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2006.04.25

徳川家康と知多半島(番外:緒川の於大まつり)

毎年、4月下旬になると、知多半島の付け根にあたる知多郡東浦町緒川では、町をあげたイベントである於大まつりが行われる。スタンプラリーや於大公園ステージでの各種イベントなどあるが、メインは、中央図書館から明徳寺川の左岸を於大公園ステージまで歩いていく、於大行列である。その於大まつりは、今年は4月22日(土)に行われた。

<ウォークラリーの宣伝の甲冑姿(JR緒川駅)>

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ウォークラリーの宣伝を駅でしていた甲冑姿の人に頼んで写真を撮らせてもらったが、兜の前立てがなぜか織田家の紋章になっていた。うーん、ここは水野家のお膝元なのに、一足飛びに織田?という疑問もあったが、その人に行列の行われる明徳寺川を教えてもらい、小生は素直に街中へ。

以前行った地蔵院の周囲にも、人だかりが。見ると菓子屋でお土産のお菓子に群がっている人たちであった。

<緒川の地蔵院付近>

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そうこうするうち、明徳寺川へ。丸いドームのような建物があったが、図書館とのことである。やがて行列が始まった。

<於大行列~図書館付近から行列がはじまった>

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川の両岸には、八重桜の花が咲いていた。行列の先頭はどこかの学校のバンドで、於大姫たちの直前には踊りの○○連の人々が踊っていた。

<先頭にはブラスバンドや踊りの何とか連が>

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<水野忠政が先達で進む>

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<籠にのった於大姫>

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<手を振る於大姫>

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<於大姫は花束を手に>

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<一体誰だろう? 水野忠政の前を歩く人>

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<於大姫もご苦労さん>

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ここで登場する於大の方は刈谷城に移る前の緒川にいたころの於大の方なので、6歳までの姫御前となり、その「於大姫」役として地元の6歳以下の女の子が抽選で選出される。その他、腰元役も20名抽選で選ばれる。今年は82名の応募があったとのことであるから、約4分の一の確率である。於大姫の籠の周りには、常にカメラ持参の人がついていてちょっと邪魔。小生は川の対岸から写真をとっていたのだが、肝心な時にカメラマン?が邪魔で写真をとるのも一苦労。なお、行列には女の子のお母さんと思しき女性が付き添っていたが、2年前の東浦町発行の於大まつりの資料には、皆単独で歩いている写真が載っていた。つまり、昨今の連れ去りなどの事件から、警戒を厳重にしているということだろうか。まったく物騒な世の中になったものである。

その他、父君である水野忠政に扮した人や水野信元役(これも少年である)、その他水野一族に扮した人々、さらには縁者として松平広忠、徳川家康も登場する。徳川家康は、当然ながら於大の方が緒川から刈谷に移った当時は、まだ生まれておらず、また今回の行列に登場した家康に扮した人は、どう見ても年配の方なので、時代が合わないところもあるが、これはご愛嬌であろう。小生の近くで見ていた人が知り合いらしく、「徳川家康」さんは挨拶していたが、なんとフレンドリーな神君家康公であろう。

<行列の後方には水野一族および縁故の武者が続く>

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緒川については、以前書いたが、今でも武家屋敷の趣きのある家があったり、黒い木壁の商家などが細い路地に沿って建ち並んでいて、古い日本へタイムスリップしたような情緒がある。また、緒川には於大公園に於大の道、さらには於大クリニック(こちらは阿久比にもあり、於大の方由緒の場所にあるようだが、設備も整った病院らしい)まで存在する。一方では郊外型の大きなスーパーもあるが、中世からの歴史を感じさせる古い町並みが緒川には残っている。

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2006.04.19

徳川家康と知多半島(その14:常滑の総心尼)

本能寺の変の後、三河に生還した徳川家康は、織田信雄とともに、小牧長久手の戦いで、明智光秀を討伐した豊臣秀吉と対決する。そして家康は豊臣秀吉の天下を受け入れ、長い我慢の時を過ごした後に江戸幕府を開くことになる。

本能寺の変で明智光秀に味方したために、水野監物が城主の座を追われた常滑城は、織田信雄の配下となり、信雄の家老で星崎城主である岡田重孝の家臣が守っていた。しかし、岡田重孝が信雄に斬られた後、岡田の手のものが叛乱を起こした。ちなみに、信雄が岡田重孝を斬った刀は「岡田切」と呼ばれ、現在国宝に指定されている銘吉房の名刀である。

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この叛乱を鎮圧したのは、家康の家臣となっていた水野忠重、勝成親子であった。家康はこの緒川・常滑水野氏一統を自分の家臣団として温存し、彼らは小牧長久手の戦いに参戦している。水野監物の子新七も同様であったが、戦死した。

常滑水野氏の三代城主であった水野監物守隆は、織田信長配下で数々の武功をたて、伊勢長嶋の合戦では水軍を率い軍船安宅船を使った戦いを展開したりしたが、和歌や茶道など風雅の道にも通じた教養人でもあった。その点、明智光秀とも共通するところがある。その水野監物守隆が、なぜ本能寺の変で明智方についたのかは不明である。その時、監物も京にいたらしいから、光秀やその周辺にいた公家、文化人との親交によって、判断を誤ったのかもしれない。水野監物は、本能寺の変後は、京で閑居して亡くなっている。一方、水野監物の妻は、緒川水野氏の忠政、または信元の娘というが、年代からみて信元の娘といわれており、信元の娘であれば於大の方の姪、家康のいとこにあたる。本能寺の変後、水野監物が京で閑居してからは、監物の妻は常滑に残り、城下の庵で家康から二十人扶持を貰って生活していた。これも、家康ならではの温情によるものであろう。

しかし、新七が小牧長久手の戦いで討死、さらに監物が慶長3年(1598)に亡くなると、監物の妻は出家して尼となり、総心と号した。総心尼は、岩滑城主であった中山刑部大輔勝時(その妻は水野忠政の娘で於大の方の妹)の長男中山五郎左衛門某(光勝というらしい、またその妻は水野監物室総心尼の妹)の子、つまり総心尼の甥を養子として迎え、その子は水野新七郎保雅と名乗った*。総心尼自身は熱田須賀町に移住し、「常滑殿」と呼ばれていたが、元和4年(1618)8月26日に熱田でなくなった。*2006.04.20修正
総心尼は生前寺を創建することを望んでおり、その願いは家康の子で、尾張徳川家の始祖となった徳川義直によって叶えられた。すなわち、元和元年(1615)、常滑の総心尼が住んでいた場所に、総心尼を開基とした禅寺を創建、天外和尚を招いて開山とさせた。それが平田山総心寺である。これは常滑の「前田」あたりの町中にあったようである。その後地震で壊れた総心寺は、宝永5年(1708)4月「社辺」(こそべ)に移され、山号も万年山と変わっているが、総心尼を始め、その子孫の墓が残されている。なお、この寺は、常滑焼の窯とも関係していた。

<現在の総心寺の入口~西側に窯がある>

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<総心寺の門>

Sousinteramon

徳川義直は、総心尼の死後、総心尼が念願していたように、元和7年(1621)、水野新七郎保雅を尾張徳川家の家臣に取り立て、寛永16年(1639)、総心寺には御黒印寺領十一石を与えた。
総心尼の養子水野新七郎保雅の家系は、連綿として続き、保雅から4代目八郎右衛門明雅、5代目新七雅禮の父子は、延享4年(1747)7月に総心尼の墓を再建している。その墓碑銘は以下の通りである。

<五輪塔形式の総心尼の墓>

Soushinhaka

(正面)
元和四戌午

向陽院花影總心大姉

八月廿六日

(右側面から裏面)
總心大姉者水野右衛門大夫源忠政之女水野監物源直盛之妻而直盛則尾陽知多郡常滑之城主也
其墓碣散亡而不全明雅雅禮恐先瘞之不明於後来補其不足以接続之万年山總心寺五世不説和尚現住之時也

延享四年丁卯七月

直盛四世裔 水野八郎右衛門
直盛五世裔 水野新七

(書き下し文)
「總心大姉は水野右衛門大夫源忠政の娘にして、水野監物源直盛の妻、直盛はすなわち尾張国知多郡常滑の城主なり。
その墓碣(*注:墓碑のこと)、散り亡せて全からず、明雅、雅禮、先瘞の不明を恐れ、後に来たりてその足らざるを補い、以てこれを接続す。
万年山總心寺五世、不説和尚現住の時なり。」

<墓碑裏面>

Bomei

総心尼の墓碑以外にも、水野一族の墓が、総心尼の墓碑を中心に集められて、墓地の一隅にあり、花が供えられていた。総心尼の願いは家康とその子義直によって叶えられ、家名は存続し、代々の子孫も残ったのである。

<常滑の海>

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2006.04.06

続・習志野地名考

「君知るや ここ津田沼の花薫る丘に  今日も鬱勃と 湧きやまず 青き雲波 逞しく 四海を望む  これぞ叡智と愛の学舎 我等が母校 習志野 おゝ聳え立て 誇りもて美しく (以下略)」

これは習志野市立習志野高校の校歌(日本音楽著作権協会作品コード:060-1136-5)であるが、若い頃に高校野球の中継でこの校歌を聴いて、一体津田沼の花薫る丘ってどこのこと?と思ったものである。津田沼の丘とは、谷津、久々田(菊田)、鷺沼の合成地名である津田沼の地名を構成した一部である、鷺沼の習志野市役所のあたりか、と今では思うのであるが。少なくとも、JR津田沼駅の近くには丘があるというイメージはない。現在の千葉工大の東がなだらかにスロープして、菊田神社のある低地にいたるのであるから、JR津田沼駅も台地上にあることになるが、丘という感じではない。そもそも、習志野高校自体、習志野市立であるから、そこでいう習志野とは船橋市内の習志野ではなく、習志野市の習志野である。前回述べたように、習志野という地名は、明治6年の陸軍近衛兵の演習が、現在の船橋市の習志野台、習志野にある自衛隊駐屯地を中心とした場所で行われ、演習をおこなう原という意味で「ならし運転」の「ならし」の原から「ならしの原」になったか、演習に参加して活躍した篠原国幹少将に皆見習えという意味で「習え篠原」から名付けられたか、の2説あるが、何れにせよ明治天皇の命名による(実際は事務官の発案かもしれない)、「習志野原」からきた新地名である。そして、その「習志野原」とは大部分が現在の船橋市域に相当する。車のナンバープレートに書かれる習志野も、習志野市を示しているのでなく、陸運事務所が船橋市習志野台にあるためであろうか。
だが、習志野は習志野市がその名を冠したために、習志野市の地名と思われていることが多い。そして、その習志野市内では、代表的な地名は、津田沼に他ならず、習志野も津田沼も明治期に出来た新地名である。

おそらく、上記校歌での津田沼とは、京成津田沼駅周辺の習志野市津田沼であって、そこで丘と思えるのは、やはり鷺沼の習志野市役所周辺になる。ここは古代から人が住んでいた場所で、鷺沼古墳がある。また鷺沼古墳周辺は、鷺沼城または鷺沼館があったといわれ、鷺沼城址公園となっている。

<鷺沼古墳>

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この鷺沼という地域には、二宮神社を中心とした近隣の九つの神社が七年おき(正確には午と未の年)に行う三山七年祭で火の口台の神事がおこなわれる「神の台(かんのだい)」がある。その火の口台の神事とは、平安時代に当地に流されたという藤原師経が、久々田浜に上陸し、海上ではぐれ、姉ヶ崎に上陸した姉たちに無事を伝えるために火を焚いたという故事に基づいている。この神事は、藤原師経に縁の深い菊田神社と二宮神社とで営まれるが、この久々田浜に上陸した藤原師経たちを出迎えたのが鷺沼館の鷺沼源太則義だという。
また、時代はくだって、源平合戦の頃、この鷺沼に館があり、そこに武衛すなわち源頼朝が宿泊したという。吾妻鏡の鷺沼館に関する記述によれば、治承四年(1180)十月一日条に、「一日庚申。(中略)於石橋合戦之時令分散之輩。今日多以参向于武衛鷺沼御旅館。又醍醐師全成同有光儀。被下令旨之由。於京都伝聞之。潜出本寺。以修行之体下向之由。被申之。武衛泣令感其志給云々。(後略)」とあり、石橋山の合戦で各地に分散していた兵らが、源頼朝のいる鷺沼館に参集して来たこと、京都醍醐寺の全成らもその話を聞き醍醐寺を抜けて参軍し、頼朝が感激したことが書かれている。
もっとも吾妻鏡に出てくる源頼朝が泊まったという鷺沼館が、ここにあったという証拠はなく、その鷺沼とは東京東部の地名だという説もある。したがって、鷺沼源太や源吾といわれる土地の豪族と源頼朝を結びつけるのは問題があろう。

<鷺沼城址公園にたつ鷺沼源太の碑>

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鷺沼以外の津田沼を構成した地名の久々田については、現在の菊田神社辺りになる。ここは以前久々田村といっていた、JR津田沼駅の南側から京成津田沼の北側にいたる地域である。ここにある菊田神社は、昔は久々田明神といったが、前述の藤原師経らは久々田明神に先祖藤原時平を合祀して暮らし、後に三山に移住し、子孫は神官になったという伝説がある。

<かつて久々田明神といった菊田神社>

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一方、谷津については、上記の鷺沼や久々田と違って、中世からの伝承などは特にないようである。小生が子供の頃、谷津といえば谷津遊園、そして谷津バラ園(ともに京成電鉄が経営)であったが、もはや谷津遊園の設備は東京ディズニーランドなどへ移設された(といっても20年以上たつのだからリニューアルされているか)。谷津バラ園も一時閉鎖され、京成電鉄の園芸事業は八千代の京成バラ園芸に引き継がれたが、多くの人の復活を望む声に押されて、習志野市の手によって、谷津バラ園は昭和63年(1988)に営業が再開された。*2006.5.31改
谷津にも、丹生神社など古そうな寺社もあり、京成線の通っている場所の北側はかつての海岸に面した台地で、城址があってもおかしくなさそうに思えるが、そのような話は聞いたことがない。

習志野市で中世の雰囲気を多少でももっている地域は、実籾であろう。実籾は、東金御成街道が江戸初期に開通したことから、集落の中心は東金街道沿いにあるが、本来は実籾本郷と呼ばれる東金街道の南にある地区に集落があった。

<実籾の無量寺>

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実籾本郷は千葉氏代々の当主の未亡人が落飾して尼となり、過ごす惣持寺という尼寺があった。その尼寺を守るために、千葉氏家臣が住んでいたようである。現在の東金街道近くにある真言宗豊山派の西中山無量寺は、元々は武石氏が字東堀込に祈願寺として建てた日蓮宗の尼寺が、何時ごろか改宗したもので、千葉氏の滅亡後衰微していたのを、土地の有力者が東金街道開通後に現在の地に移築して再興したものである。
津田沼の東、実籾の西にあたる大久保については、近世に開拓された集落で、大坂の陣で豊臣方であった市角頼母という武士が、一家眷属を連れて下向して草分けとなった土地である。

また、津田沼の南にある秋津、茜浜などは、近年の埋立地であり、歴史は浅い。

このように、習志野市内で中世に起源をもつような歴史のある所は、京成津田沼駅周辺の久々田、鷺沼や、その東である実籾にかぎられ、そしてそれらの地区は、習志野という名前の起源となった「習志野原」とは距離がある。

平成の大合併で、今や歴史ある市町村名が新しい名前にかわることが、最近多くみられるが、習志野市については新地名「習志野」を市の名前にすることで、その特色が分かり難くなっている一面があるのではないか。

<「習志野原」ゆかりの「明治天皇駐蹕之処」石碑>


Narashinohi

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