台地ごと宅地開発でなくなった長作城址
先日、常駐先の愛知県から、自宅に帰ったおり、たまに図書室で本を読んだりしていた長作(ながさく)公民館(千葉市花見川区長作)の前を車で通りかかったら、長作(ながさく)城址があった長作城山(ながさくしろやま)という台地が宅地開発のためになくなってしまっていた。その前に来た時、樹木が伐採され、禿山になっていたが、その台地は残して、先端部に何か建つのかと思っていた。貴重な遺跡を、一体どういうこと?と怒り心頭の小生、かつての長作城址で撮影した写真の類をここに放出する。
<第2郭とその外の郭を仕切る大きな土塁の上から>
<郭内の様子~中央部がいくらか高くなっているか>
<第2郭の仕切り土塁から、東側を見る~下に竪堀らしき溝>
長作城といっても、知らない人は多いであろうが、千葉市の京成実籾駅の南方、長作公民館や長作小学校の近くにある、長細い台地上にあった城である。小生のHP「古城の丘にたちて」では以下のように書いていた。
「長作には、長胤寺館のほかに、もう一つ城址がある。長胤寺館の東北約800mにある長さ300m程の舌状台地上の先端部分にあり、土塁や空堀が残っている。そこは、「長作城山(ながさくしろやま)」という地名のある台地であり、長作公民館のある低地から南西に見える。比高20m位のその台地は南側に先端があり、水田のある低地に細長く突き出した形で、東金街道によって舌状台地の根元を斜めに分断されている。舌状台地先端の南、東、西側は急崖であり、東側の低地は水田のあった谷津で、西側の低地も枝のように伸びる小谷津になっている。
城址の主要部分の現況は竹薮であり、台地の東側縁に高さ1m強の低い土塁が付き、西側の一部は土取りのため破壊されて、西側に土塁が明確に見られないが、かつては南東の最先端部分から東西へ取り巻いて、土塁が台地先端の主郭を囲む単純な構造をしていたと思われる。現在木工所があるところの裏に、台地を横に遮断するかのような3m位の高い土塁があり、東西に長さ20m位続いている。その土塁の上部幅は5~6m、基底部は8~10m程あり、土塁の中央部分で台地の先端部側に少し折れ屈曲し、土塁外側正面は現在登れる程度の傾斜であるが、切岸が施され当時は急であったと思われる。それによって、正面からの敵の侵入を阻み、高い土塁の端から郭内に侵入しようとする敵にも横矢を掛けられるように普請されている。また、高い土塁の外側の下には浅い空堀跡があり、竪堀となって斜面へ続いている。その高い土塁の北側の台地周縁部東側にも土塁があるが、住宅地になっていて、かなりの部分が破壊されており、郭が続いていたと思われるが範囲が明確でない。
台地の最先端から、その高い土塁の内側までは、南北約48m、東西約20mの細長い第1郭があり、台地を横切る段切を境に少し窪地になった南北約20m、東西20~25m程の第2郭がある。段切の西側斜面にも、竪堀の址がある。高い土塁と堀の外側にも郭が連なった、単純な直線型連郭構造をしていたようで、この第1郭、第2郭が長作城の主郭であろう。前述の通り、主郭部以外の部分は住宅地化しており、さらに土塁で区切られて郭が連なっていたかは分からない。長作小学校の辺りまで、城域が続いていた可能性もある。この場所は湧水が豊富であったと思われ、水の手は台地下の水田や宅地になっている低地のどこかにあったのであろう。今でも、低地部分は花見川に注ぐ水路が流れ、水源は豊富そうである。台地から西側低地に降りる道は、住宅に付随した私道が途中まであるだけであるが、かつては明らかにあったかもしれない。住宅地や駐車場となっている台地基部は、開発で遺構が破壊されているため、主郭部以外がどうなっていたか不明瞭である。
東側低地は、近くに水路があり、元は川が流れた低湿地であったと思われ、現状道路になっている台地との接合部分は水堀または泥田のような場所であったかもしれない。
なお、ここは長作の中心集落から離れているせいか、農村部でよくあるように城址の近くに寺社があったり、土塁に祠が祀られているということはない。周辺の地名としては、「坊辺田」、「城ノ下」の字名があり、ここが城址であることは昔から伝えられてきたようである。地元の人は、この城址を今も「城山」と呼んでいるようで、城址の西南にある諏訪神社境内にある見晴台の地元老人会の建てた案内板に、神社からの展望で城址が見えると書かれている。(以下略)」
<仕切り土塁を下から見る>
<長作城址の東側低地>
<第1郭台地縁辺東側の土塁>
この城址については、書いている書籍の類も殆どない。作りからみて戦国時代のもので、後北条氏系の城でよくあった、舌状台地を横に堀や土塁で区切り、台地先端部を詰めの郭とする連郭式の城址である。ここは縄文時代の貝塚でもあったというから、水の手などもあり、人が生活できる場所ではあったのだろうが、長作集落からは離れた場所にある。
すなわち、陣城のように、戦略上一時的に築城され、用が済んだ後は打ち捨てられた城であるか、長胤寺館の出城で物見などの役割を果たしていたか、と思われる。昔は周囲に人家がなかったようであるから、統治のための城ではないのだろう。
<禿山になった城山>
しかし、遺構がすっかりなくなって発掘もできなくなった現在、この城について科学的な分析ももはや出来なくなった。覆水盆にかえらず、である。何でもかんでも、経済重視では駄目だと思うのだが、如何。
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コメント
実は長作町の同場所の宅地を買おうか検討している最中でした。
見晴らしもいいし、自然はあるし、いいなぁ、と思っていたのですが
そんな由緒ある場所だったんですね。。。。
地元の人間じゃないし、不動産屋も何も言わないので知りませんでした。
ロイヤルガーデン長作町、という名で販売されてますが、
その名前の由来は城跡だからでしょうか。。。
壊してしまったものは元には戻りませんが
どんな場所だったのか後世に残すため
記念碑だけでも建てられたらいいですね。
投稿: ゆづる | 2006.01.30 18:14
コメントありがとうございます。おっしゃる通りで、今となっては長作城址および長作貝塚の記念碑だけでも、ということかもしれません。
中世の城郭は、首都圏では殆どが住宅開発などのために消滅したり、残ったものも大部分が破壊されたりしています。小金大谷口城など大きな城も、殆ど遺構が残っていません。埋蔵文化財や遺跡への意識は、昔より今のほうが高くなっている筈なのに、今回のようなことは往々にして起きているのが残念です。
なお、私は「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」という柏を中心とした東葛の別の地域史の会の会員ですが、「千葉市の遺跡を歩く会」という会が長作城址および長作貝塚遺跡の件について取り組んでいたようで、HPにこの件の記事なども載っています。
また、小生のHPと相互リンクしていただいている「さわらび通信」のさわらびさんのHPにも長作の長胤寺館などの文化遺産やオビシャなどの習俗を含めた人々の暮らしについての紹介があります。よければ、そちらもどうぞ。
千葉市の遺跡を歩く会:URL http://www.geocities.jp/chibaiseki/
さわらび通信:URL http://homepage1.nifty.com/sawarabi/
投稿: mori_chan | 2006.01.30 19:41
最近、この記事に対し、業者負担で千葉市で調査したのだから、不動産業者を悪者扱いにするのはどうかというコメントがありました。
不動産業者からの書き込みかもしれませんが、そんな子供騙しの「記録保存」などというものは、本来的に間違っています。どんなに時間をかけても、遺跡の全貌をすべて記録することなど無理です。これは開発優先のあやまった考えに行政側の文化財担当すら毒されているから、そういう発想になるのです。
柏市もだらしなかったが、千葉市も開発業者の言いなりで腰ぬけです。
「記録保存」などというものは、今後は基本的に許されるものではありません。そこがどうしても国家の一大事でどうしても利用せざるを得ないというような場合を除いては、遺跡を破壊してよいという理由自体がないのです。
あんな台地ほどの土地ならば、他にいくらでもあるではありませんか。遺跡を潰してまで、住宅を建てる価値がきょう日どこにあるか。
偉そうに本末転倒なことを書いてこられるのは迷惑千万であり、批判したいなら堂々と連絡先なり、住所なりを書いて名乗ってくるのが筋であろう。今後一切、当該コメント書き込み主のコメント書き込みを禁止します。
投稿: mori_chan | 2009.09.06 08:49