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2006.02.21

播磨城めぐり見聞録

ご家老の言いつけにより、江戸勤番から尾張の国は知多郡成岩村にある屋敷勤めをすることになった森知安(ちゃん)でしたが、くろがねの荷運びを行うご親戚家の何とか計画書なる巻物づくりをお手伝いし、連日のお勤めに疲れ気味。本来のお勤めもこなせねばならぬし、困ったものよと思案の最中。そして、ご親戚家のご家老への報告をもって、そのお勤めからは解き放たれたのを良いしおに、かつて住んでいた摂津の国の隣、播磨の国に骨休めに参ったのでありました。しかし、町医者からは禁酒を言い渡され、新幹線なる乗り合い馬車の中でも麦で作った酒が飲めないとは、つらいなあ。

二月十八日朝。天気は晴れというより、薄曇。
では、出発は尾張の国は知多郡長尾村(武豊)より。「じぇーあーる」とか申す乗り合い馬車に乗り込んで、いざ名古屋まで。ここまでなら、知多に来てからでも何回か行ったたことがあるが、はてさて新幹線で岡山行きとな。途中、姫路で降りるのでござるな。

<JR武豊駅:1953年の13号台風の際に列車を救い殉職した駅員さんの像(銅像のように見えるが、常滑で作った陶製だそうだ)がある>

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<名古屋駅新幹線ホーム>

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姫路城は、白鷺城とも呼ばれているそうな。確かに美しい城でござるな。たしか池田様の城であった。高田浩吉と申す歌手の歌で「白鷺は 小首かしげて 水の中・・・」* というのがあったが、関係ないじゃろの。 *白鷺三味線 日本音楽著作権協会作品コード:039-0324-9

<姫路城の大手門>

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<姫路城の堀>

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うーん、天守閣に子天守がついて、これはなかなか見所の多い城でござる。

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この城の西の丸には、かつて千姫様がおいでになった、化粧櫓という櫓があった。この辺りかの・・・おや、東の空に筋のような変わった雲があるわい。

<西の丸の櫓付近から飛行機雲を見る>

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しかし、姫路ばかりには居られぬ。脇坂様の龍野城も見聞しておくとしよう。では、姫路からまた乗り合い馬車に乗るのでござるか。「じぇーあーる」姫新線とな。初めて聞くような名じゃが。姫路と播磨新宮を結んでおるとか。

<姫路駅の姫新線ホーム>

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何と? 自動扉ではなく、釦を指で押して開閉するとは、初めて見聞するな。上野の国と下野の国を結ぶ両毛線では、扉を手で開け閉めする荒技を使っていたが、これは折衷方式でござるか。龍野城へ行くには、本竜野で降りればよろしいな。

<本竜野駅>

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ここから歩いて、城下へ参ろう。途中、揖保川にかかる龍野橋という橋がござるが、手前の橋の東詰の近くには醤油作りを生業としている町人がいるとか。ヒガシマルとか申したな。また、揖保乃糸という素麺でも有名じゃ。手延べ素麺協同組合の建物もある。町人の寄り合いじゃな。そうこうするうち、龍野橋じゃ。おお、橋の上から龍野城が見える。足利将軍のころ、赤松村秀という武将が鶏籠山の山頂に築いたのにはじまるとか。赤松四代の城であったが、天正五年、織田信長様の命により豊臣秀吉様が行った播州征伐で開城したとか。また山麓にある御殿は、徳川の御世になってからのものと聞く。

<龍野橋からみる鶏籠山>

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<江戸期の龍野城(復元)>

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城下は町屋の蔵や格子戸が目立つのう。そして、寺も多い。また、幅がちと狭いが、堀であるのか、水路がめぐっておるぞ。

<城下町の風情を残す龍野の町並み>

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龍野城は御殿に上げて頂けるのか。しかも金子をとらないとは。さすが龍野は醤油や素麺で商売繁盛している土地柄であるな。かたじけない。もう、そろそろ日も傾いてきたから、茶でも一服。そうじゃ、龍野橋の東詰に、古風な茶屋があった。そこで一休みしよう。「しふぉんけーき」という南蛮渡来の菓子に「こーひー」という茶で、一組になったものを注文しよう。六百文なら安いではないか。

<龍野橋東詰の喫茶店~入り口に細かいタイルがはってある>

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<喫茶店の店内~よく見なかったがアンティーク喫茶らしい>

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では、また姫路へ戻るとするか。何、「いべんと」があるとな。落とし噺でござるか。聞きたいのはやまやまじゃが、拙者尾張より隠密で上方に来ている身。また、明日は置塩城についての学者の話があると聞いておる。それでは、明日も早いので。龍野の町よ、さらば。

明けて、二月十九日。天気曇り。
昨日、お役目に少々疲れ、骨休めに上方へ飛んだ森知安(ちゃん)、姫路城と龍野城を見聞し、龍野の茶屋で一休み。そして、姫路に戻って旅籠に泊まりました。今日は朝から、置塩城の話を聞きに姫路の北なる前之庄へ乗り合い馬車に乗っていったのでありました。

神姫バスなる小型の乗り合い馬車で来たが、山の中じゃな。拙者の親の田舎の上州黒川山中の風景にも似ておる。終点のここが前之庄か。姫路市に統合される夢前町の中心じゃな。しかし、旧道も新道も店がまばらじゃ。早く着いたので、置塩城に寄ってからとするか。ほう、地図が出ている。・・・これは、大分遠いなあ、しかも乗り合い馬車で通った場所ではないか。山城だし、簡単に登れるものでもあるまい。拙者の認識が甘かった。仕方ない、昼食を取って、喫茶店か何かで待つとしよう。

<前之庄にある町役場と講演会会場になった公民館(後ろ)>

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これは参ったな。新道沿いを見ても、喫茶店どころか、食堂もないぞ。旧道沿いは・・・おや、食堂はあるが、閉まっておる。肉屋はあるから、「ころっけ」でも食するとしよう。おお、肉屋には猪の肉もある。確か、丹波篠山に行ったときにも、猪肉が名物であった。牡丹鍋にするのであったな。旧道沿いには、見過ごしそうな路傍に石の道標があり、「たじま たんご道」と書いてある。

<松の本にある道標>

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講演会の会場は、中央公民館でござるか。結構、立派な建物でござる。受付をすませ、大ホールで開会を待つとしよう。何か、童謡のような歌を繰り返し流しているが、夢前町の歌でござるか。そうこうするうち、開会じゃ。最初、置塩城の発掘の様子をスライド上映でござるか。その後に、置塩城発掘調査の指導者であった、おおざかの大学院名誉教授、村田修三殿の講演でござるな。

<置塩城発掘調査結果の講演会の様子>

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<置塩城発掘調査結果を説明する村田修三・大阪大学大学院名誉教授>

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なるほど、置塩城を築城した赤松氏は、この山中に播磨国守護として公家や寺家も滞在できるような、居住性の高い都市空間を作ろうとしたのでござるか。それで、山城なのに、「麓に居館、山には詰めの城」で山城のほうは防御性を重視、居住性はあまり問わないという、従来の常識とはかけ離れているのでござるな。それにしても、大規模で石垣や瓦葺きの建物なども立派な山城であった様子じゃ。この城には庭園もあったのが、発掘で明らかになっている。しかし、生活物資を運ぶのは大変であったろう。

帰りはまた乗り合い馬車に乗らねばならぬ。拙者と同様に停車場で待つ御仁、神戸の住人の方でござるか。拙者が昔住んでいた摂津の国の、しかもお近くの方ではないか。拙者より少し年上の五十二、三歳の方とお見受けしたが、いづれ同好の士でござる。乗り合い馬車のなかでも、いろいろ話をした。置塩城だけでなく、白旗城や高取城など山城をいろいろまわっているそうな。置塩城の「ぱんふれっと」を下さるのか。これは、かたじけない。また、山城は危険な場所がいろいろあり、一人で行かないほうがよい、置塩城であれば教育委員会に電話すれば団体でのぼれるように手配してくれる云々、ご忠言重ねてかたじけない。

<バス車中から撮った置塩城址のある城山>

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神戸の御仁とは姫路で別れ、拙者は「じぇーあーる」新幹線で名古屋へ向い、武豊線に乗るのでござる。短い間であったが、いろいろ見聞をいたした。知多郡長尾村(武豊)に戻り、また明日からはお勤めじゃ。

<JR武豊駅>

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2006.02.18

祥鳳院の乾元2年記銘梵鐘

船橋市三山にある二宮神社は、その起源を千年以上昔に遡る古い神社である。三山は、御山、もしくは宮山が変化した地名と考えられ、実際その神官の子孫で御山姓の家が何軒か周辺にある。この二宮神社は、諸説あるも延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといわれている。寒川という地名は、千葉市南部(千葉市中央区寒川町)にあり、実際そこには寒川神社も存在する。しかし、千葉市中央区寒川町にある、その寒川神社は元々は伊勢神宮の御魂分けした神明社であったといわれ、かつその地は天正年間までは結城といわれていたことから、千葉市中央区寒川町の寒川神社は該当しないと考えられる。式内社であれば、古代にルーツを探ることができようが、神明社であれば一時代後であるからである。すなわち、延喜式の「千葉郡 寒川神社」は現在の二宮神社に比定され、寒川、すなわち手を切るような冷たい豊富な水が流れる場所、という名が示すように、二宮神社周辺は湧水地を持つ豊かな土地であったようである。二宮神社境内の拝殿のある場所の南は窪地になっており、その東側にかつて御手洗の池があったが、そこが菊田水系の水源にあたる。二宮神社には水神も祀られ、御神宝は縄文時代の石棒(道祖神と同様の性神信仰の対象物という)ということであるから、その起源は水の恵みが豊作につながる原始信仰であったと思われる。また、近隣には「おはんが池」や倶利伽羅不動など、湧水、たなやといった場所が多く、そこには弁天や不動が祀られている。近隣の田喜野井という集落は、板碑も出土した中世から存在する集落であるが、この田喜野井という地名は「たぎる」ように水が湧き出す場所という意味であり、その集落の南側低地に「おはんが池」があった。このように、三山の地は菊田川の水源であり、その水源を背景に豊かな農地を持つ地域であった。それが下流の菊田神社などの氏子と、広い範囲での地域結合を生む背景になっていったと思われる。

<二宮神社の拝殿>

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<拝殿下にある菊田川水源の御手洗址(右側奥)>

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二宮神社の名の起こりは、藤原氏が信仰する香取神宮を下総の一宮とするのに対し、下総の二宮としたことからであるという。二宮神社の創建は、弘仁年間(810-824)、嵯峨天皇の勅創であると言われるが不明である。実は、いつから二宮神社と称していたかを示す証拠として、成田市土室の祥鳳院にある乾元2年(1303)の銘のある梵鐘に「大日本総州二宮社壇」「當社務大■■沙弥行観」「源範治」とあり、下総の二宮神社で鋳造されたという解釈できる銘文がある。つまり、鎌倉時代末期には、当社が二宮神社と称していたことがわかる。祥鳳院にある乾元2年(1303)の銘のある梵鐘は、高さ104.3cm、口径が59.4cmあり、「諸行無常 是生滅法 生滅己滅 寂滅為楽」という銘文が刻されている。さらに、追刻があり、永正十二年の年が刻まれ「奉寄進事 賀津宮大鐘 大檀那 石井雅楽助」とあって、永正12年(1517)に石井雅楽助という人が賀津宮に寄進したことがわかる。

<祥鳳院にある乾元2年銘のある梵鐘(案内板)>

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*「成田なんでも百科」HPより~成田市役所 教育総務部 教育指導課 の許可を得て写真転載

もっとも、二宮神社は成田市にある二宮神社とも解釈できる。その二宮神社とは、どのような神社であるのか。

<成田市にある二宮神社>

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*成田市役所 教育総務部 教育指導課 の許可を得て写真転載

「成田なんでも百科」によれば、成田の二宮神社は以下のような神社である。

「成田西陵高校のグランド近くにある神社で、経津主命(ふつぬしのみこと)をまつっています。つくられた年代は不明ですが、古い記録によると平安時代にはすでにあったようです。古くは二宮埴生(はぶ)大明神と呼ばれていましたが、明治元年(1868)に二宮埴生神社、明治中期に現在の名称に変えられています。この神社は、昔の埴生(はぶ)郡の総鎮守で、3つの神社から成り立っている「埴生神社」の一つであり、一の宮が栄町の矢口(やこう)に、三の宮が成田にあります。 7月27日の祭日(祇園)には、山車の引き回しが行われます。」

これによれば、埴生郡の鎮守としての二宮であり、鎌倉時代の呼び方であれば、「埴生明神」という名前が入っていないのはおかしいであろう。その二宮神社は、もともと二宮埴生(はぶ)大明神と呼ばれており、印旛郡栄町矢口(やこう)にある一宮埴生神社を一宮としている。二宮神社と呼ばれるようになったのは明治期からであるため、それは該当しないであろう。やはり、祥鳳院にある梵鐘は三山の二宮神社のために鋳造されたものといわざるをえない。

ではなぜ、三山の二宮神社のために鋳造された鐘が成田の寺にあるのであろうか。移動の理由としては、三山の二宮神社か、その別当寺であった神宮寺に鐘があったとすれば、①戦乱などの際に三山から何者かが鐘を持ち出したか、二宮神社・神宮寺自身が売却するなどして、石井雅楽助に渡って賀津宮に寄進され、何らかの事情で祥鳳院に移った、②三山から香取神宮へ寄進されるなどして、一旦移り、その後何者かが押領などに伴って鐘も取得し、石井雅楽助に渡って賀津宮に寄進され、何らかの事情で祥鳳院に移った、③最初から香取神宮のために二宮神社で鋳造された鐘であり、香取神宮からその後何者かが押領などに伴って鐘も取得し、石井雅楽助に渡って賀津宮に寄進され、何らかの事情で祥鳳院に移った、といったケースが考えられる。このように推理することは簡単であるが、それを裏付ける史料が出てこなければ、謎は解明することはできない。

その移動には千葉常胤の四男である大須賀胤信の系譜に連なる大須賀氏が関わっているという説がある。確かに、祥鳳院と大須賀氏が拠った助崎城は近接している。祥鳳院も寛平年間 (889 ~ 898) に開基されたといわれているが、当初は真言宗であったものが、明応 7 年 (1498) に助崎城主の大須賀信濃守が再建して曹洞宗に改宗したといわれている。

<二宮神社の別当寺であった神宮寺の薬師堂>

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祥鳳院の鐘に追刻されている、「賀津宮」とは現在の何神社であるのか不明であるが、「賀」という場所の船津にかかわる神社であると思われる。「賀」は、今の茨城県神栖市賀であると思われるが、かつては賀村または加村とよんでいたらしい。その賀も船津があった場所で、加村津と称されていた。あるいは賀津といったこともあったのであろうか。また神栖には鹿島神宮、香取神宮と並んで三社に数えられる息栖神社があるが、賀津宮はその息栖神社と何か関係があるか、あるいは息栖神社そのものであろうか。要は、成田市土室の利根川(かつての香取海)を挟んだ対岸に由来する神社の大檀那であった石井雅楽助なる人物が、永正12年(1515)当時この鐘を所有していた、そして現在は成田市土室の祥鳳院にその鐘がある。千葉には石井姓が多く、石井雅楽助といっても何処の石井さんかよく分からないが、茨城県の神栖であれば石井姓はメジャーである。あるいは香取海をまたにかける有徳人であったかもしれない。少し、飛躍があるが、三山にあった鐘は、室町以前の時代に、下総の一宮である香取神宮に一旦移り、香取神宮領を押領した何者か(大須賀氏か国分氏、あるいは千葉宗家)の手に渡り、その家臣筋である石井雅楽助が所有するところとなった、そして石井雅楽助が賀津宮に奉納して、またなんらかの事情で大須賀氏の助崎城にほど近い祥鳳院に移ったのではないだろうか。

(参考文献)

・「成田なんでも百科」HP  成田市

・『船橋地誌』 長谷川芳夫 崙書房  (2005)

・「船橋市域の近世の寺社」『史談会報』 第23号 綿貫啓一  (2003)

・「祥鳳院の鐘をたづねて」『成田史談』 第15号 糸川平 (1969) 

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2006.02.07

三山七年祭に関わる藤原師経の伝承

船橋市三山の二宮神社を中心とした近隣の神社が午と未の年に行う大祭、三山の七年祭は、以下のような9つの神社がそれぞれの役割で参加するものである。

【神社】 【所在地】 【役割】
二宮神社 船橋市三山 主人・父君
子安神社 千葉市畑町 妻・母
子守神社 千葉市幕張 子守
三代王神社 千葉市武石 産婆
菊田神社 習志野市津田沼 叔父
大原大宮神社 習志野市実籾 叔母
高津比咩神社 八千代市高津
時平神社 八千代市萱田 息子
八王子神社 船橋市古和釜 息子

<三山七年祭~2003年前祭の二宮神社付近>

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現在の神揃場に神輿が集結する神事や磯出祭などが行われる形態は、江戸時代に確立したと見られるが、起源は古く中世の昔にまで遡る。おそらく最初は三山庄の豊作、豊漁を祈願する祭であったのが、江戸時代以前に室町期の馬加康胤の妻の安産祈願が主としたテーマとなっていったらしい。その三山の七年祭の副次的なテーマは、火の口台の神事に見られる藤原師経の流離譚である。二宮神社そのものが、祭神として藤原時平を祀っている。藤原時平は政敵である菅原道真と争い、彼を左遷させるために動いたとされている人物である。そのため早死にし、弟の系統が藤原氏嫡流となったといわれる。藤原時平を祀っているために、二宮神社の氏子は、七五三などでも菅原道真を祀る天満宮には参じないという風習がかつてはあったらしい。そして、二宮神社の名の起こりは、藤原氏が信仰する香取神宮を下総の一宮とするのに対し、下総の二宮としたことからであるという。二宮神社の創建は、弘仁年間(810-824)、嵯峨天皇の勅創であると言われるが不明である。実は、いつから二宮神社と称していたかを示す証拠として、成田市土室の祥鳳院にある乾元2年(1303)の銘のある梵鐘に下総の二宮神社で鋳造されたという銘文があり、鎌倉時代末期には、当社が二宮神社と称していたことがわかる。もっとも、二宮神社は成田市にある二宮神社とも解釈できるが、その二宮神社は、もともと二宮埴生(はぶ)大明神と呼ばれており、印旛郡栄町矢口(やこう)にある一宮埴生神社を一宮としている。二宮神社と呼ばれるようになったのは明治期からであるため、それは該当しないであろう。ではなぜ、三山の二宮神社で鋳造された鐘が成田の寺にあるのか、その移動には千葉常胤の四男である大須賀胤信の系譜に連なる大須賀氏が関わっているらしい。確かに、祥鳳院と大須賀氏が拠った助崎城は近接している。それは兎も角、鎌倉時代末期には二宮神社という名称になっていた、そしてその二宮とは藤原氏の信仰する香取神宮を一宮とする、二宮であるのは事実であろう。となれば、少なくとも式内社の名前を変えるほどの権力をもっていた、藤原氏の有力者が関わっていたことになる。そうすると、藤原時平を祭神としていても、何らおかしくない。
二宮神社の創建にも、藤原時平を先祖とする藤原氏が関わっていたのではないだろうか。後述するが、三山の七年祭に参加している他の神社にも、藤原氏に関わる神社があり、菊田神社(習志野市津田沼)、高津比咩神社(八千代市高津)、時平神社(八千代市萱田) という具合である。つまり、三山七年祭に参加している神社9社のうち、二宮神社を含めた4社が藤原氏と関係のある神社である。

<二宮神社社殿>

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また二宮神社は、諸説あるも延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといわれている。寒川という地名は、千葉市南部にあるが、延喜式に出てくるような神社はそこにはなく、それは現在の二宮神社に比定され、寒川、すなわち手を切るような冷たい豊富な水が流れる場所、という名が示すように、二宮神社周辺は湧水地を持つ豊かな土地であったようである。実際、近隣には「おはんが池」や倶利伽羅不動など、湧水、たなやといった場所が多い。当地は菊田川の水源であり、その水源を背景に豊かな農地を持つ地域であった。それが下流の菊田神社などの氏子と、広い範囲での地域結合を生む背景になっていったと思われる。つまり、三山七年祭は、最初二宮神社を中心に近隣の五穀豊穣や近海の豊漁を祈る祭であったのが、二宮神社と菊田神社とで藤原氏の先祖を祭るという要素が加わり、室町期も半ばになって馬加康胤の妻の安産祈願がメインテーマとしてより広範な地域の神社も加わるようになり、祭りが再構成されて、江戸時代にかけて今の形態になっていったのではないだろうか。

<菊田神社社殿>

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2005年2月の「三山七年祭考」で、菊田神社の由緒から藤原師経の伝承について、以下のように書いていた。

「二宮神社と関係の深い習志野市津田沼(旧地名:久々田)にある菊田神社の由緒によれば、治承5年(1181)に藤原師経、師長卿の一族郎党下総に左遷のみぎり、相模国より乗船し相模灘を経て袖ヶ浦に来たところ、海が荒れていたため、波が静かな所を探して久々田の浜に上陸した。そこに久々田明神が住民たちに祀られていたのを、藤原師経たちは航海の無事をこの祭神のためと深く感銘し、久々田明神をあがめ奉り、この地を安住の地と定め、久々田明神に祖先の藤原時平を合祀して暮らした。後に、師経の一族は三山の郷に移住し、子孫は神官になったという。勿論、あくまでこれは伝承であるが、藤原師経や藤原時平の縁者ではなしに、藤原氏に連なる誰か下級官僚のような者が流されたということはあったかもしれない。」

菊田神社は、昔は久々田明神といい、菊田という津田沼の一角の地名は久々田が発音を変えたものである。そもそも、津田沼という地名は明治期にできた合成地名であり、現在習志野市の一部となっている谷津の津と久々田(菊田)の田と鷺沼の沼を合わせたものである。昔の久々田明神は、東西に入江が入り込んだ中洲のような地形にあり、付近の住民はさらに西側または東側の台地下に住んでいたという。久々田の南側の鷺沼の台地上、習志野市役所近くには鷺沼古墳があり、その周囲は鷺沼城址公園となっている。そこに戦国期の鷺沼城があったのであるが、その場所が時代をさかのぼり源頼朝が泊まったという鷺沼館址であったかどうかはさだかではない。三山七年祭では、火の口台の儀式という神事が営まれるが、これは菊田神社の由緒にあるように、下総への左遷のみぎり久々田浜に上陸した藤原師経一行が、海上ではぐれ、姉ヶ崎に上陸した姉たちに無事を伝えるために火を焚いたという故事に基づいている。この神事は、鷺沼の「神の台(かんのだい)」で、藤原師経に縁の深い菊田神社と二宮神社とで営まれるが、この久々田浜に上陸した藤原師経たちを出迎えたのが鷺沼館の鷺沼源太則義だという。「神の台」はかつての海岸線に近い場所であり、その場所で鷺沼源太則義に出迎えられた藤原師経らは久々田明神に先祖藤原時平を合祀して暮らし、後に三山に移住し、子孫は神官になったというのである。そして、三山の二宮神社も藤原時平を合祀するにいたったというわけである。

一方、藤原時平の死後、時平の妻と娘の高津姫が、下総高津(八千代市高津)の地に落のびたという伝承もある。つまり高津には菅原道真を左遷させた藤原時平の妻や娘の高津姫が来て住み着いたという伝承があり、その高津姫所縁の由来をもつ高津比咩神社や観音寺、高津観音がある。高津比咩神社は、三山の七年祭に近くの萱田のその名も時平神社とともに参加している。

<三山の七年祭~神揃場でもむ菊田神社の神輿>

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では、藤原師経とは、どんな人物か。藤原師経という名の人物は複数いるが、治承5年(1181)に配流という年代に近い人物としては、加賀目代であった藤原師経がいる。
安元2年(1176)夏、加賀目代藤原師経が白山本宮の中宮八院の一つ鵜川涌泉寺に立ち寄った際に、寺僧が風呂の支度をしていたのを追い出して、風呂に入り、馬まで洗って、寺と紛争を起こしている。この鵜川涌泉寺は比叡山延暦寺の末寺にあたる。風呂はどういう形態か、よく分からないが、涌泉寺という名前からして温泉であったかもしれない。僧が沐浴するのは、立派な仏事であり、それを邪魔されたのであるから、寺側の怒りも大きかった。この時の加賀守は藤原師高で、師経の兄である。師高、師経兄弟は後白河法皇の近臣・西光法師(藤原師光)の子である。もともとこの兄弟は傍若無人の振る舞いもあり、地元での評判もよくなかった。結局、師経は鵜川涌泉寺と合戦に及び、涌泉寺が焼失、これを延暦寺に訴えられ、ついに翌治承元年(1177)4月、比叡山は藤原師高、師経兄弟の処断を強訴する。
これに対し、平重盛は、後白河法皇の命で強訴が入京する前に留めるため出動、その際平家の郎党が神輿に矢を射るという事件に発展した。これに及んで、さすがに法皇も比叡山の要求を容れざるを得ず、藤原師高は官位を全て剥奪されて尾張国に配流、藤原師経は備後に配流された。神輿に矢を射た平家郎党は禁獄となり、延暦寺と平家の友好関係は一旦回復した。もともと平氏の勢力を牽制しようとしていた後白河法皇は面白くなく、反平氏の陰謀をめぐらし、「鹿ケ谷事件」につながっていく。

これは、比叡山と後白河法皇との対立、後白河法皇の反平氏の策動といった、よく知られた話の発端であり、菊田神社の由緒や二宮神社の伝承にみる藤原師経の配流とは、実際にあった藤原氏末葉の公家の流刑、あるいは左遷が、強く配流先の下総の地元の人の記憶に残り、それが伝承となっていくうちに、加賀守、目代であった藤原師高、師経兄弟の配流の話と混同されていったのではないか。実際に、時代は下るが、後醍醐天皇の側近であった南朝方の公家藤原師賢は、下総に流されてすぐに亡くなっている。名前の似ている藤原氏の公家が、場所も時代も理由も異なるが、何れも配流され、悲運をかこった。そして、その伝承が菊田神社や二宮神社の由緒として残り、高津比咩神社や時平神社という神社の名前そのものとなって、またそれらの神社が参加する大祭の一つの神事として伝えられたのではないだろうか。

<三山七年祭 菊田神社の花流し>

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(参考文献)
「船橋地誌」   長谷川 芳夫 著  崙書房   (2005)

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