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2005.12.25

徳川家康と知多半島(その9:常滑と大野)

前に述べたように、徳川家康がその生涯で遭遇した危機を二度も知多半島の縁者に守られて切り抜けたが、一度目が桶狭間合戦後の敗走時、二度目が本能寺の変直後であった。

天正10年(1582)、本能寺の変の際、家康は堺見物をしていた。そして、家康は茶屋四郎次郎の急報により、本能寺の変で信長が死んだことを知った。この後、少ない人数の供回りで、山城、近江、伊賀の山中を通って伊勢へ抜けるという、有名な「伊賀越え」を行い、家康は白子浜から伊勢湾を渡り、本国三河に戻ったのである。このとき、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った穴山信君は、山城で土豪の襲撃を受けて死んでおり、家康も一歩間違えば、穴山信君と同じ運命をたどったかもしれない。この「伊賀越え」は、豪商であり、知恵者である茶屋四郎次郎の同行もあり、伊賀で所縁のある土豪らの支援を受けたとはいえ、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。

この「伊賀越え」の後、伊勢の白子浜から、海路どういうルートで家康は三河の大浜に行ったのか。伊勢の白子浜からは、三河大浜まで直に行くには、知多半島の先頭の師崎の沖をまわって行くことになる。それでは時間がかかってしまうため、伊勢の白子浜から三河までなら、知多半島の常滑に一旦上陸し、半田、成岩から再び海路で三河大浜に渡るほうが自然である。

常滑には、於大の方の実家である緒川水野家出身の*水野忠綱を初代常滑城主とする、水野氏一族の三代常滑城主水野監物守隆がいた。水野守隆の妻は、水野信元の娘であり、家康とは二重の縁である。常滑水野氏初代の忠綱は常滑城を築くとともに、雲関珠崇和尚を招き、曹洞宗の寺院である天沢院を創建した。この天沢院は現在も大きな寺であるが、当時はさらに大きな寺容を誇ったという。忠綱は連歌のたしなみのある人物で、そのためか応仁の乱を発端とする戦国時代の戦乱を逃れた京都辺りの文化人で常滑に身を寄せる人もいた。そのため、常滑城は一種の文化サロンの様相を呈し、三代監物守隆も茶道や和歌の心得があるなど、武将でありながら文化人的な風雅を解するところもあった。*2006.1.7改

<天沢院付近から見た常滑の海>

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<常滑水野氏が建てた天沢院本堂>

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この三代水野監物守隆に関するニュースが、最近あった。

「信長と家康の古文書を常滑市に寄贈
 【愛知県】戦国時代の3代常滑城主、水野監物に織田信長と徳川家康があてた古文書が15日、水野家の嫡流にあたる水野さと子さん(71)=西春町弥勒寺=から、常滑市に寄贈された。伊勢湾の魚などの贈り物を受けての礼状で、西春町の文化財にも指定されていた貴重な資料。400数十年ぶりの常滑への里帰りに、市は年内にも一般公開するとともに、文化財指定に向けた手続きを進める。 (朝田 憲祐)
 監物は、信長方の武将として活躍したが、本能寺の変で明智光秀につき、常滑城を追われた。慶長3(1598)年の死後、水野家はいったん途絶えたが、その後、養子が跡を継いだ。
 養子から数えて14代目にあたる、さと子さんの夫、滋さんが今年3月に77歳で死去。西春町は「古文書は、監物ゆかりの常滑で保管した方が価値がある」とのさと子さんの意向を受け、文化財指定を解除。常滑市に寄贈されることになった。
 信長の書状は10通。いずれも天正5(1577)年ごろに書かれた黒印状で、5、6行程度の短い手紙だが、「このわたやタイを頂きありがとう」「鯨肉を頂きありがとう」などといった内容で、監物のこまやかな心遣いに対し、信長が感謝の気持ちを記している。
 書状の最後は「あなたが来られた時に詳しい話をする」「持ち場の警護を油断しないように」と締めくくられている。
 家康の書状は1通で、天正7年6月に、京都で家康方の陣を守っていた監物に出されたものとされる。「見事なお香と鉄砲の火薬をありがとう」との内容となっている。
 水野家では、これらの書状を大切に保管。滋さんの父、銕太郎さん(故人)が戦前に旧満州(中国東北部)に渡る際にも持参し、戦後の帰国時には紛失しないよう、リュックの肩ひもの中に縫いつけて持ち帰ったという。
 さと子さんは、石橋誠晃市長に書状を手渡すと「やっと肩の荷が下りた。(保管を)よろしくお願いします」と笑顔。石橋市長は「長く大切に保管するとともに、市民の皆さんに常滑の歴史の一端を見てもらうようにしたい」と話した。
 さと子さんは、水野家の家系図など文書9点も市に寄贈した。」
                  (中日新聞) - 11月16日11時43分更新

<常滑城址>

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この水野守隆は、本能寺の変の後、京で明智方についた。なぜ、本能寺の変以前の信長配下であり、書状のやり取りもしていた、水野守隆が明智光秀についたのだろうか。水野信元が誅されたことと関連があるのだろうか。いずれにせよ、家康は、それを知らずに守隆をたよって常滑に上陸したのではないか。常滑水野氏の居城、常滑城は、現在の山方町の天理教常滑分教会がある市街地にあった。かつては、細長い台地であったが、大正年間に削平されたため、面影はない。ただ、天理教会の前に、石碑がたっているだけである。この常滑城は水野守隆が京で明智方について放棄した後、一時織田信雄の管理下におかれ、さらに高木氏が領有したようであるが、廃城となった。しかし、水野氏が建てた曹洞宗の天沢院は、城があった場所の南の台地上に今も往時を偲ばせるように建っている。

<天沢院にある監物守隆の供養塔~近年建立のもの>

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家康が本能寺の変後の三河帰還の途中、伊勢から海路をいって、常滑に上陸したなら、具体的にはどこだったのか。漁民が多かったという保示か、あるいは苅屋湊か。苅屋では少し南に外れている。また、水野監物が明智についたのを、家康は知らなかったか、どうか。知っていても、常滑に上陸したとすれば、単純に成岩辺りとの距離を最短にということであろうが、慎重な家康がそういう行動をとったかどうか。

だが、そもそも徳川家康は、常滑でなく、少し北の大野に上陸したという説もある。それについては、次回述べたい。

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コメント

 はじめまして。小生は「水野氏ルーツ採訪記」と題して、先祖の縁の地を採訪し、ブログに投稿しています。今般初めてこちらのブログを発見いたし、水野氏関連記事が多いのでたいへん嬉しくなりました。
 たまたま「最近記事」に常滑水野氏のことが書かれていましたので、トラックバックを送りました。カテゴリにも、この常滑水野などがありますので、ご高覧いただければ幸いです。

投稿: ∞ヘロン | 2005.12.29 16:11

ありがとうございます。貴ブログも早速拝見いたし、専門的なので驚きました。小生知多に在勤している関係で、身近なところに徳川家康や於大の方、於大の方の実家である水野氏関連の史跡があることに気づき、ブログの特集をしてきた次第です。素人の推論だらけのものですが、こんな拙いブログを見てくれた人がいたのに感激しています。
まだ、「徳川家康と知多半島」は続けて書いていく予定ですので、もし間違いなどありましたら、ご指摘いただければ幸いです。
実は小生の先祖は美濃における尾張藩領の住民であり、戊辰戦争のとき、尾張藩の兵隊だったようで、大本の徳川家康には前から興味がありました。水野氏の側から家康について書いた本も少なく、もっと前に貴ブログを知っていればとも思いました。大変参考になります。

投稿: mori_chan | 2005.12.30 11:36

 ご丁寧なレスポンスをどうもありがとうございました。
また、稚拙なマイ・ブログもご覧頂きたいへん嬉しく思います。
「常滑市民俗資料館」は、御地からなら、山一つ越えた所ですから、ぜひご覧になってください。同館の学芸員の方と先日お会いし、展示会の宣伝もご了解いただきましたので、お出かけの節は、窓口でお声をかけていただけましたら、展示物の説明が受けられるかと思います。
 それから、貴ブログの記事で不明な箇所がありますので、その記事毎にご質問させていただきたいと思っております。ご多用中とは存じますが何卒よろしくお願いいたします。
 先ずは、取り急ぎ御礼まで。

投稿: ∞ヘロン | 2005.12.30 12:01

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<お知らせ> 「第三代常滑城主水野監物守隆に、織田信長と徳川家康が宛てた古文書」の一般公開を行っています。 「常滑市民俗資料館」12月10日(土)から1月22日(日)まで【開催中】 [続きを読む]

受信: 2005.12.29 15:57

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