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2006.02.18

祥鳳院の乾元2年記銘梵鐘

船橋市三山にある二宮神社は、その起源を千年以上昔に遡る古い神社である。三山は、御山、もしくは宮山が変化した地名と考えられ、実際その神官の子孫で御山姓の家が何軒か周辺にある。この二宮神社は、諸説あるも延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといわれている。寒川という地名は、千葉市南部(千葉市中央区寒川町)にあり、実際そこには寒川神社も存在する。しかし、千葉市中央区寒川町にある、その寒川神社は元々は伊勢神宮の御魂分けした神明社であったといわれ、かつその地は天正年間までは結城といわれていたことから、千葉市中央区寒川町の寒川神社は該当しないと考えられる。式内社であれば、古代にルーツを探ることができようが、神明社であれば一時代後であるからである。すなわち、延喜式の「千葉郡 寒川神社」は現在の二宮神社に比定され、寒川、すなわち手を切るような冷たい豊富な水が流れる場所、という名が示すように、二宮神社周辺は湧水地を持つ豊かな土地であったようである。二宮神社境内の拝殿のある場所の南は窪地になっており、その東側にかつて御手洗の池があったが、そこが菊田水系の水源にあたる。二宮神社には水神も祀られ、御神宝は縄文時代の石棒(道祖神と同様の性神信仰の対象物という)ということであるから、その起源は水の恵みが豊作につながる原始信仰であったと思われる。また、近隣には「おはんが池」や倶利伽羅不動など、湧水、たなやといった場所が多く、そこには弁天や不動が祀られている。近隣の田喜野井という集落は、板碑も出土した中世から存在する集落であるが、この田喜野井という地名は「たぎる」ように水が湧き出す場所という意味であり、その集落の南側低地に「おはんが池」があった。このように、三山の地は菊田川の水源であり、その水源を背景に豊かな農地を持つ地域であった。それが下流の菊田神社などの氏子と、広い範囲での地域結合を生む背景になっていったと思われる。

<二宮神社の拝殿>

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<拝殿下にある菊田川水源の御手洗址(右側奥)>

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二宮神社の名の起こりは、藤原氏が信仰する香取神宮を下総の一宮とするのに対し、下総の二宮としたことからであるという。二宮神社の創建は、弘仁年間(810-824)、嵯峨天皇の勅創であると言われるが不明である。実は、いつから二宮神社と称していたかを示す証拠として、成田市土室の祥鳳院にある乾元2年(1303)の銘のある梵鐘に「大日本総州二宮社壇」「當社務大■■沙弥行観」「源範治」とあり、下総の二宮神社で鋳造されたという解釈できる銘文がある。つまり、鎌倉時代末期には、当社が二宮神社と称していたことがわかる。祥鳳院にある乾元2年(1303)の銘のある梵鐘は、高さ104.3cm、口径が59.4cmあり、「諸行無常 是生滅法 生滅己滅 寂滅為楽」という銘文が刻されている。さらに、追刻があり、永正十二年の年が刻まれ「奉寄進事 賀津宮大鐘 大檀那 石井雅楽助」とあって、永正12年(1517)に石井雅楽助という人が賀津宮に寄進したことがわかる。

<祥鳳院にある乾元2年銘のある梵鐘(案内板)>

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*「成田なんでも百科」HPより~成田市役所 教育総務部 教育指導課 の許可を得て写真転載

もっとも、二宮神社は成田市にある二宮神社とも解釈できる。その二宮神社とは、どのような神社であるのか。

<成田市にある二宮神社>

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*成田市役所 教育総務部 教育指導課 の許可を得て写真転載

「成田なんでも百科」によれば、成田の二宮神社は以下のような神社である。

「成田西陵高校のグランド近くにある神社で、経津主命(ふつぬしのみこと)をまつっています。つくられた年代は不明ですが、古い記録によると平安時代にはすでにあったようです。古くは二宮埴生(はぶ)大明神と呼ばれていましたが、明治元年(1868)に二宮埴生神社、明治中期に現在の名称に変えられています。この神社は、昔の埴生(はぶ)郡の総鎮守で、3つの神社から成り立っている「埴生神社」の一つであり、一の宮が栄町の矢口(やこう)に、三の宮が成田にあります。 7月27日の祭日(祇園)には、山車の引き回しが行われます。」

これによれば、埴生郡の鎮守としての二宮であり、鎌倉時代の呼び方であれば、「埴生明神」という名前が入っていないのはおかしいであろう。その二宮神社は、もともと二宮埴生(はぶ)大明神と呼ばれており、印旛郡栄町矢口(やこう)にある一宮埴生神社を一宮としている。二宮神社と呼ばれるようになったのは明治期からであるため、それは該当しないであろう。やはり、祥鳳院にある梵鐘は三山の二宮神社のために鋳造されたものといわざるをえない。

ではなぜ、三山の二宮神社のために鋳造された鐘が成田の寺にあるのであろうか。移動の理由としては、三山の二宮神社か、その別当寺であった神宮寺に鐘があったとすれば、①戦乱などの際に三山から何者かが鐘を持ち出したか、二宮神社・神宮寺自身が売却するなどして、石井雅楽助に渡って賀津宮に寄進され、何らかの事情で祥鳳院に移った、②三山から香取神宮へ寄進されるなどして、一旦移り、その後何者かが押領などに伴って鐘も取得し、石井雅楽助に渡って賀津宮に寄進され、何らかの事情で祥鳳院に移った、③最初から香取神宮のために二宮神社で鋳造された鐘であり、香取神宮からその後何者かが押領などに伴って鐘も取得し、石井雅楽助に渡って賀津宮に寄進され、何らかの事情で祥鳳院に移った、といったケースが考えられる。このように推理することは簡単であるが、それを裏付ける史料が出てこなければ、謎は解明することはできない。

その移動には千葉常胤の四男である大須賀胤信の系譜に連なる大須賀氏が関わっているという説がある。確かに、祥鳳院と大須賀氏が拠った助崎城は近接している。祥鳳院も寛平年間 (889 ~ 898) に開基されたといわれているが、当初は真言宗であったものが、明応 7 年 (1498) に助崎城主の大須賀信濃守が再建して曹洞宗に改宗したといわれている。

<二宮神社の別当寺であった神宮寺の薬師堂>

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祥鳳院の鐘に追刻されている、「賀津宮」とは現在の何神社であるのか不明であるが、「賀」という場所の船津にかかわる神社であると思われる。「賀」は、今の茨城県神栖市賀であると思われるが、かつては賀村または加村とよんでいたらしい。その賀も船津があった場所で、加村津と称されていた。あるいは賀津といったこともあったのであろうか。また神栖には鹿島神宮、香取神宮と並んで三社に数えられる息栖神社があるが、賀津宮はその息栖神社と何か関係があるか、あるいは息栖神社そのものであろうか。要は、成田市土室の利根川(かつての香取海)を挟んだ対岸に由来する神社の大檀那であった石井雅楽助なる人物が、永正12年(1515)当時この鐘を所有していた、そして現在は成田市土室の祥鳳院にその鐘がある。千葉には石井姓が多く、石井雅楽助といっても何処の石井さんかよく分からないが、茨城県の神栖であれば石井姓はメジャーである。あるいは香取海をまたにかける有徳人であったかもしれない。少し、飛躍があるが、三山にあった鐘は、室町以前の時代に、下総の一宮である香取神宮に一旦移り、香取神宮領を押領した何者か(大須賀氏か国分氏、あるいは千葉宗家)の手に渡り、その家臣筋である石井雅楽助が所有するところとなった、そして石井雅楽助が賀津宮に奉納して、またなんらかの事情で大須賀氏の助崎城にほど近い祥鳳院に移ったのではないだろうか。

(参考文献)

・「成田なんでも百科」HP  成田市

・『船橋地誌』 長谷川芳夫 崙書房  (2005)

・「船橋市域の近世の寺社」『史談会報』 第23号 綿貫啓一  (2003)

・「祥鳳院の鐘をたづねて」『成田史談』 第15号 糸川平 (1969) 

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