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2006.01.07

徳川家康と知多半島(その10:柴船に乗った権現)

新年の初詣は、例によって鎌倉の鶴岡八幡宮に行った小生であるが、意外にも初詣客が少なかったのは寒さのせいであろうか。お札を貰ってくるシステムが最近変わり、以前祈祷は全て本殿に上って祝詞をよんでもらって時間がかかっていたのが、急ぐ場合は若宮で祈祷というスピードコースが新設されていた。もっと簡単なのは、年内に所定の振込み用紙で祈願内容を書いて振り込めば、お札が郵送されてくるというコースもある。

<鶴岡八幡宮の初詣風景~若宮付近から本殿を望む>

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一方、小生の地元船橋では、初詣で船橋大神宮に行く人は多いと思うが、年々船橋大神宮の混雑ぶりが目立っているようだ。かつては、初詣の混雑ぶりもそれほどではなく、その時期に大神宮の境内で神楽もやっていたし、どんど焼きではお札以外に焼き芋も焼いていた。実にのどかだったのだが、最近は初詣の頃は参道を人が埋め尽くし、古いお札を納める際には、ついでに処分しようと関係ないものが入っていないか厳しいチェックが入っている。

実はこの船橋にも、東照宮がある。かつての船橋御殿跡にたっている東照宮であるが、日本一小さいとのことである。しかし、実際はもっと小さい東照宮もあるそうなので、日本一小さい東照宮に限りなく近い東照宮とでもいうべきであろうか。

<船橋の東照宮>

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前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。前回、「神君のご艱難」といわれた本能寺の変直後の「伊賀越え」の後、伊勢の白子浜から、海路どういうルートで家康は三河の大浜に行ったのかということで、常滑か大野に一旦上陸し、知多半島を陸路で横断して、成岩辺りから三河へ渡ったのではないか、と述べた。

その頃の常滑、大野の状況をみると、常滑は常滑城主である水野氏が支配していた地域であり、大野は大野城主であった佐治氏が支配していた。その常滑城主水野監物守隆は、本能寺の変当時京都にいて、なぜか明智光秀の側についてしまう。もともと、緒川・刈谷の水野氏から分家した家であり、織田信長配下であったにも関わらずである。水野監物守隆は茶の湯や和歌などをよくする文化人であり、明智光秀と惹きあうものがあったのかもしれないし、公家や文化人などとの京都での人脈で明智方に組することになったのかもしれない。

一方、大野の佐治氏は、元をただせば室町時代に大野を拠点に知多半島の特に西側を支配していた足利の一族である一色氏の被官で、一色氏が応仁の乱で勢力を失って退転したあと、その支配圏を取り込み、内海以南の南知多をめぐって、戸田氏との争いを繰り返していた。佐治氏は青海山の大野城を居城としており、大野の萬松山斉年寺は佐治氏の菩提寺である。大野城主佐治氏の初代は佐治駿河守宗貞、二代目が上野介為貞、三代目が対馬守信方、四代目が与九郎信時である。斉年寺は初代佐治宗貞の菩提を弔うために、二代為貞が享禄4年(1531)に創建したもので、曹洞宗の寺である。佐治氏と戸田氏の争いの間隙をついて、水野氏が常滑に台頭してきたために、知多半島の西側の大野と内海という南北に離れた場所に支配圏が分断されて勢力を衰退させた佐治氏は、結局織田信長の配下になって延命せざるを得なかった。大野城主佐治氏の三代目、四代目の名が信方、信時なのも、織田の支配下に入ったことを意味する。その佐治氏も、天正10年(1582)の本能寺の変後の混沌とした状況下に、織田信雄に従い、動乱の中に翻弄される*。 だが、その後の豊臣秀吉が天下をとるという情勢にあって没落し、天正12年(1584)には大野から去っている。*2006.1.22改

<大野城~郭の周囲に土塁が残る>

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<大野の斉年寺>

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前にも書いた通り、本能寺の変当時の常滑には於大の方の実家緒川・刈谷水野家の分流である、常滑水野氏の三代常滑城主水野監物守隆がいた。正確には、本能寺の変直後には水野守隆は京都にいたのだから、その時の常滑城には守隆の妻、水野信元の娘である於万の方(後の総心尼)や守隆の家臣たちがいたということになる。常滑城主初代水野忠綱は連歌のたしなみがあり、二代大和守監物丞も足利義輝から官位を授けられ、幕府の官職についており、飛鳥井雅綱、津田宗及と親交があった。弘治3年(1557)に京の山科言継は駿河に行った帰りに、三河大浜から海路で成岩に入り、陸路常滑城へ行って、この水野大和守監物丞に贈り物をした後、海路伊勢長太(今の鈴鹿市)へ渡り、京へ帰っている。この大和守監物丞の在世中の天文12年(1543)に水野忠政がなくなり、その子信元が継ぐと、緒川・刈谷水野氏はそれまでの今川寄りの姿勢を改め、織田方になった。これは忠政の代に知多半島北部から拡張しようとしたが、その北の織田氏は手強く、織田氏とは融和の路線に転換したのであろう。そして、常滑水野氏も三代監物守隆のころには、織田方であることを鮮明にする。すなわち、監物守隆は元亀元年(1570)の織田信長の浅井・朝倉攻めに参戦し、天正2年(1574)の長嶋一向一揆攻めでは安宅船で参戦するなど、織田方の武将として各地を転戦した。その合戦の合間に、天正6年(1578)3月には水野監物守隆は京で津田宗及の茶会に招かれ、翌年は自ら茶会を開催している。そして、天正9年の高天神城攻めや翌年の甲斐進攻にも加わっているなど、武人としての働きも行っている。

しかし、天正10年(1582)の本能寺の変では、水野監物守隆は明智方になり、そのため常滑城主の座を追われ、慶長3年(1598)4月になくなるまで、京で余生を連歌や茶の湯に興じて送ることになる。

ちなみに∞ヘロン氏のすすめもあり、先日常滑市民俗資料館へ常滑水野家文書の展示を見に行き、民俗資料館の方に写真撮影やHP掲載は問題ないか聞いたところ、「良いですよ」とのことであったので、いくつか展示物を紹介したい。その前に、その企画展についてであるが、新聞記事によれば、

「信長から常滑城主への書状10通 西春の末裔が 常滑市へ寄贈(読売新聞豊田支局)

 織田信長が、常滑城主の三代水野監物(けんもつ)にあてた書状10通が、水野家の末裔(まつえい)にあたる水野さと子さん(71)=西春町在住=から四百数十年ぶりに常滑市に寄贈された。徳川家康からの1通などとともに市は近く一般公開し、文化財に指定する。

 水野さんの夫、滋さんは、監物の死後、養子を迎えて再興された水野家14代目の当主。監物は、信長方の武将だったが、天正10年(1582年)の本能寺の変で明智光秀につき、常滑城を追われた。

 信長の書状はすべて黒印状の正本。多くは伊勢湾でとれた海産物などの進物に対する礼状だが、このうち1通には「3月8日」の日付とともに、住吉(大阪市)での普請に対してねぎらう言葉がある。本能寺の変の5年前、信長は権力基盤を強化するため、天正4~8年にかけて、石山本願寺攻めを行っており、この際、監物が陣地を築いたことをねぎらう書状とされている。

 これらの書状は、西春町文化財の指定を受けていたが、滋さんが今年3月に77歳で亡くなり、「監物ゆかりの常滑市で保管したほうが価値がある」とのさと子さんの意向で、町の指定を解除して寄贈された。書状のほか、水野家の家系図などもある。

 同市民俗資料館学芸員の中野晴久さんは「書状の内容は研究者に知られているが、その原本が寄贈されたことに大きな価値がある」と話している。(2005年11月27日  読売新聞)」と紹介されている。

常滑市民俗資料館のリーフレットでも、

「西春町の水野家は常滑城主水野監物の家を再興した家側になり、織田信長と徳川家康が水野監物に宛てた書状11通を保管してきました。緒川水野氏から枝分かれして常滑に城を作り初代水野監物が居城したのが15世紀の終わりごろでした。そして、信長や家康と交流していたのは3代目の水野監物です。3代監物は天正10年(1582)本能寺の変で明智方に付いたことから失脚し、京都嵯峨で隠棲し、秀吉と同じ慶長3年(1598)に没しています。この段階で水野家は断絶しますが、監物の妻室、総心尼が水野信元(忠政)の娘であったことから家康とは従兄弟となり20人扶持の手当てが支給され、初代尾張藩主徳川義直からは総心寺の開創が聞き入れられました。常滑水野家は岩滑城の中山家から養子を迎えて再興され、尾張徳川家の馬廻役を勤めて江戸時代を生き延びていきます。常滑水野氏に関する同時代の資料は極めて少ないものの、その書状からは戦国時代の武将の日常が浮かび上がってきます」

とあり、貴重な資料展示であることがよくわかる。

<信長書状~天下布武の黒印がおされている(左側は本願寺攻めの際の感状)>

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<家康書状~お礼状である>

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<不識水差~久田耕甫作、蓋は楽了入作、箱書きもすごい>

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常滑市民俗資料館のリーフレットの文中、「総心尼が水野信元(忠政)の娘であったことから家康とは従兄弟となり20人扶持の手当てが支給され、初代尾張藩主徳川義直からは総心寺の開創が聞き入れられました」とあるが、年代的には総心尼は水野信元の娘であろう。*2006.1.11修正 つまり於大の方の姪ということなる。すなわち、家康と総心尼は従兄妹であり、その夫監物とも義理の従兄弟になる。また、「常滑水野家は岩滑城の中山家から養子を迎えて再興され」とあるが、 これは新七郎(八郎右衛門)保雅のことで、この人については「尾陽雑記」巻之三にある水野氏系譜に「守隆-某 八郎右衛門 総心養為レ子 」とあり、「実は中山五郎左衛門子、刑部少輔には孫と云々。常滑之水野監物守隆室禅尼総心レ之故水野と号す。母は水野下野守信元女総心妹也。栄寿院尼と号す」と中山刑部大輔勝時の長男中山五郎左衛門某(光勝というらしい)の子が水野八郎右衛門保雅であるらしい。保雅の実母は水野監物室総心尼の妹で、保雅は水野監物夫妻からみて甥であった。その関係で、保雅は常滑水野家の養子になったのであろう。実父である中山五郎左衛門光勝は、天正3年に召されて徳川家康に仕え、後に水野勝成に属し、大坂夏の陣に加わっている。

それはともかく、本能寺の変の後、伊勢白子浜から海路三河に帰る途中、一体家康は大野から知多半島に上陸したのか、常滑から上陸したかといえば、小生常滑であると推定する。そして、成岩まで行き、成岩浜から海路三河まで行ったと思われる。これは、かつて山科言継が駿河から京へ帰ったとき、三河から海路成岩へいき、知多半島を陸路常滑に抜けて、常滑から海路伊勢へ渡ったのと方向は逆であるが、ほぼ同じルートである。

もちろん、大野から大野街道を通って半田へ抜けることも可能である。たしかに、大野には東龍寺が上陸した家康をかくまった、それは東龍寺の洞山和尚が家康の従兄弟だったからだという伝承がある。しかし、これは成岩の常楽寺の事績と混同しているか、常楽寺と同様に家康との血縁が和尚にあったことから後世作られた「話」ではないか。また大野の町方が家康に助力するために軍資金を集めたというのも不自然で、公然とそのようなことをすれば、佐治氏の知るところとなったであろう。

<大野の東龍寺>

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それに対し、常滑は家康が上陸したという伝説があるだけでなく、家康の三河帰還を手助けしたと言われる常滑の住人に対する家康のお礼であるとか、尾張徳川家の保護といった事実らしい状況証拠があるのである。

伝承で面白いのは、柴船権現の話である。これは、常滑の市場地区にある小さな神社にまつわる話で、家康が本能寺の変の後、柴を積む船に隠れて常滑に逃れてきたという。まさに隠密行動をとったわけだ。市場地区では、毎年5月の旧暦4月16日前の土曜に、柴船権現祭を行っている。小生、例によって位置を調べずに、常滑に行き、結局シャンドゥピエールで苦手なケーキは注文せず、コーヒーだけ飲んで、店の方に場所を教えてもらったが、ちょっと知らないと通りすぎてしまいそうな小さな社である。常滑商店街振興組合のマップでは家康が衣冠束帯姿で船に乗っている漫画がかいてあったが、これでは「柴船に乗った権現」で、イルカに乗った城みちるもびっくりであろう。

<柴船権現>

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<常滑商店街振興組合発行「歴史発見歩こうとこなめ 街なか ぶら~りマップ」より>

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また、常滑の保示にある浄土宗の寺、正住院が家康を助けたという話もあるようだ。しかし、実際正住院に行ってみると、そのようなことを書いた看板の類はなかった。

その他については、長くなったので、次回とする。

(参考文献)

・「常滑の城」      吉田弘著       (常滑の史跡を守る会)     1997

・「やなべの歩み」    やなべの歩み編集委員会   (岩滑コミュニティ推進協議会) 1985

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コメント

常滑市民俗資料館へ行ってこられたのですね。とても嬉しく思います。詳しく取材されているので、わたしも参考にさせていただきました。当初はリーフレットはまだ作ってなかったようですが、展示会用に急遽印刷されたのでしょうか。展示会の様子がよく解る写真も添えられていますので、こちらのURLを当方のPR記事とリンクいたします。
 それから中山刑部大輔勝時の記事もありがとうございました。(^^)

投稿: ∞ヘロン | 2006.01.09 01:41

常滑市民俗資料館の展示はこじんまりとしていましたが、織田信長、徳川家康の書状、不識水差と展示内容がすごかったと思いました。天下布武の黒印状は前に一度金華山で見たことがあったと記憶していますが、一度にあれだけの数のものが一堂に集まってというのは初めてです。
水野保雅の実父、実母についても分かりましたので、本文中に書きました。
なお、「その8:阿久比、そして再び岩滑」のコメントで中山氏について書きましたが、漢字の変換ミスがありましたので、修正しました。余談ですが、新美南吉の童話にも中山氏は登場し、子孫も岩滑にいたそうです。

投稿: mori_chan | 2006.01.09 08:29

記事中の――
「常滑市民俗資料館のリーフレットの文中、「総心尼が総心尼が水野信元(忠政)の娘であったことから(忠政)の娘であった」とあるが、」と書かれていますが、意味が不明です。(^^;

投稿: ∞ヘロン | 2006.01.09 13:10

文章のコピーをミスっていたようです。また暴走したかな。あしからず。
要は水野監物守隆室の総心尼が家康の母方である緒川・刈谷水野家の出身であったために、水野監物守隆の本能寺の変への対応にも関わらず、手厚く保護されたということですが、年代的には総心は忠政の娘ではなく、信元の娘だったろうと言いたかったのです。家康は、信長や秀吉のように、一度敵とみなした人々やその縁者を徹底的に弾圧するという行動はとらず、武田家や小田原北条家の家臣出身者も、こっそり家臣に取り立てたりしています。斎藤利三の娘も後に春日局として徳川家のなかで重要な人物になりますが、家康の引きがありました。

投稿: mori_chan | 2006.01.11 14:07

大野・東龍寺の9代目和尚が家康の従兄弟だそうです。家康よりの礼状今でも残っているそうです。ただ、地元で有名なのは東龍寺よりも町内某家(あえて名前は控えますが、調べるとすぐにわかると思います)の方です。その後その辺りには尾張徳川家の御旅所が立てられていました。主に鷹狩りなどを楽しんでいたとあります。また、町内老舗では徳川家への献上金の証書が残っているそうです。ご参考までに…

投稿: 大野人 | 2006.03.06 01:24

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