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2006.02.07

三山七年祭に関わる藤原師経の伝承

船橋市三山の二宮神社を中心とした近隣の神社が午と未の年に行う大祭、三山の七年祭は、以下のような9つの神社がそれぞれの役割で参加するものである。

【神社】 【所在地】 【役割】
二宮神社 船橋市三山 主人・父君
子安神社 千葉市畑町 妻・母
子守神社 千葉市幕張 子守
三代王神社 千葉市武石 産婆
菊田神社 習志野市津田沼 叔父
大原大宮神社 習志野市実籾 叔母
高津比咩神社 八千代市高津
時平神社 八千代市萱田 息子
八王子神社 船橋市古和釜 息子

<三山七年祭~2003年前祭の二宮神社付近>

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現在の神揃場に神輿が集結する神事や磯出祭などが行われる形態は、江戸時代に確立したと見られるが、起源は古く中世の昔にまで遡る。おそらく最初は三山庄の豊作、豊漁を祈願する祭であったのが、江戸時代以前に室町期の馬加康胤の妻の安産祈願が主としたテーマとなっていったらしい。その三山の七年祭の副次的なテーマは、火の口台の神事に見られる藤原師経の流離譚である。二宮神社そのものが、祭神として藤原時平を祀っている。藤原時平は政敵である菅原道真と争い、彼を左遷させるために動いたとされている人物である。そのため早死にし、弟の系統が藤原氏嫡流となったといわれる。藤原時平を祀っているために、二宮神社の氏子は、七五三などでも菅原道真を祀る天満宮には参じないという風習がかつてはあったらしい。そして、二宮神社の名の起こりは、藤原氏が信仰する香取神宮を下総の一宮とするのに対し、下総の二宮としたことからであるという。二宮神社の創建は、弘仁年間(810-824)、嵯峨天皇の勅創であると言われるが不明である。実は、いつから二宮神社と称していたかを示す証拠として、成田市土室の祥鳳院にある乾元2年(1303)の銘のある梵鐘に下総の二宮神社で鋳造されたという銘文があり、鎌倉時代末期には、当社が二宮神社と称していたことがわかる。もっとも、二宮神社は成田市にある二宮神社とも解釈できるが、その二宮神社は、もともと二宮埴生(はぶ)大明神と呼ばれており、印旛郡栄町矢口(やこう)にある一宮埴生神社を一宮としている。二宮神社と呼ばれるようになったのは明治期からであるため、それは該当しないであろう。ではなぜ、三山の二宮神社で鋳造された鐘が成田の寺にあるのか、その移動には千葉常胤の四男である大須賀胤信の系譜に連なる大須賀氏が関わっているらしい。確かに、祥鳳院と大須賀氏が拠った助崎城は近接している。それは兎も角、鎌倉時代末期には二宮神社という名称になっていた、そしてその二宮とは藤原氏の信仰する香取神宮を一宮とする、二宮であるのは事実であろう。となれば、少なくとも式内社の名前を変えるほどの権力をもっていた、藤原氏の有力者が関わっていたことになる。そうすると、藤原時平を祭神としていても、何らおかしくない。
二宮神社の創建にも、藤原時平を先祖とする藤原氏が関わっていたのではないだろうか。後述するが、三山の七年祭に参加している他の神社にも、藤原氏に関わる神社があり、菊田神社(習志野市津田沼)、高津比咩神社(八千代市高津)、時平神社(八千代市萱田) という具合である。つまり、三山七年祭に参加している神社9社のうち、二宮神社を含めた4社が藤原氏と関係のある神社である。

<二宮神社社殿>

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また二宮神社は、諸説あるも延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといわれている。寒川という地名は、千葉市南部にあるが、延喜式に出てくるような神社はそこにはなく、それは現在の二宮神社に比定され、寒川、すなわち手を切るような冷たい豊富な水が流れる場所、という名が示すように、二宮神社周辺は湧水地を持つ豊かな土地であったようである。実際、近隣には「おはんが池」や倶利伽羅不動など、湧水、たなやといった場所が多い。当地は菊田川の水源であり、その水源を背景に豊かな農地を持つ地域であった。それが下流の菊田神社などの氏子と、広い範囲での地域結合を生む背景になっていったと思われる。つまり、三山七年祭は、最初二宮神社を中心に近隣の五穀豊穣や近海の豊漁を祈る祭であったのが、二宮神社と菊田神社とで藤原氏の先祖を祭るという要素が加わり、室町期も半ばになって馬加康胤の妻の安産祈願がメインテーマとしてより広範な地域の神社も加わるようになり、祭りが再構成されて、江戸時代にかけて今の形態になっていったのではないだろうか。

<菊田神社社殿>

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2005年2月の「三山七年祭考」で、菊田神社の由緒から藤原師経の伝承について、以下のように書いていた。

「二宮神社と関係の深い習志野市津田沼(旧地名:久々田)にある菊田神社の由緒によれば、治承5年(1181)に藤原師経、師長卿の一族郎党下総に左遷のみぎり、相模国より乗船し相模灘を経て袖ヶ浦に来たところ、海が荒れていたため、波が静かな所を探して久々田の浜に上陸した。そこに久々田明神が住民たちに祀られていたのを、藤原師経たちは航海の無事をこの祭神のためと深く感銘し、久々田明神をあがめ奉り、この地を安住の地と定め、久々田明神に祖先の藤原時平を合祀して暮らした。後に、師経の一族は三山の郷に移住し、子孫は神官になったという。勿論、あくまでこれは伝承であるが、藤原師経や藤原時平の縁者ではなしに、藤原氏に連なる誰か下級官僚のような者が流されたということはあったかもしれない。」

菊田神社は、昔は久々田明神といい、菊田という津田沼の一角の地名は久々田が発音を変えたものである。そもそも、津田沼という地名は明治期にできた合成地名であり、現在習志野市の一部となっている谷津の津と久々田(菊田)の田と鷺沼の沼を合わせたものである。昔の久々田明神は、東西に入江が入り込んだ中洲のような地形にあり、付近の住民はさらに西側または東側の台地下に住んでいたという。久々田の南側の鷺沼の台地上、習志野市役所近くには鷺沼古墳があり、その周囲は鷺沼城址公園となっている。そこに戦国期の鷺沼城があったのであるが、その場所が時代をさかのぼり源頼朝が泊まったという鷺沼館址であったかどうかはさだかではない。三山七年祭では、火の口台の儀式という神事が営まれるが、これは菊田神社の由緒にあるように、下総への左遷のみぎり久々田浜に上陸した藤原師経一行が、海上ではぐれ、姉ヶ崎に上陸した姉たちに無事を伝えるために火を焚いたという故事に基づいている。この神事は、鷺沼の「神の台(かんのだい)」で、藤原師経に縁の深い菊田神社と二宮神社とで営まれるが、この久々田浜に上陸した藤原師経たちを出迎えたのが鷺沼館の鷺沼源太則義だという。「神の台」はかつての海岸線に近い場所であり、その場所で鷺沼源太則義に出迎えられた藤原師経らは久々田明神に先祖藤原時平を合祀して暮らし、後に三山に移住し、子孫は神官になったというのである。そして、三山の二宮神社も藤原時平を合祀するにいたったというわけである。

一方、藤原時平の死後、時平の妻と娘の高津姫が、下総高津(八千代市高津)の地に落のびたという伝承もある。つまり高津には菅原道真を左遷させた藤原時平の妻や娘の高津姫が来て住み着いたという伝承があり、その高津姫所縁の由来をもつ高津比咩神社や観音寺、高津観音がある。高津比咩神社は、三山の七年祭に近くの萱田のその名も時平神社とともに参加している。

<三山の七年祭~神揃場でもむ菊田神社の神輿>

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では、藤原師経とは、どんな人物か。藤原師経という名の人物は複数いるが、治承5年(1181)に配流という年代に近い人物としては、加賀目代であった藤原師経がいる。
安元2年(1176)夏、加賀目代藤原師経が白山本宮の中宮八院の一つ鵜川涌泉寺に立ち寄った際に、寺僧が風呂の支度をしていたのを追い出して、風呂に入り、馬まで洗って、寺と紛争を起こしている。この鵜川涌泉寺は比叡山延暦寺の末寺にあたる。風呂はどういう形態か、よく分からないが、涌泉寺という名前からして温泉であったかもしれない。僧が沐浴するのは、立派な仏事であり、それを邪魔されたのであるから、寺側の怒りも大きかった。この時の加賀守は藤原師高で、師経の兄である。師高、師経兄弟は後白河法皇の近臣・西光法師(藤原師光)の子である。もともとこの兄弟は傍若無人の振る舞いもあり、地元での評判もよくなかった。結局、師経は鵜川涌泉寺と合戦に及び、涌泉寺が焼失、これを延暦寺に訴えられ、ついに翌治承元年(1177)4月、比叡山は藤原師高、師経兄弟の処断を強訴する。
これに対し、平重盛は、後白河法皇の命で強訴が入京する前に留めるため出動、その際平家の郎党が神輿に矢を射るという事件に発展した。これに及んで、さすがに法皇も比叡山の要求を容れざるを得ず、藤原師高は官位を全て剥奪されて尾張国に配流、藤原師経は備後に配流された。神輿に矢を射た平家郎党は禁獄となり、延暦寺と平家の友好関係は一旦回復した。もともと平氏の勢力を牽制しようとしていた後白河法皇は面白くなく、反平氏の陰謀をめぐらし、「鹿ケ谷事件」につながっていく。

これは、比叡山と後白河法皇との対立、後白河法皇の反平氏の策動といった、よく知られた話の発端であり、菊田神社の由緒や二宮神社の伝承にみる藤原師経の配流とは、実際にあった藤原氏末葉の公家の流刑、あるいは左遷が、強く配流先の下総の地元の人の記憶に残り、それが伝承となっていくうちに、加賀守、目代であった藤原師高、師経兄弟の配流の話と混同されていったのではないか。実際に、時代は下るが、後醍醐天皇の側近であった南朝方の公家藤原師賢は、下総に流されてすぐに亡くなっている。名前の似ている藤原氏の公家が、場所も時代も理由も異なるが、何れも配流され、悲運をかこった。そして、その伝承が菊田神社や二宮神社の由緒として残り、高津比咩神社や時平神社という神社の名前そのものとなって、またそれらの神社が参加する大祭の一つの神事として伝えられたのではないだろうか。

<三山七年祭 菊田神社の花流し>

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(参考文献)
「船橋地誌」   長谷川 芳夫 著  崙書房   (2005)

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