが、信じがたい。
ともかくも、貞守の曾孫水野忠政が戦国初期には緒川から三河に進出して、刈谷に築城、刈谷城主となり、さらにその子信元の代には織田家のもとで知多半島にも進出し、勢力を拡張する。天正3年(1575)織田信長の命で信元が岡崎で誅されるにおよび、水野氏の緒川支配は一時中断するが、於大の方の弟で、忠政の四男、忠守が緒川城主となった。また信元のあとの刈谷は、やはり於大の方の弟、忠政の九男、忠重が刈谷城主となっている。
水野忠守が城主となって、緒川城は改修され、水野忠守はそれまでの古城部分から、高藪城と呼ばれる箇所に移り住んだ。古城部分は緒川古城、高藪城は緒川新城とされる。
水野忠守の跡の家督は、忠守の子忠元、孫の岡崎城主忠善と受け継がれている。ちなみに、水野忠善は豪傑ながら粗忽なところのある人であったというが、祖先を思う気持ちが強かったらしく、乾坤院に堅雄堂を建てたのは、その水野忠善である。
さらに、関ヶ原合戦後に緒川を領有した水野分長が、慶長11年(1606) 三河新城に転封となるまで、水野氏の緒川在城は続いた。なお、緒川城主水野忠守、堅雄堂を建てた水野忠善の子孫に、老中となった水野忠邦がいる。

<高薮城址~今は遺構が見られない>
takayabujyofukin

では、於大の方は緒川でどんな幼少期を過ごしたのであろうか。記録もないので、よく分からないが、戦に明け暮れる父や兄と政略結婚で松平清康に嫁ぎ、於大の方が物心ついた時にはいなかった母のことを考えると、戦乱の世の常とはいえ、さみしい生活であったようにも思える。
そのような戦乱のなかでの暮らしで、心を寄せることができたのは、前回紹介した乾坤院や善導寺などの仏であったろう。これらの寺には、刈谷にはいってからも、その後も於大の方はたびたび参拝している。

於大の方も参拝した緒川の善導寺は、浄土宗鎮西派の寺で、山号は海鐘山というが、京都の知恩院の末寺になる。
寺伝によれば、嘉吉3(1443)年に音誉聖観聖人が創建した寺である。山号が海鐘山というように、かつては海辺にあって、たびたび潮水の被害にあったため慶長10年(1605)に緒川城主水野分長が現在の山上、すなわち八幡社前に移築したのだという。於大の方は、度々この寺に参拝し、寺に寄進した三尊阿弥陀如来像、善導大師木像、同師自画像、同師所持の柄香炉が今も残っているという。やはり、乾坤院と同じように、尾張徳川家の庇護を受け、21石9升6升の寺領を与えられているほか、尾張徳川家歴代の黒印状を受けている。於大の方の縁故で、徳川家と関係深いことは、寺のいたるところに葵紋があることでもわかる。三つ葉葵の紋所が、いろいろな場所についているのは、成岩の常楽寺と同じである。

 なお、善導寺には県指定文化財になっている正安2年(1300)の異国降伏祈願施行状(非公開)が伝えられている。これは、元寇にさいして鎌倉幕府が広く全国の社寺に敵国降伏の祈祷を命じ、蒙古軍撤退後もなお30年もの間、続けられたということの史料である。
また、於大の方自身の身近なものとして、於大の方の夜着が、この寺に残されている。於大の方は、この寺に宿泊もしたのであろう。そう思うと、緒川の町並みも、於大の方が侍女などを連れて歩いた光景に、重なってくるのである。

<緒川の善導寺>
zendouji

<善導寺のいたるところに葵紋が>
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<善導寺の鐘楼門>
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さて、次回は刈谷から知多の阿久比町の関連史跡を紹介することにする。

参考文献

・愛知県東浦町ホームページほか東浦町発行資料
・広報ひがしうら 2004年4月1日号
・愛知県刈谷市ホームページ

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