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2005.12.14

徳川家康と知多半島(その7:於大の方、久松氏と阿久比)

ようやく阿久比までたどり着いた。思えば長い道のり?であった。
家康も言っている、「人の一生は重き荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」と。
家康が、本当にそう言ったかどうかは別として、岡崎に生まれて幼児の頃に、駿河の今川に人質に出され、桶狭間の合戦を契機に今川の下を離れてからも、織田信長や豊臣秀吉の風下にたち、本格的に天下を狙うようになったのは老人になってからという家康なら、言いそうな格言ではある。

さて、天文10年(1541)、政略結婚で岡崎の松平広忠に嫁いだ於大の方は、天文13年(1544)に兄である水野信元が今川から離反し、織田方についたため、松平広忠から離縁され、わが子竹千代(後の家康)と生き別れとなった。その直後は前回の刈谷での於大の方について書いたような状況であったが、天文16年(1547)には水野信元の命で、今度は水野家と近しい阿久比の坂部城主久松佐渡守俊勝に再嫁することになった。そして、生き別れとなった竹千代の身を案じつつ、戦国武将には珍しく温厚で優しい人物であったらしい夫や、夫と先妻佐治氏女(おかんの方)の子である信俊とともに阿久比で暮らすことになる。

<坂部城址からみた阿久比の里>
aguinosato

その間の於大の方については、阿久比町発行の「於大の方物語」に詳しいが、その本の年表を引用すると、以下の通りである。強調表示が阿久比で過ごした年である。

***以下引用***

天文13年(1544) 17歳
 
 兄・水野信元、今川家離反の故をもって離別され、9月、竹千代(家康・3歳)と別れて、刈谷城へ帰る。
 帰途、兄の怒りを予測し、国境で岡崎よりの従者を帰してその命を救う。

天文15年(1546) 19歳
 
 刈谷・楞厳寺へ什物を寄進する。

天文16年(1547) 20歳                
 
 兄の命により、坂部城主・久松俊勝(23歳)に再嫁する。
 8月2日、竹千代(家康・6歳)人質として駿府(今の静岡)に送られる途中、田原城主・戸田康光に奪われ、織田方に送られ、熱田に置かれたので、ひそかに衣食を送り続けた。

天文18年(1549) 22歳

 竹千代(家康・8歳)人質交換により、11月、駿府に移されたので、生母玄応尼を通じひそかに衣食を送り続ける。

天文21年(1552) 25歳

 坂部城で、長子・久松康元を生む。

弘治元年(1555) 28歳

 坂部城で、次男・久松康俊を生む。

弘治3年(1557) 30歳
 
 (兄・水野信元と元信(家康・16歳)石ヶ瀬で戦う。)
 (信元(家康)、名を元康と改める。)

永禄2年(1559) 32歳

 坂部城で、三男・久松定勝を生む。

永禄3年(1560) 33歳
 
 5月初め、生母お富の方(玄応尼)駿府に没する。
 (今川義元、駿府を出発、西征に向かう。)
 5月17日、松平元康(家康・19歳)阿久比城を訪れ、感激の対面をする。
 5月19日、桶狭間の戦い。織田信長の奇襲により、今川義元戦死す。元康、水野信元、於大のはからいにより、無事岡崎城へ帰還す。

永禄4年(1561) 34歳
 
 義子・久松信俊に坂部城を譲り、夫・久松俊勝と共に岡崎城へ入る。(阿久比在住15年間)

永禄5年(1562) 35歳                  
 
 夫・久松俊勝、西郡(今の蒲郡)城主となる。

永禄6年(1563) 36歳
 
 9月、三河一向一揆起こり、翌年2月まで続く。夫、各地で転戦。
 松平元康(25歳)、家康と改名する。

永禄9年(1566) 39歳
 
 松平家康、12月、徳川姓を勅許され(28歳)、従五位下、三河守に任ぜられる。

天正3年(1575) 48歳
 
 兄・水野信元、織田信長の命により岡崎城で殺され、夫・久松俊勝(51歳)これを憤り、城を出て、諸国を放流。

天正5年(1577) 50歳
 
 7月、阿久比城主・義子・久松信俊(母は佐治氏の出、おかんと称するとか)、佐久間信盛のざん言により、織田信長の命で、大阪・四天王寺で切腹。
 刈谷城主となった佐久間の軍、坂部城を攻め、城は灰燼に帰す。信俊の子、小金丸、吉安丸死す。

天正7年(1579) 52歳
 
 (織田信長の命により、家康(38歳)やむなく正室・築山御前と長子・信康の命を失う。)

天正8年(1580) 53歳
 (弟・水野忠重は刈谷城主、同忠守は緒川城主となる。)

天正10年(1582) 55歳
 
 (織田信長(48歳)、明智光秀のため、京都・本能寺に死す。)
 (家康(41歳)、堺より急ぎ伊賀を経て岡崎に帰る。)

天正11年(1583) 56歳
 
 次男・久松康俊、久能城主となる。

天正12年(1584) 57歳
 
 (4月、家康(43歳)、豊臣秀吉と長久手で戦う。)
 三男・久松定勝、下総小南城主となる。(後に伏見城代、桑名城主を経て、その子孫、四国松山城主となる。)

天正14年(1586) 59歳
 
 次男、久能城主・久松康俊(4月)死す。33歳
 (5月、秀吉妹朝日、正室として家康(45歳)に嫁ぐ、9月、生母として浜松城に入る。

天正15年(1587) 60歳               
 
 夫・久松俊勝、西郡城(一説に岡崎城)に死す。63歳
 蒲郡の華林寺で火葬、遺骨を清田安楽寺と坂部洞雲院に葬る。
 夫の菩提のため、出家し、伝通院と号す。

天正18年(1590) 63歳
 
 (家康正室朝日、1月京都の聚楽第で病歿。48歳)
 長子・久松康元、下総関宿城主となる。

文禄元年(1592) 65歳
 
 緒川・善導寺に寺宝を寄進する。

文禄3年(1594) 67歳
 
 刈谷・楞厳寺へ、母と自身の画報を納める。

慶長3年(1598) 71歳
 
 (8月、豊臣秀吉病死す。62歳。)

慶長5年(1600) 73歳
 
 関ヶ原の戦い。家康(59歳)天下の実権を握る。

慶長7年(1602) 75歳
 
 長子・康元、三男・定勝の子、定行に伴われて、家康を伏見城に尋ね、8月28日同城にて病死。
 9月18日江戸の小石川で葬儀、伝通院に葬る。遺髪は、坂部洞雲院と岡崎・大仙寺の墓に分納される。
 
***以上***

於大の方が再嫁した久松氏は、菅原道真と同族である菅原家の支族である久松麻呂が配流されて始まるとも、菅原道真から三代の雅規が英比麻呂(英比丸)と称し、さらにその14代の後胤、道定の時、久松を称するようになったともいうが、はっきりしない。しかし、源氏や平氏ではなく、菅原氏をわざわざ名乗っているのは、事実菅原氏の出身であるからであろう。一説では斯波氏被官であった道定が、当地に土着したというが、何らかの事情で菅原氏の流れをくむ武士が当地に配され、在地領主化したものと思われる。
歴史上、明確になっているのは、道定より9代の孫という定益からで、坂部の洞雲院を創建したのは定益であり、洞雲院は永正7年(1510)になくなった定益の法号となっている。
その久松氏が拠ったのが、坂部城であるが、定益が築城したという説と定益の孫である俊勝が築城したという説がある。地形から見ると、阿久比の里を見渡せる高台にあって、洞雲院とも間に細い低地を挟むが、隣接しているといえるほど近い。この坂部城と洞雲院は、久松氏の支配圏の中心となっていたと思われ、やはり洞雲院を開基した定益が築城したというのが正しいように思われる。
現在、坂部城は本丸があった台地の中腹の削平地が、城山公園として整備され、その西側墓地があったところは図書館になっている。

<城山公園となった坂部城址>
sakabejyoushi

<坂部城本丸址>
sakabehonmaru

坂部城は張州府志などでは、東西40間、南北50間という広さになっているが、m換算すると、東西72m、南北91mとなる。本丸の平面と周囲にあったであろう空堀をいれても、現在はそれほど広くない。やはり道路や住宅地などとなって、かなり削られているのであろう。文政9年(1826)に書かれた、洞雲院に残されている古地図(阿久比町発行資料に掲載)では、近代の城のように書かれているが、当時は土塁と空堀の城であり、本丸である現在の城山公園の周りを空堀がめぐり、城の東側には侍屋敷、西側は墓地で、北側には洞雲院との間に細い谷、南側は谷となり、その向こうに寺や侍屋敷があった様子がわかる。洞雲院の東側の斜面は現在駐車場になっているが、ここにも侍屋敷や洞雲院の寺坊などがあった様子で、今でも駐車場には明らかに何かの建造物の礎石らしいものが残っている。ちょっと見には分からないが、実際洞雲院の駐車場に車をとめるのは、あまりに斜面が急なために技術を要するのである。前は、段々がついていたのではないかと思われるが、それを削平せずにそのままならして舗装し、駐車場としたのであろう。
それはともかく、坂部城址で遺構が残っているのは、本丸址の西南に土塁、西側図書館となっている場所との間に空堀址、南側の斜面に竪堀のようなものがあるのと、東南の一角が虎口の様に開口し、そのまま北東へまわりこむ通路となっているものくらいである。
絵図をよく見ると、本丸の一角に坂部藤十郎という武士の屋敷があるが、これは家老クラスの重臣であろう。侍屋敷には新美や竹内という名字の者が何人かいるが、当地には現在もそういう名字の家が多い。
於大の方が、天文16年(1547)阿久比に再嫁した年、戸田康光の謀により尾張に人質にだされた竹千代の身を案じて、於大の方は熱田の竹千代のもとに、平野久蔵、竹内久六をつかわしてお菓子や日用品を与えているが、その平野久蔵、竹内久六の子孫の方も当地にいるかもしれない。以前、会社で同じ課にいた竹内さんも阿久比の人であったが、もしかして竹内久六の子孫かもしれない。

<坂部城を中心とした古地図>
sakabejyouzu

<坂部城の虎口>
sakabekoguchi

<坂部城の土塁>
sakabedorui

於大の方は年表にあるように、康元、康俊、定勝という三子を久松俊勝との間に産み、その三人の子は家康の異父弟として、やがて松平姓を与えられ、自身も大名となったほか、定勝の子孫からは松平定信が出ている。阿久比では、於大の方も、先妻の子で長子である久松信俊と実子(上記男子三人と女子二人いたらしい)の子育てや、坂部城主の妻としての務めに励んでいたと思われ、しばらくは比較的平穏で充実した日々であったろう。

於大の方にとって、穏やかな阿久比での日々であったが、戦国の激動の時代の流れには逆らえず、桶狭間の合戦で織田方にたった夫久松俊勝、今川方の部将になったわが子松平元康(徳川家康)と、身内が敵味方に分かれ、また桶狭間の合戦で敗れた松平元康は危機に直面する。さらに於大の方の兄である水野信元が、織田信長の命で岡崎で誅されたことを契機に、久松家にも暗雲がたちこめることになった。

そのあたりは、次回に述べることにする。それでは、また。

参考資料:
・「於大の方物語」 近藤英道著 (阿久比町)
・阿久比町発行資料

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