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2006.03.26

習志野地名考

たしか、シャインズの歌だったと思うが、「BMに乗っているけど習志野ナンバー」というような習志野ナンバーの車を揶揄する歌があった。習志野といえば、高校野球で有名だった市立習志野高校(最近はサッカーかな)や埋立地の工業地帯を思い出す人も多いだろう。千葉県に習志野市という市があるが、実は習志野という地名は船橋市にある。こういうと、ややこしいが、習志野という町名や駅名は船橋市内にあって、もともと習志野という地名の発祥地も船橋市内の習志野原である。習志野原はかつては大和田原と呼ばれ、松原の広がる広大な原であったが、明治初期に陸軍の演習が行われて以来、陸軍の駐屯地になり、今では自衛隊がおかれている。

この習志野という地名は、明治以降の新地名であり、明治天皇が名づけたことになっている。すなわち、明治6年(1873)4月に近衛兵の大規模な演習があり、その演習に明治天皇が観閲し、陸軍大将であった西郷隆盛が同行している。そして、その演習が無事終わった5月になって、この地を「習志野ノ原」と命名する旨、明治天皇の名で触れだされている。それで、明治天皇所縁の地名になったわけだ。その由来については、演習をおこなう原という意味で「ならし運転」の「ならし」の原から「ならしの原」になったという説と、演習に参加して活躍した篠原国幹少将に皆見習えという意味で「習え篠原」から名付けられたという説がある。

<習志野自衛隊駐屯地~白い建物は空挺団>

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<「明治天皇駐蹕之処」石碑>

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<船橋市の説明板>

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習志野原は前述のように陸軍が演習を行い、駐屯していた場所であり、現在の船橋市習志野、習志野台、三山から習志野市東習志野、大久保にかけて、兵舎や錬兵場などがあった。最近毒ガスなどが問題になっている陸軍習志野学校も、その一つである。

なぜ、習志野市が隣接する船橋市内の地名を市の名前にしているのか、よく分からない。船橋に長年住んでいる人間にとって、習志野といえば新京成の習志野駅周辺(つまり船橋市習志野、習志野台)をさすことが多い。習志野市といえば、津田沼、それも京成津田沼か、大久保を思い出すので、「習志野」という地名はやはり船橋市のなかの習志野あるいは習志野台である。少し北寄りになると、「キタナラ」こと新京成の北習志野駅辺りになる。

習志野市のなかの津田沼も、明治時代の新地名で、古くからある地名の谷津、菊田(久々田)、鷺沼から一文字ずつとった合成地名であるが、習志野という軍の駐屯地を背景とした町であった。そして、習志野市を代表する町である。習志野市も、「津田沼市」とでも改名すれば、より分かりやすくなるであろう。

<京成津田沼駅付近で行われた三山七年祭の菊田神社花流し>

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2006.03.18

徳川家康と知多半島(その13:半田、阿久比の関連史跡余話)

以前述べたように、成岩の天龍山常楽寺は徳川家康が生涯の二度の危機に直面し、すなわち桶狭間合戦後と本能寺の変後という情勢不安定な状況において、一時逗留した場所であり、その常楽寺の第八世典空顕朗上人は、家康の母方の従兄弟にあたる。常楽寺は、かなり大きな寺であったようで、江戸時代には寺領50石の朱印状を受け、尾張徳川家に庇護された。大正13年の火災で諸堂焼失し、後に復興されたというが、現在本堂、大師堂、毘沙門堂のほか、四つの塔頭、すなわち、超世院、遣浄院、真如院、来迎院がある。常楽寺は、西山浄土宗の寺であるが、文明16年(1484)に空観栄覚上人によって改宗されるまでは天台宗の仏性寺という寺で、観音堂があった。

<常楽寺の本堂>

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<塔頭のひとつ超世院~赤い門が美しい>

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<常楽寺の大師堂>

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前出の典空顕朗上人は、慶長元年(1596)、常楽寺の前身である天台宗仏性寺の観音堂を半田市有楽町二丁目の小高い丘に移した。それが鳳出(とりで)観音の始まりである。筆者の勤務先にも比較的近く、坂の途中に見える地蔵など見慣れた光景である。和尚に名前の由来を聞くと、よく読んでくださいとパンフレットをくれた。それによれば、その鳳出観音の名前は、元は常滑の時宗の僧侶であった榎本良圓が城主をしていた成岩城を攻略するために、天文年間に緒川水野氏の勢力が築いた成岩砦に由来する。つまり、砦のきずかれた場所が「とりで山」と呼ばれ、そこに観音堂が建ったため、「とりで観音」と呼ばれるようになった。緒川の水野氏は今川氏や織田氏の圧力を東西から受けながらも、知多半島を手中にいれて、その勢力を確立しようとしていた。榎本了圓の成岩城は、成岩砦の南400mほどの地点にある細長い台地にあり、成岩城と成岩砦は神戸川を挟んで対峙していたことになる。その成岩城は、榎本了圓ら念仏を唱えた成岩衆がよく守ったが、間者に火をかけられたうえに、西側の紺屋が淵から一斉攻撃を受け、天文12年(1543)家康の伯父にあたる水野信元に攻め落とされた。

鳳出観音の寺域をみても、成岩砦の遺構は残っていないが、地形的には砦があってもおかしくない場所である。また、鳳出観音の境内だけでは、砦としても狭いように思われ、道を挟んで隣接する成岩神社にも城域が及んでいたのではないかと推測する。

<とりで観音>

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<成岩城址>

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水野氏の知多半島進攻は、単に城攻めを行って、佐治氏、戸田氏といった別の有力氏族や成岩城の榎本良圓のような土着武士などの勢力を除いていっただけでなく、土地の豪族と縁組をしたり、寺に縁故の人間を僧として送り込むといった多面的な方法を使っていたようである。成岩の常楽寺に家康の母於大の姉妹の子である典空顕朗上人を住職としたのも、一つの例である。於大自身も、大野の佐治氏と姻戚となっていた阿久比坂部の久松氏を水野氏の勢力に引き込むための政略結婚で、久松俊勝に再嫁させられた。

現在阿久比町の一部になっている草木も、以前は大野方に近く、古くは室町時代には一色氏の出城が築かれた。これは、竹林(ちくりん)城と呼ばれ、その後、一色氏の勢力が内紛などで衰退し、知多から退いた後も、佐治氏が取ってかわり、草木にも進出していたようである。すなわち、竹林城は、応仁の乱以降は佐治氏が拠点とした可能性がある。一方、戦国期には水野信元が佐治氏の勢力に対抗し、大野口のおさえとして、付近に竹之腰城を築き、竹内弥四郎に守らせたという。この辺りは、戦国期には微妙な勢力構図となっていたようである。それだけでなく、天文13年(1544)に水野忠政の女栄信正盛尼(阿辨の方)が草木に寺を創建し、正盛尼の法号から長松山正盛院となった。正盛尼は於大の方の姉妹であるが、張州府志によれば元亀元年(1570)になくなっている。曹洞宗長松山正盛院の開山は快翁龍喜禅師であり、快翁龍喜禅師は水野忠政の家臣中山又助の次男であったという。快翁龍喜禅師は乾坤院芝岡和尚について得度し、三河宝飯郡八幡村(現豊川市八幡)の西明寺実田以転和尚の法灯を継ぎ、師をたすけて曹源寺草創に参画し、その二世住職となった。禅師は、さらに、天文9年(1540)に西明寺四世住職となった後、天文13年(1544)に水野忠政の女栄信正盛尼が草木に来て正盛院を開基した際、その開山に招請された。また、後に三度にわたって、緒川の乾坤院に輪着して、宗風を大いに振興したという。快翁龍喜禅師は、請われて今川義元以下桶狭間合戦で戦死した今川将士の引導供養の大導師をつとめるなど活躍し、刈谷の泉龍寺創建にも関わり、泉龍寺は水野勝成に随って大和郡山、備後福山に移ったが、その開基は水野氏の重臣中山将監で、禅師の親類であった。晩年、禅師は正盛院に閑居、永禄12年(1569)に89才の長い生涯を終えた。

<草木の正盛院>

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<正盛院の石仏群>

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*「快翁龍喜禅師」に関してWikipediaに投稿したのは、当ブログ作者mori-chanこと森知安です。

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