« 徳川家康と知多半島(その7:於大の方、久松氏と阿久比) | トップページ | 「ねこの手も借りたい」考 »

2005.12.16

徳川家康と知多半島(その8:阿久比、そして再び岩滑)

まず前回、久松氏の出自について少し述べたが、補足したい。
久松氏は、久松麻呂、あるいは英比丸といった人物の後胤かどうかは分からないが、菅原氏の流れをくむ武士で、何らかの事情で先祖が知多半島の阿久比へ配流されたらしいことは前述の通りである。菅原氏といっても、よくあるように道真の子孫とは公には名乗っていないようで、また武門の本流である源氏や平氏とは言わず、菅原氏として傍流の公家出身らしいことを自ら明かしているところに、信憑性がある。
阿久比町誌によれば、「洞雲院系図」では久松定益は斯波義廉の被官で、明応2年(1493)に久松寺の寺号で洞雲院を建立したとしており、「張州府志」なども洞雲院を定益の創建としている。そして、坂部城は、洞雲院とともに、久松氏の支配圏の中心にあったと前回述べたが、築城時期も同じ頃であったらしい。それは、「洞雲院系図」で定益の子、定義について、「領阿古居庄住坂部城館造営之御霊堂大日殿再建」とあり、定益が久松寺を建立したのに対し、定義は「洞雲二世住」とあるから、洞雲院と坂部城はほぼ一体的に修造されたことになる。おそらくは定益が洞雲院と坂部城の両方を作りはじめ、存命中に洞雲院は完成したが、坂部城築城は親子二代がかりになったのではないだろうか。

<於大の方の遺髪塚のある洞雲院>
douunin

永正7年(1510)になくなった定益が生きていた頃、久松氏は大野城に拠った佐治氏と対立していたらしく、ことが起こると烏菟山に登って鐘を鳴らし、貝を吹いて苅屋藤右衛門吉重、小川四郎右衛門尉定英(定益の外戚の叔父とも義理の兄弟ともいう)のはせ参じるのを求め、一方苅屋吉重、小川定英に何かあれば、定益が駆けつけるというように一族で支えあっていたと「寛永譜」「寛政譜」に記されている。
佐治氏とは、久松俊勝の代に、佐治氏の娘おかんの方が輿入れして、姻戚となったが、それも勿論政略結婚で、かつて対立していたもの同士が手を結んで、互いに牽制したのであろう。元々知多半島は室町期には、足利氏の一族で三河出身の一色氏が西知多を中心に支配していた。阿久比の坂部の近く、草木という場所に、竹林(ちくりん)城という城があったが、これは中世大野庄の領域を治めていた一色氏の出城であったが、応仁の乱以降は佐治氏が拠点としたらしい。一方、戦国期には水野信元が大野口のおさえとして、付近に竹之腰城を築き、竹内弥四郎に守らせたという。この辺りは、戦国期には微妙な勢力構図となっていたようである。

かつて一色氏は常滑の大野など西知多の拠点をおさえ、交易によって財力を蓄えていたが、応仁の乱を契機にして急速に地力を失い、ついに知多から退転するにいたり、大野は一色氏の代官であった佐治氏が治めるところとなっていた。一色氏という大きな勢力を失うと、知多の諸豪は駿河の今川に加担するようになった。佐治氏や宮津の新海氏、武豊の岩田氏などは、今川氏になびいたが、久松氏は一線を画して、織田氏に近かった。そして、織田氏に近かったが故に、今川の傘下から織田に加担した水野信元が同じ織田方として近づき、久松俊勝に於大の方が政略結婚で再度水野家から嫁ぐことになる。

<坂部城本丸址>
sakabejyo-honmaru

なお、阿久比には坂部の久松氏だけでなく、前出の宮津の新海氏も勢力を張っていた。阿久比谷の西を久松氏が治め、東を宮津の新海氏がおさめていたが、新海氏は久松氏と比べると影がうすいようだ。新海氏は久松氏と同じように菅原氏の出身を名乗っており、その系譜、「由緒略」には、正治2年(1200)に、道真の長男淳茂から十代の後である新海実行がいかなる理由によるものか不明ながら卯之山の館を出奔し、備中国英賀郡下村に居住、その孫の実清のとき京都に転じ、さらに実清の子淳英に至って知多郡に帰った、淳英は久松城の城主となり、これを改名、やがて弘安9年(1286)ゆえあって宮津村柳審城に転住したという。最後の「弘安9年(1286)ゆえあって宮津村柳審城に転住」という部分のみが本当らしく、後は久松氏の系譜を真似したのか、創作が多いようである。卯之山の館とは、現在の兎養山弘誓院(元は長安寺)のある山の中腹、池のほとりにでも館があったのであろうか。寺伝では兎養山長安寺は七堂伽藍が建ち並び、五十もの坊舎のある広大な寺院であったが、戦乱で焼け、小さな寺になったという。勿論それは話半分としても、戦乱で焼け、寺域が相当小さくなったというのは事実であろうから、その周りに寺を保護した豪族がいてもおかしくはない。したがって、上記の伝承が全て脚色とはいえないであろう。

<兎養山弘誓院>
guseiin

宮津村柳審城は、現在の宮津の秋葉山に比定されており、明確な文書はなくても、周囲にはその伝承があるのであるから、勿論そこに城があり、それに新海氏が拠ったことも事実であろう。なぜ新海氏が久松氏と比べると影がうすいかといえば、新海氏二十一代という淳尚の代、天文12年(1543)に柳審城が水野氏に攻められて落城し、その「家士残党」三百余名が当地の農民になったというから、戦国期に水野氏の攻勢の前に没落したためである。
また、かつては阿久比の一部とみなされていた岩滑に新海氏は進出していて、宮津城主新海淳尚の出城を岩滑に築いて、榊原主殿をここに居住させたが、天文12年に水野信元が新海を攻めて領地を奪取し、岩滑城には中山勝時を入れたという。この中山氏については、前にも述べたが、水野氏配下であり、元は桶狭間辺りにいた武士であるという。ちなみに、榊原姓の家は、今でも岩滑には多いが、水野氏に岩滑が支配されるようになってから、榊原氏は半田城に拠った可能性があるという。

少し前置きが長くなったが、於大の方が阿久比の坂部城主久松佐渡守俊勝に再嫁し、生き別れとなった竹千代(後の家康)の身を案じつつも、夫久松俊勝や子に囲まれて、穏やかな日々を過ごしていたことは、前回述べた通りである。

しかし、前回の年表で、

永禄3年(1560) 33歳
 
 5月初め、生母お富の方(玄応尼)駿府に没する。
 (今川義元、駿府を出発、西征に向かう。)
 5月17日、松平元康(家康・19歳)阿久比城を訪れ、感激の対面をする。
 5月19日、桶狭間の戦い。織田信長の奇襲により、今川義元戦死す。元康、水野信元、於大のはからいにより、無事岡崎城へ帰還す。

とあった、永禄3年(1560)を境に、於大の方も、徳川家康も、それまでとは違う生き方となっていく。

すなわち、東海の雄であり、上洛して足利将軍家を助けるという代々の夢を実現しようとしていた今川義元が、尾張の織田信長に桶狭間であえなく敗れ、東海地方での勢力構図が大きく変わり、織田信長が台頭することになった。於大の方が嫁いだ久松氏、実家である水野氏は織田方で勝ち組、松平元康(徳川家康)は今川方の先鋒の部将として大高城への兵糧入れを行った武功が一転敗軍の将となり、織田軍に包囲された大高城から辛くも脱出する始末であった。
大高城を脱出した元康は、一旦母の居る阿久比を目指したであろう。年表では桶狭間の合戦の前に、元康は阿久比をたずねたことになっているが、実際は今川軍が桶狭間の合戦で敗れたため、大高城を脱出して、知多半島を南下し阿久比に行ったのではないだろうか。そこで親子の再会があったとしても、束の間のことであったろう。
阿久比では織田方であった手前、余り長い間元康をかくまうことができなかった。そして、元康は矢勝川を渡って、岩滑を経て、成岩の常楽寺に入り、ここで休憩した後、成岩浜から三河大浜へ渡り、途中大樹寺に参詣して無事に岡崎城に帰ることができた。
なお、元康が矢勝川を渡ろうとした時に、仮に架けたような木橋(丸木橋という話もあるが、それでは馬が渡れないので、板橋のような橋か)があり、元康はその橋を渡った。その時元康は、「無事に帰り、天下をとったら、この橋を立派にかけかえる」と言い、実際に将軍となった時に、立派な橋をかけた。そして、後々もその橋の修繕などは尾張徳川家に一切まかせることとし、そのことは江戸期を通じてずっと守られたたため、その橋を「藩費の橋」といったという話が伝わっている。なお、その時道案内したのは、常滑の住人、衣川八兵衛で、家康はその労をねぎらって槍一筋を与えたという。
そして、岡崎に帰った松平元康は、氏真が継いだ今川家を見限り、織田信長について同盟関係を結ぶことになる。今川家は家臣の離反が相次ぎ、今川氏真は駿府を維持することができず、掛川に居城を移している。元康は、名前も今川義元の名前の一字である「元」の字を返上して、家康と名乗り、永禄9年(1566)には先祖松平親氏以前の復姓ということで徳川と勅許を得て名字もかえ、徳川三河守家康となる。

<矢勝川にかかる「殿橋」~かつて「藩費の橋」があった>
hanpinohashi

<この辺りにあった木橋を家康も渡ったか>
hanpinohashi2

一方、於大の方と久松俊勝は、長子信俊に阿久比、坂部城をまかせて、永禄4年(1561)に岡崎に移り、於大の方の阿久比での15年間の生活は終わった。
その後、天正3年(1575) に於大の方の兄、水野信元が領民が武田方へ物資(兵糧とか炭とかいわれる)を売ったため内通の嫌疑をかけられ、信元とその子信政が織田信長の命により岡崎で誅されるという事件が起きる。実際に手を下したのは家康の命で動いた石川数正と平岩親吉であったといい、於大の方の夫、久松俊勝はこれを憤り、城を出て、諸国を放浪したという。その後、天正15年(1587)に、久松俊勝は、西郡城(一説に岡崎城)でなくなり、蒲郡の華林寺で火葬、遺骨を清田安楽寺と坂部洞雲院に葬る。

<久松墓所>
hisamatsubosho

<久松墓所2>
hisamatsubosho2

<於大の方の遺髪塚>
odaibosho

さらに、その2年後の天正5年(1577)7月、阿久比城主であり、於大の方の義子久松信俊が、石山本願寺攻めの軍勢に加わっていたものの、佐久間信盛のざん言により引き出され、織田信長の命で、大阪四天王寺で切腹させられている。水野信元なきあと、刈谷城主となった佐久間信盛の軍勢が、坂部城を攻め、城は炎上、灰燼に帰した。哀れ、久松信俊の幼い子、小金丸、吉安丸が落城とともになくなっている。血のつながりはないが、於大の方の子や孫が一ぺんになくなったのだから、於大の方はさぞ嘆いたことであろう。

今も洞雲院には、於大の方の遺髪塚とともに、久松定益、定義、俊勝という歴代の墓がある。それらは後の久松松平家の先祖として、墓所には囲いが付けられ、丁重に祀られている。しかし、久松信俊、小金丸、吉安丸の墓地は寺の本堂の裏、ひっそりとした場所にある。久松信俊らの墓は、小さな五輪塔であるが、新しくなっていおり、以前はもっと小さい簡単な墓であったらしい。
松平の姓をもらった一族およびその先祖と、そうでない不名誉な死を与えられた人々の差が、墓にまであらわれている。

<久松信俊の墓>
nobutoshi

<信俊の子の墓>
yoshiyasumaru

前にも述べたように、阿久比での15年は、於大の方にとって比較的平穏な日々であったが、後に優しかった夫は出奔の末なくなり、なついていた信俊は織田信長の命で切腹させられている。久松信俊が切腹した2年後、家康はやはり織田信長の命でわが子信康を処断している。
皮肉なことに、徳川家康の身内で信長の信の字を名前につけた者たち、つまり伯父である水野信元、従兄弟の水野信政、義理の兄弟である久松信俊、そして実子である信康は、織田信長の命で討たれるか、切腹させられている。
戦国時代の動乱は、今の阿久比や岩滑からは想像できない。今も阿久比と岩滑の境には矢勝川が流れているが、現在は川岸に新美南吉にちなんだ公園があったり、川岸の道を犬を連れて散歩している人などが行きかっている。川は護岸工事がされているが、のんびりと鴨が泳いでいる。家康が木橋を急いで渡ったのは、もう440年以上も前のことである。

<矢勝川を泳ぐ鴨>
yakachi-kamo

参考文献
・「あぐいのあゆみ」   阿久比町誌編さん委員会 1994
・「阿久比町誌」     阿久比町教育委員会    1993
・「やなべの歩み」    やなべの歩み編集委員会   (岩滑コミュニティ推進協議会) 1985

|

« 徳川家康と知多半島(その7:於大の方、久松氏と阿久比) | トップページ | 「ねこの手も借りたい」考 »

コメント

早速、質問させて頂きます。(^^;

>岩滑城には中山勝時を入れたという。この中山氏については、前にも述べたが、水野氏配下であり、元は桶狭間辺りにいた武士であるという。――

と書いておられますが、この中山家はご存じのように、常滑水野へ養子を出した家と思われます。つまり、
初 代 水野八郎右衛門保雅
  岩滑城主 中山五郎左衛門の子八郎右衛門。常滑水野の養子となり、元和年中(1615-1624)に、尾張初代藩主 徳川義直に召し出だされ、御馬廻組を命じられ、二百石をあたえられた。

この保雅や実父との関係が知りたいのと、また「元は桶狭間辺りにいた武士」とのことですが、その出典をお知らせいただければ幸いです。

投稿: ∞ヘロン | 2005.12.30 12:19

こんにちは。
水野保雅や実父との関係については、不勉強で私は情報を持ち合わせておりません。これはちょっとすみませんが。
中山氏が元は桶狭間辺りにいた武士というのは、「阿久比町誌」か「やなべの歩み」に出ていたと思います。いずれも阿久比町の図書館で読んでおりますが、現在千葉県船橋市の自宅に帰っていますので、お時間をいただければ、どんな記述であったかお答えできると思います。

投稿: mori_chan | 2005.12.31 11:37

なんと、同じ時間帯でコメントを書いていたのですね。チャットをやっている気分です。(^^)
 お正月は、帰省なさっておられるのですね。私の方は決して急ぎませんので、お時間がとれましたら、なにとぞよろしくお願いいたします。
 それから、貴ブログを勝手に「ブックマーク」に登録させていただきました。また、メールアドレスも記載しましたので、ご必要があればご利用ください。
 今年は、最後の最後に、またまた素敵なブロガーと巡り会うことができました。来年もどうかよろしくお付き合いくださいませ。m(__)m

投稿: ∞ヘロン | 2005.12.31 12:14

∞ヘロン様、例の出典についてです。

「中山氏については、前にも述べたが、水野氏配下であり、元は桶狭間辺りにいた武士であるという」というのは、「やなべの歩み」P34にある以下の文章から記述したものです。
---
中山家の系譜については、『洞迫間(くけはさま)即ち今の桶狭間から来たものの様である。日観が下総中山の法華寺からこの地に伴って来たものだと云う。」と「知多郡史」にあり、「勝時、北尾、洞迫間(不明)を領す」と「半田町史」は記している。
---
「知多郡史」も見てみましたが、上記以上の情報はないようです。但し、日観が云々とあるのは、信じ難いです(中山の法華寺とは今の中山法華経寺で、よく知っていますが、この中山から出た姓の武士など聞いたことがないため)。また、「やなべの歩み」は中山家に残る「尾陽雑記原本中山系抄出」なる文書について系図の部分を記述していますが、五郎左衛門と刑部大輔を名乗る傾向があるようで、ほかに将監、外記(熟語変換ができないのでこまったもんです)などの通称があります。また、太平記建武比に中山五郎左衛門という名が出、浅井記にも近江の人で中山五郎左衛門という人物がいた、さらにその中山とは近江国坂田郡八幡中山村(滋賀県長浜市八幡中山町)で、そこには「今も中山姓多く、『淡海温古録』は「中山五郎左衛門は京極家より浅井に至り物頭なり」としている。(名古屋中山文夫氏調査による)」とのこと。それがいかなる経緯で、桶狭間に行き、水野氏の被官になったのかはよく分かりません。ただ、浅井氏は苅安賀城(一宮)にもいたようなので、何かの事情で尾張に移住したのかもしれません。

投稿: mori_chan | 2006.01.08 16:21

中山氏の貴重な情報をどうもありがとうございました。
すごく丁寧で分かり易く解説までしてくださり感謝いたします。
 中山民部少輔勝時(通称 中山刑部大輔)は、本能寺の変で、織田信忠と共に二条城で討ち死したそうですね。(『張州雑志』)

投稿: ∞ヘロン | 2006.01.09 13:39

中山家についての出自は、日頃お世話になってます、「佐々木哲学校ブログ版」に詳しく解説されていましたので、お知らせしておきます。(^^)


http://blog.sasakitoru.com/200511/article_9.html

投稿: ∞ヘロン | 2006.01.09 13:53

以前、コメントで千葉県の中山法華経寺のある中山を名字の地とした武士など、聞いたことがないと書きましたが、別件で千葉氏の重臣原氏の系譜について調べていたところ(具体的には手賀原氏)、原氏の一族で、有名な享徳の乱(房総では千葉宗家を庶家馬加氏が滅ぼした)の際の立役者、原胤房の子で原出雲守胤宣(たねよし)という人物がおり、その人が今の中山法華経寺のある八幡庄中山を根拠として、中山八郎太郎と名乗っていたことがわかりました。原出雲守胤宣は「中山殿」と呼ばれていたそうです。もちろん、原胤宣は、中山勝時とほぼ同時期の戦国時代の人ですので、岩滑城によった中山氏と関係あるとは思えませんし、胤宣の子孫ももしかすると手賀に拠ったとすれば、中山とは言わなかったかもしれません。しかし、前言は知らなかったとはいえ、不明のいたりです。

投稿: mori-chan | 2006.05.07 18:55

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/84760/7645913

この記事へのトラックバック一覧です: 徳川家康と知多半島(その8:阿久比、そして再び岩滑):

« 徳川家康と知多半島(その7:於大の方、久松氏と阿久比) | トップページ | 「ねこの手も借りたい」考 »