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2006.01.28

海軍大尉は「てんとう虫」に乗って

世の中便利になったもので、愛知県は知多半島にいても、インターネットで本の注文ができ、宅配便で届く。亡くなった実家の近所に住んでいたおじさん(友達のお父さん)が日本海軍について書いた古本全三巻を注文し、先日手元に届いたが、そのおじさんは作家、あるいは軍事評論家というような仕事をしていた。奥付に書いてあった著者略歴を読んで、昔の住所が書いてあったので涙が出てきた。昭和36年(1961)刊行された本で、ちょうど小生の家が東京から船橋へ引っ越してきた頃のものである。

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そのおじさん自身が、兵学校出身の歴戦の元海軍大尉で、潜水艦乗りだった。レイテ沖夜戦では敵との交戦で魚雷を撃ちつくした後、さらに敵と遭遇、約40時間も潜航したそうである。小生の父親も海軍だったが、三重海軍航空隊奈良分遣隊、後の奈良海軍航空隊所属のポツダム下士官(つまり終戦直前に兵長から二飛曹に昇任した)で、一度も出撃しなかった。もし、出撃となれば、戦争末期の奈良海軍航空隊の場合は、回天や震洋に乗ることになっていたであろうから、出撃イコール戦死である。といっても、三重空では練習機に乗っていて失神し、操縦不能で墜落して死んだ人もいるようだし、奈良空でも病気で死んだ人が結構いたらしいので、出撃しなかったからといって全員生きて帰れたわけではない。小生の父親は、本当は陸軍幼年学校に行きたかったが、将校になるのに時間がかかるので、手っ取り早い海軍の予科練に志願したそうだが、その当時は世の中が軍国一色で、入る時は華々しい思いだったのであろう。そして、奈良空で玉音放送を聞いて復員してきた後、田舎の山に登り、「国破れて山河あり」と思ったそうである。

日本は勝つことの不可能な無謀な戦争をしていた、そのために国民の生活は犠牲とされ、天皇の命令の名の元に軍人は将棋の駒のように動かされ、犠牲になっていった。戦病死した軍人のほとんどが、餓死であったことは藤原彰先生の研究で明らかになっている。つまらん連中が戦争を美化しているが、実態は仏教でいう阿修羅道、餓鬼道であったのである。アジアの罪もない人々も多く犠牲になったが、個々の具体的な作戦の如何に関わらず、全ての根源は奉勅命令であり、天皇を大元帥とした統帥権は当時何人も侵犯できなかったのである。でも、昭和天皇は、なんら詫びることなく死んでしまった。軍人に対しても、非戦闘員の国民に対しても。そして、戦争の反省もなしに、無責任な言動をしている政治家や言論人が、大手を振って歩いている。今度は女系天皇だそうだが、天皇も選びきらんのなら、いっそのこと、今後は皇族全てが皇族をやめてしまえば良い。そして昭和天皇の戦争責任を国民審判で決めたら良い。

<聖衆来迎寺の六道絵>

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亡くなった、そのおじさんは、友達と小生をよく車に乗せて、ドライブに連れて行ってくれた。車は、「てんとう虫」と呼ばれたスバル車である(スバル車を製造していた富士重工は、戦前中島飛行機と言っていたが、偶然にも小生の伯父は戦前中島飛行機に勤めていた)。

そして、そのおじさんはその車で事故に遭い、亡くなった。その時、週刊誌に連載が決まっていたそうである。ミッドウェーやレイテなど数々の海戦を生き延びた歴戦の勇士が、戦後事故で自家用車の中で死んでしまったのは皮肉なことである。確か、力道山が亡くなったのと同じ頃だったと記憶しているが、お葬式の後出されたお茶が余りに熱かったことを鮮明に覚えている。

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近所の友達も小生もこの世に生まれてきたのは、志願して海軍に入った親が戦死せず、生き残り家庭をつくったからである。小生の祖父は陸軍に応召されたが、日露戦争が終わった頃だったので、特段のことはなかった。但し、本人は模範兵だったのに、思うように昇任できなかったのが不満で、歩哨に立ったときはやることがないので髭を抜いたり、星を見ていたりしたそうだ。曽祖父は、尾張徳川家の兵隊として戊辰戦争に行ったようであるが、生き残った。曽祖父の刀は戦後のドサクサでなくなったけれども。その前はもう江戸時代だが、もっと前の戦国時代の先祖となると、いつ死んでいてもおかしくありませんな??? いずれにしても子孫が残ったのは、先祖が子供を作るまで生き延びた結果であり、天皇は万世一系とか昔は言っていたが、誰でも万世一系である。

多分、亡くなったおじさんは、天国でもスバル車に乗ってドライブしているのだろう。戦争を知らないくせに、あるいは元軍人でも主計将校か何かして弾の飛んでこないところにいたくせに、威勢の良いことばかり言っている連中を苦々しく天上から見ているかもしれない。

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2006.01.22

徳川家康と知多半島(その12:続々・柴船に乗った権現)

徳川家康という人は、何度も危機を乗り越えてきた人であり、この人ほど好運に恵まれた人も歴史上珍しいのかもしれない。幼少の頃、今川家の人質になり、桶狭間合戦も今川方として戦った。そこで今川方は敗れたが、家康は大高城から脱出し、三河岡崎に復帰している。三方ヶ原の戦いでも、武田信玄に完敗して、命からがら逃げ帰っている。本能寺の変でも、堺から伊賀越えをして、三河に無事に帰っている。幼少の時に、辛い人質生活を送ったが、今川義元の軍師であった雪斎禅師の薫陶を受けた家康は、武将として一流の人物となった。豊臣秀吉の風下に置かれ、関東に国替えになっても、海沿いの辺鄙な城下町であった江戸を整備し、ちゃっかり伝馬制など後北条氏の優れた制度を取り入れ、後北条氏旧臣を登用したりしている。禍を転じて福となすような人生で、いつも着実に自分の地盤を築いている。

前回まで、本能寺の変直後の三河帰還にあたって、伊勢白子から伊勢湾を渡った家康が知多半島に上陸したのは大野ではなく、常滑であると記した。しかし、大野に上陸したという説も根強い。なぜ、そのような説が出てきたのであろうか。それには、いくつか根拠がある。

<常滑の海~伊勢の白子を望む>

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実は、成岩の常楽寺の由緒に、以下の旧記があるという(「半田町史」より)。

「当山八世典空顕朗上人は、神君之御子従弟にて御父は吉良庄赤羽城主高橋弾正殿なり、御母は尾州緒川苅谷の城主水野右衛門大夫殿の御娘にて、即神君様の御母公伝通院様の御妹也、大野東龍寺住世洞山祖誕上人の弟也、右上人在住の頃天正十年午六月、神君様を信長公御招待有之御上洛之次、泉州堺之津御覧被為在、于時京都本能寺に於て信長公御生害有之、惟任日向守一戦之節堺津御立退、密かに伊賀越より東国へ御下向之節、従勢州四日市尾州常滑辺に御船を寄せ給ひ、東龍寺に御着、夫より三州へ御帰城の刻、東龍寺住祖誕上人供奉御案内にて成岩村へ御到着、常楽寺に於て御休み、夫より住持供奉にて成岩之浜より御船にて三州大浜へ渡御、其後天正十七年神君御上洛之時三州より成岩村へ渡御、常楽寺に於て御昼御膳所被仰付、猶思召を以て堂前に松二株御手植被為遊、天長地久を祝し給ふなり、(以下略) 寛永十四年丁丑三月 十四世弘空歴道記之」
すなわち、赤羽城主高橋弾正と家康の母於大の方の妹(水野忠政の娘)との子である典空顕朗上人が成岩常楽寺の住職をしていた天正10年(1582)6月に本能寺の変が起き、三河に帰還するため伊勢から船で常滑へ着いた家康は、大野東龍寺に立ち寄った後、住職祖誕上人の供で成岩へ到着、常楽寺で休息した後、その住職の供で成岩浜から船で三河大浜に渡ったということである。

同様の記述は、大久保彦左衛門が書いた「三河物語」などにあり、一旦家康たちは伊勢から常滑に着いたものの、常滑城主に疑色があるため、船を大野に廻して大野東龍寺を宿舎として使いを岡崎に発して、翌日成岩常楽寺にはいったという。常楽寺の由緒は寛永14年(1638)で三河物語は元和8年(1622)成立というから、常楽寺の由緒は三河物語の影響を受けているであろう。これらの説は、家康は一旦常滑に上陸したが、大野にまわって東龍寺に立ち寄り、大野から陸路で成岩まで行ったということである。時間的に余裕があり、大野が安全であるという確信があれば、考えられる。常滑城主水野監物が明智方になったとはいえ、大野が安全かといえば、家康との縁でいえば従弟の東龍寺洞山和尚がいる位で、大野を支配していた佐治氏と家康が格別の関係を持っていたわけではない(久松家とは姻戚ではあるが)。むしろ、動向のしれない他人の土地である。一刻も早く三河に帰りたい家康が、わざわざそのような遠回りをするだろうか。

<大野城址にある佐治神社~座像は四代佐治与九郎>

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ただでさえ、大野から成岩では約12kmの道のりであるが、常滑から成岩へは9km程度と、常滑から行ったほうが早いのである。常滑から大野も近いようで、6kmくらいある。やはり、家康は最短コースをとったのではないか。しかも、常滑から東へ足を踏み出せば、殆ど味方ばかりの土地なのである。岩滑の中山勝尚は、25騎を率いて、家康一行を出迎えている。常滑の人々も、道中の案内をした衣川八兵衛が一時自宅に家康をかくまったというのであるから、常滑水野氏の親戚である家康をかげながらバックアップしたのは十分考えられる。

<大野東龍寺、下は門前の由緒を示す看板>

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では、その当の東龍寺の記録はどうか。縁起には、以下のように書かれている。

「天正十壬午年六月二日家康様泉州堺の浦より伊賀路を経て御下向の刻勢州四日市の浦より渡海の御座船を当港に寄せられ、洞山上人は御従弟故御旅宿を当寺に占し玉ひ、三日御逗留御物語の節、信長公永楽四十貫文に准し四十石之御朱印可被下置之御契約有之、其時家康様軍用之金子上人を御頼被遊し時、上人は返答に拙寺所持は不仕候間当寺旦頭を頼申可と御請被成旦頭茶屋市左衛門に金子御備用被遊御喜悦浅からず、世静穏に及びなば速に返弁可被成由被仰聞当寺を御出足常滑村をさして御急ぎ此村より衣川八兵衛と申者御案内仕り、三河へ御渡り、(以下略) 宝暦六年子二月 知多郡大野村 東龍寺判 右之通相認御役所へ指出候者也 二十四代 林翁代」

この東龍寺縁起では、常福寺由緒や三河物語などとは逆に、大野へ上陸してから常滑に行ったとしている。書かれた時期も宝暦6年(1756)と、本能寺の変の174年後である。文中茶屋市左衛門とあるのは、大野の十王町にいた薬屋市左衛門という商人の誤記であるらしい。家康を支援していた茶屋四郎次郎と地元の薬屋市左衛門が混同されている可能性もあると思われ、正確性を欠いていよう。また、この話は前回述べた伊勢白子で家康が乗った船が角屋船であったのが間違いなければ、その船で大野に上陸したこと自体成り立たなくなる。

<大野城址のある青海山からみた伊勢湾>

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大野東龍寺の洞山祖誕上人が、実は天正10年(1582)6月時点では大野にいなかったという話もある。これは戦前の「常滑町史料」に出てくるが、洞山祖誕上人が家康を饗応したのは、大野の東龍寺ではなく、三河大浜上陸後、吉良(今の西尾市)に入り岡崎に赴く途中で、中島(岡崎市中島)の崇福寺に立ち寄った際、その住職であった洞山祖誕上人が歓待したというのである。その歓待に感激した家康が洞山和尚に対し、七十石与えたが、後に東龍寺に赴く際に三十石は後住に残し、自身は隠居料四十石を大野東龍寺にもたらしたのだという。そして、大野東龍寺は中島崇福寺の末寺にあたる。大野東龍寺の側も、嘉永年間に書かれた縁起では、洞山祖誕上人は天正10年(1582)6月時点で大野東龍寺におり、その後中島崇福寺に行ったとしており、どちらが真相とも良く分からない話であるが、江戸時代に本寺末寺の論争があったことは事実である。

要するに、本能寺の変から40年を経て書かれた三河物語などの記述があって、由緒書、縁起書の類が後年作られている。もはや、世の中で誰も家康に直接会った人もおらず、本能寺の変の頃には生まれてもいなかった時代に書かれたものの信頼性は、同時代に書かれたものの写本でもない限り低いであろう。

一方、常滑に上陸した地点の候補として、保示の正住院の裏というのがあり、その場合当然正住院が関わっていると思われるが、公式には正住院は何も言っていないようである。ただ、江戸時代に書かれた「尾張名所図会」では正住院に家康が来た旨の記述があるなど、一部にはそのように信じられていた。
正住院の裏には龍ヶ丘という小山のような場所がある。もしかしたら、そこから見張っていた人の視界のなかで小さな船の姿がだんだん大きくなって来て、やがて着岸した船から家康たちが降りてくる。そして浜には、それを出迎える正住院の僧や衣川八兵衛たちがいたという光景が、かつてあったのかもしれない。

<描かれた正住院~本堂の裏は海である>

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(参考文献)
・「半田町史」  愛知県知多郡半田町  1926
・「新編岡崎市史 古代・中世(史料編)」   岡崎市  1993
・「大野町史」   大野町      1931 

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2006.01.18

台地ごと宅地開発でなくなった長作城址

先日、常駐先の愛知県から、自宅に帰ったおり、たまに図書室で本を読んだりしていた長作(ながさく)公民館(千葉市花見川区長作)の前を車で通りかかったら、長作(ながさく)城址があった長作城山(ながさくしろやま)という台地が宅地開発のためになくなってしまっていた。その前に来た時、樹木が伐採され、禿山になっていたが、その台地は残して、先端部に何か建つのかと思っていた。貴重な遺跡を、一体どういうこと?と怒り心頭の小生、かつての長作城址で撮影した写真の類をここに放出する。

<第2郭とその外の郭を仕切る大きな土塁の上から>

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<郭内の様子~中央部がいくらか高くなっているか>

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<第2郭の仕切り土塁から、東側を見る~下に竪堀らしき溝>

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長作城といっても、知らない人は多いであろうが、千葉市の京成実籾駅の南方、長作公民館や長作小学校の近くにある、長細い台地上にあった城である。小生のHP「古城の丘にたちて」では以下のように書いていた。

「長作には、長胤寺館のほかに、もう一つ城址がある。長胤寺館の東北約800mにある長さ300m程の舌状台地上の先端部分にあり、土塁や空堀が残っている。そこは、「長作城山(ながさくしろやま)」という地名のある台地であり、長作公民館のある低地から南西に見える。比高20m位のその台地は南側に先端があり、水田のある低地に細長く突き出した形で、東金街道によって舌状台地の根元を斜めに分断されている。舌状台地先端の南、東、西側は急崖であり、東側の低地は水田のあった谷津で、西側の低地も枝のように伸びる小谷津になっている。
城址の主要部分の現況は竹薮であり、台地の東側縁に高さ1m強の低い土塁が付き、西側の一部は土取りのため破壊されて、西側に土塁が明確に見られないが、かつては南東の最先端部分から東西へ取り巻いて、土塁が台地先端の主郭を囲む単純な構造をしていたと思われる。現在木工所があるところの裏に、台地を横に遮断するかのような3m位の高い土塁があり、東西に長さ20m位続いている。その土塁の上部幅は5~6m、基底部は8~10m程あり、土塁の中央部分で台地の先端部側に少し折れ屈曲し、土塁外側正面は現在登れる程度の傾斜であるが、切岸が施され当時は急であったと思われる。それによって、正面からの敵の侵入を阻み、高い土塁の端から郭内に侵入しようとする敵にも横矢を掛けられるように普請されている。また、高い土塁の外側の下には浅い空堀跡があり、竪堀となって斜面へ続いている。その高い土塁の北側の台地周縁部東側にも土塁があるが、住宅地になっていて、かなりの部分が破壊されており、郭が続いていたと思われるが範囲が明確でない。
台地の最先端から、その高い土塁の内側までは、南北約48m、東西約20mの細長い第1郭があり、台地を横切る段切を境に少し窪地になった南北約20m、東西20~25m程の第2郭がある。段切の西側斜面にも、竪堀の址がある。高い土塁と堀の外側にも郭が連なった、単純な直線型連郭構造をしていたようで、この第1郭、第2郭が長作城の主郭であろう。前述の通り、主郭部以外の部分は住宅地化しており、さらに土塁で区切られて郭が連なっていたかは分からない。長作小学校の辺りまで、城域が続いていた可能性もある。この場所は湧水が豊富であったと思われ、水の手は台地下の水田や宅地になっている低地のどこかにあったのであろう。今でも、低地部分は花見川に注ぐ水路が流れ、水源は豊富そうである。台地から西側低地に降りる道は、住宅に付随した私道が途中まであるだけであるが、かつては明らかにあったかもしれない。住宅地や駐車場となっている台地基部は、開発で遺構が破壊されているため、主郭部以外がどうなっていたか不明瞭である。
東側低地は、近くに水路があり、元は川が流れた低湿地であったと思われ、現状道路になっている台地との接合部分は水堀または泥田のような場所であったかもしれない。
なお、ここは長作の中心集落から離れているせいか、農村部でよくあるように城址の近くに寺社があったり、土塁に祠が祀られているということはない。周辺の地名としては、「坊辺田」、「城ノ下」の字名があり、ここが城址であることは昔から伝えられてきたようである。地元の人は、この城址を今も「城山」と呼んでいるようで、城址の西南にある諏訪神社境内にある見晴台の地元老人会の建てた案内板に、神社からの展望で城址が見えると書かれている。(以下略)」

<仕切り土塁を下から見る>

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<長作城址の東側低地>

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<第1郭台地縁辺東側の土塁>

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この城址については、書いている書籍の類も殆どない。作りからみて戦国時代のもので、後北条氏系の城でよくあった、舌状台地を横に堀や土塁で区切り、台地先端部を詰めの郭とする連郭式の城址である。ここは縄文時代の貝塚でもあったというから、水の手などもあり、人が生活できる場所ではあったのだろうが、長作集落からは離れた場所にある。

すなわち、陣城のように、戦略上一時的に築城され、用が済んだ後は打ち捨てられた城であるか、長胤寺館の出城で物見などの役割を果たしていたか、と思われる。昔は周囲に人家がなかったようであるから、統治のための城ではないのだろう。

<禿山になった城山>

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しかし、遺構がすっかりなくなって発掘もできなくなった現在、この城について科学的な分析ももはや出来なくなった。覆水盆にかえらず、である。何でもかんでも、経済重視では駄目だと思うのだが、如何。

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2006.01.15

徳川家康と知多半島(その11:続・柴船に乗った権現)

前回、本能寺の変直後、滞在していた堺から本国三河への帰路、常滑に徳川家康が上陸したという伝承の一つとして、「柴船権現」の話を掲載した。しかし、これはやはり家康が常滑に上陸した、一つの傍証を見出す糸口になるものであった。

<柴船権現~三つ葉葵の紋所が提灯に>

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その当時、西知多では一色氏以来の湊である大野と、常滑水野氏が開いた常滑の湊が、主な船着場のある上陸ポイントであった。小生、本当に家康は常滑に上陸したのだろうかという思いを胸に、ある朝、常滑の喫茶店スカイラークでコーヒーを飲んだ後、苅屋の海岸に降りてみた。苅屋の海岸には波打ち際に海草が打ち上げられ、波間に鳥が浮かんでいた。「おーい、家康はどこに上陸したのか」と海に聞いても、返ってくるのは波の音と鳥の鳴き声だけである。ふと、伊勢湾を越えるとしても、それほど大きな船ではなく、越えられるのではないか。また、そのような船であれば、浜に船を引き上げれば、湊に入る必要もないのではないかという考えが浮かんだ。要は、常滑の湊に入らず、別の場所から上がれば、いいのでは。あるいは、正式に湊に入っても、漁船か荷物を運搬する船であれば、たとえ常滑城の城兵が警戒していようと、彼らは軍船や得体の知れない海賊船などが入ってくるのを見張っているのである。柴船、つまり柴を積んだ船であれば、伊勢湾のすみからすみまで運航自由である。もっとも、だからといって、常滑に上陸した証明にはならないが、別段、大野湊に上陸する必要性がないとは言えるであろう。実際、昔の海岸線に相当する保示の正住院裏(現在駐車場になっている)から、家康が上陸したという伝承もある(もちろん保示の正住院裏は単なる浜であって、湊の設備はない)。

<保示の正住院裏の昔の海岸線>

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ところで、常滑に上陸した家康を出迎え、成岩まで送り届けたのは、常滑の衣川八兵衛だったと言われる。この名前、当ブログの「徳川家康と知多半島(その8:阿久比、そして再び岩滑)」の記事のなかで、岩滑と阿久比の境の矢勝川にかかっていた「藩費の橋」について書いたときに既出であるが、どうも「藩費の橋」は桶狭間合戦の後の逸話であるにも関わらず、本能寺の変後の伝承と混線して伝わっているようである。本来は「藩費の橋」の逸話で、阿久比から家康を送ったのは久松氏の家臣の誰かだったのだろうが、その人の名が伝わらず、衣川八兵衛に置き換わってしまったのであろう。

それはともかくとして、常滑の衣川八兵衛とはどんな人物かといえば、常滑の住人であるが、普通の農民や漁民ではなく、海運業を営む商人と地侍を兼ねたような人物だったらしい。大正時代に書かれた「常滑町史編纂資料」によれば、後に九鬼嘉隆に属し、関ヶ原の合戦で西軍についた宮崎久左衛門という水軍の武士の配下*であったが、常滑水野氏とも何らかの関係をもっていたようで、船江という船の繋留場の管理をまかされていた。(*後に衣川氏は徳川方の船手千賀志摩守に帰属) 衣川家の屋敷は、今の市場地区の一角で、満覚寺という浄土真宗の寺も元々衣川家の敷地であった土地の上に建てられたといい、柴船権現はその満覚寺のまさに隣にある。そして、柴船権現の御神体は、代々衣川家が守ってきた。この衣川八兵衛は、おそらく海運を通じて、伊勢湾を行き来し、あるいは東浦である知多半島東部の地理や情勢まで知っており、家康の案内人として最適であったのであろう。そして、その功績のため、家康の槍を拝領するとともに、上ノ山という、現在正法寺などがある高台の土地をもらった。また江戸時代、衣川家は代々常滑の庄屋をつとめた。衣川家の本家は東京に移住してしまったが、今でも衣川姓の人は常滑には多い。実は衣川家は小鈴谷(こすがや)の旧家である盛田家と姻戚関係で、盛田家に家康から拝領した槍を譲渡したらしい。その盛田家とは、ソニーの創業者で会長をしていた盛田昭夫氏の実家である。なんという偶然か、江戸幕府創設者のものが、現代の代表企業の創設者の家に渡るとは。

<正法寺近くにある常滑城址の碑>

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<正住院の山門>

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では、その衣川八兵衛はどんな実像をもった人物か、そして彼をこの家康三河帰還というプロジェクトに組み込んだのは誰かということであるが、以下のように考えられる。

つまり、衣川八兵衛はまだ中世的な要素をもった、武力をも行使する海運業者であり、彼がつながる伊勢の大海運業者の手配で、この家康三河帰還に一役買うにいたったのである。関連する話として、斉藤善之・東北学院大学経済学部助教授は、常滑の海運について、以下のように述べている。

「中世の常滑焼を運んだのはどのような人達だったのでしょうか。この点は興味深いけれども難しい問題です。中世史の永原慶二さんは、熊野の水軍勢力がそれにあたるのではと示唆されていました。当時、水軍は有事の姿であり、平時になれば彼らは商業や海運業などに従事したりしていました。中世では商人であっても武装して、自衛しなければ、商いや交易などとてもできませんでした。ですから商人も、支配者からみて味方側であれば水軍であり、敵側であれば海賊と呼ばれたりしました。(略)

中世の商人は、商人であると同時に、武士・海賊であり、宗教者であり、芸能者でもあるなど様々な顔をもっていました。中世では、資本を蓄え商品を輸送するためには、武力のほか、神仏の力、伝統の力などあらゆる力が必要とされたからです。熊野水軍もまた、熊野の御師との関係も指摘されています。戦国時代には、商人は戦国大名と結び、時には道がない所にも兵粮を運び込むなどといった輸送にも従事しました。ですから自ら船や馬をもち、道や橋を造ったりして商品を輸送するだけの力すら備えた者もおりました。流通インフラが未熟な段階・地域においても自力で輸送を実現する力をもつような存在が必要とされたわけです。もちろん輸送のコストは全体としてかなり高くなりますが、それでよかった時代だったわけです」(海からたどる「商い」の時代史 ~現代地域経済圏の礎をつくった近世海運企業家~ :「ミツカン水の文化センター」HPより)

われらが永原慶二先生が編集した「常滑焼と中世社会」でも、同様のことが述べられていたし、はからずも当ブログのなかの記事でも千葉氏の家臣で篠田大隈守という商人的な武士の話や小生のHP「古城の丘にたちて」の船橋湊や船橋城に関する話でも共通するものがある。

実際、常滑で宮崎氏が根拠としていたらしい阿野のすぐ南には、熊野という地名があり、これはもちろん熊野神社から来た地名であるが、それを勧請した人々は熊野御師であったろうし、かれらと熊野水軍が関わっていたことも事実だろう。そして常滑水野氏の三代当主水野監物守隆も、安宅船で船いくさを行っていた。また、水野水軍を形成していた西浦の宮崎氏、東浦の亀崎水軍稲生氏が戦時には軍船を操っていたことは言うまでもない。衣川八兵衛はといえば、船江の管理や海運を業とする一方、戦時には矢弾のなかを兵糧、物資の運搬をしていたのであろう。

<正法寺近くから見た伊勢湾>

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では、衣川八兵衛を、この「柴船権現」大脱出プロジェクトに引き込んだのは、誰か。それは伊勢大湊の角屋であると考える。角屋は、伊勢大湊の廻船業者で、海外と交易するほどの大規模な商売をしていた。天正10年(1582)の本能寺の変の際、たまたま堺に滞在していた家康は急遽、伊賀路を越えて帰国しようとしたが、土一揆に阻まれた。茶屋四郎次郎は家康に本能寺の変で信長が死んだことを急報し、伊賀越えにあたって土地の土豪らを懐柔するなどした。おそらくかねてじっこんの間柄である茶屋四郎次郎に依頼された、角屋七郎次郎が、家康の窮地を救い、柴船にかくまって、伊勢白子より尾張常滑まで家康を送り届けた。衣川八兵衛への連絡も、船便を使って事前に行い、衣川八兵衛は角屋の指示を受けた場所に待っていた。その功により、角屋は代々の将軍より諸国諸湊への出入りの諸役を免許される朱印状を下付された。 実際、角屋が徳川将軍家から特権を与えられていた証拠となる文書の一つ、年不明(近世前期)の5 月2 3 日付角屋七郎二郎・同八郎兵衛宛、同江由(3 代七郎次郎忠祐)書状が、名古屋大学神宮皇学館文庫所蔵「角屋家文書」のなかにある。柴船とはいえ、角屋の船である。いざという時のために、屈強の武士が乗り込んでいたであろう。

では、なぜ角屋の船を使ったから、着いたのが大野ではなく、常滑なのか。それは一言でいえば、角屋の船と大野船とではテリトリーが違うからである。大野船は元来一色氏の支配をうけ、一色氏退転後は佐治氏が支配しており、大野船を使ったなら、当然大野湊に着いたであろう。角屋の船は、伊勢湾でも南のほうを運航しており、大野船とは角逐していた。蓋し、角屋の船は、新興の常滑湊を使用し、常滑焼の交易などもおこなっていたのである。結局、角屋の船を使った以上、行き先は常滑で、三河まで最短コースを行くことにし、そうはいっても常滑水野氏の兵の動向を懸念して、柴船というステルス作戦をとったということであろう。

大野の東龍寺が家康をかくまったというのは、上記の角屋船の話がある以上、成り立たない話であるが、なぜそういう話が出てきたかといえば、一つには大野が天正12年(1584)と慶長5年(1600)に九鬼氏によって攻撃、放火・略奪され、多くの寺院が灰塵と化し、古文書の類が焼失してしまった、それ故後代からは真相が分からない話でも、誤伝がいつの間にか正当化される、また後付けで創作する余地があったということが考えられる。特に東龍寺は徳川家康とは従兄弟にあたる洞山和尚がいたことが、同じ家康の従兄弟典空顕朗上人がいた成岩の常楽寺の事績との混同を生んだと思われる。

大野の東龍寺以外に、大野の平野彦左衛門がかくまったという話があるが、これは平野家が大野谷の大庄屋で「源敬公」(尾張徳川家初代の徳川義直のこと)を何度も屋敷に泊めるなど、歴代の尾張徳川家当主の宿舎となっていたために、家康の三河帰還時の宿舎と混同されたものと思われる。大野の平野家とは、昔中島郡平野村に住して平野氏を名乗ったもので、天文年間に彦左衛門政寿が大野に移住、以後この地に居住し、政寿の子政啓、その子政薫は徳川家康に仕えたという。さらに、慶長12年(1608)に、東浦十二ヶ村の代官となり租税徴収にあたった。この家なら、家康が休息したとしてもおかしくない、ということもあったかもしれない。*2006.1.16追記

それでは、また。

(参考文献)

・「常滑町史編纂資料」  常滑町史編纂会  大正年間

・「大野町史」        大野町      1931 

・「常滑焼と中世社会」  永原慶二編  (小学館) 1995

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2006.01.07

徳川家康と知多半島(その10:柴船に乗った権現)

新年の初詣は、例によって鎌倉の鶴岡八幡宮に行った小生であるが、意外にも初詣客が少なかったのは寒さのせいであろうか。お札を貰ってくるシステムが最近変わり、以前祈祷は全て本殿に上って祝詞をよんでもらって時間がかかっていたのが、急ぐ場合は若宮で祈祷というスピードコースが新設されていた。もっと簡単なのは、年内に所定の振込み用紙で祈願内容を書いて振り込めば、お札が郵送されてくるというコースもある。

<鶴岡八幡宮の初詣風景~若宮付近から本殿を望む>

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一方、小生の地元船橋では、初詣で船橋大神宮に行く人は多いと思うが、年々船橋大神宮の混雑ぶりが目立っているようだ。かつては、初詣の混雑ぶりもそれほどではなく、その時期に大神宮の境内で神楽もやっていたし、どんど焼きではお札以外に焼き芋も焼いていた。実にのどかだったのだが、最近は初詣の頃は参道を人が埋め尽くし、古いお札を納める際には、ついでに処分しようと関係ないものが入っていないか厳しいチェックが入っている。

実はこの船橋にも、東照宮がある。かつての船橋御殿跡にたっている東照宮であるが、日本一小さいとのことである。しかし、実際はもっと小さい東照宮もあるそうなので、日本一小さい東照宮に限りなく近い東照宮とでもいうべきであろうか。

<船橋の東照宮>

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前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。前回、「神君のご艱難」といわれた本能寺の変直後の「伊賀越え」の後、伊勢の白子浜から、海路どういうルートで家康は三河の大浜に行ったのかということで、常滑か大野に一旦上陸し、知多半島を陸路で横断して、成岩辺りから三河へ渡ったのではないか、と述べた。

その頃の常滑、大野の状況をみると、常滑は常滑城主である水野氏が支配していた地域であり、大野は大野城主であった佐治氏が支配していた。その常滑城主水野監物守隆は、本能寺の変当時京都にいて、なぜか明智光秀の側についてしまう。もともと、緒川・刈谷の水野氏から分家した家であり、織田信長配下であったにも関わらずである。水野監物守隆は茶の湯や和歌などをよくする文化人であり、明智光秀と惹きあうものがあったのかもしれないし、公家や文化人などとの京都での人脈で明智方に組することになったのかもしれない。

一方、大野の佐治氏は、元をただせば室町時代に大野を拠点に知多半島の特に西側を支配していた足利の一族である一色氏の被官で、一色氏が応仁の乱で勢力を失って退転したあと、その支配圏を取り込み、内海以南の南知多をめぐって、戸田氏との争いを繰り返していた。佐治氏は青海山の大野城を居城としており、大野の萬松山斉年寺は佐治氏の菩提寺である。大野城主佐治氏の初代は佐治駿河守宗貞、二代目が上野介為貞、三代目が対馬守信方、四代目が与九郎信時である。斉年寺は初代佐治宗貞の菩提を弔うために、二代為貞が享禄4年(1531)に創建したもので、曹洞宗の寺である。佐治氏と戸田氏の争いの間隙をついて、水野氏が常滑に台頭してきたために、知多半島の西側の大野と内海という南北に離れた場所に支配圏が分断されて勢力を衰退させた佐治氏は、結局織田信長の配下になって延命せざるを得なかった。大野城主佐治氏の三代目、四代目の名が信方、信時なのも、織田の支配下に入ったことを意味する。その佐治氏も、天正10年(1582)の本能寺の変後の混沌とした状況下に、織田信雄に従い、動乱の中に翻弄される*。 だが、その後の豊臣秀吉が天下をとるという情勢にあって没落し、天正12年(1584)には大野から去っている。*2006.1.22改

<大野城~郭の周囲に土塁が残る>

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<大野の斉年寺>

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前にも書いた通り、本能寺の変当時の常滑には於大の方の実家緒川・刈谷水野家の分流である、常滑水野氏の三代常滑城主水野監物守隆がいた。正確には、本能寺の変直後には水野守隆は京都にいたのだから、その時の常滑城には守隆の妻、水野信元の娘である於万の方(後の総心尼)や守隆の家臣たちがいたということになる。常滑城主初代水野忠綱は連歌のたしなみがあり、二代大和守監物丞も足利義輝から官位を授けられ、幕府の官職についており、飛鳥井雅綱、津田宗及と親交があった。弘治3年(1557)に京の山科言継は駿河に行った帰りに、三河大浜から海路で成岩に入り、陸路常滑城へ行って、この水野大和守監物丞に贈り物をした後、海路伊勢長太(今の鈴鹿市)へ渡り、京へ帰っている。この大和守監物丞の在世中の天文12年(1543)に水野忠政がなくなり、その子信元が継ぐと、緒川・刈谷水野氏はそれまでの今川寄りの姿勢を改め、織田方になった。これは忠政の代に知多半島北部から拡張しようとしたが、その北の織田氏は手強く、織田氏とは融和の路線に転換したのであろう。そして、常滑水野氏も三代監物守隆のころには、織田方であることを鮮明にする。すなわち、監物守隆は元亀元年(1570)の織田信長の浅井・朝倉攻めに参戦し、天正2年(1574)の長嶋一向一揆攻めでは安宅船で参戦するなど、織田方の武将として各地を転戦した。その合戦の合間に、天正6年(1578)3月には水野監物守隆は京で津田宗及の茶会に招かれ、翌年は自ら茶会を開催している。そして、天正9年の高天神城攻めや翌年の甲斐進攻にも加わっているなど、武人としての働きも行っている。

しかし、天正10年(1582)の本能寺の変では、水野監物守隆は明智方になり、そのため常滑城主の座を追われ、慶長3年(1598)4月になくなるまで、京で余生を連歌や茶の湯に興じて送ることになる。

ちなみに∞ヘロン氏のすすめもあり、先日常滑市民俗資料館へ常滑水野家文書の展示を見に行き、民俗資料館の方に写真撮影やHP掲載は問題ないか聞いたところ、「良いですよ」とのことであったので、いくつか展示物を紹介したい。その前に、その企画展についてであるが、新聞記事によれば、

「信長から常滑城主への書状10通 西春の末裔が 常滑市へ寄贈(読売新聞豊田支局)

 織田信長が、常滑城主の三代水野監物(けんもつ)にあてた書状10通が、水野家の末裔(まつえい)にあたる水野さと子さん(71)=西春町在住=から四百数十年ぶりに常滑市に寄贈された。徳川家康からの1通などとともに市は近く一般公開し、文化財に指定する。

 水野さんの夫、滋さんは、監物の死後、養子を迎えて再興された水野家14代目の当主。監物は、信長方の武将だったが、天正10年(1582年)の本能寺の変で明智光秀につき、常滑城を追われた。

 信長の書状はすべて黒印状の正本。多くは伊勢湾でとれた海産物などの進物に対する礼状だが、このうち1通には「3月8日」の日付とともに、住吉(大阪市)での普請に対してねぎらう言葉がある。本能寺の変の5年前、信長は権力基盤を強化するため、天正4~8年にかけて、石山本願寺攻めを行っており、この際、監物が陣地を築いたことをねぎらう書状とされている。

 これらの書状は、西春町文化財の指定を受けていたが、滋さんが今年3月に77歳で亡くなり、「監物ゆかりの常滑市で保管したほうが価値がある」とのさと子さんの意向で、町の指定を解除して寄贈された。書状のほか、水野家の家系図などもある。

 同市民俗資料館学芸員の中野晴久さんは「書状の内容は研究者に知られているが、その原本が寄贈されたことに大きな価値がある」と話している。(2005年11月27日  読売新聞)」と紹介されている。

常滑市民俗資料館のリーフレットでも、

「西春町の水野家は常滑城主水野監物の家を再興した家側になり、織田信長と徳川家康が水野監物に宛てた書状11通を保管してきました。緒川水野氏から枝分かれして常滑に城を作り初代水野監物が居城したのが15世紀の終わりごろでした。そして、信長や家康と交流していたのは3代目の水野監物です。3代監物は天正10年(1582)本能寺の変で明智方に付いたことから失脚し、京都嵯峨で隠棲し、秀吉と同じ慶長3年(1598)に没しています。この段階で水野家は断絶しますが、監物の妻室、総心尼が水野信元(忠政)の娘であったことから家康とは従兄弟となり20人扶持の手当てが支給され、初代尾張藩主徳川義直からは総心寺の開創が聞き入れられました。常滑水野家は岩滑城の中山家から養子を迎えて再興され、尾張徳川家の馬廻役を勤めて江戸時代を生き延びていきます。常滑水野氏に関する同時代の資料は極めて少ないものの、その書状からは戦国時代の武将の日常が浮かび上がってきます」

とあり、貴重な資料展示であることがよくわかる。

<信長書状~天下布武の黒印がおされている(左側は本願寺攻めの際の感状)>

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<家康書状~お礼状である>

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<不識水差~久田耕甫作、蓋は楽了入作、箱書きもすごい>

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常滑市民俗資料館のリーフレットの文中、「総心尼が水野信元(忠政)の娘であったことから家康とは従兄弟となり20人扶持の手当てが支給され、初代尾張藩主徳川義直からは総心寺の開創が聞き入れられました」とあるが、年代的には総心尼は水野信元の娘であろう。*2006.1.11修正 つまり於大の方の姪ということなる。すなわち、家康と総心尼は従兄妹であり、その夫監物とも義理の従兄弟になる。また、「常滑水野家は岩滑城の中山家から養子を迎えて再興され」とあるが、 これは新七郎(八郎右衛門)保雅のことで、この人については「尾陽雑記」巻之三にある水野氏系譜に「守隆-某 八郎右衛門 総心養為レ子 」とあり、「実は中山五郎左衛門子、刑部少輔には孫と云々。常滑之水野監物守隆室禅尼総心レ之故水野と号す。母は水野下野守信元女総心妹也。栄寿院尼と号す」と中山刑部大輔勝時の長男中山五郎左衛門某(光勝というらしい)の子が水野八郎右衛門保雅であるらしい。保雅の実母は水野監物室総心尼の妹で、保雅は水野監物夫妻からみて甥であった。その関係で、保雅は常滑水野家の養子になったのであろう。実父である中山五郎左衛門光勝は、天正3年に召されて徳川家康に仕え、後に水野勝成に属し、大坂夏の陣に加わっている。

それはともかく、本能寺の変の後、伊勢白子浜から海路三河に帰る途中、一体家康は大野から知多半島に上陸したのか、常滑から上陸したかといえば、小生常滑であると推定する。そして、成岩まで行き、成岩浜から海路三河まで行ったと思われる。これは、かつて山科言継が駿河から京へ帰ったとき、三河から海路成岩へいき、知多半島を陸路常滑に抜けて、常滑から海路伊勢へ渡ったのと方向は逆であるが、ほぼ同じルートである。

もちろん、大野から大野街道を通って半田へ抜けることも可能である。たしかに、大野には東龍寺が上陸した家康をかくまった、それは東龍寺の洞山和尚が家康の従兄弟だったからだという伝承がある。しかし、これは成岩の常楽寺の事績と混同しているか、常楽寺と同様に家康との血縁が和尚にあったことから後世作られた「話」ではないか。また大野の町方が家康に助力するために軍資金を集めたというのも不自然で、公然とそのようなことをすれば、佐治氏の知るところとなったであろう。

<大野の東龍寺>

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それに対し、常滑は家康が上陸したという伝説があるだけでなく、家康の三河帰還を手助けしたと言われる常滑の住人に対する家康のお礼であるとか、尾張徳川家の保護といった事実らしい状況証拠があるのである。

伝承で面白いのは、柴船権現の話である。これは、常滑の市場地区にある小さな神社にまつわる話で、家康が本能寺の変の後、柴を積む船に隠れて常滑に逃れてきたという。まさに隠密行動をとったわけだ。市場地区では、毎年5月の旧暦4月16日前の土曜に、柴船権現祭を行っている。小生、例によって位置を調べずに、常滑に行き、結局シャンドゥピエールで苦手なケーキは注文せず、コーヒーだけ飲んで、店の方に場所を教えてもらったが、ちょっと知らないと通りすぎてしまいそうな小さな社である。常滑商店街振興組合のマップでは家康が衣冠束帯姿で船に乗っている漫画がかいてあったが、これでは「柴船に乗った権現」で、イルカに乗った城みちるもびっくりであろう。

<柴船権現>

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<常滑商店街振興組合発行「歴史発見歩こうとこなめ 街なか ぶら~りマップ」より>

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また、常滑の保示にある浄土宗の寺、正住院が家康を助けたという話もあるようだ。しかし、実際正住院に行ってみると、そのようなことを書いた看板の類はなかった。

その他については、長くなったので、次回とする。

(参考文献)

・「常滑の城」      吉田弘著       (常滑の史跡を守る会)     1997

・「やなべの歩み」    やなべの歩み編集委員会   (岩滑コミュニティ推進協議会) 1985

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