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2006.01.15

徳川家康と知多半島(その11:続・柴船に乗った権現)

前回、本能寺の変直後、滞在していた堺から本国三河への帰路、常滑に徳川家康が上陸したという伝承の一つとして、「柴船権現」の話を掲載した。しかし、これはやはり家康が常滑に上陸した、一つの傍証を見出す糸口になるものであった。

<柴船権現~三つ葉葵の紋所が提灯に>

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その当時、西知多では一色氏以来の湊である大野と、常滑水野氏が開いた常滑の湊が、主な船着場のある上陸ポイントであった。小生、本当に家康は常滑に上陸したのだろうかという思いを胸に、ある朝、常滑の喫茶店スカイラークでコーヒーを飲んだ後、苅屋の海岸に降りてみた。苅屋の海岸には波打ち際に海草が打ち上げられ、波間に鳥が浮かんでいた。「おーい、家康はどこに上陸したのか」と海に聞いても、返ってくるのは波の音と鳥の鳴き声だけである。ふと、伊勢湾を越えるとしても、それほど大きな船ではなく、越えられるのではないか。また、そのような船であれば、浜に船を引き上げれば、湊に入る必要もないのではないかという考えが浮かんだ。要は、常滑の湊に入らず、別の場所から上がれば、いいのでは。あるいは、正式に湊に入っても、漁船か荷物を運搬する船であれば、たとえ常滑城の城兵が警戒していようと、彼らは軍船や得体の知れない海賊船などが入ってくるのを見張っているのである。柴船、つまり柴を積んだ船であれば、伊勢湾のすみからすみまで運航自由である。もっとも、だからといって、常滑に上陸した証明にはならないが、別段、大野湊に上陸する必要性がないとは言えるであろう。実際、昔の海岸線に相当する保示の正住院裏(現在駐車場になっている)から、家康が上陸したという伝承もある(もちろん保示の正住院裏は単なる浜であって、湊の設備はない)。

<保示の正住院裏の昔の海岸線>

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ところで、常滑に上陸した家康を出迎え、成岩まで送り届けたのは、常滑の衣川八兵衛だったと言われる。この名前、当ブログの「徳川家康と知多半島(その8:阿久比、そして再び岩滑)」の記事のなかで、岩滑と阿久比の境の矢勝川にかかっていた「藩費の橋」について書いたときに既出であるが、どうも「藩費の橋」は桶狭間合戦の後の逸話であるにも関わらず、本能寺の変後の伝承と混線して伝わっているようである。本来は「藩費の橋」の逸話で、阿久比から家康を送ったのは久松氏の家臣の誰かだったのだろうが、その人の名が伝わらず、衣川八兵衛に置き換わってしまったのであろう。

それはともかくとして、常滑の衣川八兵衛とはどんな人物かといえば、常滑の住人であるが、普通の農民や漁民ではなく、海運業を営む商人と地侍を兼ねたような人物だったらしい。大正時代に書かれた「常滑町史編纂資料」によれば、後に九鬼嘉隆に属し、関ヶ原の合戦で西軍についた宮崎久左衛門という水軍の武士の配下*であったが、常滑水野氏とも何らかの関係をもっていたようで、船江という船の繋留場の管理をまかされていた。(*後に衣川氏は徳川方の船手千賀志摩守に帰属) 衣川家の屋敷は、今の市場地区の一角で、満覚寺という浄土真宗の寺も元々衣川家の敷地であった土地の上に建てられたといい、柴船権現はその満覚寺のまさに隣にある。そして、柴船権現の御神体は、代々衣川家が守ってきた。この衣川八兵衛は、おそらく海運を通じて、伊勢湾を行き来し、あるいは東浦である知多半島東部の地理や情勢まで知っており、家康の案内人として最適であったのであろう。そして、その功績のため、家康の槍を拝領するとともに、上ノ山という、現在正法寺などがある高台の土地をもらった。また江戸時代、衣川家は代々常滑の庄屋をつとめた。衣川家の本家は東京に移住してしまったが、今でも衣川姓の人は常滑には多い。実は衣川家は小鈴谷(こすがや)の旧家である盛田家と姻戚関係で、盛田家に家康から拝領した槍を譲渡したらしい。その盛田家とは、ソニーの創業者で会長をしていた盛田昭夫氏の実家である。なんという偶然か、江戸幕府創設者のものが、現代の代表企業の創設者の家に渡るとは。

<正法寺近くにある常滑城址の碑>

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<正住院の山門>

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では、その衣川八兵衛はどんな実像をもった人物か、そして彼をこの家康三河帰還というプロジェクトに組み込んだのは誰かということであるが、以下のように考えられる。

つまり、衣川八兵衛はまだ中世的な要素をもった、武力をも行使する海運業者であり、彼がつながる伊勢の大海運業者の手配で、この家康三河帰還に一役買うにいたったのである。関連する話として、斉藤善之・東北学院大学経済学部助教授は、常滑の海運について、以下のように述べている。

「中世の常滑焼を運んだのはどのような人達だったのでしょうか。この点は興味深いけれども難しい問題です。中世史の永原慶二さんは、熊野の水軍勢力がそれにあたるのではと示唆されていました。当時、水軍は有事の姿であり、平時になれば彼らは商業や海運業などに従事したりしていました。中世では商人であっても武装して、自衛しなければ、商いや交易などとてもできませんでした。ですから商人も、支配者からみて味方側であれば水軍であり、敵側であれば海賊と呼ばれたりしました。(略)

中世の商人は、商人であると同時に、武士・海賊であり、宗教者であり、芸能者でもあるなど様々な顔をもっていました。中世では、資本を蓄え商品を輸送するためには、武力のほか、神仏の力、伝統の力などあらゆる力が必要とされたからです。熊野水軍もまた、熊野の御師との関係も指摘されています。戦国時代には、商人は戦国大名と結び、時には道がない所にも兵粮を運び込むなどといった輸送にも従事しました。ですから自ら船や馬をもち、道や橋を造ったりして商品を輸送するだけの力すら備えた者もおりました。流通インフラが未熟な段階・地域においても自力で輸送を実現する力をもつような存在が必要とされたわけです。もちろん輸送のコストは全体としてかなり高くなりますが、それでよかった時代だったわけです」(海からたどる「商い」の時代史 ~現代地域経済圏の礎をつくった近世海運企業家~ :「ミツカン水の文化センター」HPより)

われらが永原慶二先生が編集した「常滑焼と中世社会」でも、同様のことが述べられていたし、はからずも当ブログのなかの記事でも千葉氏の家臣で篠田大隈守という商人的な武士の話や小生のHP「古城の丘にたちて」の船橋湊や船橋城に関する話でも共通するものがある。

実際、常滑で宮崎氏が根拠としていたらしい阿野のすぐ南には、熊野という地名があり、これはもちろん熊野神社から来た地名であるが、それを勧請した人々は熊野御師であったろうし、かれらと熊野水軍が関わっていたことも事実だろう。そして常滑水野氏の三代当主水野監物守隆も、安宅船で船いくさを行っていた。また、水野水軍を形成していた西浦の宮崎氏、東浦の亀崎水軍稲生氏が戦時には軍船を操っていたことは言うまでもない。衣川八兵衛はといえば、船江の管理や海運を業とする一方、戦時には矢弾のなかを兵糧、物資の運搬をしていたのであろう。

<正法寺近くから見た伊勢湾>

IMG_1272

では、衣川八兵衛を、この「柴船権現」大脱出プロジェクトに引き込んだのは、誰か。それは伊勢大湊の角屋であると考える。角屋は、伊勢大湊の廻船業者で、海外と交易するほどの大規模な商売をしていた。天正10年(1582)の本能寺の変の際、たまたま堺に滞在していた家康は急遽、伊賀路を越えて帰国しようとしたが、土一揆に阻まれた。茶屋四郎次郎は家康に本能寺の変で信長が死んだことを急報し、伊賀越えにあたって土地の土豪らを懐柔するなどした。おそらくかねてじっこんの間柄である茶屋四郎次郎に依頼された、角屋七郎次郎が、家康の窮地を救い、柴船にかくまって、伊勢白子より尾張常滑まで家康を送り届けた。衣川八兵衛への連絡も、船便を使って事前に行い、衣川八兵衛は角屋の指示を受けた場所に待っていた。その功により、角屋は代々の将軍より諸国諸湊への出入りの諸役を免許される朱印状を下付された。 実際、角屋が徳川将軍家から特権を与えられていた証拠となる文書の一つ、年不明(近世前期)の5 月2 3 日付角屋七郎二郎・同八郎兵衛宛、同江由(3 代七郎次郎忠祐)書状が、名古屋大学神宮皇学館文庫所蔵「角屋家文書」のなかにある。柴船とはいえ、角屋の船である。いざという時のために、屈強の武士が乗り込んでいたであろう。

では、なぜ角屋の船を使ったから、着いたのが大野ではなく、常滑なのか。それは一言でいえば、角屋の船と大野船とではテリトリーが違うからである。大野船は元来一色氏の支配をうけ、一色氏退転後は佐治氏が支配しており、大野船を使ったなら、当然大野湊に着いたであろう。角屋の船は、伊勢湾でも南のほうを運航しており、大野船とは角逐していた。蓋し、角屋の船は、新興の常滑湊を使用し、常滑焼の交易などもおこなっていたのである。結局、角屋の船を使った以上、行き先は常滑で、三河まで最短コースを行くことにし、そうはいっても常滑水野氏の兵の動向を懸念して、柴船というステルス作戦をとったということであろう。

大野の東龍寺が家康をかくまったというのは、上記の角屋船の話がある以上、成り立たない話であるが、なぜそういう話が出てきたかといえば、一つには大野が天正12年(1584)と慶長5年(1600)に九鬼氏によって攻撃、放火・略奪され、多くの寺院が灰塵と化し、古文書の類が焼失してしまった、それ故後代からは真相が分からない話でも、誤伝がいつの間にか正当化される、また後付けで創作する余地があったということが考えられる。特に東龍寺は徳川家康とは従兄弟にあたる洞山和尚がいたことが、同じ家康の従兄弟典空顕朗上人がいた成岩の常楽寺の事績との混同を生んだと思われる。

大野の東龍寺以外に、大野の平野彦左衛門がかくまったという話があるが、これは平野家が大野谷の大庄屋で「源敬公」(尾張徳川家初代の徳川義直のこと)を何度も屋敷に泊めるなど、歴代の尾張徳川家当主の宿舎となっていたために、家康の三河帰還時の宿舎と混同されたものと思われる。大野の平野家とは、昔中島郡平野村に住して平野氏を名乗ったもので、天文年間に彦左衛門政寿が大野に移住、以後この地に居住し、政寿の子政啓、その子政薫は徳川家康に仕えたという。さらに、慶長12年(1608)に、東浦十二ヶ村の代官となり租税徴収にあたった。この家なら、家康が休息したとしてもおかしくない、ということもあったかもしれない。*2006.1.16追記

それでは、また。

(参考文献)

・「常滑町史編纂資料」  常滑町史編纂会  大正年間

・「大野町史」        大野町      1931 

・「常滑焼と中世社会」  永原慶二編  (小学館) 1995

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