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2006.04.06

続・習志野地名考

「君知るや ここ津田沼の花薫る丘に  今日も鬱勃と 湧きやまず 青き雲波 逞しく 四海を望む  これぞ叡智と愛の学舎 我等が母校 習志野 おゝ聳え立て 誇りもて美しく (以下略)」

これは習志野市立習志野高校の校歌(日本音楽著作権協会作品コード:060-1136-5)であるが、若い頃に高校野球の中継でこの校歌を聴いて、一体津田沼の花薫る丘ってどこのこと?と思ったものである。津田沼の丘とは、谷津、久々田(菊田)、鷺沼の合成地名である津田沼の地名を構成した一部である、鷺沼の習志野市役所のあたりか、と今では思うのであるが。少なくとも、JR津田沼駅の近くには丘があるというイメージはない。現在の千葉工大の東がなだらかにスロープして、菊田神社のある低地にいたるのであるから、JR津田沼駅も台地上にあることになるが、丘という感じではない。そもそも、習志野高校自体、習志野市立であるから、そこでいう習志野とは船橋市内の習志野ではなく、習志野市の習志野である。前回述べたように、習志野という地名は、明治6年の陸軍近衛兵の演習が、現在の船橋市の習志野台、習志野にある自衛隊駐屯地を中心とした場所で行われ、演習をおこなう原という意味で「ならし運転」の「ならし」の原から「ならしの原」になったか、演習に参加して活躍した篠原国幹少将に皆見習えという意味で「習え篠原」から名付けられたか、の2説あるが、何れにせよ明治天皇の命名による(実際は事務官の発案かもしれない)、「習志野原」からきた新地名である。そして、その「習志野原」とは大部分が現在の船橋市域に相当する。車のナンバープレートに書かれる習志野も、習志野市を示しているのでなく、陸運事務所が船橋市習志野台にあるためであろうか。
だが、習志野は習志野市がその名を冠したために、習志野市の地名と思われていることが多い。そして、その習志野市内では、代表的な地名は、津田沼に他ならず、習志野も津田沼も明治期に出来た新地名である。

おそらく、上記校歌での津田沼とは、京成津田沼駅周辺の習志野市津田沼であって、そこで丘と思えるのは、やはり鷺沼の習志野市役所周辺になる。ここは古代から人が住んでいた場所で、鷺沼古墳がある。また鷺沼古墳周辺は、鷺沼城または鷺沼館があったといわれ、鷺沼城址公園となっている。

<鷺沼古墳>

Saginumakohun

この鷺沼という地域には、二宮神社を中心とした近隣の九つの神社が七年おき(正確には午と未の年)に行う三山七年祭で火の口台の神事がおこなわれる「神の台(かんのだい)」がある。その火の口台の神事とは、平安時代に当地に流されたという藤原師経が、久々田浜に上陸し、海上ではぐれ、姉ヶ崎に上陸した姉たちに無事を伝えるために火を焚いたという故事に基づいている。この神事は、藤原師経に縁の深い菊田神社と二宮神社とで営まれるが、この久々田浜に上陸した藤原師経たちを出迎えたのが鷺沼館の鷺沼源太則義だという。
また、時代はくだって、源平合戦の頃、この鷺沼に館があり、そこに武衛すなわち源頼朝が宿泊したという。吾妻鏡の鷺沼館に関する記述によれば、治承四年(1180)十月一日条に、「一日庚申。(中略)於石橋合戦之時令分散之輩。今日多以参向于武衛鷺沼御旅館。又醍醐師全成同有光儀。被下令旨之由。於京都伝聞之。潜出本寺。以修行之体下向之由。被申之。武衛泣令感其志給云々。(後略)」とあり、石橋山の合戦で各地に分散していた兵らが、源頼朝のいる鷺沼館に参集して来たこと、京都醍醐寺の全成らもその話を聞き醍醐寺を抜けて参軍し、頼朝が感激したことが書かれている。
もっとも吾妻鏡に出てくる源頼朝が泊まったという鷺沼館が、ここにあったという証拠はなく、その鷺沼とは東京東部の地名だという説もある。したがって、鷺沼源太や源吾といわれる土地の豪族と源頼朝を結びつけるのは問題があろう。

<鷺沼城址公園にたつ鷺沼源太の碑>

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鷺沼以外の津田沼を構成した地名の久々田については、現在の菊田神社辺りになる。ここは以前久々田村といっていた、JR津田沼駅の南側から京成津田沼の北側にいたる地域である。ここにある菊田神社は、昔は久々田明神といったが、前述の藤原師経らは久々田明神に先祖藤原時平を合祀して暮らし、後に三山に移住し、子孫は神官になったという伝説がある。

<かつて久々田明神といった菊田神社>

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一方、谷津については、上記の鷺沼や久々田と違って、中世からの伝承などは特にないようである。小生が子供の頃、谷津といえば谷津遊園、そして谷津バラ園(ともに京成電鉄が経営)であったが、もはや谷津遊園の設備は東京ディズニーランドなどへ移設された(といっても20年以上たつのだからリニューアルされているか)。谷津バラ園も一時閉鎖され、京成電鉄の園芸事業は八千代の京成バラ園芸に引き継がれたが、多くの人の復活を望む声に押されて、習志野市の手によって、谷津バラ園は昭和63年(1988)に営業が再開された。*2006.5.31改
谷津にも、丹生神社など古そうな寺社もあり、京成線の通っている場所の北側はかつての海岸に面した台地で、城址があってもおかしくなさそうに思えるが、そのような話は聞いたことがない。

習志野市で中世の雰囲気を多少でももっている地域は、実籾であろう。実籾は、東金御成街道が江戸初期に開通したことから、集落の中心は東金街道沿いにあるが、本来は実籾本郷と呼ばれる東金街道の南にある地区に集落があった。

<実籾の無量寺>

Mimomitera

実籾本郷は千葉氏代々の当主の未亡人が落飾して尼となり、過ごす惣持寺という尼寺があった。その尼寺を守るために、千葉氏家臣が住んでいたようである。現在の東金街道近くにある真言宗豊山派の西中山無量寺は、元々は武石氏が字東堀込に祈願寺として建てた日蓮宗の尼寺が、何時ごろか改宗したもので、千葉氏の滅亡後衰微していたのを、土地の有力者が東金街道開通後に現在の地に移築して再興したものである。
津田沼の東、実籾の西にあたる大久保については、近世に開拓された集落で、大坂の陣で豊臣方であった市角頼母という武士が、一家眷属を連れて下向して草分けとなった土地である。

また、津田沼の南にある秋津、茜浜などは、近年の埋立地であり、歴史は浅い。

このように、習志野市内で中世に起源をもつような歴史のある所は、京成津田沼駅周辺の久々田、鷺沼や、その東である実籾にかぎられ、そしてそれらの地区は、習志野という名前の起源となった「習志野原」とは距離がある。

平成の大合併で、今や歴史ある市町村名が新しい名前にかわることが、最近多くみられるが、習志野市については新地名「習志野」を市の名前にすることで、その特色が分かり難くなっている一面があるのではないか。

<「習志野原」ゆかりの「明治天皇駐蹕之処」石碑>


Narashinohi

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コメント

その通りです
習志野高校校歌の中の
ここ津田沼の花かおる丘に
とは、習志野市役所がある丘を指しています
創立から10年間ちょっと
最初習志野高校は今の市役所がある場所に立っていました
今は移転してしまいましたが校歌はそのままになっています

投稿: 通りすがりの習志野市民 | 2013.07.24 17:42

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