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2006.01.22

徳川家康と知多半島(その12:続々・柴船に乗った権現)

徳川家康という人は、何度も危機を乗り越えてきた人であり、この人ほど好運に恵まれた人も歴史上珍しいのかもしれない。幼少の頃、今川家の人質になり、桶狭間合戦も今川方として戦った。そこで今川方は敗れたが、家康は大高城から脱出し、三河岡崎に復帰している。三方ヶ原の戦いでも、武田信玄に完敗して、命からがら逃げ帰っている。本能寺の変でも、堺から伊賀越えをして、三河に無事に帰っている。幼少の時に、辛い人質生活を送ったが、今川義元の軍師であった雪斎禅師の薫陶を受けた家康は、武将として一流の人物となった。豊臣秀吉の風下に置かれ、関東に国替えになっても、海沿いの辺鄙な城下町であった江戸を整備し、ちゃっかり伝馬制など後北条氏の優れた制度を取り入れ、後北条氏旧臣を登用したりしている。禍を転じて福となすような人生で、いつも着実に自分の地盤を築いている。

前回まで、本能寺の変直後の三河帰還にあたって、伊勢白子から伊勢湾を渡った家康が知多半島に上陸したのは大野ではなく、常滑であると記した。しかし、大野に上陸したという説も根強い。なぜ、そのような説が出てきたのであろうか。それには、いくつか根拠がある。

<常滑の海~伊勢の白子を望む>

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実は、成岩の常楽寺の由緒に、以下の旧記があるという(「半田町史」より)。

「当山八世典空顕朗上人は、神君之御子従弟にて御父は吉良庄赤羽城主高橋弾正殿なり、御母は尾州緒川苅谷の城主水野右衛門大夫殿の御娘にて、即神君様の御母公伝通院様の御妹也、大野東龍寺住世洞山祖誕上人の弟也、右上人在住の頃天正十年午六月、神君様を信長公御招待有之御上洛之次、泉州堺之津御覧被為在、于時京都本能寺に於て信長公御生害有之、惟任日向守一戦之節堺津御立退、密かに伊賀越より東国へ御下向之節、従勢州四日市尾州常滑辺に御船を寄せ給ひ、東龍寺に御着、夫より三州へ御帰城の刻、東龍寺住祖誕上人供奉御案内にて成岩村へ御到着、常楽寺に於て御休み、夫より住持供奉にて成岩之浜より御船にて三州大浜へ渡御、其後天正十七年神君御上洛之時三州より成岩村へ渡御、常楽寺に於て御昼御膳所被仰付、猶思召を以て堂前に松二株御手植被為遊、天長地久を祝し給ふなり、(以下略) 寛永十四年丁丑三月 十四世弘空歴道記之」
すなわち、赤羽城主高橋弾正と家康の母於大の方の妹(水野忠政の娘)との子である典空顕朗上人が成岩常楽寺の住職をしていた天正10年(1582)6月に本能寺の変が起き、三河に帰還するため伊勢から船で常滑へ着いた家康は、大野東龍寺に立ち寄った後、住職祖誕上人の供で成岩へ到着、常楽寺で休息した後、その住職の供で成岩浜から船で三河大浜に渡ったということである。

同様の記述は、大久保彦左衛門が書いた「三河物語」などにあり、一旦家康たちは伊勢から常滑に着いたものの、常滑城主に疑色があるため、船を大野に廻して大野東龍寺を宿舎として使いを岡崎に発して、翌日成岩常楽寺にはいったという。常楽寺の由緒は寛永14年(1638)で三河物語は元和8年(1622)成立というから、常楽寺の由緒は三河物語の影響を受けているであろう。これらの説は、家康は一旦常滑に上陸したが、大野にまわって東龍寺に立ち寄り、大野から陸路で成岩まで行ったということである。時間的に余裕があり、大野が安全であるという確信があれば、考えられる。常滑城主水野監物が明智方になったとはいえ、大野が安全かといえば、家康との縁でいえば従弟の東龍寺洞山和尚がいる位で、大野を支配していた佐治氏と家康が格別の関係を持っていたわけではない(久松家とは姻戚ではあるが)。むしろ、動向のしれない他人の土地である。一刻も早く三河に帰りたい家康が、わざわざそのような遠回りをするだろうか。

<大野城址にある佐治神社~座像は四代佐治与九郎>

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ただでさえ、大野から成岩では約12kmの道のりであるが、常滑から成岩へは9km程度と、常滑から行ったほうが早いのである。常滑から大野も近いようで、6kmくらいある。やはり、家康は最短コースをとったのではないか。しかも、常滑から東へ足を踏み出せば、殆ど味方ばかりの土地なのである。岩滑の中山勝尚は、25騎を率いて、家康一行を出迎えている。常滑の人々も、道中の案内をした衣川八兵衛が一時自宅に家康をかくまったというのであるから、常滑水野氏の親戚である家康をかげながらバックアップしたのは十分考えられる。

<大野東龍寺、下は門前の由緒を示す看板>

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では、その当の東龍寺の記録はどうか。縁起には、以下のように書かれている。

「天正十壬午年六月二日家康様泉州堺の浦より伊賀路を経て御下向の刻勢州四日市の浦より渡海の御座船を当港に寄せられ、洞山上人は御従弟故御旅宿を当寺に占し玉ひ、三日御逗留御物語の節、信長公永楽四十貫文に准し四十石之御朱印可被下置之御契約有之、其時家康様軍用之金子上人を御頼被遊し時、上人は返答に拙寺所持は不仕候間当寺旦頭を頼申可と御請被成旦頭茶屋市左衛門に金子御備用被遊御喜悦浅からず、世静穏に及びなば速に返弁可被成由被仰聞当寺を御出足常滑村をさして御急ぎ此村より衣川八兵衛と申者御案内仕り、三河へ御渡り、(以下略) 宝暦六年子二月 知多郡大野村 東龍寺判 右之通相認御役所へ指出候者也 二十四代 林翁代」

この東龍寺縁起では、常福寺由緒や三河物語などとは逆に、大野へ上陸してから常滑に行ったとしている。書かれた時期も宝暦6年(1756)と、本能寺の変の174年後である。文中茶屋市左衛門とあるのは、大野の十王町にいた薬屋市左衛門という商人の誤記であるらしい。家康を支援していた茶屋四郎次郎と地元の薬屋市左衛門が混同されている可能性もあると思われ、正確性を欠いていよう。また、この話は前回述べた伊勢白子で家康が乗った船が角屋船であったのが間違いなければ、その船で大野に上陸したこと自体成り立たなくなる。

<大野城址のある青海山からみた伊勢湾>

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大野東龍寺の洞山祖誕上人が、実は天正10年(1582)6月時点では大野にいなかったという話もある。これは戦前の「常滑町史料」に出てくるが、洞山祖誕上人が家康を饗応したのは、大野の東龍寺ではなく、三河大浜上陸後、吉良(今の西尾市)に入り岡崎に赴く途中で、中島(岡崎市中島)の崇福寺に立ち寄った際、その住職であった洞山祖誕上人が歓待したというのである。その歓待に感激した家康が洞山和尚に対し、七十石与えたが、後に東龍寺に赴く際に三十石は後住に残し、自身は隠居料四十石を大野東龍寺にもたらしたのだという。そして、大野東龍寺は中島崇福寺の末寺にあたる。大野東龍寺の側も、嘉永年間に書かれた縁起では、洞山祖誕上人は天正10年(1582)6月時点で大野東龍寺におり、その後中島崇福寺に行ったとしており、どちらが真相とも良く分からない話であるが、江戸時代に本寺末寺の論争があったことは事実である。

要するに、本能寺の変から40年を経て書かれた三河物語などの記述があって、由緒書、縁起書の類が後年作られている。もはや、世の中で誰も家康に直接会った人もおらず、本能寺の変の頃には生まれてもいなかった時代に書かれたものの信頼性は、同時代に書かれたものの写本でもない限り低いであろう。

一方、常滑に上陸した地点の候補として、保示の正住院の裏というのがあり、その場合当然正住院が関わっていると思われるが、公式には正住院は何も言っていないようである。ただ、江戸時代に書かれた「尾張名所図会」では正住院に家康が来た旨の記述があるなど、一部にはそのように信じられていた。
正住院の裏には龍ヶ丘という小山のような場所がある。もしかしたら、そこから見張っていた人の視界のなかで小さな船の姿がだんだん大きくなって来て、やがて着岸した船から家康たちが降りてくる。そして浜には、それを出迎える正住院の僧や衣川八兵衛たちがいたという光景が、かつてあったのかもしれない。

<描かれた正住院~本堂の裏は海である>

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(参考文献)
・「半田町史」  愛知県知多郡半田町  1926
・「新編岡崎市史 古代・中世(史料編)」   岡崎市  1993
・「大野町史」   大野町      1931 

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